ソール・ライター展とホンマタカシ展

2月の終わりにたまには写真展などに行こうと思って、その時に開催している展覧会と調べてみたら、ソール・ライターやホンマタカシ、マイケル・ケンナ、バリー・マッギー‥‥といった名前が目について、なんだか前に行ったことあるものばかりだな、と思ってしまった。
今の音楽を聴きたいのに、つい手に取ってしまうCDやレコードは昔のものだったり、新しいものでも昔から活動している人のものだったりしてしまうのと、どこか似てる気がする。展覧会の場合、前に開催したときに盛況だったから違う作品でまたやろうという主催者側の都合もあるんでしょうけどね。別に今のものでなくてもいいから、今まで見たことがなかった人の作品を見に行きたい気持ちだけはある。
そんなわけで、2月の土曜、渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムでやっていた「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」展と、恵比寿のPOSTでやっていたホンマタカシの「シンフォニー その森の子供 マッシュルーム フロム ザ フォレスト」展をはしご。

932-aソール・ライター展は、一部初期のファッション写真なども展示されていたけれど、基本的には個人的に撮ったスナップが展示されていて、前回の時と雰囲気は変わらない。カラー写真制作のためイルフォードから資金提供してもらっていたり、亡くなる前の2006年に個展お開いているので個人的というのもちょっと違うか。
こう言ってしまうとなんですが、ソール・ライターの写真って、(ほんとはどうなのか知りませんが)、作品として写真を撮っていて、構図や色彩のバランスなどもすごく考えられているのにも関わらず、写真を見ていると、写真家が街を歩いたりしているときに個人的に撮ったすごい写真と思わせてしまうところが、わたしも含めて普通の人がひかれるポイントなんじゃないかな。しかもブレッソンみたいに隅から隅まで計算されつくしたような構図でもないので、ちょっと工夫したら自分もこういう写真が撮れるかも!?と思っちゃたりしてしまう。もちろん写真の専門家の人がどう評価しているかは別。
そういう意味でも、1960年代から1980年代にかけて撮影したファッション写真をもっと見てみて、それらの写真と街のスナップ写真がどういう影響し合ってるのかを知りたい。

932-b逆に、ホンマタカシの写真って、すごく仕事のできるビジネスマンのものすごく説得力のあるプレゼン、を見ている感じで、普通の人には撮れないし、撮ってもあんまりおもしろくない気がする。
この展示もきのこを撮ってるだけなんですよ。でもスタイリングも完璧だし照明なども完璧、しかもその完璧さをアピールするかのように、作品のサイズをかなり大きくしてる。なので、そのきのこをどれだけきれいに撮ってるのかというところに目が行ってしまうんだけど、さらにそのきのこについて、「東日本大震災が発生した直後、福島県の森に入り、そこに生えている放射性物質を吸収しやすいというキノコを撮影」みたいなストーリーまで作って(事実かどうかは別として)、より興味をもって写真をじっと見てしまうような仕掛けも作ってくる。
ホンマタカシのこういところがあざといと思ったり、写真を撮ることによって伝えようとしているものが何もないと思う人もいると思う。ただ写真家の一人としてこういうスタンスで撮る人がいてもいいと思う。ホンマタカシの場合、それが写真の技術などで裏付けがされていて、完璧な世界になっているところがすごい。逆に写真によって、社会の何かについて訴えようとしたり、自分の中の何かを表現している人だとしても、結局、見る人に伝えたいことを写真を使ってプレゼンしてる、とも言えるわけだしね。

2020年2月に読んだ本

■「ソラシド」(吉田篤弘)
931-a「ひとたび存在したものは、誰かの中で生き続ける―。拍手もほとんどない中、その二人組は登場した。ひとりはギターを弾きながら歌い、もうひとりは黙々とダブル・ベースを弾きつづけた。二人とも男の子みたいな女の子だった。彼女たちの音楽は1986年のあの冬の中にあった―。幻のレコードとコーヒーの香り、行方不明のダブル・ベースと白い紙の荒野。消えゆくものと、冬の音楽をめぐる長篇小説」

と帯に書いてあるだけれど、個人的な経験として、ミュージシャンやバンドを題材にして小説って、描かれている音楽に対する登場人物の思い入れみたいものが空回りしてしまって、読んでいてついていけないことが多い。
それは単に小説の中で描かれている音楽が自分の好みでないような気がするのに(実際に聴けないのでわからない)、物語の中で重要なファクターとして扱われることの違和感もあるし、逆に自分の好きな音楽だとしても、なんとなく違和感があって素直に受け止められなかったり、音楽好きは面倒くさい。

というわけで、この本も買っては見たもののなかなか読む気になれなかったのだけど、ふと表紙を眺めてたら、「これどこかで見たことあるな」と気づいてしまい、レコード箱を探してみたらエヴリシング・バット・ザ・ガールの「Each & Every One」でした。
ついでに帯を外すと、写真のレコードは表紙の元ネタになっているのB面の「Laugh You Out The House」で、すぐにわかるようになってた。写真に写す面をわざわざアルバム未収録のB面にするというところが、吉田篤弘らしい(のか?)。

