ソール・ライター展とホンマタカシ展

2月の終わりにたまには写真展などに行こうと思って、その時に開催している展覧会と調べてみたら、ソール・ライターやホンマタカシ、マイケル・ケンナ、バリー・マッギー‥‥といった名前が目について、なんだか前に行ったことあるものばかりだな、と思ってしまった。
今の音楽を聴きたいのに、つい手に取ってしまうCDやレコードは昔のものだったり、新しいものでも昔から活動している人のものだったりしてしまうのと、どこか似てる気がする。展覧会の場合、前に開催したときに盛況だったから違う作品でまたやろうという主催者側の都合もあるんでしょうけどね。別に今のものでなくてもいいから、今まで見たことがなかった人の作品を見に行きたい気持ちだけはある。
そんなわけで、2月の土曜、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムでやっていた「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」展と、恵比寿のPOSTでやっていたホンマタカシの「シンフォニー その森の子供 マッシュルーム フロム ザ フォレスト」展をはしご。

932-aソール・ライター展は、一部初期のファッション写真なども展示されていたけれど、基本的には個人的に撮ったスナップが展示されていて、前回の時と雰囲気は変わらない。カラー写真制作のためイルフォードから資金提供してもらっていたり、亡くなる前の2006年に個展お開いているので個人的というのもちょっと違うか。
こう言ってしまうとなんですが、ソール・ライターの写真って、(ほんとはどうなのか知りませんが)、作品として写真を撮っていて、構図や色彩のバランスなどもすごく考えられているのにも関わらず、写真を見ていると、写真家が街を歩いたりしているときに個人的に撮ったすごい写真と思わせてしまうところが、わたしも含めて普通の人がひかれるポイントなんじゃないかな。しかもブレッソンみたいに隅から隅まで計算されつくしたような構図でもないので、ちょっと工夫したら自分もこういう写真が撮れるかも!?と思っちゃたりしてしまう。もちろん写真の専門家の人がどう評価しているかは別。
そういう意味でも、1960年代から1980年代にかけて撮影したファッション写真をもっと見てみて、それらの写真と街のスナップ写真がどういう影響し合ってるのかを知りたい。

932-b逆に、ホンマタカシの写真って、すごく仕事のできるビジネスマンのものすごく説得力のあるプレゼン、を見ている感じで、普通の人には撮れないし、撮ってもあんまりおもしろくない気がする。
この展示もきのこを撮ってるだけなんですよ。でもスタイリングも完璧だし照明なども完璧、しかもその完璧さをアピールするかのように、作品のサイズをかなり大きくしてる。なので、そのきのこをどれだけきれいに撮ってるのかというところに目が行ってしまうんだけど、さらにそのきのこについて、「東日本大震災が発生した直後、福島県の森に入り、そこに生えている放射性物質を吸収しやすいというキノコを撮影」みたいなストーリーまで作って(事実かどうかは別として)、より興味をもって写真をじっと見てしまうような仕掛けも作ってくる。
ホンマタカシのこういところがあざといと思ったり、写真を撮ることによって伝えようとしているものが何もないと思う人もいると思う。ただ写真家の一人としてこういうスタンスで撮る人がいてもいいと思う。ホンマタカシの場合、それが写真の技術などで裏付けがされていて、完璧な世界になっているところがすごい。逆に写真によって、社会の何かについて訴えようとしたり、自分の中の何かを表現している人だとしても、結局、見る人に伝えたいことを写真を使ってプレゼンしてる、とも言えるわけだしね。

2020年2月に読んだ本

■「ソラシド」(吉田篤弘)
931-a「ひとたび存在したものは、誰かの中で生き続ける―。拍手もほとんどない中、その二人組は登場した。ひとりはギターを弾きながら歌い、もうひとりは黙々とダブル・ベースを弾きつづけた。二人とも男の子みたいな女の子だった。彼女たちの音楽は1986年のあの冬の中にあった―。幻のレコードとコーヒーの香り、行方不明のダブル・ベースと白い紙の荒野。消えゆくものと、冬の音楽をめぐる長篇小説」

と帯に書いてあるだけれど、個人的な経験として、ミュージシャンやバンドを題材にして小説って、描かれている音楽に対する登場人物の思い入れみたいものが空回りしてしまって、読んでいてついていけないことが多い。
それは単に小説の中で描かれている音楽が自分の好みでないような気がするのに(実際に聴けないのでわからない)、物語の中で重要なファクターとして扱われることの違和感もあるし、逆に自分の好きな音楽だとしても、なんとなく違和感があって素直に受け止められなかったり、音楽好きは面倒くさい。

というわけで、この本も買っては見たもののなかなか読む気になれなかったのだけど、ふと表紙を眺めてたら、「これどこかで見たことあるな」と気づいてしまい、レコード箱を探してみたらエヴリシング・バット・ザ・ガールの「Each & Every One」でした。
ついでに帯を外すと、写真のレコードは表紙の元ネタになっているのB面の「Laugh You Out The House」で、すぐにわかるようになってた。写真に写す面をわざわざアルバム未収録のB面にするというところが、吉田篤弘らしい(のか?)。

