「BREATH TAKING」-金澤アリアードナ-

Fire-Kingをはじめとして、McKee、Jeannette・・・・といったメーカーの1920年代から1970年代にかけて作られた製造されたアメリカン・ヴィンテージ・グラスウエアを集めた本。本のサイズが大きいため、写っている食器の質感まで伝わってくるようで、ページをめくるたびに息をのんでしまいます。マグカップのカラフルなポップな感じもいいけれど、やはりジェダイをベースとした食器類に、こうしたグラスウェアの本当の魅力があるような気がしてきたりして、我が家のファイヤーキング熱が再燃してしまいそうです。もっとも簡単に手を出せるものでもないですけれど。灰皿なんて実際に手に入れたら、もったいなくて使えってしまうと思うけれど、フォルムとか質感がものすごくよいのですよ。

先週末は急に思い立って鎌倉に行って来ました。ほんとうはもう少し暖かな秋の季節に行きたかったのですが、今年は気持ちの良い秋晴れの休日があまりなかったような気がしますが、どうでしょう。いつもなら「こんな日はお弁当持って牟礼の里公園(三鷹台)に行こうか」という気分になったりするのだけれど、そういうときがないままに寒い季節になってしまいました。
午後から家を出たので、江ノ電に乗ってあちらこちらに行ったり、歩き回ったりすることはできなくて、いつものようにディモンシュでご飯を食べて、小町通りの周辺をちょっと歩いただけで暗くなってきてしまうという状態。でもあまり移動しなかったせいで、前々から食べてみたかったイワタコーヒーに入ってホットケーキをはじめて食べることができました。お店の中は外から見るよりもずっと広くて、奥の方には庭があって昼間、晴れている時に来たらいい感じなのだろう。テーブルや椅子も(昭和23年創業ということなので、開店当時からということはないだろうけれど)昔からあるような少し懐かしく、落ち着いてゆったりとできます。肝心のホットケーキは、厚さが3から5cmもあるようなもので、表面はカリカリしていて中はふんわりふっくらとした食感がとてもおいしい。次回から、鎌倉に来たときは最後にここでお茶して帰るようにしよう。

「春 その他」-吉田健一-

気が付けば週末が終わってしまいますね。金曜日の夜は古今亭駿菊独演会を見に行って来ました。独演会と言っても曲芸師の翁家和助や五街道佐助、昭和のいるこいるも出演。もっとも私は会社を出るのが遅くなってしまったので、途中からになってしまったのですが、のいるこいるを見ることができたので満足です。そもそも金曜といえども平日に5時半会場、6時半開演はというのは、ちょっと早い。
ちなみに古今亭駿菊さんは、ミオ犬の友達の旦那さん。そういうつながりもあって、前回、落語を見たのは古今亭駿菊さんの真打昇進記念独演会の時で、その次の年のお正月に浅草に行って初詣をした後、半日くらい演芸ホールで落語を聞いて以来、そういう機会もなかなかなくなってしまってました。ついでに調べてみたら、真打昇進記念独演会があったのは平成14年、もう3年前のことでした。まさに光陰矢のごとし。

「春 その他」は、吉田健一の遺作集で、「余暇」「東京の町」「犬」「ロンドンの飲み屋」「文庫と私」といったタイトルが並んでいて、思いつく事柄を気ままに書いてみた、という印象の本だけれど、ある意味、吉田健一のエッセンスとなるものがピックアップされているので、さらりと読むには、もしくははじめて吉田健一の本を読む人にはいいかもしれない。
とはいっても吉田健一の文章をさらりと読むのは難しいですけどね。しばらくぶりに読むとやはり読みにくい文章だな、とつくづく思ってしまいました。しかし、だんだんと読み進めていくうちにリズムがつかめてきて、いい感じになってきたところで読み終わってしまい、なんだか欲求不満な気分が残ってしまった。もう一冊くらい続けて吉田健一の本を読みたい気分になっているのだけど、手元に未読の本はないし、そうそう吉田健一の本を手頃な値段で手に入れられるわけでもなく・・・・。いや、この本をもう一度繰り返して読んでもいいかもね。