となれば、読むしかない‥‥

稼いだお金のほとんどをレコードに費やしてしまう主人公と、その母親違いで、主人公とは親子ほども年が違う1986年生まれの妹が、1980年代後半にほんの数年間だけ小さな喫茶店やライブハウスを中心に活動していた女の子二人のユニット、ソラシドの行方を追うというストーリー。
何でも屋で古い雑誌を集めたり、雑誌などの紙が最終的に捨てられるというゴミ捨て場に行ったりしながら、ソラシドの足跡をたどるところはいつもの吉田篤弘の小説と同じ雰囲気。阿佐ヶ谷住宅まで出てくるし‥‥。
でも最終的にはソラシドの音楽を追いかけつつも、なんとなくわだかまりがあって前に進めなかった主人公と妹、父親、主人公の母親、妹の母親、そのほかの登場人物が、これをきっかけにそれぞれ前に進みだすというエンディングになってて、それまでの作りこんだ世界観がスコンと抜ける感じが爽快。

音楽もエヴリシング・バット・ザ・ガールの曲ももちろん出てくるし、ベン・ワットやロバート・ワイアット、エルヴィス・コステロ、プリテンダーズといったミュージシャンやバンドの名前も出てくる。
自分としては、ベン・ワットの「North Marine Drive」について、1986年、まだ駆け出しで本のレアイウターをしていた主人公が「土曜日で街が混み合っているので部屋でくすぶってた。ベン・ワットの『ノース・マリン・ドライブ』をA面からB面へ、B面からA面へと繰り返し聴いて一日が終わる。このレコード一枚から自分が読んでみたい小説が一ダースは書ける」というメモを残していたり、「1986年はピーター・ガブリエルの『Sledgehammer』の年だった。ラジオをつければいつも『Sledgehammer』がかかってた」といったくだりを読むとグッときますね。

それから、これは勝手な思い込みなんですけど、ソラシドってギターとダブル・ベースの二人のユニットで、文中にはブルースぽい曲を演奏しているみたいなんですけど、1986年で、若い女の子二人組ということを考えると、絶対フェイクだなと思う。XTCの「Seagulls screaming kiss her,kiss her」のカバーをしたりしてるし、1980年代後半のイギリスのブルー・アイド・ソウルやフェイク・ジャズ、ボサノヴァ‥‥ラフトレードやチェリーレッドのようなインディのポストパンク/ニューウェイヴみたいな音なんじゃないかと。
二人の演奏力は高いみたいだけど、年齢的にも時代的にもぜったい咀嚼できてなくて、気持ちばかり前のめりで今聴いたらどこか拙い音楽。読み終わってもう一度表紙を眺めたら、そういう音楽が浮かんできた。

■「ぼくの旅の手帖―または、珈琲のある風景」(森本哲郎)
931-b東京新聞、朝日新聞の新聞記者としてさまざまな国を回ったという経験をもとに、西ドイツ、ノルウェー、スペアイン、ギリシア、モロッコ、ネパール、アメリカ、デンマーク‥‥など、それぞれの国でのできごとをスケッチのようにつづったエッセイ集。副題に「珈琲のある風景」とあるように、ほとんどの国の文章のどこかでコーヒーを飲むシーンやカフェなどの情景が描かれている。

一つ一つの文章が短く、25か国の旅の様子がつづられているのですが、60年代の海外旅行、しかもアメリカやヨーロッパといった国々だけでなく、アフリカやアジアなどの国も多いので、話の内容としては、いろいろ大変なことが起きていて、続けて読んでいても飽きずにすいすい読める。
森本哲郎自身がどんな状況でも悲観的にならず、現地でのどんなできごとも楽しんでいる様子がうかがえるのがいい。一定期間、持ち歩いて、散歩の途中で見つけた昔からあるような喫茶店をでコーヒーを飲みながらページをめくりたい気分になります。

自分の中では、同じように日本各地の食材、料理を100つ、1つにつき見開きで紹介した吉田健一の「私の食物誌」と対になっている。両方とも段ボール素材の函で、サイズなども近い形だしね。
バラエティブックみたいに、雑多な感じのレイアウトの本も好きだけど、こういう短い文章をシンプルに収録しつつ、かつ装幀にもこだわった本も、手元に置いておいて、いつでも手に取って読める(持ち歩ける)ようにしておきたいと思う。

■「場面の効果」(井伏鱒二)
931-c帯に「著者の全作品の中から特に随筆風の好短編を精選して著者の素顔を映しだした異色の作品集」と書いてあるけど、まぁ普通に随筆です。つ
づられているのは太宰治との話だったり、父親のことだったり、釣りや旅行に出かけた時の話だったりで、内容としてもなんとなく前に読んだことがあるような話だったりするんだけど、それでも読んでて「知ってるからいいや」と飛ばす感じにはならない。話の内容はわかってるのに聞くたびに笑ってしまう噺家の噺を聴いてる感じに似てるのかな?