となれば、読むしかない‥‥

稼いだお金のほとんどをレコードに費やしてしまう主人公と、その母親違いで、主人公とは親子ほども年が違う1986年生まれの妹が、1980年代後半にほんの数年間だけ小さな喫茶店やライブハウスを中心に活動していた女の子二人のユニット、ソラシドの行方を追うというストーリー。
何でも屋で古い雑誌を集めたり、雑誌などの紙が最終的に捨てられるというゴミ捨て場に行ったりしながら、ソラシドの足跡をたどるところはいつもの吉田篤弘の小説と同じ雰囲気。阿佐ヶ谷住宅まで出てくるし‥‥。
でも最終的にはソラシドの音楽を追いかけつつも、なんとなくわだかまりがあって前に進めなかった主人公と妹、父親、主人公の母親、妹の母親、そのほかの登場人物が、これをきっかけにそれぞれ前に進みだすというエンディングになってて、それまでの作りこんだ世界観がスコンと抜ける感じが爽快。

音楽もエヴリシング・バット・ザ・ガールの曲ももちろん出てくるし、ベン・ワットやロバート・ワイアット、エルヴィス・コステロ、プリテンダーズといったミュージシャンやバンドの名前も出てくる。
自分としては、ベン・ワットの「North Marine Drive」について、1986年、まだ駆け出しで本のレアイウターをしていた主人公が「土曜日で街が混み合っているので部屋でくすぶってた。ベン・ワットの『ノース・マリン・ドライブ』をA面からB面へ、B面からA面へと繰り返し聴いて一日が終わる。このレコード一枚から自分が読んでみたい小説が一ダースは書ける」というメモを残していたり、「1986年はピーター・ガブリエルの『Sledgehammer』の年だった。ラジオをつければいつも『Sledgehammer』がかかってた」といったくだりを読むとグッときますね。

それから、これは勝手な思い込みなんですけど、ソラシドってギターとダブル・ベースの二人のユニットで、文中にはブルースぽい曲を演奏しているみたいなんですけど、1986年で、若い女の子二人組ということを考えると、絶対フェイクだなと思う。XTCの「Seagulls screaming kiss her,kiss her」のカバーをしたりしてるし、1980年代後半のイギリスのブルー・アイド・ソウルやフェイク・ジャズ、ボサノヴァ‥‥ラフトレードやチェリーレッドのようなインディのポストパンク/ニューウェイヴみたいな音なんじゃないかと。
二人の演奏力は高いみたいだけど、年齢的にも時代的にもぜったい咀嚼できてなくて、気持ちばかり前のめりで今聴いたらどこか拙い音楽。読み終わってもう一度表紙を眺めたら、そういう音楽が浮かんできた。

■「ぼくの旅の手帖―または、珈琲のある風景」(森本哲郎)
931-b東京新聞、朝日新聞の新聞記者としてさまざまな国を回ったという経験をもとに、西ドイツ、ノルウェー、スペアイン、ギリシア、モロッコ、ネパール、アメリカ、デンマーク‥‥など、それぞれの国でのできごとをスケッチのようにつづったエッセイ集。副題に「珈琲のある風景」とあるように、ほとんどの国の文章のどこかでコーヒーを飲むシーンやカフェなどの情景が描かれている。

一つ一つの文章が短く、25か国の旅の様子がつづられているのですが、60年代の海外旅行、しかもアメリカやヨーロッパといった国々だけでなく、アフリカやアジアなどの国も多いので、話の内容としては、いろいろ大変なことが起きていて、続けて読んでいても飽きずにすいすい読める。
森本哲郎自身がどんな状況でも悲観的にならず、現地でのどんなできごとも楽しんでいる様子がうかがえるのがいい。一定期間、持ち歩いて、散歩の途中で見つけた昔からあるような喫茶店をでコーヒーを飲みながらページをめくりたい気分になります。

自分の中では、同じように日本各地の食材、料理を100つ、1つにつき見開きで紹介した吉田健一の「私の食物誌」と対になっている。両方とも段ボール素材の函で、サイズなども近い形だしね。
バラエティブックみたいに、雑多な感じのレイアウトの本も好きだけど、こういう短い文章をシンプルに収録しつつ、かつ装幀にもこだわった本も、手元に置いておいて、いつでも手に取って読める(持ち歩ける)ようにしておきたいと思う。

■「場面の効果」(井伏鱒二)
931-c帯に「著者の全作品の中から特に随筆風の好短編を精選して著者の素顔を映しだした異色の作品集」と書いてあるけど、まぁ普通に随筆です。つ
づられているのは太宰治との話だったり、父親のことだったり、釣りや旅行に出かけた時の話だったりで、内容としてもなんとなく前に読んだことがあるような話だったりするんだけど、それでも読んでて「知ってるからいいや」と飛ばす感じにはならない。話の内容はわかってるのに聞くたびに笑ってしまう噺家の噺を聴いてる感じに似てるのかな?