「けむりよ煙」-永井龍男-

西南戦争で家を焼かれたために、鹿児島から東京に出てきて、銀座でたばこ屋を開業、自ら「広告の親玉」、「安売りの隊長」と称して、誇大広告的なキャッチフレーズを看板やポスターに使った宣伝でのし上がっていった岩谷松平と、輸入葉たばこを原料に、たばこそのものはもとより、箱の印刷にいたるまですべてにこだわり、欧米の最新技術を次々と導入、ハイカラというイメージでたばこを売り出していった京都の村井吉兵衛による、たばこの売り上げ合戦を描いた作品。最終的には、アメリカのたばこトラストと手を組んだ村井が勝利するのだけれど、時代は日露戦争になだれ込む直前、政府の戦費を調達する必要にも迫られ、たばこは政府の製造専売となっていく。
まぁけっきょくは、今も昔もアメリカと手を組んだ方が勝つということなのだろうか?“国益”を唱えトラストとの合併を頑固として拒否する岩谷側から考えるとそんなことも思ったりもする。永井龍男自身は、どちらといえば、破れた岩谷松平に比重を置いているが、きちんと村井吉兵衛側からの見方も描いていて、読み進めていくとそのギャップがあらわになっていくという構成になっている。ただ、神田生まれの江戸っ子である永井龍男としては、九州から出てきた岩谷と京都の村井が、銀座という東京で繰り広げる戦いをどう思っていたのだろうか。少なくとも山口瞳だったら「この成金の田舎者」と一刀両断しそうな気はする。

映画をあまり見なくなってもう3、4年になる。たまに映画館に行っても、見たくなるような予告やちらしほとんどなかったりする。私が映画に対して鈍感になってしまったせいなのか、映画自体がおもしろくなくなってしまったのか、おもしろい映画を映画館が上映しなくなってしまったのか、よくわからない。けれど、なんだかDVDが出てきてから、どうも映画というものが映画館で上映されるものではなくて、DVDを買ったり、レンタルしたりして家で見るものになってしまい、映画館で上映されるのは単にDVDを売るためのプロモーション上映という感じに思えて仕方がない。というのは、単なる個人的な考えで、実際は映画館の観客動員数は増えているらしいから、映画を見なくなった私の勝手な言い訳ですね。
とはいうものの、かなり前から昔の日本映画をちゃんと見てみたい、と思っていて、阿佐ヶ谷のラピュタやフィルムセンターのスケジュールをチェックしている。でもはっきりいってなにから見ていいのやら、どこがおもしろいのかぜんぜん分からない。そのくせ見たいと思っている獅子文六原作の作品に気が付かず見逃したりする。先日もCSでやっていた永井龍男の「風ふたたび」を見逃したばかり。ほんとはそうやってえり好みせずに、どこかで上映されているものを端から見ていって、その結果、原作が永井龍男だったり、獅子文六だったり、小島政二郎だったり、井伏鱒二だったりと、好きな作家だった・・・・というのがいいのだろうなぁ、と思う。とりあえずは今月CSで「珍品堂主人」をやるみたいなので見逃さないようにしなければ・・・・。

「沙羅乙女」-獅子文六-

週明けに名古屋に行ったから、というわけではないけど、昨日から体の調子がどうも悪い。早く寝たせいで、――しかも今日の朝寝坊した――直ってきたものの、昨日はのどが痛くてたばこを吸うたびに、何かを食べるたびに、吐き気がした。といっても、実際には“気”がするだけで、吐いたりするわけではないのですっきりしない。で、小さな声で「HI!CHINA!」のメロディを口ずさんで見たりする。36歳、空中ブランコに乗る中年男。適当。

