「べつの鍵」-獅子文六-

どうやら寝違えたらしくて、朝起きたら、首が痛くて回らない状態になってしまいました。そして、こういう日に限って出張で名古屋に行かなくてはいけなかったりするわけで、とりあえず、今読んでいる本をいったんやめて、この本を持って家を出る。
でも新幹線に乗るからといって、ちょっと気合いを入れて新しい本を持っていっても、たいていの場合、移動中は寝てしまうので、全部読み切ることはなかったりします。でも今回は首が痛いせいで、電車の中でぜんぜん眠れなくて、加えて本の内容も、長編のためのプロットのような作品や回想録風のエッセイなど、軽めのものが雑多に収録されている感じなので、さらさらと読めてしまって、めずらしく名古屋に着く前に読み切ってしまった。
ちなみに表題は谷崎潤一郎「鍵」に対しての返答、とのこと。でもわたしは「鍵」を読んでいないので行間まで読むことはできません。

名古屋では、特にこれといったことはなくて、味噌煮込みうどんを夜食べて帰ってきたくらいなんだけれど、名古屋駅の地下は9時過ぎるとほとんどの店がしまっていて、ちょっとびっくり。わたしたちがうどんを食べた店も、店内はもう閉店近くの雰囲気で、2人前のうどんもなく、一人半分のうどんを鍋二つにしてもらって食べるという‥‥。そういうわけなので、帰りに読む本を買っておかなくちゃ、と思いつつも、そんな余裕はなく、10時前の新幹線に乗り込み、もう一度「べつの鍵」を読み返してみたけれど、さすがに眠くなってきて、品川に着くころには、よけい首が痛くなってしまった。

けっきょく、家に着いたのは、12時過ぎ。
「なんだかんだいっても日帰りで名古屋に行くと遅くなってしまうなぁ」なんて思いながら、すぐにお風呂に入って寝ることにする。でも新幹線で寝たせいかなかなか眠れない。寝る姿勢をかえるにもかえられず、ぼんやりと考えごとしたり‥‥。やっと眠りはじめても寝返りをうつにも首が痛くて、そのたびになんだか目が覚めてしまい、どうも今日は眠いし、しかも首の痛みはぜんぜん治らない‥‥。なんだかパソコンに一日中むかっていると、首だけでなく肩全体がこってしまうような‥‥。

「善の研究」-山口瞳-

金曜の夜にちょっと外に出てみたら、微かに雪が降ってきていて、「やっぱり雪になるのかなぁ」、なんて思っていたら、土曜の朝起きて、カーテンを開けたら、雪が降り積もってました。時期が時期だけに寒いのは仕方がないとは思うけれど、前の週の土曜日は雨が降ってしまったし、今週は雪だし、どうもロバロバの古本市も天気に恵まれません。
東京でこんなに雪が降ったのは1998年1月15日以来で8年だそう。それで思い出したのだけれど、そのときわたしは会社の引越してました。30人くらいの小さな会社だったし、旧山手通の渋谷側から目黒側への数百メートルの距離だったこともあり、自分たちで引越の作業をしたのだけれど、まさか雪が降るとは思ってなかくてたいへんでした。社長のスキー用の手袋をして雪の積もった坂道を転びそうになりながらPCや机を抱えて運んでいたのを思い出します。
ついでに書くと引越前のオフィス(?)は、古い洋館をそのまま区切って仕事場にしていて、普通に台所やお風呂、女中部屋みたいな狭い部屋などがあったのだけれど、壁に立てかけていた板をはがしたら、煉瓦造りの暖炉が出てきたときは、思わずみんな声を上げてしまいましたね。
そういうわけで、古本市も今日でおしまい。会期中は、皆様、わざわざ足をのばして来てくれてありがとうざいました。わたしもほとんど毎週、週末に顔を出して、店番したり、普通のお客さんみたいにただコーヒーを飲んで、ほかの古本屋さんの人としたり、と楽しい2週間でした。

山口瞳のサラリーマン小説(?)を読むのは久しぶり。自身を題材にした小説やエッセイと違い、どこかの酒場で聞いたような話を組み合わせたり、補ったりして、まとめられたこの手の作品は、何となく気楽な気持ちで読めるような気がします。が、この本には、登場人物の

「世の中に悪い女なんていやしない、女ってのは、全部、悪い奴なんだよ」
「存在自体が悪なんだよ」
「彼女らには、惻憶の情とか、思いやり、感受性が徹底してかけている。人間の弱さや、愚かしさや、悲しさや、哀れさを知らない」
「女にもののあわれは不必要なんです」