あと、太宰治が道を踏み外しすぎてるのでなんとなく井伏鱒二は常識人という印象があったり、本人もわりと自分は常識的な人だと思ってる節があるんだけど、話を読み進めていくとめちゃくちゃなことを言っていたり、やったりしてるときがあるのがおもしろい。

ある祝賀会に行って、羽織を着てくるのを忘れて会場に行ってしまい、主催者の人に羽織はなくて会場は暖かいので大丈夫ですと言われても、羽織がないと寒いと押し問答の末、会場を出てしまう。
なのに、会場を出たところで知り合いに会い料理屋で飲みはじめ、中野、荻窪と飲み歩いて、別れたところで別の人に会いまた飲んで、気がついたら秋川渓谷にいたとか。
読んでてなんでだよと突っ込み入れたくなるけど、まぁこのくらいじゃ、ほかの阿佐ヶ谷文士の言動に比べたら、常識人か。

2020年1月に読んだ本

■「評伝 獅子文六」(牧村健一郎)
930-aお正月に帰省した時に持って行った本。二宮に行くときは本を1冊か2冊持っていく。
武蔵小金井から神奈川の二宮まで電車で約2時間くらいなので、行き帰りで約4時間、子どもと話しながら読んだとしても1冊は読み終わるはずなんだけど、途中から寝てしまったり、子どものゲームにつき合わされたりして、たいてい読み終わることはない。別に読み終える必要もないんですけど。

2009年に出た獅子文六の評伝「獅子文六の二つの昭和」を加筆して文庫化したもので、昨年の12月に「やっさもっさ」と一緒に出ていた。県立神奈川近代文学館の「獅子文六展」に合わせて出した感じだろうか?
内容的にも獅子文六の幼少のころからパリ時代、文学座立ち上げ、戦時中・戦後と、どこかの時代を深く掘り下げるわけではなく、獅子文六の歩みがわかるようになっているので、「獅子文六展」の副読本としては最適かもしれない。展覧会を見てから読んでもいいし、本を読んでから展覧会を見てもいい。ただ本を読むともう一度「獅子文六展」を見に行って、確認したくなります。

この本の帯に「突然のブーム到来?」と書いてあったり、内容についても「再評価以降の動向も踏まえた原稿も収録」などと記載されているけれど、個人的には、自分が獅子文六の本を読み始めた2000年代前半の頃、すでに獅子文六は再評価されていたと思うし、それ以後もわりと途切れることなく獅子文六の本は読まれていると思えるのだけれどどうなんだろう?
古本屋での本の値段も、それほど高いわけではないけれど、100円などで売られていることもあまりない印象。もちろん簡単に本が見つかるわけではないけれど、こまめに古本屋を回っていると出会うことも多い。そもそもサニーデイ・サービスの「コーヒーと恋愛」が出たのって1995年だしね。

ちくま文庫や朝日文庫から過去の本が刊行されるようになって、新しいファンが増えたことも確かにあるだろうけど、そういう地道に獅子文六の本を読み続けてきた人がベースにあったからこそ、文庫化することでより広がったんじゃないだろうか、なんて思ったりもしてる。いや、実際にそういう人がどのくらいいたのかわかりませんが。

■「詩人の魂」(山田稔)
930-b数日後にパリに来て一緒に過ごす約束をしていた友人が突然亡くなった、という知らせを受けたパリに留学中の主人公が、その現実を受け入れられずに、パリを離れてさまよう「岬の輝き」、その主人公が日本に帰ってきてからの「白鳥たちの夜」「詩人の魂」の3篇の連作(?)を含む6篇を収録した短編集。

連作のほうは、1979年の1月、パリ滞在中の山田稔が、その翌月から一年間パリで過ごす予定だったVIKINGの同人、大槻鉄男の訃報を受け取るという実際の経験をもとにしている。そのためか少し感傷的な部分もある。
これを読んでいて自分が、先行きが不透明だったり、なにか心に不安や哀しみを抱えた主人公が、知り合いなどのいない外国の街でひとりさまよう話が好きということに気がついた。堀江敏幸や辻邦生の小説に出てくる主人公などもわりとそんな雰囲気だし‥‥
逆に、檀一雄みたいにどこにいってもすぐに友人を作り、その土地での食材を使いつつ料理して食べたりする豪快な話も好きですが‥‥。

■「信子」(獅子文六)
930-c九州から上京し東京の大都女学校に赴任する新米教師信子が、校舎移転という学校を二分する騒動に巻き込まれたり、生徒たちとの軋轢に向き合ったりするというストーリー。夏目漱石の「坊ちゃん」の主人公を女性にしたオマージュで、赴任してきた主人公に、さまざまな問題がふりかかるものの、もちろん最後は、大団円で終わる。
獅子文六はデビュー間もないころに編集者に「ぼくは昭和の夏目漱石をめざしているんです。忘れないでください。いつか必ず漱石の『猫』や『坊ちゃん』を凌駕するユーモア作品を書いてみせますよ」と言ったというくらい夏目漱石を敬愛していたらしい。

「坊ちゃん」を読んだのは中学のはじめくらいの頃で、それからまったく読んでいないので大まかな内容しか覚えてない。だから2冊を比較することはできないけど、獅子文六としてはあっさりと大団円を迎えてしまうのが、どこか肩透かしな感じがする。獅子文六の小説は基本的に大団円で終わるので、それほどドキドキすることはないけれど、もう少し「これからどうなるのかな?」とか「そんな偶然ありか!?」みたいなことを思いながら読みたい。