あと、太宰治が道を踏み外しすぎてるのでなんとなく井伏鱒二は常識人という印象があったり、本人もわりと自分は常識的な人だと思ってる節があるんだけど、話を読み進めていくとめちゃくちゃなことを言っていたり、やったりしてるときがあるのがおもしろい。

ある祝賀会に行って、羽織を着てくるのを忘れて会場に行ってしまい、主催者の人に羽織はなくて会場は暖かいので大丈夫ですと言われても、羽織がないと寒いと押し問答の末、会場を出てしまう。
なのに、会場を出たところで知り合いに会い料理屋で飲みはじめ、中野、荻窪と飲み歩いて、別れたところで別の人に会いまた飲んで、気がついたら秋川渓谷にいたとか。
読んでてなんでだよと突っ込み入れたくなるけど、まぁこのくらいじゃ、ほかの阿佐ヶ谷文士の言動に比べたら、常識人か。

2020年1月に読んだ本

■「評伝 獅子文六」(牧村健一郎)
930-aお正月に帰省した時に持って行った本。二宮に行くときは本を1冊か2冊持っていく。
武蔵小金井から神奈川の二宮まで電車で約2時間くらいなので、行き帰りで約4時間、子どもと話しながら読んだとしても1冊は読み終わるはずなんだけど、途中から寝てしまったり、子どものゲームにつき合わされたりして、たいてい読み終わることはない。別に読み終える必要もないんですけど。

2009年に出た獅子文六の評伝「獅子文六の二つの昭和」を加筆して文庫化したもので、昨年の12月に「やっさもっさ」と一緒に出ていた。県立神奈川近代文学館の「獅子文六展」に合わせて出した感じだろうか?
内容的にも獅子文六の幼少のころからパリ時代、文学座立ち上げ、戦時中・戦後と、どこかの時代を深く掘り下げるわけではなく、獅子文六の歩みがわかるようになっているので、「獅子文六展」の副読本としては最適かもしれない。展覧会を見てから読んでもいいし、本を読んでから展覧会を見てもいい。ただ本を読むともう一度「獅子文六展」を見に行って、確認したくなります。

この本の帯に「突然のブーム到来?」と書いてあったり、内容についても「再評価以降の動向も踏まえた原稿も収録」などと記載されているけれど、個人的には、自分が獅子文六の本を読み始めた2000年代前半の頃、すでに獅子文六は再評価されていたと思うし、それ以後もわりと途切れることなく獅子文六の本は読まれていると思えるのだけれどどうなんだろう?
古本屋での本の値段も、それほど高いわけではないけれど、100円などで売られていることもあまりない印象。もちろん簡単に本が見つかるわけではないけれど、こまめに古本屋を回っていると出会うことも多い。そもそもサニーデイ・サービスの「コーヒーと恋愛」が出たのって1995年だしね。

ちくま文庫や朝日文庫から過去の本が刊行されるようになって、新しいファンが増えたことも確かにあるだろうけど、そういう地道に獅子文六の本を読み続けてきた人がベースにあったからこそ、文庫化することでより広がったんじゃないだろうか、なんて思ったりもしてる。いや、実際にそういう人がどのくらいいたのかわかりませんが。

■「詩人の魂」(山田稔)
930-b数日後にパリに来て一緒に過ごす約束をしていた友人が突然亡くなった、という知らせを受けたパリに留学中の主人公が、その現実を受け入れられずに、パリを離れてさまよう「岬の輝き」、その主人公が日本に帰ってきてからの「白鳥たちの夜」「詩人の魂」の3篇の連作(?)を含む6篇を収録した短編集。

連作のほうは、1979年の1月、パリ滞在中の山田稔が、その翌月から一年間パリで過ごす予定だったVIKINGの同人、大槻鉄男の訃報を受け取るという実際の経験をもとにしている。そのためか少し感傷的な部分もある。
これを読んでいて自分が、先行きが不透明だったり、なにか心に不安や哀しみを抱えた主人公が、知り合いなどのいない外国の街でひとりさまよう話が好きということに気がついた。堀江敏幸や辻邦生の小説に出てくる主人公などもわりとそんな雰囲気だし‥‥
逆に、檀一雄みたいにどこにいってもすぐに友人を作り、その土地での食材を使いつつ料理して食べたりする豪快な話も好きですが‥‥。

■「信子」(獅子文六)
930-c九州から上京し東京の大都女学校に赴任する新米教師信子が、校舎移転という学校を二分する騒動に巻き込まれたり、生徒たちとの軋轢に向き合ったりするというストーリー。夏目漱石の「坊ちゃん」の主人公を女性にしたオマージュで、赴任してきた主人公に、さまざまな問題がふりかかるものの、もちろん最後は、大団円で終わる。
獅子文六はデビュー間もないころに編集者に「ぼくは昭和の夏目漱石をめざしているんです。忘れないでください。いつか必ず漱石の『猫』や『坊ちゃん』を凌駕するユーモア作品を書いてみせますよ」と言ったというくらい夏目漱石を敬愛していたらしい。

