「忍び草」-川崎長太郎-

◆手紙社さんのアカテガミー賞の授賞式に行ってきました~
川崎長太郎の本を読むのは2冊目かな。
小田原の魚屋の長男として生まれにもかかわらず、家も継がず文学を志して東京に出るものの、東京での生活に行き詰まり小田原に戻り、37歳の時から20年以上、実家の庭の片隅にある二畳ほどの物置小屋での一人住まい。台所もないため三度の食事は外食(ちらし寿司多し)トイレも公衆便所に行き、外の明るいうちは散策、夜は読書と執筆という生活を送った作家。作品の内容は、どれもその生活ぶりや月に数回の遊郭通いや時折その物置を訪ねてくるファンの女性との関係などをつづった私小説なのですが、その女性との金銭のやり取りなどまで書かれていてすごいです。
何年か前に芥川賞を取った西村賢太を思い出すような生活ぶりですが(よく知らないけど)、昔の作家はこういう人がたくさんいたんだろうな。文学を志した段階で不良扱いだし、この後、読んだ鈴木信太郎の本でも東大に入ってフランス文学を専攻したときに親が嘆いたというエピソードが出てくるしね(東大なのに‥‥)。

この本では、まず川崎長太郎の実家について何代にもわたって苦労しつつ、魚屋として独り立ちした経緯が描かれていて、そのあと、師でもある徳田秋声や田畑修一郎、宇野浩二といった友人のことが描かれ、後半以降は年代を追って小田原での生活を、そして60歳を超えたときに30歳年下の女性との結婚し、その二人での暮らしの様子までが描かれている。そのため、最初に一人暮らしをしている背景や過去が分かるので、初めて川崎長太郎をはじめて読む人でも分かりやすい。
特に起伏があるわけでもない日々をつづった文章で、かつ読点で区切られた一文が長い文章にもかかわらず読みにくさが感じられないというところにこの人の作家としての文章の力を感じます。

しかし実家の手伝いをするわけでもなく、ほかに職を探すわけでもなく、日々を暮らしていく状況を何十年も続けているというところ、そして家族も特に手を差し伸べるわけでもなくそのままにしておくところに、鬼気迫るものを感じますね。もしあるのなら父親や家業を継いだ弟の話も読んでみたい気持ちにさせられます。

まぁ何冊か読んでみたら同じエピソードが出てきたりして、もういいや、ってことになるのか、それでもおもしろく読めるのか、どちらになるか知るためにももっと読んでみたいかな。
-
週末は雨。2月以降雪が降ったりと週末の天気がよくなくて家にこもりがちです。それでも土曜の夕方には漣くんを連れて手紙社さんのアカテガミー賞の授賞式にちょっと行ってきました。会場となった柴崎になる手紙社の2nd STORYは、なかなかいく機会もなくて去年、開店する前のお披露目のとき以来になります。
おつまみを一品持っていくという形で、わたしはスプンフルさんのマフィンを持っていったのですが、皆さんの持ってきたおいしいものを食べながら、普通にビールをおかわりしてりして、しかも授賞式の途中で帰るという、何しにきたの?と言われそうな感じですみません。でも出席した人とちょっとだけ話したり、受賞された方のすてきな作品などちょっとでも見れてよかったです。


-
一つずつ手作り(?)された羊モチーフのトロフィー&スクリーンの前で記念写真(笑)

なお当日は手紙舎さんの新しいお店troisのお披露目もありました。こちらは2nd STORYの上の階にあるアパートメントの一室を改装したお店で、テキスタイルや布をテーマにした作品、商品が、屋根裏をテーマにしたというお店の中に並んでいていい雰囲気でした。

しかし、新しく地下になった調布駅はいまだに慣れず、帰りは柴崎から各駅停車に乗り、調布で一本橋本行きを見送った後、逆側のホームについた準特急に乗ったら、それも橋本行きだったという‥‥パルコ側のホームで橋本行きとか、橋本行きが二本続くなんて、5年以上調布に住んでいたわたし(かなり前のことですけど)には罠としか思えません~

「素湯のような話」-岩本素白-

◆スプンフルさんとシャトー2Fさん
素白先生の随筆は、いろんなものが沈殿した水槽の上のきれいなところをていねいにつづりつつ、時折深いところが見え隠れする感じが好き。「酒は飲まず煙草は吸わず、碁も打たず将棋も指さず、謡も謡わず茶も立てぬ、世間的に云えば無趣味極まる男である。暇さえ有れば独り杖を曳いて気侭に歩くだけの事である」とはいうものの、自分の好きなものに対するこだわりは徹底しているし、専門分野の探究に関してもストイックというか厳しい考え方を持っていることが、そこかしこでうかがえます。そしてものすごく記憶力がいい。その深く広い知識と過去の記憶を軽やかに行き来し、それが無理なく表現されているという随筆がおもしろくないわけがない。