この「信子」と「おばあさん」の2編を合わせて「信子とおばあちゃん」としてドラマ化されたため、わたしの持っている単行本はこの2編が収録されている。でも状態があんまりよくなくて持ち歩くのに注意が必要なので、「おばあさん」のほうも文庫で買いなおすつもり。昨年末にちくま文庫から出た「やっさもっさ」も持っていた単行本の状態があんまりよくなかったので、文庫で読もうと思っていたのですが、調べてみたら単行本のほうを読んでた。なんかどれを読んだのかわからなくなっててまずい。

■「東京の空の下、今日も町歩き」(川本三郎)
930-d青梅や八王子、福生、調布、亀戸、板橋‥‥など、東京の周辺の町を一人で歩き、その途中で出会った風景や建物の由来、土地土地について、そこにまつわる過去の文学作品や映画のエピソードをつづる。川本三郎はこういう町歩きの本を何冊出しているんだろう?と思ってしまう。
わたしは数冊しか読んでいないけれど、どの本でも目的の町に行き、ひたすら歩いて、夕方になったら、「そろそろビールを飲みたい時間」などと言いながら、その町に昔からあるような居酒屋でビールを飲み、ビジネスホテルに一泊、次の日の朝食を吉野家でとって、またちょっと歩く、という内容が繰り返されている。でおなぜか飽きない。
特に贅沢をするわけではなく、同じことを繰り返すことで、ちょっとした非日常を楽しむ様子が浮き彫りになっているのと、そこに過去の映画のシーンや文学作品などが絡んでくることで、時間も行き来しているかのような感覚になってしまうところが読んでいて心地よい。

そして明確に文章にそういうことが書かれているわけではないけれど、川本三郎が町を歩くのは、過去に読んだ本や観た映画にまつわる場所を実際に歩くことで、その時の自分と対話しているんじゃないのかなぁ、なんてことをなんとなく思った。初めて歩く町や道なんだけど、実は過去に来たことがある町。初めてなんだけど、どこか懐かしい、というとちょっと違う、昔から心の片隅で親しみを感じでいる町。そんな雰囲気がある。
定食屋や居酒屋でお店の人や居合わせた客との会話も、単にその町についての話を聞き出すというだけになってなくて、いい距離感を保ったほどよい温度感で、一人で歩いているときのモノローグといいバランスになっている。

古本の楽しみ方at SPBSギャラリー

先週、会社帰りに渋谷に行く用事がったので、ちょっと足をのばして、SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)でやっている「古本の楽しみ方at SPBSギャラリー」に行ってみました。
「古本の楽しみ方at SPBSギャラリー」は、SPBSの現スタッフであり古本屋もやっているJulyBooksさんを中心に、YATAI BOOKSさん、ATRIERさん、スノウショベリングさん、まどそら堂さんが参加している古本市で、カヌー犬ブックスも参加しています。
店内の片隅あるギャラリースペースで行われているのですが、参加店舗ごとに本を分けるのではなく、本のジャンルごとに本が並べられていて、古本市というよりも一つの古本屋をSPBSの片隅でやっているという感じになっていました。本が並べられている場所も、ギャラリーのスペースをうまく利用していて、素敵な空間になっています。

最近はイベントでもわりといろいろなジャンルの本を持って行っているのですが、今回は、たくさんの本を持っていくわけではなかったので、食についての随筆やレシピの本ばかりに絞ってます。もう少しジャンルの幅を広げてもよかったかなという気もしましたが、SPBSのお店にある本もわりと食や暮らしに関する本が多かったので、お店の本を見つつぜひSPBSギャラリーで手に取っていただいていただければと思います。「古本の楽しみ方at SPBSギャラリー」は、今週末1月26日まで、夜11時まで営業していますので、会社帰りに寄ってもゆっくり本を見れると思いますよ。渋谷駅からちょっと歩きますが‥‥。皆さまよろしくお願いします。

    ■SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS
    営業時間:月~土 11:00‐23:00 / 日 11:00‐22:00
    住所:〒150-0047 東京都渋谷区神山町17-3 テラス神山1F
    電話:03-5465-0588

929-a

929-bところで、前回、渋谷のパルコにパルコブックセンター/ロゴスや立川のオリオン・パピルスについて書いたけれど、SPBSで本を見ていたら、いろいろとほしい本が見つかって、やっぱり新刊の本屋さんに定期的に行くべきだなと思いました。子どもと行く大きな本屋さんでもいいんですが、大きな本屋さんは(子どもと一緒ということもあるけど)自分が興味のある本棚だけしかチェックできないので、こういうきちんとセレクトされた本が並べられていて、それほど時間をかけずに店内をくまなく回れるくらいの大きさの本屋さんだと、いつもなら見つけられない本に出会えて、うれしい。まぁ出会えても全部買えるわけでもないんですけどね。