「坊ちゃん」を読んだのは中学のはじめくらいの頃で、それからまったく読んでいないので大まかな内容しか覚えてない。だから2冊を比較することはできないけど、獅子文六としてはあっさりと大団円を迎えてしまうのが、どこか肩透かしな感じがする。獅子文六の小説は基本的に大団円で終わるので、それほどドキドキすることはないけれど、もう少し「これからどうなるのかな?」とか「そんな偶然ありか!?」みたいなことを思いながら読みたい。

この「信子」と「おばあさん」の2編を合わせて「信子とおばあちゃん」としてドラマ化されたため、わたしの持っている単行本はこの2編が収録されている。でも状態があんまりよくなくて持ち歩くのに注意が必要なので、「おばあさん」のほうも文庫で買いなおすつもり。昨年末にちくま文庫から出た「やっさもっさ」も持っていた単行本の状態があんまりよくなかったので、文庫で読もうと思っていたのですが、調べてみたら単行本のほうを読んでた。なんかどれを読んだのかわからなくなっててまずい。

■「東京の空の下、今日も町歩き」(川本三郎)
930-d青梅や八王子、福生、調布、亀戸、板橋‥‥など、東京の周辺の町を一人で歩き、その途中で出会った風景や建物の由来、土地土地について、そこにまつわる過去の文学作品や映画のエピソードをつづる。川本三郎はこういう町歩きの本を何冊出しているんだろう?と思ってしまう。
わたしは数冊しか読んでいないけれど、どの本でも目的の町に行き、ひたすら歩いて、夕方になったら、「そろそろビールを飲みたい時間」などと言いながら、その町に昔からあるような居酒屋でビールを飲み、ビジネスホテルに一泊、次の日の朝食を吉野家でとって、またちょっと歩く、という内容が繰り返されている。でおなぜか飽きない。
特に贅沢をするわけではなく、同じことを繰り返すことで、ちょっとした非日常を楽しむ様子が浮き彫りになっているのと、そこに過去の映画のシーンや文学作品などが絡んでくることで、時間も行き来しているかのような感覚になってしまうところが読んでいて心地よい。

そして明確に文章にそういうことが書かれているわけではないけれど、川本三郎が町を歩くのは、過去に読んだ本や観た映画にまつわる場所を実際に歩くことで、その時の自分と対話しているんじゃないのかなぁ、なんてことをなんとなく思った。初めて歩く町や道なんだけど、実は過去に来たことがある町。初めてなんだけど、どこか懐かしい、というとちょっと違う、昔から心の片隅で親しみを感じでいる町。そんな雰囲気がある。
定食屋や居酒屋でお店の人や居合わせた客との会話も、単にその町についての話を聞き出すというだけになってなくて、いい距離感を保ったほどよい温度感で、一人で歩いているときのモノローグといいバランスになっている。

【読書メモ】「わたくしのビートルズ」(小西康陽)

明けましておめでとうございます。今年もカヌー犬ブックスをよろしくお願いします。

927-a年末の12月はずっと小西康陽の「わたくしの二十世紀」を聴きながら「わたくしのビートルズ」を読んでた。ゴールデンウィーク前にパソコンが壊れたので、休み中にのんびりと読もうと思って買った本だったけれど、パソコンがすぐに直ってしまったために読みそびれていた本。なんとなく年中に読んでおいたほうがいいかな、と思って持ち歩いていたけど、思いもよらず夢中になってしまった。

収録されているのは業界の人を主人公にした恋愛もののコント(お笑いのじゃなくて軽妙な、ごく短い話ね)や、毎日のように通っている名画座で見た映画について、そしてもちろん最近のDJでかけているレコードやライナーノーツに収録された文章など、前の2冊と変わらない。でも時代が変わったせいか、好きなレコードやレア盤を読者にすすめるような文章はほとんどないし、そういう構成にもなってなくて、単にこういうレコードを聴いたり映画を見てこう思った、ここがよかった、ということが淡々と書かれているところがいい。そして全体的に歳をとった哀しさが覆っていて、大きな病気になった以後の心境や離婚した奥さんとの子どものことなどもところどころでつづられている。

最近、渋谷系の音楽がよく話題になっているけれど、その渋谷系と呼ばれる音楽が生まれた盛り上がりや喧騒とは関係なく、ピチカートファイヴ、小西康陽の創る音楽は哀しみにあふれていたことや、初期の2枚で見せたようなスタンダードな楽曲だったということに気づいた。それは「わたくしの二十世紀」を聴いているとわかる。発売された当時は、ピチカートファイブの曲を今の心境に合わせてアレンジしなおしただけではないかと思っていたけれど、たくさんの引用で彩られて見えづらかった楽曲をスタンダードな形にとらえなおしたものだったのだと、今さらながら気づく。
そういう意味でもムッシュかまやつがナレーションをしているものの、曲自体は本人が歌っている「ゴンドラの歌」が心に響く。小西康陽、本人もこの「わたくしのビートルズ」で、バード・バカラックについて、歌はうまくはないけど、本人が歌った曲が心に響くと言っているように‥‥