ところでカヌー犬ブックスでは、家の近くにあるスプンフルと武蔵小金井の駅の近く(でもない?)にあるシャトー2Fというカフェに本を置かせてもらっています。

-スプンフルさんには、去年の2月くらいからイベントで使っている四角いボックスを3つ分ほど本を置いていて、ボックスごとにちょっとしたテーマを決めて本を持っていっています。気持ちとしては、毎週、1つのボックス分の本を毎週入れ替えていこうと思っているのですが、最近は2週間に一回ぐらいになってしまっている感じですね。
ちなみに今週のテーマは「紙」。包装紙や封筒などのかわいい紙を紹介した本から切手、ぽち袋、フリーペーパー、ダンボールで作る子どもが遊べる家具の作り方などを紹介した本を置いています。

たいてい、土曜日に漣くんを幼稚園に送った後、迎えに行くまでの間に、本と暁くんを台車に乗せてスプンフルさんに行き、ついでにコーヒーを飲んだりスコーンやマフィンを食べながら、お店の人と話したり、スプンフルある丸太ストアの中で暁くんを遊ばせたりしながら本を入れ替えています。
スコーンもマフィンもおいしいのですが、わたしが好きなのはクッキーですかね。ちょっとやわらかめのクッキーに大き目のチョコなどが入っていて、ときどき家で食べるように持ち帰ったりしています。もちろんカレーやキッシュ、クスクスなどごはんメニューもおすすめ。それから夏になるとソーダやチャイ、スムージーなどいろいろな種類のドリンクがあるのもうれしい。

丸太ストアは、スプンフル以外にはお惣菜屋、お肉屋、魚屋があります。古い建物の中に昔からあるような小さな商店が集まっていて、お店の人も親切で温かくて、いい雰囲気。そして魚もお肉もここで買ったものを食べたらスーパーで買ったものが食べられなくなるくらいおいしいのです。うちは駅から離れていて周りは住宅街(?)とちょっと離れて大きな公園があるようなところなんで、近くにこういうお店があるのはほんとにうれしいです。

シャトー2Fのほうは、去年の12月から60cmくらいの本棚に本を置かせていただいています。こちらも月一くらいで本の入れ替えを行えればと思ってはじめたのですが、なかなか行区ことができない状態になっています(申しわけありません。)。始めたばかりなので特にテーマは決めてませんが、これから続けるにしたがって置く本の傾向を決めていければと思っています。カフェの置くにはキッズルームもあるので、半分くらい絵本を置いてもいいかな、とかね。

シャトー2Fも武蔵小金井に昔からあるシャトー小金井というちょっと大き目の建物の2階にあるギャラリーも併設したカフェ。カフェのメニューは漣くんと同じ幼稚園に通うお母さんが担当していて、幼稚園やはけのおいしい朝市のメンバーが集まったりしています。店内も広くゆったりしているのでキッズルームで子どもを遊ばせながらごはんを食べたり、本を手にとってもらえればと思っています。

ちなみにシャトー小金井にはほかにスポーツクラブや居酒屋、バー、などもあり、初めて行ったときはなんか不思議な建物だなぁと思いました。今では遅く帰ったときなどときどきその中の居酒屋で一人で飲んで帰ったりしてますけどね。

 →tiny little hideout SPOONFUL
 →KOGANEI ART SPOT シャトー2F

「随筆 泥仏堂日録」-川喜田半泥子-

◆「無茶法師」と「笛吹銅次」
川喜田半泥子は、伊勢の豪商の家に生まれた実業家であり、「東の魯山人、西の半泥子」と称された作陶家。
実業家としては25歳で百五銀行の取締役に就任、「安全第一」をモットーに堅実に業績を伸ばす一方、地元の中小銀行を買収・合併し、百五銀行を三重県有数の金融機関に成長させるなどの業績を残しています。また書画、茶の湯、写真、俳句と、その多芸ぶりを発揮するとともに、内田魯庵・泉鏡花・鏑木清方といったメンバーの交流を通して書画骨董の心眼を深めるうちに、自宅に窯を開き、自ら本格的な作陶を行うようになり、「昭和の光悦」とも呼ばれたらしいです。