SPBSでは「西淑 作品集 Shuku Nishi WORKS」を購入。年末くらいに出た記憶はあるんですけど、限定1500部だし、自分が行くような本屋さんで見つけることはないんだろうし、ネットで買うのもなんだし(自分はネットで古本屋をやってるのに!)、などと思っていたので、こんなところで!という感じでした。しかも最後の1冊でした。そのほかにも岡本仁の「続々 果てしのない本の話」や、オーストラリアの食と暮らしの雑誌など欲しい本があったけど、これらはお財布と相談して今回は保留。次回、会社帰りに渋谷に行く機会があったときにまた行ってみようと思っています。

「動きの中の思索―カール・ゲルストナー」展@ギンザ・グラフィック・ギャラリー

928-a12月に獅子文六展に行く前にギンザ・グラフィック・ギャラリーでやっている「動きの中の思索―カール・ゲルストナー」展に行ってきたので備忘録として。
カール・ゲルストナーは、スイス航空のCIやフォルクスワーゲン、シェル石油のロゴタイプなどを手掛けたことで知られるスイスを代表するグラフィックデザイナー。医薬品メーカーのガイギー社のデザインチームで、同社の広告を多数手がけた後、1959年にコピーライター兼編集者のマルクス・クッターと広告代理店「ゲルストナー+クッター」を設立、1970年からは同社を離れてからはよりアートな活動をしています。基礎理論を近代的なグラフィックデザインの手法に展開し、27歳で「冷たい芸術? Kalte Kunst?」、30歳で「デザイ二ング・プログラム」、その後も「色の形―視覚的要素の相互作用」といった著作を出している理論家でもあるそう。

928-b今回の展覧会では、ガイギー社に在籍していた頃のものからデザインと並行して取り組んだアート作品まで、広告デザイン25点、傑作ポスター9点などを展示しています。広告やポスターはマルクス・クッターのコピーと写真をうまく配置し、一見するとすごく洗練されたデザインだけれど、コピーの翻訳と合わせてみるとどこかユーモアもあって、広告デザインの見本のような作品ばかりでした。地下に展示されているアート作品のほうは、広告などでのタイポグラフィーの構成をより進めたもので、なんとなく北園克衛のコンクリート・ポエトリーを思い浮かべてしまったけど、たぶん、両者の関連性はないと思います。
こういうのを見ると、ついアイデアを拝借してショップカードとか作ってみちゃおうかななどと思ってしまうのは渋谷系育ちだからでしょうかね。まぁ実際にはデザインセンスがないので「なんかぜんぜん違う!」ってものにしかならないのが哀しい‥‥

928-cそんなわけで、久しぶりに「構成的ポスターの研究―バウハウスからスイス派の巨匠へ」を眺めてみたりしてます。この本は多摩美術大学ポスター共同研究会によるもので、デザインの研究に主眼をおいているので、デザインの理論的なところは読んでも理解できないんですけど、作家の紹介部分を読みつつ、ポスターの写真を見ているだけでも楽しい。この本を買ったくらいに、「Karl Gerstner: Review of 5 X 10 Years of Graphic Design Etc.」というカール・ゲルストナーの作品集も出ていて、よくリブロや青山ブックセンターでいつか買おうと思いながら立ち読みしてたことを思い出したりしました。
結局、その本は買ってはないんですが、そういう風に本を手に取れる場所があるってことは大事だと思う。アマゾンとかで欲しいものリストに入れておいても、買おうって気持ちが盛り上がらなくて、放置状態になっちゃうんですよね。なので、復活した渋谷のパルコにパルコブックセンター/ロゴスが入らなかったのは寂しい。今では渋谷なんてそんなに行かないけどね!
そういう意味では、子どもが生まれた後の本の情報源として、立川のオリオン・パピルスの存在は大きかった。武蔵小金井に引っ越してきてしばらく経って、吉祥寺より立川に行くことが多くなった頃、よく夫婦で順番に子どもたちに絵本の読み聞かせをしつつ、空いたほうが、自分の興味のある本を探したりしてました。子どもたちが大きくなって、本屋行くと2時間くらい児童書コーナーを行ったり来たりしているのを見ていると、今、オリオン・パピルスがあったら‥‥と思ってしまいます。実際には、売り場面積も広いし児童書も多いので、「オリオン・パピルスよりジュンク堂に行きたい!」って言われそうだけれど‥‥

【読書メモ】「わたくしのビートルズ」(小西康陽)

明けましておめでとうございます。今年もカヌー犬ブックスをよろしくお願いします。

927-a年末の12月はずっと小西康陽の「わたくしの二十世紀」を聴きながら「わたくしのビートルズ」を読んでた。ゴールデンウィーク前にパソコンが壊れたので、休み中にのんびりと読もうと思って買った本だったけれど、パソコンがすぐに直ってしまったために読みそびれていた本。なんとなく年中に読んでおいたほうがいいかな、と思って持ち歩いていたけど、思いもよらず夢中になってしまった。