という言葉に代表されるように、山口瞳のペシミストぶりがかなり強調されいて、こちらの気楽さを吹き飛ばすような芯の強い、主張の激しい3つの連作が収録されている。
基本的にはどれも女性に振り回され、都合よく使われてしまう男たちの話で、まぁ使われてしまう男も男、という雰囲気も漂っているものの、それにもまして女性の計算高さや冷たさ、打算‥‥みたいなものが強調されている。たとえ酒場に入り浸りだったとしても、結婚してから奥さん一筋だった山口瞳が、ストーリーは別として、女性に対してこういう認識をぬぐい去れなくなってしまったのは、どういうきっかけがあったんだろうか。そしてそういうことを小説の中で言ってしまえば、さらなる反論があるとわかっていても、あえて作品にして、はっきりと言わざるえなかった心境というのはどういうものだったんだろうか。

「雲の上からの手紙」-沼田元氣-

年が明けてからなぜかヴィジュアル本をよく買っている。これはエールフランス、KLMオランダ航空、スカンジナビア航空、スイス航空、ルフトハンザ・ドイツ航空‥‥など、エアラインのアメニティキット、100枚を越える封筒、スタンプ、切手を集めたもの。特に沼田元氣のファンをいうわけではないけれど、この人の引き出しの中、そしてそこから取り出すときのタイミング、その出したもの並べ方はすごいと思う。いったいこの人の家(部屋)はどうなっているのか?

第3週水曜日は「カンフーナイト」の日。といことで会社帰りにエッジエンドに行く。このイベントは、ソフトロックナイトからクレア・ハミル、そしてカンフーナイトと名前を変えつつ、そして名前が変わるたびにDJが増えつつ、長く続いているイベントなのだが、いつも同じ人がゆる~く集まってお酒を飲みながらお菓子を食べたり、しゃべったり、ときどき踊ってみたり‥‥しているので、イベントという感じではない。現在のDJは5人。でも全員そろうのは昨日がはじめてだったみたい。それぞれDropやQue、宙などでオールナイトのイベントやっている人たちなので、エッジエンドはどちらかというと気楽な仲間内の集いなのかな、よくわからない。と思ってたら、隣で「もう少しきちんとやらなくちゃダメだ」みたいな話し合いをしてた。

こうしたアマチュアながらも今でも精力的にレコードを買い、DJを続けている彼らと違い、わたしといえば、頻繁にレコードやCDを買うということは、もうない。ここ何年かは、中古レコード屋に行ってひととおり各コーナーを回ってみて、その日に出ているCDの中で同じようなジャンルのものを、どちらか失敗してもいいように2枚ずつ買う、というやり方でレコードを買っていたのだけれど、これだと毎回いろんなジャンルの棚を見渡さなくてはいけないし、いろいろみてると気分的にどれを買おうか迷ってしまうし、意外と同じジャンルで欲しいものがなかったりして、結局なにも買わずにお店から出てきてしまうことになったりしてしまう。なので、最近は2カ月くらいの期間で買うCDのジャンルを決めて、それを中古・新品を含めて重点的に買うようにしている。
ちなみに12月中旬から2月の中旬までは、ガールグループ/コーラスグループ強化月間。これは12月のカンフーナイトでトヨシマ君がピクシーズ・スリーの「Cold Cold Winter」をかけたせいで、頭の中で「One Fine Day」とか「Da Doo Ron Ron」がリピートするようになってしまったのがきっかけだったりする。さすがに「Cold Cold Winter」は手に入らないと思っていたら、割と簡単にベスト盤のCDを見つけてしまい、うれしくなって年末は毎日のように聴いてました。でもそうやって改めてテーマを決めてみると、聴いた気になっているだけで、実際はちゃんと聴いていないグループやミュージシャンがたくさんいることに気がつきます。

なんにしても世界は広い。

「東京震災記」-田山花袋-

ある意味タイムリーな本かも、なんて思ってみたりして‥‥。
関東大震災の様子を書いたものとしては、井伏鱒二の「荻窪風土記」と永井龍男の「東京の横町」ぐらいしか読んだことはなくて、それも全体の中の一部分に描かれているに過ぎない。大正時代の東京ということも含めて震災関係の本をきちんと読んでみようかな、とちょっと思うけれど、実際にそういう本をリストアップしたり探したりする気はあまりなかったりもする。
おぼろげな記憶だけれど、「荻窪風土記」では、震災の後に被災者たち、また被害に遭わなかった人が一緒になって助け合うという光景、永井龍男の本でも神田近辺で自身にあった著者の家族や近所の人たちが力を合わせて乗り切るという光景が描かれていたような気がするのだが、田山花袋の描く震災はどちらかというと、被災者の証言をうまく物語のエピソード風にして描いているものの、震災の悲惨さ壊滅のひどさが強調されているようだ。これは震災にあったときの年齢によるものなのだろうか。それまで親しんできた東京や自分が積み上げてきたものに対する愛着の違いが、震災に対する気持ちに出ているのかもしれない。まぁ適当ですが‥‥。ちなみに井伏鱒二は25歳(1898年生まれ)、永井龍男は19歳(1904年生まれ)、田山花袋51歳(1872年生まれ)の時に震災にあっているので、親子ぐらいの年の差はあるわけだ(昔は数え年なのでプラス1歳になるのかな)。震災に対する気構えが違ってくるのは当然ですね。