この本はやきものの雑誌に連載したエッセイをまとめたもので、自宅に窯を開くまでのいきさつや、骨董について、ほかの作家の作品などについて書かれており、中には歯に衣着せぬ物言いで嫌いなものは嫌いと言い放っています。といってもそれほど嫌味には感じません。その辺は本人の性格によるものが大きいのだろうけれど、カタカナを多用したリズムのある文章のスタイルのせいも大きい気がします。それぞれで挙げているものを文章からピックアップしてみるのもおもしろいんじゃないかと思います。でもそのピックアップされたものの違いがわたしには分からないですが‥‥。

読んでいてなんとなく大滝詠一の話し方や文章を思い出してしまったのは、前述した文章のスタイルのせいか、それとも「無茶法師(むちゃほうし)」「莫加野(耶)廬(ばかやろう)」「鳴穂堂(なるほどう)主人」「紺野浦二(こんのうらじ)」「其飯(きはん)」「反古大尽(ほごだいじん)」「泥仏堂(でいぶつどう)」といった号のネーミングが、どこか「多羅尾伴内」「ちぇるしぃ」「笛吹銅次」「イーハトヴ・田五三九」「厚家羅漢」「RINKY O’HEN(臨機応変)」といった大滝詠一の変名になんとなく似ているからですかねぇ。(強引)

「冬の花」-立原正秋-

◆2013年にイコンタで撮った子どもの写真
前々から立原正秋の料理や骨董についての随筆を読んでみようと思いつつも、なかなか手が出なかったのは、小説のほうが古都を舞台にした恋愛ものというイメージがあったのと、昔、実家の本棚に何冊か置いてあった記憶があったせい。それから作品数が多いのでどれが小説なのか随筆なのか把握できてないというのもある。タイトルに「随筆集 ●●●●」と付けてくれればいいのに(笑)。

ものすごい知識と確かな審美眼があって、それに対しての自信、美意識が高くて、行間からそういった意識があふれるような文章を読んでいると年末に読んだ魯山人と共通したものを感じる。でもそれならばその世界の中で語ればいいのに、なぜかほかの人についてあれこれとを攻撃してしまうところが、なんだかなぁと思ってしまうところ。人が言っていることとか、わざわ別の人に確認して裏をとったいきさつを書いたうえで、やっぱりわたしの直感は正しかったみたいなことを言われると、いや、それは書かなくてもという気になってしまいます。そういう意味ではなんとなく読書の後味があまりよくないかな。ただ、こういう文章も収録されてしまっているのは、この本が死後にまとめられたものだからなのか、ほかの随筆集にも普通に収録されているものなのか分かりません。

そんなわけで、これから立原正秋の本を続けて読むかどうかは保留。読んだとしても随筆のみになるんでしょうけど。

毎年、イコンタで撮った写真で子どもたちが写っているものをスキャンしなおして、A4サイズにプリントアウトしているのですが、ようやく去年分のプリントアウトが終了しました。これまで一年に20枚くらいしかなかったのに去年は40枚くらいありました。
基本的には、子どもたちなどを撮るのは35mmのカメラで、自分のの趣味用の写真をイコンタで撮るよう決めているのですが、特に趣味で何をとるというテーマもないですし、なんとなく子どもたちの写真が増えてしまってます。逆にMFのカメラでで子どもの写真を撮れるのは今のうちだけかな、とも、引き伸ばした写真のピントがぼけている様子を見ながら思ったりしてます。
ほんとは自分で引き伸ばし作業をするとか、カメラ屋さんに持っていって引き伸ばしたいんですけどね。40枚だとまぁまぁお金かかるしね。でも、単にプリントアウトするだけでも写真を大きくしてみると、印象が変わったりして楽しいし、自分の写真の欠点とかがよくわかっておもしろい。

去年撮った子どもたちの写真で気に入ってるのはこの辺かな。

-

で、ついでに最近はイコンタで撮った写真をインスタに上げているせいで、なんとなく放置気味になっていたFlickrに、今までにスキャンしてデジタル化したものをアップしてみました。スキャンした後、最終的に解像度72、サイズ640×640ピクセルまで落としてしまっているので、普段、iPhoneで見ている分にはあんまり気にならないんですけど、PCで見てみるとかなり画像が荒いが気になったりします。まぁこっちはどうでもいいや。