収録されているのは業界の人を主人公にした恋愛もののコント(お笑いのじゃなくて軽妙な、ごく短い話ね)や、毎日のように通っている名画座で見た映画について、そしてもちろん最近のDJでかけているレコードやライナーノーツに収録された文章など、前の2冊と変わらない。でも時代が変わったせいか、好きなレコードやレア盤を読者にすすめるような文章はほとんどないし、そういう構成にもなってなくて、単にこういうレコードを聴いたり映画を見てこう思った、ここがよかった、ということが淡々と書かれているところがいい。そして全体的に歳をとった哀しさが覆っていて、大きな病気になった以後の心境や離婚した奥さんとの子どものことなどもところどころでつづられている。

最近、渋谷系の音楽がよく話題になっているけれど、その渋谷系と呼ばれる音楽が生まれた盛り上がりや喧騒とは関係なく、ピチカートファイヴ、小西康陽の創る音楽は哀しみにあふれていたことや、初期の2枚で見せたようなスタンダードな楽曲だったということに気づいた。それは「わたくしの二十世紀」を聴いているとわかる。発売された当時は、ピチカートファイブの曲を今の心境に合わせてアレンジしなおしただけではないかと思っていたけれど、たくさんの引用で彩られて見えづらかった楽曲をスタンダードな形にとらえなおしたものだったのだと、今さらながら気づく。
そういう意味でもムッシュかまやつがナレーションをしているものの、曲自体は本人が歌っている「ゴンドラの歌」が心に響く。小西康陽、本人もこの「わたくしのビートルズ」で、バード・バカラックについて、歌はうまくはないけど、本人が歌った曲が心に響くと言っているように‥‥

しかしそれぞれの文章を配置する構成はバラエティブックらしいけれど、イラストや写真などがほとんどないので、収録されている文章の量が多いので読みがいがあるというか、もうおなかいっぱい。また10年後に同じような体裁で本を出してほしい。なんかその時の自分の年齢も含めてすごく心に刺さってくるんじゃないかって気がする。でも実際問題10年後には、出版社が同じような体裁の本を作ることができなくなっているんじゃないかとも思ってしまう。これから本ってどうなっちゃうのかなぁ。

「没後50年 獅子文六展」@県立神奈川近代文学館

926-a12月になってちょっと自由な時間ができたので、小雨の降る中、横浜まで「没後50年 獅子文六展」を見に行ってきました。初日ということもあり、獅子文六は根強いファンも多そうだし、会場が混みあってたらどうしよう、などと、10年以上ぶりに元町を歩きながら思っていたのですが、まぁそんなこともなく、ゆっくり見れました。

展示内容としては、直筆の原稿や当時の写真、書簡、作品の説明などを中心に、実際のものを展示しつつ、獅子文六の足跡をたどりなおすという作家の展覧会としてはシンプルな構成。奇をてらったような展示の仕方などもなく、全体としては今まで随筆などで読んだ内容をじっくり確認するという感じ。
個人的には、獅子文六が演劇を見た時やアイデアを残したメモが興味深かったです。思い込みもあるけれど、獅子文六のパリ時代ってのんびりとしたモラトリアム的な雰囲気で、それほどお金にも困ってないし、パリのさまざまな文化にふれて楽しんでいただけと思っていましたが、連日のように演劇を見て、それを事細かにメモしたり絵に描いたりしていて、日本に帰ったらこれをもとに新しい演劇をやりたいという気概にあふれていてちょっとびっくりしました。
このほかにも小説や演劇のアイデアなどのメモがたくさんあり、こういうものをあとから見るのは、ちょっとのぞき見趣味もあるのかもしれないけど、楽しい。
獅子文六展は来年の3月8日(日)まで。2月29日には曾我部恵一のトークショウ&ライブもあります。

926-b展覧会を見に行ったあとに聞いたラジオで、細野晴臣が「メモ魔なので今まではきちんとメモを残していたけど、パソコンを使うようになってメモを全部パソコンに残すようになった。だからパソコンに全部入ってるんだけど、以前ハードディスクが壊れてしまって、全部消えちゃった」というようなことを言ってて、紙で残すのって大事だなと。今活躍している作家でどのくらいの人が、手書きでメモを残しているんだろうか?手書き原稿なんてもう0に近いのかな?ついでにいいうと、今だと、写真もデジタルだから、こういう展覧会で作家の写真が展示されたとしても、昔の色あせた写真じゃなくて、プリントされたばかりのきれいな写真になるのか。なんか不思議。
そういえば、片岡義男はモレスキンのノートにアイデアなどをメモしてて、だいたい半年くらいで一冊使ってしまうってどこかで書いていた気がする。片岡義男の展覧会があったらそういうメモを展示してほしい。あと、自身が撮ったオリジナルの写真も。

926-c神奈川近代文学館のあとは、こちらも20年ぶりくらいに中華街に出て関内~桜木町まで歩いて疲れた。中華街は、なんかイメージとしての中国のテーマパーク化がすごい進んでた。そういう意味で、子どもたちと来ても楽しいかも?なんて思う。小さな女の子がお母さんに「中国に行ったらどこの町もこんな風に赤ばっかなの?なんで赤なの?」って言ってて、お母さんが返答に困ってた。
わたしの中では中華街というと高校から大学のころ、関内から石川町まで歩く間で、喫茶ブラジルで休憩するというイメージしかない。しかも火事で焼失して立て直す前の喫茶ブラジル。火事で焼けたのって90年代半ばくらいだろうか?昔ながらの喫茶店で、入口に古いレジスターが置いてあったり、お客さんもおじいさん、おばあさんばかりで、中にいると窓の外が中華街とは思えない不思議な空間だった。実家を探せばそのころに撮った写真がどこかにあるはず。年始に帰ったら探してみようかな。