しかしそれぞれの文章を配置する構成はバラエティブックらしいけれど、イラストや写真などがほとんどないので、収録されている文章の量が多いので読みがいがあるというか、もうおなかいっぱい。また10年後に同じような体裁で本を出してほしい。なんかその時の自分の年齢も含めてすごく心に刺さってくるんじゃないかって気がする。でも実際問題10年後には、出版社が同じような体裁の本を作ることができなくなっているんじゃないかとも思ってしまう。これから本ってどうなっちゃうのかなぁ。

「果てしのない本の話」-岡本仁-

-■雑誌「HUGE」に連載された読書エッセイ。
といっても取り上げられるのは、本ばかりではない。冒頭でロデオにあこがれるアメリカの子どもとロデオの写真集の話から、スパイク・ジョーンズが撮ったロデオのドキュメンタリーについて、そして片岡義男「ロンサム・カウボーイ」が取り上げられる。その後も、映画や音楽、建築、民芸品‥‥など、さまざまなものが連想形式で、かつそれまでに出会った人たちや旅の思い出とともにつづられ、本の最後に再び「ロンサム・カウボーイ」が登場して終わるという形になっている。
かつて「relax」を読んでいた人たちにとってなじみのあるものも、自身の思い出話などと結び付けられてるせいで、新鮮な気分で読めるし、知らないものでも、前後で知っているものと関連付けられているせいで、ついチェックしなくちゃという気になってしまうところは、さすが「relax」の元編集長という感じ。そういう気分になる本を読むのはひさしぶりな気がする。

日本のサブカルチャーって基本的にアメリカ(イギリス)の文化への憧れをベースにしていたのが、気がついたら漫画やアニメなど日本で生まれたものが中心となってて、いつのまにか変わってしまったと思ってるんだけど、「relax」という雑誌は、アメリカの文化への憧れをベースにした最後の雑誌だったのかな?とちょっと思った。いや、今の雑誌を読んでないので、実際「relax」以後がどうなっているのか知りません。
ただ、2019年の今、ここに書かれているようなことに憧れて読んでしまう世代と、嫌味というか、嫌悪感を抱いてしまう世代で分かれてしまってるんじゃないかなと、なんとなく思ってしまうのですがどうなんでしょうね。

ちなみにこの本は本の雑誌社から出ているのですが、続編がパピエラボというところから出てます。こちらはリトルプレスみたいで、今まで本屋でも古本屋でも見かけたことがないし、ネットで調べたら版元でも売り切れで再販予定もないとのこと。どこかで出会える日が来るのだろうか?

■秋はイベントの季節。カヌー犬ブックスはそれほどイベント出店しているわけではありませんが、10月13日に国分寺マンションアンティークアヴェニューで行われたてのわ夜市に出店しました。

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てのわ夜市は5月に国分寺公園で行われたてのわ市の夜編。「美味しい『お酒とお料理』、美しい『器や照明、古道具』たち。そして ほろ酔い気分に心地よい『素敵な音楽』。秋の夜長を彩る 多摩・武蔵野地域の魅力が集う たのしい『大人の夜市』です。」というキャッチコピーがついているとおり、大人がわいわいとお酒を飲みながらお店を回ったり、知り合いとしゃべったり、ライブを見たりしているいい雰囲気のイベントでした。

晴れた日に公園の芝生の上でのんびりしたり、子どもと遊んだりしつつ、お店を回ったり、ライブを見たりするのもいいけれど、個人的にはこういうこじんまりとしたイベントのほうが好きかもしれません。お店もたくさん出ているわけではないし、個々のスペースも大きくはないので、出展者の人と話したりしやすいし、なんとなくお客さんとの会話も弾みやすい。
ちなみに当日は和田誠が亡くなったばかりということもあって、和田誠の本をとって話しかけてきてくれるお客さんが多かったです。
まぁ何といっても今回は車を出さなかったので、自分がお店をやりながらビールを飲めたということも大きいですけどね。

こじんまりとしたイベントと書いてしまったけれど、主催するほうは、前日に台風が通り過ぎたりしたこともあり、公園でやるイベントと同じくらい大変だったと思います。スタッフの皆さま、来てくれた皆さまありがとうございました!