ちなみにイコンタは1930年代から1950年代にかけてツァイス・イコンが製造したスプリングカメラ。ツァイス・イコンは1920年代にドイツの4つのカメラメーカーが合併してできた会社で、このイコンタのシリーズはツァイス・イコンになっての初めてオリジナルのカメラだったらしいです。
-6×4.5cm判をスーパーセミイコンタ、6x6cm判をスーパーシックスそして6x9cm判をスーパーイコンタと呼んでいて、それぞれいくつもの機種があります。わたしが使っているイコンタは Super-Ikonta Six 3型で、1954年に登場したもの。6×6フィルムのカメラとしては小型で、蛇腹をしまった状態でなら持ち歩きもかなり楽。ちょうどモレスキンを携帯するためのポーターのモバイルバッグに入れるとぴったりだったので、どこかに出かけるときはたいてい肩からポーターのバッグをかけてます。

構造が単純ということもあるでしょうが、60年前のものを今でも普通に使えるというのがカメラのいいところだと思う。雑貨や家具とかだと普通にあるけれど、機械的なものだとそんなにないんじゃないかな。電気を使ってるものはだいたいもう今は使えないものになってる気がするし、ちょっと考えて思いつくのは楽器ぐらいかな。
わたし自身はまだ4年くらいしか使ってないんですけど、大切にして長く使っていきたいです。

「落穂拾い・犬の生活」-小山清-

◆今年は1963年のアメリカンポップスをテーマにしたい(のだが‥‥)
タイトルどおり一作目の「落穂拾ひ」と三作目の「犬の生活」をまとめたもの。編集しなおして作品集とするのではなく、そのまま全部を合わせた収録されているところがいい。最近のちくま文庫は充実していて、これが続くようにちゃんと新刊で買わねばと思うけれど、古本ばかり買ってしまって新刊はなかなか買えてないです。そんなわけであんまり売り上げに貢献できてませんが、この勢いでほかの本も文庫化してくれないだろうか。特に「幸福論」「日日の麺麭」はもともと筑摩書房から出ているわけだし‥‥(全集もですね)。ちなみに二作目の「小さな町」はみすず書房の大人の本棚から出てます。

基本的には生い立ちや日常生活、これまでの体験をつづった私小説なんですが、貧困で孤独な生活をつづりながらも、文章はどこか余裕やユーモアさえ感じられ、周辺の人たちの描写もどこかやさしく暖かい。その中でところどころでつぶやくように小さく小説家として独り立ちすることへの決意がつづられているところが心に響きます。
私小説だけに、もともと知っている小山清の実際の境遇や出来事と描かれているエピソードをつい重ね合わせてしまいますが、もちろんそれだけではなくて、登場人物や情景の描写など、はっとするところも多い。もう少しいい境遇で作品をある程度自由に書けたなら、もっと違うタイプの作品も残せたんじゃないかと思うと残念です。もっといろいろな作品を読んでみたかった。

年が明けてからは、なんとなく(いや、ほんとはなんとなくじゃないんだけど)、ビートルズ以前、1950年代後半から1960年代前半のロックンロールやアメリカンポップスばかり聴いてます。といっても、幅広すぎて改めて聴くには何から手を出していいのかわからないので、フィル・スペクター関連のものやエリー・グリニッチ&ジェフ・バリー、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングといったブリルビルディングのソングライターチームの楽曲を集めたもの、エルヴィス、バディ・ホリーといった基本的はロックンローラー、フォーシーズンズやディオン&ベルモンツ、アールズなどのホワイトドゥーワップ、あとはいわゆるガールポップスやティーンポップスなどをばらばらと聴いている感じ。
この辺のアメリカンポップスはジャンルの境があいまいなので、どこから手を入れてどこまでを聴き進めるかの按配が難しいのだけれど、そのジャンルの境があいまいないところがこの時代のポップスのおもしろさなんだと思います。

あと、言い方は変ですが、やっぱり歌が中心にあるってのがいい。ここ数年は、電子音楽とかエレクトロニカをはじめ、ポップスでもどちらかというとインストをよく聴いていて、どうしても歌(メロディ)よりもサウンドばかりに興味がいってしまいがちだったので、こういう歌のメロディとサウンドのバランスがぴったり寄り添った音楽を改めて聴くといまさらながらに楽しい。改めてキャロル・キングの曲のよさとか実感している次第です。

そんなわけで今年のテーマは1963年以前のアメリカンポップス、となるのだろうかな?(すぐに違う方面に興味がいってしまうのはいつものことか)