第16回 東京蚤の市に出店しました

第16回 東京蚤の市に出店しました

925-bもう一週間以上経ってしまいましたが、、11月15日から17日かけて昭和記念公園で行われた東京蚤の市に出店しました。初めて昭和記念公園での開催で、期間もこれまでより1日長い3日間でしたが、3日間とも天気に恵まれて、3日間で5万人以上もの来場者があったようです。来場していただいた皆さま、スタッフの皆さまありがとうございました。

今回は、初めて単独ではなくスプンフルさんと一緒に、17日だけ出店させていただきました。スプンフルさんは、私が住んでいるマンションからすぐ近くにあるカフェで、これまでも東京蚤の市に出店していたり、カヌー犬ブックスもときどき出店させていただいているはけのおいしい朝市を主催しています。
お店に立っている側としては、これまで家族だけだったのに比べ、バックエンドにいつも人がいてわいわい話したり、ごはんやおやつを食べたりして、にぎやかな雰囲気で楽しかったですね。結果的にお店としては、クッキーやマフィンを売るスプンフルさんと、古本屋が並んでいるというだけになってしまったような気もしますが、その辺からお店の雰囲気を変えつつ、次回一緒に出店するときは、もっといろいろできればと思っています。

925-a昭和記念公園で開催ということを知ったときは、これまでの京王閣と違い建物も、屋根のある所もないし、休んだりするところも少ないだろうしどうなるのかな?と思っていましたが、会場が再入場可能ということもあって、お店を周り疲れたら会場の外の芝生のエリアでちょっとのんびりして、また会場に入る、という人が多かったようです。公園自体が広いので、少し移動すれば適度に休憩をとれる場所があるという感じでよかったのではないでしょうか。
個人的には八角テントでのライブや、場所によってその付近の雰囲気が変わるところなど、京王閣も好きだったんですけど、来てくれるお客さんとしては昭和記念公園のほうが便利で過ごしやすかったのかもしれません。ちなみにわたしは子どもたちがソフトクリーム食べたいというので、イケアまで行ってソファに座って休んだりしてました。北欧市に行って帰りにイケアに行くという北欧好きの人も多そうですよね。

925-c古本屋としては、3日目だけ出店したことやフードエリアでの出店だったこともあり、子どもを連れた家族の方々にたくさん来ていただき、開場から閉場まで大にぎわいでした。ありがとうございました!「このお店、小さいけどいい絵本がたくさんある!」などと言われたりして、ちょっと嬉しかったです。次回は絵本以外でも、「いい本たくさんある!」といわれるようにがんばりますー!

「果てしのない本の話」-岡本仁-

-■雑誌「HUGE」に連載された読書エッセイ。
といっても取り上げられるのは、本ばかりではない。冒頭でロデオにあこがれるアメリカの子どもとロデオの写真集の話から、スパイク・ジョーンズが撮ったロデオのドキュメンタリーについて、そして片岡義男「ロンサム・カウボーイ」が取り上げられる。その後も、映画や音楽、建築、民芸品‥‥など、さまざまなものが連想形式で、かつそれまでに出会った人たちや旅の思い出とともにつづられ、本の最後に再び「ロンサム・カウボーイ」が登場して終わるという形になっている。
かつて「relax」を読んでいた人たちにとってなじみのあるものも、自身の思い出話などと結び付けられてるせいで、新鮮な気分で読めるし、知らないものでも、前後で知っているものと関連付けられているせいで、ついチェックしなくちゃという気になってしまうところは、さすが「relax」の元編集長という感じ。そういう気分になる本を読むのはひさしぶりな気がする。

日本のサブカルチャーって基本的にアメリカ(イギリス)の文化への憧れをベースにしていたのが、気がついたら漫画やアニメなど日本で生まれたものが中心となってて、いつのまにか変わってしまったと思ってるんだけど、「relax」という雑誌は、アメリカの文化への憧れをベースにした最後の雑誌だったのかな?とちょっと思った。いや、今の雑誌を読んでないので、実際「relax」以後がどうなっているのか知りません。
ただ、2019年の今、ここに書かれているようなことに憧れて読んでしまう世代と、嫌味というか、嫌悪感を抱いてしまう世代で分かれてしまってるんじゃないかなと、なんとなく思ってしまうのですがどうなんでしょうね。

ちなみにこの本は本の雑誌社から出ているのですが、続編がパピエラボというところから出てます。こちらはリトルプレスみたいで、今まで本屋でも古本屋でも見かけたことがないし、ネットで調べたら版元でも売り切れで再販予定もないとのこと。どこかで出会える日が来るのだろうか?