ところで、名古屋に行ったと言っても日帰りなので、どこに寄るということもあまりできない。空いている時間といえば、説明会が始まる前の1時間と終わった後の30分くらいか?しかも前回は最寄り駅が栄だったのだけれど、今回は池下。池下ってどこ?なにがあるの?という感じです。けっきょく、始まる前に池下にあるキンダーブックでお茶して、帰りは駅前にあったブックオフに寄って帰ってきました。
キンダーブックは、壁一面に本棚が作ってあり、絵本や写真集、雑誌などが並べられていて、――お店の名前にするほど絵本は多くなくて、どちらかというと店主の読んだ本をどんどん店に置いているという感じのセレクションではあったけれど――なかなかいい感じのカフェでした。おすすめらしい期間限定のショコラショーというチョコレートドリンクも、それほど甘くなくて、でもこってりしていておいしかったしね。
ただ、私が行ったときは、20代半ばくらいの女の子6人くらいの団体と、40過ぎの女の人3人くらいの団体がずっとおしゃべりしてて、私としてはなんだか居心地が・・・・。知らない土地で、ここしか目当てがなかったので入ってみたものの、普段だったら絶対に入らないかもしれない。単にタイミングが悪かっただけなのかもしれないけれど。

帰りに松坂屋で大口屋の餡麩三喜羅を買って、家に着くなり食べる。ふわふわした食感と、こし餡の甘さ、包んでいる山帰来の葉のちょっとした塩味が口の中で混ざり合って、なんとも言えない不思議なおいしさで、いくつでも食べられそうな気が・・・・。

「佐野繁次郎展」-佐野繁次郎-

今年の4月から5月にかけて行われた東京ステーションギャラリーでの展覧会は、「行こう、行こう」と思っているうちに終わってしまったんですよね。佐野繁次郎に関しては、詳しい人がいろいろなところで書いているので、私はなにも言うことはありません。ぼんやりと「銀座百点」の表紙を見てたり、私の中で横山利一と菊池寛がごっちゃになってしまうのはなぜだろう、なんてどうしようもないことを思ったり、やっぱりデザイナーも手書きで魅せることのできる人とそうでない人の差は大きいな、なんてことを考えたりしているだけです。

このところCSで放送されている「ジュールズ倶楽部」を流しっぱなしにしている。「ジュールズ倶楽部」は、元スクイーズのジュールズ・ホランドがホストをやっているBBCのテレビ番組で、エコー&ザ・バニーメンとか、エヴリシング・バット・ザ・ガール、ディヴァイン・コメディ、クラウデット・ハウス、シンプリー・レッド・・・・といった人たちが出演していて懐かしい気分になる。もちろんオアシスとか名前も知らない新しいバンドも出てくるけれど。
先日はロディ・フレイムが出ていて、そのままアズテック・カメラが、小さなマイ・ブームに「Love」やら「Stray」「Dreamland」「Frestonia」、はたまた「The North Star」まで、CDの奥の奥から探してきて繰り返し聴いている。もちろん、アズテック・カメラの最高傑作は「High Land Hard Rain」であることに疑いはないし、私もそう思うけれど、今聴き返すということになると、「Dreamland」のメロウな感じが心地よいと思う。実際、今になって思えば、ロディ・フレイムの声はこういうサウンドの方がぴったりとくるような気がする。発売当時には「どうしっちゃったんだ」と思ってた「Love」とかも、1980年代的なサウンドプロダクションがちょっと気にはなるけれど、悪くない、というかいい。「Knife」が出たときのインタビューで、ロディ・フレイムは、「まだうるさい感じがする。もっと柔らかいサウンドにしたい」といったことを言っていたので、自分に合っている音楽ややりたい音楽が最初から分かっていたんだろうなぁ。分かっていなかったのはファンのほう。しかもこのアルバムは出たのは1987年、ロディ・フレイムは1964年生まれなので、若干23歳の時の作品だもの。
アズテック・カメラに限らず、1980年代の後半くらいに、メジャーなネオアコ的なバンドがどんどんAOR的な音楽に移行していってしまう時期があって、当時高校生だった私とかは、クリエーションとかエルとかアノラックとかどんどんマイナーなインディ方向にのめり込んでいってしまったのだけれど、自分が聴くか聴かないかは別として、結局のところロックンロールという音楽は、ソフトな方向に進むとAORになり、ハードな方向に進むとメタルになってしまうのではないかと、思うのだけれどどうだろう。そういう意味で、ロックンロールというのは1980年代の前半に完成してしまったのかもしれない。パンクロックがそれを壊したと言っても、壊しただけで、進むべき方向はエルビスからAOR、メタルのあいだをさまよっているだけに過ぎない。ロックンロールが、エレキギター、ベース、ドラム(+キーボード)という編成を核にした新しい音楽としてとらえると、そこからさらに新しい音楽を作り出すには、違う楽器が必要になるのは当然のことで、それがターンテーブルとサンプラーだったのかもしれないが・・・・。