「春夏秋冬 料理王国」-北大路魯山人-

◆1月に行った展覧会。ルネ・ブリ&ヴォルフガング・ティルマンス
実を言うと北大路魯山人の本を読むのははじめて。気にはなっていたのですが、敷居が高いような気がしてなかなか手に取る機会がなく、そのままになってしまってました。実際、読んでみた後の感想としても敷居が高いことのは変わらなかったです。
といっても、料理全体に関わることから、鮎、河豚、豆腐、鴨、どじょうといった食材、山椒や日本芥子などの香辛料・調味料、ヨーロッパやアメリカ、デンマークを各地で食べた料理についてなど幅広いテーマについて、それぞれ短めの文章でつづられているので読みやすいし、それぞれの内容も真っ当な意見も偏見ぽい物言いも含めておもしろい。
でもやっぱり「味もわからず、普段適当なものばかり食べているお前なんか相手にしてないんよ」というところが基本になってると思う。「ああそのとおりだと思ったら、必ず実行していただきたい」と書いてあるけど、その後で括弧書きで(やれるもんならやってみろ)と書かれている気がしてしまうのはわたしがひねくれものだからでしょうか。
そういうわけで、これを読んで料理やたべものに向かう姿勢をちょっとだけでも取り入れようかな、なんていうのはちょっと違う気がしますね。そういう部分もあることは否定しないけれど、まぁ別の世界の話として読んで、その世界楽しむというのがいいのではないかと。
敷居は高いけど本としてはおもしろいので、平野雅章が編纂したものをもう少し読んでみようかなと思っている次第。「魯山人について」書かれた本はたくさんあるけど、魯山人が書いた本ってそれほど多くないんですよね。

さて、1月は、銀座のライカギャラリー東京でやっていたルネ・ブリの写真展とワコウ・ワークス・オブ・アートでのヴォルフガング・ティルマンス展を見てきました。

-ルネ・ブリの写真展は、1950年代末~60年代半ばにかけて撮影された代表作品が14点と、それほど点数も多くなかったのですが、モノクロで撮られたポートレートやスナップは、どれもプリントがきれいで、ついなんども見てしまうほどでした。
また写真自体も動きがあるというか、スナップでもどことなく切り取られたシーンの前後が浮かび上がってくるようだったり、ポートレートも被写体がそのとき話している動きが思い浮かぶような作品で、つい何度も行ったり来たりしてしまいました。ただし、ストーリーが浮かんでくるといっても、ドアノーのようにストーリーを想起させるために何かをしているわけではなくて、あくまでも自然な感じで想起されるところがいい。

しかし初めて行ったライカギャラリー東京は、場所が銀座ということもあり高級感にあふれたお店で、なんだか気後れしてしまいました。

-ヴォルフガング・ティルマンスのほうは、2004年にオペラシティーで行われた展覧会ぶり。10年前かと思うとなんだかびっくり。最近は世界各地を旅しながら撮影をおこなったり、印画紙を操作して抽象絵画のような作品を撮っているらしく、そういった作品を中心に展示されていました。世界各地といっても作品自体は、日常の延長というかミニマムな世界なんですけどね。

このところ、植田正治やラルティーグ、ゲイリー・ウィノグランド、そしてルネ・ブリとモノクロの銀塩写真や、ジョナス・メカスのようにフィルムのアナログ感が強く出ているものを見ることが多かったせいで、なんとなくプリントされたデジタルの写真を見るのは違和感がありました。いや、プリントもきれいだし、作風とも合ってるし、展示の仕方もデジタルの特色を活かしていてよいのだけれど、どこか写真展を見ているというよりも、アートを見えるような感じかな。単に慣れと先入観の問題なんでしょうけどね。

■ルネ・ブリ写真展「Rene Burri Photographs」
 ・ライカギャラリー東京
 ・東京都中央区銀座6-4-1ライカ銀座店2F
 ・2014年1月17日~4月13日

■ヴォルフガング・ティルマンス『Affinity』
 ・ワコウ・ワークス・オブ・アート
 ・東京都港区六本木6-6-9 ピラミデビル3F
 ・2014年1月18日~3月15日

「下駄の音」-三浦哲郎-

◆「1を知るには10を知れ」
もう1月も終わりですが、ここまでが去年読み終わった本。三浦哲郎の本は一昨年の年末くらいに随筆集を読んで、次は小説も読んでみようと思ったまま一年がたってしまいました。時のたつのは早い、というか自分が全然本を読めていないことを改めて実感してしまいます。
そんなわけで、今年は月に5冊以上を意識して本を読むことを目標としたいと思ってるのですが、どうなることやら。やっぱりある程度の量を読まないと、系統立てて本を読めなくなってしまうのが物足りない。実際はまぁいい加減な性格なので、系統立ててってほどちゃんとしてないのですが、決まったテーマに沿った本をある期間まとめて読むことで気がつくことってたくさんあるような気がします。