■秋はイベントの季節。カヌー犬ブックスはそれほどイベント出店しているわけではありませんが、10月13日に国分寺マンションアンティークアヴェニューで行われたてのわ夜市に出店しました。

-

てのわ夜市は5月に国分寺公園で行われたてのわ市の夜編。「美味しい『お酒とお料理』、美しい『器や照明、古道具』たち。そして ほろ酔い気分に心地よい『素敵な音楽』。秋の夜長を彩る 多摩・武蔵野地域の魅力が集う たのしい『大人の夜市』です。」というキャッチコピーがついているとおり、大人がわいわいとお酒を飲みながらお店を回ったり、知り合いとしゃべったり、ライブを見たりしているいい雰囲気のイベントでした。

晴れた日に公園の芝生の上でのんびりしたり、子どもと遊んだりしつつ、お店を回ったり、ライブを見たりするのもいいけれど、個人的にはこういうこじんまりとしたイベントのほうが好きかもしれません。お店もたくさん出ているわけではないし、個々のスペースも大きくはないので、出展者の人と話したりしやすいし、なんとなくお客さんとの会話も弾みやすい。
ちなみに当日は和田誠が亡くなったばかりということもあって、和田誠の本をとって話しかけてきてくれるお客さんが多かったです。
まぁ何といっても今回は車を出さなかったので、自分がお店をやりながらビールを飲めたということも大きいですけどね。

こじんまりとしたイベントと書いてしまったけれど、主催するほうは、前日に台風が通り過ぎたりしたこともあり、公園でやるイベントと同じくらい大変だったと思います。スタッフの皆さま、来てくれた皆さまありがとうございました!

「遠くの街に犬の吠える」-吉田篤弘-

-■主人公の小説家と彼を担当する編集者、そして普通の人には聞こえない音が聞こえる音響技士の3人が、消えた言葉の辞書を作ることをライフワークとしていた亡くなった恩師の手紙の秘密を、聞こえない音をたどりながら解き明かしていくというストーリー(最終的に解き明かしたのかどうかはわからない)。
吉田篤弘の本は、「フィンガーボウルの話のつづき」や「それからはスープのことばかり考えて暮らした」など、ずっと前から本のタイトルや雰囲気が気になっていたし、クラフト・エヴィング商會の「どこかにいってしまったものたち」を、本が出たばかりの頃に買ったりしていたので、なんとなくこういう雰囲気の小説なんだろうな、とは思っていたけれど、実際に読むのは初めてです。気にはなりつつなんとなく敬遠してしまってきたのは、クラフト・エヴィング商會の作り出す世界は好きなんだけれど、細部まで作りこんだその世界にどこか素直に入り込めない感じがしてたから。
初めて吉田篤弘の本を読んだ感想としては、ちょっと現実から浮いたような設定やストーリーはやはり思っていた通りなんだけど、この本で言うとそれほど世界観が作りこまれた感じはしなくて、実際は現実離れした話なのにすっと入り込めて、そのまま一気に読んでしまいました。最後の手紙を読んだ後、登場人物たちのそれぞれの描かれなかった気持ちが、聞こえない音となって浮かび上がって、耳の中でかすかに余韻が残ります。

-■もう1か月以上前のことになりますが、3月に新井薬師前にあるスタジオ35分でやっていたジョナス・メカスの写真展に行ってきました。ジョナス・メカスは、身の回りの日常風景などを撮影した映像記録で知られているリトアニア生まれの映像作家・詩人。10分くらいの短編から5時間を超える長編まで多数の作品を制作し、映画館やギャラリーでの個展などさまざまな場所、さまざまな上映スタイルで作品を上映しています。アメリカに渡ってきたばかりのころ、まだ英語を話すことができなかったため、コミュニケーションの手段の一つとして16ミリのカメラで映像を撮るようになったとどこかで読んだ記憶があるけど、本当がどうかわかりません。
この写真展では16ミリのカメラで撮ったフィルムを現像し、3~4コマ組み合わせることで、イメージが連なるように構成された作品が展示されていました。撮影されている対象もぼんやりとした風景やものが多く、それがいくつか組み合わされることで意識の動きみたいなものが浮かび上がってきて、なんとなくジョナス・メカスの過去の記憶の断片をのぞいているような気もしてきます。いや、本来、写真って、人の記憶では忘れ去られてしまうような風景やもの、人をそのまま残すわけなので、まさに記憶そのものなんですよね。

-■昔に行った場所や会った人を映像としてはっきりと思えている人もいると思いますが、わたし自身はあまり記憶力がよくなくて、すぐに忘れてしまいます。何かきっかけがあって思い出したとしてもだいたいぼんやりとしているし、思い浮かんだいくつかのものたちのつながりなどもはっきりしていない場合が多かったりします。そういうことも含めて、ジョナス・メカスの作品を見ていると、行ったことも見たこともない風景なのに、被写体が日常的なものだけになんとなく自分の頭の奥にある記憶を探っているような気分になったりします。
本当は自分で撮る写真も、自分の記憶の中の映像のようなものを撮りたいと思ってるのですが、うまく伝わるような形で撮れているかいっているかはわからない。そもそも自分の記憶をうまく映像化できてない時点で記憶を表現するなんてことは無理なんだろうなとも思うわけですが‥‥