そういえば、前回の雑記で「荒井由美の曲も含めてなんだか懐かしい」なんて書いたけれど、電車の中で流れているモニターからは音が出ていない、ということに今日の朝、気がつきました。でもこれまであの画面が流れるたびに私の頭の中では、「やさしさに包まれたなら」が普通に流れてたのですよ。まさに空耳というか妄想、いやただの洗脳、ですかね。

「閑な老人」-尾崎一雄-

1972年に発表された“作品集”。この人のような私小説(心境小説)場合、“作品集”と“随筆集”の区別がどのようにつけられているのか不思議。発表された媒体やコーナーの違いなのだろうか。ちなみにこの本は“作品集”と銘打たれていたけれど、隣にあった本の帯には“随筆集”と書かれてました。
私が、二宮に引っ越したのは1970年代の真ん中なので、ここに書かれているような1960年代後半の足柄・下曽我の様子は知らない。大きな松の木や神社、お祭りなど様子を読んでいて浮かべるのは、小田原周辺だったりする。実を言えば、今にいたるまで、足柄はもとより、曽我の梅林さえも行ったことがないし、気にかけてもいなかったので、ときおり著者が東京に出ていったり、子供たちが横浜から訪ねてくるときにでてくる大磯・二宮・国府津といった駅名や地名を目にして、再確認するということ多い。それも国府津の駅の車庫には、SLが並んでいたなぁ、なんて物語とはまったく関係ないことだったりする。平塚・大磯・二宮というのは、湘南でもなく、小田原・箱根でもないどうも中途半端な場所で、しかもベッドタウンとして横浜方面から流れてきた人が多いので、どうも両側の土地から文化的に浮いてしまっているような気がする。だから江戸時代から下曽我に住んでいたという尾崎家の昔の記憶などと、私が育った環境とは大きく分断されてしまっている。

朝、山手線に乗っていると、ペンギンと女の子が早川まで行くSUICAのCMが社内で流れている。なぜ早川なのだろうか。最近は関西でもSUICAが使えるみたいだけれど、東海地方では使えないみたいなので、早川がSUICAの利用範囲の最西端なのだろうか。と思って調べてみたら伊東まで使えるらしい。それならばもっと海がきれいな(多分)伊東まで行ってみればいいのに、とも思うけれど、免許を取り立ての頃、釣り好きの友達と箱根や伊豆にドライブに行って、その帰りに早川の港で休憩して、海で釣りをしている人を見たりしていた私としては、荒井由美の曲も含めてなんだか懐かしい気分。
ところで、早川といえば、私が子供の頃は無人駅だったのだが、今でもそうなのだろうか。CMでは駅員が出てきたような気がするが、駅員がいなかったら自動改札なんて簡単にすり抜けられるのでは、なんてことを思ったりもする(前は車掌がいちいち切符を改修していた、ような・・・・)。もっとも実際に早川の駅で降りたことはないです。その荒井由美の「やさしさに包まれたなら」は1974年の曲。あぁこれが1972年だったら・・・・この文章もまるくおさまったんだけどなぁ。

「スーパーマーケットマニア アジア編」-森井ユカ-

海外に行った時の大きな楽しみの一つはその国のスーパーマーケットにいくこと。有名なメーカーの製品は、値段は別として、日本でも見ることができるけれど、誰もが使うような基本的な食材やお菓子、日用品などは、たいていどこの国でも、自分の国で作っているので(実際に製造しているのは違う国かもしれないけれど)、一番、その国らしさが出ているような気がするし、日本で見ることのできないちょっとしたものを見つけたりすることが多い。
この本には、バリのスーパーマーケットは載っていないけれど、先日のバリ旅行でも、ほとんど市街地近くにいなかったのにもかかわらず、一泊したスミミャックにあったビンタンマーケットにまず行ってきました。はっきりいって、バリでは、お土産らしいものや自分たちの欲しかったものはほとんど買わなかったし、夕飯もサラダから主食、ビール、デザート、コーヒーまで食べても多くて20万ルピアになることはなかったので、ホテルの支払いを別にすれば、一回で使った金額としては一番大きかったかもしれない。はちみつとかコーヒー・お茶、お菓子、歯ブラシ・・・・など、ビニールの袋に一杯になって、ホテルまで持って帰るのがちょっと苦痛なくらい買い込んでしまいました。