前にも書いたような記憶がありますが、「質」か「量」って言ったら「量」なのですよ(月5冊じゃ量とも言えないですが)。ひとつの作品は、それ単体で存在しているわけではなくて、その作者のそれまでの習作や失敗作、駄作の積み重ねによって生まれてくるものだし、またほかの作家の影響も欠かせないし、さらに影響を受けているのは小説の分野だけに限ったことではない。そういうひとつの作品を形成する作品との相関関係がわかることで、ほんとうのおもしろさがわかるようになるのだと思う。それは本に限ったことではなくてね。

量をこなしていき、点と点を結んで線にしていき、線と線を重ねることで面にたどり着くくらいじゃないとだめなんですよね。でもそれを頭ではわかってるんですが、なかなか実践できないのも事実なわけで‥‥。今年は「量」を意識していろいろなものにふれていきたいと思ってます。

そんなことを教えてくれたのが大滝詠一でした。
(もう一人同じことを教えてくれた人がいて、それは植草甚一です)

「1を知るには10を知れ」「1を知って10を知るじゃないんだよ。10を知るためには12まで知って2戻るくらいじゃないとダメなんだ」っていうようなことをどこかで言ってたなぁ~と。

「夕暮の緑の光―野呂邦暢随筆選」-野呂邦暢-

◆古本屋の思い出(と言うほどものでもない)
古本屋の思い出や故郷の諫早や長崎、自分の作品などについてつづった随筆集。野呂邦暢の本は講談社文芸文庫から出ている「草のつるぎ・一滴の夏」を読んだきりで、なかなか読む機会がない。この本のあとがきに書いてあるように、古本屋での値段が高いんですよね。かといって、今手に入る大人の本棚シリーズは3000円近くしますけど。どうにかならないもんですかね。もうこういう状態の作家の本を気軽に読むには電子書籍しかないんでしょうか(いや野呂邦暢の本が今電子書籍で読めるのかどうかは知らないが)。普通に紙の本で読みたいんだけどなぁ。こういっちゃなんですが、電子書籍って紙の本の代用品じゃないですか、と(少なくとも今の時点では)。
この本でも、野呂邦暢がものすごく読みたかった本を、人から借りてコピーをとって読むのだけれど、やっぱりコピーじゃ満足できないって話が収録されてます。これは編者の岡崎武志が、電子書籍を頭に浮かべて収録したんだろうなぁ、なんて勝手に思ってます。

そんな本について書かれたものだけでなく、古本屋との思い出がつづられているのも楽しい。本は読みたいけれどなかなか買えないもどかしさや、古本屋の主人の様子などがダイレクトに伝わってきます。身近なことについてつづられた文章でも、作者の一つ一つの文章に対する気持ちや妥協のなさが伝わってきて軽く読み飛ばせません。かといって、重いわけでも、それが強調されることもなく、あくまでも文体は静かで軽妙なところがすごい。やはり少々高くてもまずは大人の本棚シリーズ「愛についてのデッサン」と「白桃」を手に入れたくなります。

話が変わりますが、お正月は一泊で二宮へ帰省。気分としては子どもを親にあずけてわたしは近くに出かけたり、友だちと飲みに行ったりしたいところですが、まだまだ子どもが小さいこともあり、また親と離れて過ごすことにあまり慣れてないので、数時間だけ親に子どもたちの相手を任せて海に行ったり、駅前の商店街を歩いたりしただけでした。
できるなら平塚に出て見ていろいろ散歩してみたいと思ってるんですけどね。もう平塚なんて20年以上も歩いてないので、記憶にあるものはほとんど残ってないんだろうと思う。ときどき自分が平塚の町を歩いている夢をみるけれど、起きてから思い返すと、夢に出てきた町は自分の記憶とはまた違っていたりして不思議な気分になります。

高校が平塚にあったせいで、学校からの帰り道に毎日のように古本屋か貸しレコード屋に寄って帰ってました。特に古本屋は学校から駅までの間に5軒ぐらいあって、順番に寄りつつ帰ったものだけれど、これらの店ももうぜんぜん残ってないんでしょうね。特に特色のある古本屋というわけではなく、普通の街の古本屋だったしねぇ。むしろ古本屋というと横浜の古本屋でよく買っていたような気もします‥‥。

そういえば、それらのひとつに、別にお客に話しかけたりするわけではないけれど、古本屋にしては愛想のいい夫婦がやっていて、入りやすかったせいで、かなり頻繁に立ち寄って本を眺めたり、立ち読みしたりしていた古本屋がありました。