「Lumi`ere」-東野翠れん-

写真家としてのキャリアをスタートさせた16歳からの6年間に撮りためた作品をまとめた写真集。東野翠れんのロシアの旅をホンマタカシが撮った「アムール 翠れん」(宮崎あおいの中国や蒼井優の米国・メキシコなど、最近そういう企画が多いような気が‥‥)と同じくらいの時期に発売されたこともあって、そのときは勢いで両方買ってしまおうと思っていたのだけれど、なんとなく買わないままでいたら一年が経ってました。いや、実はこれを買おうと思って前に書いた「アムール 翠れん」のときの雑記を読み返してみたら、日付が2005年1月30日になっていて、はじめて一年前って気がついたのでした。一年前かぁ~。
サイズも小さいし、印刷も写真集としては特別きれいというわけではなく、普通の印刷なので、基本的には写真の中身よりも全体的な雰囲気を味わうといった作りで、冷静に言ってしまうと、その辺が東野翠れんの立ち位置の微妙さだったり、購買層に対するマーケティングだったり‥‥を露出していると思うし、文章とか入れないで欲しいなぁとも、思う(まったく読んでませんが)。わたしももう30代後半なんで、10代の女の子のつぶやきみたいな文章を読みたくないわけですよ、と。

ロバロバカフェの古本市も気がつけば後半、ということで、土曜日に雨の中、夜から本の入れ替え作業を行いました。実際にちゃんと売れているのかあんまり売れてないのかわからないけれど、少しは減っているようでちょっと安心。
去年、東麻布で古本屋やったときは、1店舗だけだったし、期間が短かったので、とりあえず持っていける本を全部出す、という感じでもよかったのだけれど、今回みたいにいろいろなお店と一緒に、ある程度長い期間ということになるといろいろ難しいなぁ、と、入れ替えをしながら改めて思いました。まず古本市に出すものとサイトに残すもの選択をもっときちんとするべきだったし、それからほかの店との兼ね合いももう少し考慮するべきでしたね。特にうちはぜんぜんマニアックな本屋ではないので、基本的には普通の本好きの人に買ってもらえればいいのですが、海外文学自体が狭いサークルだしね~。どう考えても「ヴィトゲンシュタインの箒」なんて本を探している人がロバロバカフェに来るとは思えないし、かといって売れそうなものばかり並べるわけにもいかないし‥‥。
そういう意味で、今回いろいろな本屋さんに混ざってみることで、これからカヌー犬ブックスをどういう本屋にしていくか、ということを考えさせられました。そもそもそういう風にうろうろしていること自体間違っているのかもしれません。
来年また開かれるかどうかも、そしてもし開かれたとしても誘われるかどうかもわかりませんが、次にやるときはもっと考えて参加したい。いや、今回なにも考えていなかった、というわけではないし、あと一週間古本市はつづくわけですけど‥‥。

「感想A」-吉田健一-

「感想A」そして「感想B」は、「新聞一束」の一部に「乞食王子」と「甘酸っぱい味」を加えて再編集した本なので、中には読んだことのある文章が出てくるし、ひとつひとつの文章は短いのだけれど、ささっとは読めるものでもなく、ひとつひとつの言葉を追うようにして読んでいくので、なかなか読み終えることができなかったりします。もちろんそれは独特の文体のせいもあるけれど、旧漢字・旧仮名遣いで書かれている、という理由も大きい。少しずつ旧漢字にも慣れてきてるといっても、やはり実際に読めない漢字も多く、飛ばしている言葉もかなりあります。ただ内容的には、政治のことにしても、東京の街についてにしても、文学についてにしても、食べ物に関することにしても、言っていることはまっとうな正論で、正論過ぎて話の話題にもならないような気がするほどで、今ではもうこういう正論を堂々と発言する作家なんていないだろう。

というわけで、いつまでも、読めない旧漢字を推理しながら読んでいくのは面倒なので、去年の終わりくらいから旧漢字が載っている古い辞書を探しているのだけれど、意外と「これは」というものに巡り会えないまま年を越してしまいました。古本屋さんに辞書を持ち込む人ってあまりいないのか、それとも古本屋が引き取らないのか、引き取ったとしても売れないので処分されてしまうのか、理由はたくさんあるような気がする。
そういえば、子供の頃、「辞書と地図は年々変わっていったり、新しいものが増えるのでので、新しいものを買うべきだ」、なんて言ったのは誰だったのか。言葉の使い方も、書き方も、読み方も本来の意味からどんどん離れていって、今出ている辞書なんてもう信用できないような気さえしてしまうのは、そんなことを言うほど言葉を知っているわけではないわたしの思いこみですね。いつかは昔の辞書がない=昔の本を判読できない、というときがくるわけで、そういうことを考えるとなんだか怖い気がします。すでに明治の頃に書かれた文語体の文章とか読めないもんね。