天気予報では午後から雨だったのだけれど、今日しか行く日がなかったので、昨日から11月3日までやっている神保町で神田古本まつりにいってきました。こういう時はあんまり仕入れとか考えずに、自分の読みたい本があればいいなぁ、と思う。でも実際にはものすごい人混みで、自分の読む本さえも探す気になれずに、ひととおり回っておしまい、という感じでした。先日、「この1か月間に本を『読まなかった』人は52%で、1980年から始めた同調査で3番目に高かった。年代別に見ると、20、30歳代は各41%で、前回調査より減ったのに対し、40歳代から上の年代は増加、50歳代は55%、60歳代は61%、70歳以上は66%だった。」というニュースが出ていたけれど、ほんとうか。毎年行くたびに人が増えているような気がするし、神田古本まつりに限らず、古本市に行くと60歳代以上人(割と夫婦できていたりする)が多いぞ。残りの30~40%がここに集結しているのだろうか。
それはまぁいいとして、けっきょく、そこにいるだけでぐったりした気分で本を探す気もなってしまい、しかも珍しく天気予報が当たって雨が降ってきたりして、すぐに帰ってきてしまいました。ほんとうはAmuletでやっている「秋のいろいろ絵本 本棚市」にも寄ろうと思ってたのですが・・・・。やっぱりこういう時にもっと活動的に動いていかないとダメだよなぁ。いろいろな意味で。

「なんじゃもんじゃ」-山口瞳-

山口瞳に関しては、少なくとも文庫本だけは全部買っておこうと思っているので、持っていない本を見つけたら、そして高い値段がついていなければ、内容も見ずにそのまま買ってしまう。なので、バリから帰ってきて、この本を読み始めて、はじめてその内容がドスト氏(関頑亭画伯)との紀行文ということを知った。これならば先の池内紀とこの本と、もう一冊くらい探してみて、旅の本をバリに持っていっても良かったかな、と思う。ただし、今、ちょっと思うだけで、実際に持っていくことはない、と断言もできる。率直言って、旅行先でのんびりと山口瞳の本を読むという気にはなれない。ましてや、こちらは夫婦で旅行しているのに、この本の内容といえば、奥さんと家にいるのが窮屈になったいい歳の男二人が、蒸発と称して日本各地の旅に出る(逃げる?)のだが、二人の会話のほとんどは、それぞれの奥さんのことばかり・・・・というものだもの。気持ちは分からなくはないが、バリのホテルで読む本ではない。シチュエーション的には、弥次さん喜多さん的な男二人の気楽な旅の顛末となるバズなのだが、そうはならないところが山口瞳の山口瞳たるところ。もし女性の作家が、同じシチュエーション(逆?)のもと、女二人組で旅に出ることになって、その顛末を書いたとしたら、絶対にこういう雰囲気にはならないだろう。

「極楽人ノート」-富士正晴-

今年の一月にカシオ「EXILIM」という小さなデジカメを買ったので、普段、普通のカメラを持ち歩いていないときでも、デジカメだけは持っていって、ちょこちょこと写真と撮ったりしている。でも当初の目的だったPickwickのほうの更新はまったくできてない。ついでにデザインとかも変えてしまって、コンテンツを整理したりしてリニューアルしてしまおうかな、ともちょっと思う。基本的には、テキストファイルからテンプレートのhtmlをもとにプログラムでhtmlを生成しているので、リニューアルもそれほど難しくないはず、と思ってページを作ったのに、2000年にサイトを初めて以来、一度しかデザインを変えてないし。それならカヌー犬ブックスのほうのリニューアルを、という気持ちも・・・・。
そんなことを考えつつ、PCに画像を残しておくのももったいないので、とりあえずはてなのフォトライフにアップしてみました。風景とかはほとんど撮っていないので、たべものの写真だけ。個人的にたべものにこだわっておいしいところに食事に行ったりするほうではないので、写真を撮るようなごはんを毎日食べているわけでもなく、その辺のカフェや喫茶店のメニューばかりなんですけどね。