高校生の頃のわたしはアトピーが出たり、すぐに風邪をひいたりと、まぁいろいろ体が弱くて、午前中に病院に行ってから学校に行くということが多かったのですが、診察が終わると、すぐに学校に行くわけでもなく、本屋さんやレコード屋さんにちょっと寄って、昼休みが終わるくらいに学校に行くということをよくしていました。

ある日、例によって診察が終わってその古本屋に行ったら、いつもニコニコしている男の人がすごい剣幕で女の人を怒鳴りつけていて、あげく本を投げつけたりして、なんか怖くなって、入ってすぐにお店から出てしまったのを思い出します。それからなんとなく長い時間立ち読みをしたり、買う気もない本を取り出したりするのを躊躇するようになってしまったんですよねぇ~

あ、今年は平塚の七夕にでも行ってみましょうかね。

「ひまつぶし」-吉田健一-

◆ゲイリー・ウィノグランド展@タカイシイギャラリーとジョナス・メカス展@ときの忘れもの
婦人画報の連載をまとめたもの。婦人雑誌ということだけあって、「食」や「暮らし」といった身近なテーマを取り上げつつ、戦後の日本についてつづっている。吉田健一はこの手のエッセイが多いけれど、わりと「日本はだめだ」的な話になってそうでなっていないところがよい(なってる場合も歩けど)。この本ではわりとヨーロッパの国と比べるときでも、ヨーロッパが優れているということにはならなくて、ヨーロッパはこうで、日本はこうだけれど、そもそも歴史も違うし、日本はもともとこうだし、まだ戦争が終わって間もないのでこれからこうしていくことが大切なのだ、みたいな感じで話が進められていく。
また戦前戦中に比べて今(と言っても1950~1960年代だが)がよい、もしくは戦前戦中はひどかったと、単純に言うこともなく、戦前にはちゃんとした日本の文化があり、それが戦争をすることで忘れさられてしまったという認識で、きちんと戦前の日本の文化を評価ししているところも吉田健一のいいところだと思う。そして戦争中は、平時ではないのだからそれまでの文化が廃れたり、軽く扱われたりすることは仕方なくて、しかしそれはそれでもう戦争も終わったのだから、これからでも少しずつでもそれを取り戻していけばいいし、そういう文化を軽く扱うような状況を作る戦争をするべきではないのだ、と。ある意味すごく楽天的な人なのかもしれません。

ちなみにこの本の題字は井伏鱒二によるもの。吉田健一と井伏鱒二というと作品を読んでいるだけではなんとなく結びつきません。井伏鱒二の随筆で、銀座・新橋での飲み仲間だったことや一時期、同じ同人誌に参加していたいことが書いてあった記憶があるけれど、まさか飲み屋で飲みながら勢いで書いた(頼んだ)ものでもないだろうし。どういう経緯だったのかちょっと知りたいです。きっとおもしろいエピソードがあるはず‥‥

なんだか最近は展覧会の話しかしていないような気がしますが、年末は、タカイシイギャラリーでやっていたゲイリー・ウィノグランドと、ときの忘れものジョナス・メカスの展覧会を見てきました。

-ゲイリー・ウィノグランドは、もともとは広告の写真を撮っていたのですが、ロバート・フランクの影響を受けて1960年代前半からストリート・スナップを撮り始めた写真家。広角レンズを着けたカメラで、人物などを近い距離から撮影するという手法を用いています。そのため人物だけでなくその周りの風景や歩く人なども一緒に撮影されているのですが、広角レンズで撮っているため、被写体の比率が微妙に変わってしまったり、垂直に建っているはずの建物が斜めになってしまったりして、不安定な構図の写真になっています
ただ写真自体は実験的というほどのものではなく、基本的にはニューヨークの路上を写し取った作品という感じでした。
展覧会では「The Animals」(1969年)と「Women Are Beautiful」(1975年)の2つのシリーズからの写真が展示されており、基本的にはニューヨークの路上を写し取った作品と言えるもので、実験的な要素はちょっとしたスパイスという感じでした。
偶然にも、ちょうど何年かぶりにOM1にフィルムを入れて子どもを撮っていたので、すぐに真似をしたくなるわたしとしては、OM1に広角レンズを着けていろいろ撮ってみようと思ったりしてます。

-ジョナス・メカスのほうは「ジョナス・メカスとその時代展」というタイトルどおり、アンディ・ウォーホルやピーター・ビアード、ジョン・ケージといったアーティストの作品も展示されていて、ジョナス・メカスの作品は10点ほど。ただ日替わりでジョナス・メカス映像作品の上映も行われていました。わたしが行ったときも「Walden」という日常の風景を切り取った作品が上映されていましたが、時間がなくてちょこっと見て出てきてしまいました。映像もいいけれど、1時間以上見続けるのはちょっと辛いかも?それよりもやはりフィルムをつなぎ合わせてプリントした作品のほうが好きですね。ジョナス・メカスはきちんとまとめた形の展覧会をどこかでやって欲しいなぁ。