「遠くの街に犬の吠える」-吉田篤弘-

-■主人公の小説家と彼を担当する編集者、そして普通の人には聞こえない音が聞こえる音響技士の3人が、消えた言葉の辞書を作ることをライフワークとしていた亡くなった恩師の手紙の秘密を、聞こえない音をたどりながら解き明かしていくというストーリー(最終的に解き明かしたのかどうかはわからない)。
吉田篤弘の本は、「フィンガーボウルの話のつづき」や「それからはスープのことばかり考えて暮らした」など、ずっと前から本のタイトルや雰囲気が気になっていたし、クラフト・エヴィング商會の「どこかにいってしまったものたち」を、本が出たばかりの頃に買ったりしていたので、なんとなくこういう雰囲気の小説なんだろうな、とは思っていたけれど、実際に読むのは初めてです。気にはなりつつなんとなく敬遠してしまってきたのは、クラフト・エヴィング商會の作り出す世界は好きなんだけれど、細部まで作りこんだその世界にどこか素直に入り込めない感じがしてたから。
初めて吉田篤弘の本を読んだ感想としては、ちょっと現実から浮いたような設定やストーリーはやはり思っていた通りなんだけど、この本で言うとそれほど世界観が作りこまれた感じはしなくて、実際は現実離れした話なのにすっと入り込めて、そのまま一気に読んでしまいました。最後の手紙を読んだ後、登場人物たちのそれぞれの描かれなかった気持ちが、聞こえない音となって浮かび上がって、耳の中でかすかに余韻が残ります。

-■もう1か月以上前のことになりますが、3月に新井薬師前にあるスタジオ35分でやっていたジョナス・メカスの写真展に行ってきました。ジョナス・メカスは、身の回りの日常風景などを撮影した映像記録で知られているリトアニア生まれの映像作家・詩人。10分くらいの短編から5時間を超える長編まで多数の作品を制作し、映画館やギャラリーでの個展などさまざまな場所、さまざまな上映スタイルで作品を上映しています。アメリカに渡ってきたばかりのころ、まだ英語を話すことができなかったため、コミュニケーションの手段の一つとして16ミリのカメラで映像を撮るようになったとどこかで読んだ記憶があるけど、本当がどうかわかりません。
この写真展では16ミリのカメラで撮ったフィルムを現像し、3~4コマ組み合わせることで、イメージが連なるように構成された作品が展示されていました。撮影されている対象もぼんやりとした風景やものが多く、それがいくつか組み合わされることで意識の動きみたいなものが浮かび上がってきて、なんとなくジョナス・メカスの過去の記憶の断片をのぞいているような気もしてきます。いや、本来、写真って、人の記憶では忘れ去られてしまうような風景やもの、人をそのまま残すわけなので、まさに記憶そのものなんですよね。

-■昔に行った場所や会った人を映像としてはっきりと思えている人もいると思いますが、わたし自身はあまり記憶力がよくなくて、すぐに忘れてしまいます。何かきっかけがあって思い出したとしてもだいたいぼんやりとしているし、思い浮かんだいくつかのものたちのつながりなどもはっきりしていない場合が多かったりします。そういうことも含めて、ジョナス・メカスの作品を見ていると、行ったことも見たこともない風景なのに、被写体が日常的なものだけになんとなく自分の頭の奥にある記憶を探っているような気分になったりします。
本当は自分で撮る写真も、自分の記憶の中の映像のようなものを撮りたいと思ってるのですが、うまく伝わるような形で撮れているかいっているかはわからない。そもそも自分の記憶をうまく映像化できてない時点で記憶を表現するなんてことは無理なんだろうなとも思うわけですが‥‥

「真夜中のギャングたち」-バリー・ユアグロー-

-■鈴木清順、深作欣二、北野武といった日本のヤクザ映画やギャング映画が好きというユアグローによる、ギャングを主人公にした短編を47編収録した短篇集。短編といってもユアグローなので、どれも1ページから5ページくらいの短く、そこにいたる過程はもちろん、主人公の経歴や心理、周辺の状況といったことは描かれません。1行目からいきなりやばい状態になり、事実のみが淡々と描かれ、最後にストーンと話が落ちていきます。柴田元幸の翻訳の文章も内容に合わせてかいつもと違っていて、かなり硬質な文体になっている気がするけど、それは気のせいかもしれません。
どれもだいたい悲惨な結末なのだけど、きちんとオチもある。幽霊が出てきたり、空中浮揚するチンピラが出てきたりする非現実的なものもあるので、ギャングもののみで47編あるにもかかわらず、読んでいて飽きないです。でもやっぱりいっぺんに読むよりも1日5編ずつとか少しずつ読んでいく形がいいんでしょうねぇ(これはほかのバリー・ユアグローの本にも言えるか)。といっても寝る前に読んだら悪い夢を見そうな気もしますが‥‥。
ヤクザ映画のなかの一つのエピソードや一場面をスケッチしたという趣なので、読んでいるとどこかタランティーノの「パルプフィクション」を見ている感じがします。これらの話をいくつかピックアップして矢継ぎ早に見せつつ、出てくる登場人物の相関関係をうまく作って、最後にはなんとなく話がつながってる、みたいな形にしたらおもしろい映画になるかもしれません。いや、適当。
あとがきにバリー・ユアグローが好きなヤクザ・ギャング映画のリストがあってこれも興味深いですよ(あえてここには書きません)。