昼休みは、お弁当を食べて郵便局に行ってあと、たいてい近くのプロントでコーヒーを飲みながら本を読んでいる。周辺にはモスやタリーズコーヒー、ドトールといった店や普通の喫茶店もあるし、別にプロントが気に入っているわけではないけれど、12時半頃行ってもいくつか席が空いていることが多いので、なんとなく行ってしまう。別に何か食べるわけでもないしね。
半年前にそこに行きはじめた頃、コーヒーと入れたりしているときによく怒られている女の子の店員がいて、なぜかいつも怒られているので、「入ったばかりなんだろうな」とか「そんなに言わなくてもいいのになぁ」、なんて思いながら本を読んだりしてたわけです。で、まぁつい最近までそんな感じだったような気がするのだけれど、バリから帰って久しぶりにそのプロントに行ってみたら、逆にその女の子が別の子にいろいろ教えるようになっていて、「そうじゃない」「こうやるの」なんて言っててびっくり。まだ教え慣れてないんだろうけれど、イライラしてる様子が分かったりして、ちょっと「・・・・」な気分。なんだかなぁ。
だいたいそういうことは昼休みどきではなくてもっと店が空いている時にやって欲しい。

「一階でも二階でもない夜―回送電車2」-堀江敏幸-

旅についての本だの交友録だのいろいろと考えたり、実際に本屋を回ってみたりしたものの、けっきょく旅行に持っていったのは堀江敏幸の本で、以前読んだ「回送電車」と「ゼラニウム」に加えて新しく「一階でも二階でもない夜―回送電車2」を買った。堀江敏幸のきれいな日本語をゆっくりと読み返してみたいと思ったのだ。
実際、旅行中は雨の日が多かったりしてホテルで過ごすことが多かったので、本ばかり読んでいたような気がする。

堀江敏幸の本のいいところは、もちろんレコードプレーヤー、トロンボーン、レモン石鹸など、ものに関する偏愛を書いたエッセイや身辺雑記ともフィクションともつかない掌編も好きなのだけれど、自身の専攻がフランス文学であるにもかかわらず、永井荷風や小沼丹、田中小実昌、島村利正・・・・など、日本の作家の名前が多く出てくるところで、特にこの本では、獅子文六の本が手に入らなくなってしまった、という文章が出てきて、飛行機の中でひとり大きくうなずいてしまった。ここでは新潮文庫から出ている「てんやわんや」や中公文庫の「海軍」「食味歳時記」「私の食べ歩き」など、文庫されていた多くの本が絶版になってしまい、獅子文六の本を読もうとしたら、昭和40年代に刊行された全集を手に入れるしかなくなってしまった。ということを書いている。
私などは、「てんわやんわ」さえも、新潮文庫で出てたし、割とどの本屋にもおいてあるからと思っていたら、いつの間にかさえも絶版になってしまって、どの本屋にも置いてないし、ブックオフなど見かけることもなくなってしまい後悔しているくちで、ついでに書くと、最近、「うさぎのミミリー」や「せきれい」など、庄野潤三の文庫化が進んでいるなぁ、と並んでいる本を横目で見ていたら、唯一欲しいと思っていた(そしてもしかしたらこの旅行に持っていこうと思っていた)「文学交友録」だけがいつのまにか絶版らしく、どの本屋に置いていないという状態になってしまっていて、くやしい思いをしていたばかり。

旅行のほうは、取り立てて書くこともない。先に書いたように雨が降ってしまったこともあるし、雨が降らない日でも、ほとんどホテルでだらだらしたり、アフタヌーンティを楽しんだりしつつ、夕方になる頃から町をふらついて、ご飯を食べて帰ってくるといった毎日。
本やレコード、雑貨などを探しまわる旅でもないし、観光地を巡るような気ははじめからなし。いや、これこそヴァカンス、なんて思いつつ、たばことコーヒー、そして本とカメラ片手のちょっと遅い夏休み。