ほんとはもうひとつ、仕事納めの日にフレックスで早めに会社をあがって、ステーションギャラリーでやっていた「植田正治のつくりかた」も見ようと思っていたのだけれど、こちらは仕事が終わらず見れず。年が明けて開催期間が終わってしまいました。ザンネン。
大きな会場の展覧会はある程度時間をとらなくてはいけないので、なかなか行けないけれど、ちょっと時間が空いたときに寄れるギャラリーには、今年も都合がつく範囲で行きたいと思ってます。

「ちよう、はたり」-志村ふくみ-

◆やぼろじ ガーデンパーティー
明けましておめでとうございます。
今年もカヌー犬ブックスをよろしくお願いいたします。

志村ふくみの本を読むのは「一色一生」に続いて2冊目。仕事に対する探究心やひたむきさはどことなく辰巳芳子に似てる。二人とも1924年、大正13年生まれ。この時代に女性が仕事を持って生きていくためには、どれほどの決意と絶え間ない努力の積み重ねが必要だったんだろうと思う。ちなみに児童文学作家の神沢利子やいぬいとみこ、女優の淡島千景や高峰秀子、越路吹雪も同じ歳です。

志村ふくみは、母親が若い頃に柳宗悦の民芸運動に共鳴して織物を習っていた影響で、17歳の頃から母親から染色を習い、離婚後、30歳を過ぎてから本格的に染色家としての道を歩みます。1957年に、日本伝統工芸展に初出品で入選した後、数々の賞を受賞し、農村の手仕事だった紬織を「芸術の域に高めた」と評価さされることになるのですが、同時に柳宗悦からは「あなたはもう民芸作家ではない。」と言われ破門となります。このことはたびたび出てきて、これが自身の道を歩むきっかけになったと思われますが、わたしの知識では、その言葉がどういう意味を持って発せられたのか、いまいち理解できないままになっています。その後の柳宗悦との関わりについてもまったく書かれていないので破門になったことは事実だろう思うのですが、なんとなく腑に落ちない気分になってしまうのは、わたしがまだ柳宗悦について詳しく知らないからなんでしょうねぇ。

年末はやぼろじ ガーデンパーティーへ行ってきました。
やぼろじは、江戸時代からの旧家を改装してカフェや工房、ガーデン、オフィス、シェアハウスなどに利用しつつ、地元のつながりを大切にしたイベントを行ったりしているコミュニティ(?)。谷保駅というちょっと行きづらい所にあるのですが、自然や畑に囲まれたいい環境でガーデンパーティーでもレットエムインやアンティークエデュコ、古本泡山、ゆず虎嘯といった古道具屋さんや古本屋や、たいやき屋ゆい、やまもりカフェパンとお菓子mimosaなどの飲食店が出店するだけでなく、やぼろじ音楽隊によるライブや鼓狸、餅つきや豚の窯焼きといったイベントも開催されていました。そのせいか子ども連れの人も多く、庭はたくさんの人でにぎわっていました。

-
この日ははけのおいしい朝市にも参加しているヨシタ手工業デザイン室の個展も開かれていました。
個展では吉田守孝さんがデザインしたお椀やおたま、ピーラー、ナベシキといった生活用品だけでなく、図面やプロダクトができる前のモック、完成前のパーツなども展示されていました。
どれもシンプルな形のプロダクトなのですが、とりわけ曲線の美しさが目を引きました
会場では手書きの設計図をもとに職人が製品に仕上げていく映像もiPadで見れるようになっていて、例えば一本のステンレスが丁寧に折り曲げられピーラーなどになっていく過程がわかるようになっています。
最初は何を作っているのかわからなくて、ただ金属を折り曲げているだけの映像なのですが、ある工程を経たときに完成する製品が分かる瞬間があり、それを見ていた人たちが、大人も子どもも同じく「あっ」と小さな声を上げて息を飲む光景が印象的でした。なんかマジックというか、ものが生まれる瞬間そこにあって、しかもよくテレビで工場で製品ができるまでの映像を映している番組がありますが、それとはあきらかに違う美しさがあるのです。残念なことにうちの子どもたちは会場で大騒ぎしてしまったので、外で遊ばせておいて、親が交代で展示を見たのですが、こういう瞬間を子どもたちに見て欲しかったですね。