■先週末は天気予報が雪だったこともあり、金曜日に子どもたちが見たいと言っていたDVDを借りつつ、夜自分が夜見るために「ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール」を借りてみました。自分が見るためにDVD借りるのなんていつ以来だろうか?でも、普段映画を観なくなってしまったので、いざ借りようとしてもぜんぜん映画のタイトルが思い浮かばなくて、まいった。これは前にブライアン・ウィルソンの「ラブ・アンド・マーシー」を観たときに予告でやってて、観に行きたいなと思ったのが記憶に残ってたんですよね。やっぱり予告編、というか映画館での映像の記憶は大事。ニュースとかでタイトルだけ見ても時間が経ったら記憶に残らないもの。
という話はおいといて、「ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール」は、ベル・アンド・セバスチャンのスチュアート・マードックが、脚本と監督を手がけた映画で、拒食症の治療のため入院していた女の子と売れないミュージシャンの男の子、そして彼が音楽を教えている女の子の3人が出会い、一緒に音楽を作り初め、ライブをやるまでが描かれます。
ちょっとミュージカル映画ぽくなってるところもあり、もう、主人公たちが、グラスゴーの街のいろいろなところで、スチュアート・マードックが作る歌を歌い踊ってる場面を見てるだけでいい!という感じなんですが、そんな中で、登場人物たちの暗い部分もきちんと描かれてて、そのバランスが見ていて心地よかった。多分、登場人物たちの内面にもっと切り込んでいって、時には衝突したりしながら物語を進めていくことも、逆に音楽とファッションをもっと中心においてスタイリッシュでおしゃれな映画にするという方向もあると思うんだけど、どちらにも偏ってないところが、ベル・アンド・セバスチャン、はたまたイギリスのインディーポップのバンドのたたずまいに合ってる気がして、なんか懐かしい気分になってしまいました。
シンプルに「拒食症で入院してる一人の女の子が、音楽を作ることによって、自分の生きる方向を見つけ、より広い世界に旅立っていく」というストーリーとして考えちゃうと、わかりにくい部分やものたりない部分があるんだろうと思う。でもこれを見る人ってだいたいベル・アンド・セバスチャンとかインディーポップが好きな人だろうしね。個人的にはこういう隙間のある映画が好きってことを再確認しました。次なに見よう?

「珈琲が呼ぶ」-片岡義男-

-■帯にも書いてあるように「なぜ今まで片岡義男の書き下ろし珈琲エッセイ本がなかったのか?」という編集者からの問いかけに答えてつづられたエッセイ集。わたしに限らず、この本が出ることを知ったとき、「ついに片岡義男のコーヒーの本かー!」と思った人は少なくないのでは。そして、片岡義男だったら単にコーヒーについての思い出や喫茶店の紹介などでは終わらないはずと思ったと思う。
実際、この本ではコーヒー豆についてやコーヒーの淹れ方、コーヒーの歴史などについてではなく、コーヒーを飲むシーンが出てくる映画やコーヒーが出てくる歌、マグカップについて、そして片岡義男か若い頃に通った喫茶店(森茉莉も登場!)など、コーヒーをキーに、さまざまなカルチャーとを結びつけた考察が展開されていて期待を裏切りません。なので、珈琲についてのエッセイなんだけど、書かれている内容はわりと範囲が広く、読んでいると次から次に違う話が出てくるような感じなので、もうコーヒーについての文章はお腹いっぱい、ということはない。
加えてそれらに付随して随所に出てくる60年代から70年代のエピソードがおもしろい。子どもの頃の話は昔からエッセイの中でつづられている気がするけど、作家になる前や小説を書き始めたばかりの頃の話は、これまであんまり出てこなかった気がします。「コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。」という自伝的な小説も出してるし(まだ読んでいない)、最近になってこの時代のことがよく語られるようになったのはなんでだろう?特に理由もなくて「そういえば書いてなかったな」というくらいの、軽い気持ちなのだろうか?

「マンハッタンを歩く」-ピート・ハミル-

-■ピート・ハミルの本を読んでいたのは、高校生の終わりから大学生の初めの頃までで、「ニューヨーク・スケッチブック」や「ニューヨーク物語」「ボクサー」などを読んだ記憶がある。でも80年代らしい、わりと軽めでちょっとおしゃれな雰囲気の小説という印象が強くて、それ以降はぜんぜん読んでなかった。最近、読んだ常盤新平の本で、ニューヨークに行ったときにピート・ハミルに会った話が出てきて、ふと思い出して読んでみようと思った次第。
帯にはピート・ハミルの自伝的エッセイと記載されているけれど、実際はそれほど自伝的な感じはしない。元新聞記者らしく知識と経験をもとに、オランダ人がニューヨークに移住してきた19世紀から、その後、アイルランドやイタリア、アフリカ、アジアなどさまざまな国の人が移住してくることで、街が拡大・変化していく様子が、その時代のニューヨークを代表する人物を中心に書かれている。もちろんニューヨークで生まれ、育った自身の経験も書かれているので、思い入れやノスタルジーがあふれ出ることもあるけれど、それにおぼれることはない。それはこの本を書くきっかけとなったのが、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件だったということにも関係するのかもしれない。
そういう意味でひさしぶりにピート・ハミルの本を読んでちょっとイメージが変わったかな。大酒飲みだったピート・ハミルが37歳のときに断酒した顛末、そしてそれまでの友人たちについて、自身の半生などをつづった「ドリンキング・ライフ」もどこかで見つけたら読んでみたい。最近、わたし自身、自分でもちょっと飲みすぎだなと、思うことがまぁまぁあるけれど、アメリカ人の飲み方とかもうぜんぜん違うんだろうな。いや、「ピート・ハミルに比べれば‥‥」と、安心するために飲むわけではないですよ。

■ところで直接なにがあったというわけではないのですが、アメリカ同時多発テロ事件のあと、なんとなくアメリカ文学を中心とした翻訳文学に興味がなくなってしまい、日本の小説ばかり読むようになったんですよね。それまでも少しずつ食べもの関連の本や阿佐ヶ谷文士の本など、日本の作家の本を読むようになっていたし、特にテロ事件自体に衝撃を受けたということもないので、たまたま自分の中のタイミングと多発テロ事件とのタイミングが合っただけだと思うのですが、いまだに何でだったのかな?と思う。
そういうことがあって、持っていた海外文学の本を売ってみようと思い立ち、始めたのがカヌー犬ブックスなのですが、6月10日で15周年を迎えました。専業で古本屋をやっているというわけでもないですし、実際のお店があるわけでもないですし、自分がやめようと思わない限り続けられるという状況なので、15年続けたからといって、なんということもないんですが、それでもやめなかったのは、コツコツサイトを更新する作業も含めてわりと楽しくやってこれたからかな。わからん。
わざわざこんな個人のサイトを見にきていただいたり、さらに本を注文していただいたり、15年間ありがとうございました。ここ数年は、わりと無理せずにのんびりやってきた感じでしたが、今年、3days Bookstoreに参加するようになって、ただ出店するだけではなく、参加するほかの古本屋さんと一緒にイベントを作っていくという感じで、皆さんの話を聞いたりしていろいろ刺激になってます。この刺激が消えないうちに20周年に向けて動いていければと思っていますので、これからもよろしくお願いします。

「ロボッチイヌ 獅子文六短篇集 モダンボーイ篇」-獅子文六-

-■モダンガール篇と同時に刊行された、男性を主人公にした作品を収録した短篇集。ちゃんと覚えてないし、調べてもいないのだけれど、なんとなく読んだことがある作品が多い気がしました。
モダンガール篇では当世風の考えをした女中など、その当時の風潮を取り入れつつ、「おっそうきたか!」と思うようなキャラクターが、活躍(?)していたのに対し、モダンボーイ篇では、作者、もしくは作者をベースにした主人公の作品が多かったりするので、モダン「ボーイ」とという感じではないかもしれません。やっぱり女性のほうが世相に敏感だし、ストーリーにあったいい感じのキャラクターを作りやすいのだろうか。男性をデフォルメするとなんかイタイ感じになりそうだしね。あとこの本に限らず、長編でも獅子文六の小説では、全体的に女性のほうが強いというかキャラが立ってるような気がします。男性はわりと情けない場合が多いですよね。
なので、モダンボーイというテーマとしてはちょっと弱いのですが、どの作品も話としては獅子文六らしいし、当時の世相をユーモアたっぷりで皮肉ったもの(と言っていいのかな?)、私小説風なもの、パリを舞台にしたもの、幻想文学みたいなものなど、さまざまな種類の話が収録されているので、獅子文六をはじめて読む人でも楽しんで読めると思います。長編もストーリーが起伏に富んでいるので読みやすいけれど、新聞小説が多いのでまぁまぁ長いですから。
しかし、編者の千野帽子も書いているように、「ライスカレー」の終盤の展開はヒドい。そしてこの作品を一番最初に持ってくる千野帽子も性格が悪い(いい意味で言ってます)。

-■東京蚤の市に続いててのわ市も無事終了しました。当日は天気もよく、かなり暑い一日となりましたが、たくさんの人に来ていただき、大盛況のうちに終えることができました。
ここ数年、東京蚤の市では屋内に古本街が設置されているのですが、外でお店を出している人はこんなに暑い中に1日いるのだなと思ってしまいました(時には雨が降ることもありますし‥‥)。空調が効いた屋内のありがたさを実感しました。逆に屋外の心地よさもあるし、会場の様子がわかるという利点もあるんですけどね。
てのわ市は、駅からちょっと離れていることや、公園ということもあり近くに住んでいる家族連れの人が多く、お店の前で座り込んで絵本を見ている子どもやお母さん、お父さんがたくさんいました。子どもの本ってすぐには決められないし、子どもたちに気に入ったものを選んで欲しいので、次回こういうイベントに出店するときは、小さなイスを持って行こうと思います。
次のイベントは、3月に行った3days Bookstoreの2回目です。今のところ7月の終わりくらいに開催される予定なので(まだ未定)、エアコンの効いた部屋でのんびりしたり、喫茶店でコーヒーを飲みながら読めような、夏の読書に合いそうな本をセレクトするつもりです。詳細が決まったらまた告知しますので、よろしくお願いします!