「構成的ポスターの研究―バウハウスからスイス派の巨匠へ」
-多摩美術大学ポスター共同研究会-

なぜかデザイン関係の本が続いてますね。「Magazine Covers」はリブロの洋書バザールで、これは代官山のCollexの片隅でやっていたユトレヒトの人たちが出品しているフリーマーケットで購入。多分、ロバロバカフェでもなんか買いそうだし、年の初めはこの手の本が多くなるような予感‥‥。フリマの方は、出店(?)している人が人だけにスペースは狭いけれどおしゃれなものが並んでいて、いろいろ欲しくなってしまいましたが、ぐっとこらえてこのほかにはフレンチキーホルダーやカフェオレボウルだけを買って帰りました。
ずっと前から欲しかった本ではあるけれど、内容的には多摩美術大学ポスター共同研究会によるものだけに、内容的にはただ眺めて楽しむ、というよりも、デザインの研究に主眼をおいていて、目次だけ見ても「構成的芸術・グラフィックデザインの年代順動向」「構成的ポスターの属性と属性図」「スイス派の造形方法」「構成的ポスターにおけるサンセリフ体」「ポスターの記号論的考察」「印刷と用紙から見る近代ポスター」‥‥といった難しそうなタイトルが並んでます。当然、わたしなどには理解不能な、あるいは実践不能な面も多いわけで、こんな本をわたしが持っていても宝の持ち腐れなのでは、と思ってみたり、たまにはじっくり読んで、わかるところだけ、できるところだけ、取り入れられれば、と軽く考えてみたり‥‥しながら、まずはポスターの写真を眺めたり、気のひく部分を流し読みしたりしてます。

ところでわたしにとって年の初めといえば、山下達郎、大滝詠一の新春放談である。はじめて聴いたのは1985年なので、もう20年もこの二人の対談を聴いて年の初めを過ごしてきたことになわけで、気分的には、もう大滝詠一のニューアルバムは期待していないかわりに、この新春放談が年に一度のニューアルバムみたいな感じになってます。にもかかわらず、今年はなんと録音しそこねてしまいました。あぁ~。日曜日、ロバロバカフェに行く前にちゃんとタイマーをセットして、帰ってきてからスイッチを入れたらFM東京が流れて来たのにもかかわらず、なぜか録音されていない。タイマーの設定もちゃんと録音するようになってたのになぁ、バナナレコードの年賀状のお年玉クジ(?)に当選して1000円の商品券をもらったのが吹っ飛ぶくらいがっかり。しかも今年の新春放談は一回だけらしい‥‥。

「Magazine Covers」-David Crowley-

グラフィックデザインの代表的な媒体としては、ポスターと広告があげられるのだろうけれど、個人的には雑誌(本)の表紙もわりと好きで、一時期そんな表紙を集めた本をよく買ってました。広告もそうだけれど、雑誌の表紙はある期間同じデザイナーがてがけていることが多くので、とおしてみるとその人のデザインの傾向や変遷が分かったりするし、ときどき実験的な手法を用いていたりするときがあって、興味深い。ただ雑誌の表紙というのはアメリカが中心でヨーロッパのものはあまりまとめられたものがないような気がします。そもそも雑誌というメディアがアメリカ的なのかもしれません。偏見ですが、アメリカという国は、分量の多い長編小説や何年もかけて連載される新聞小説よりも、雑誌に掲載される短編小説やコラムの方が重要視されているように思います。
この本には、1920年代から2000年までの表紙が掲載されていて、ひとつひとつの雑誌については、それほど多くの表紙が掲載されているわけではないので、そのデザイナーの変遷という意味では物足りない。およそ100年という長い期間でのデザイン全体の流れ、というか印刷技術の進歩の様子がわかるという感じではあります。まぁ月並みですが、1950年代から1960年代にかけて作られたものが好きだ。それは好みの問題もあるけれど、ある意味、印刷技術とデザイナーのアイデアがちょうどいい具合のバランスを保っているような気がします。それより前の時代は、アイデアよりも技術の方が追いついていない気がするし、それ以降は技術の方が進みすぎているような‥‥。ただの個人的な印象に過ぎませんけどね。

さて、週末からロバロバカフェの新春古本市が始まりました。わたしは基本的には社交的な性格ではないので、こういう機会がないとほかの古本屋さんの人と話したりすることもないし、来てくれた人と話したりすることもないので、特に店番の当番でなくても、行けるときはできるだけ顔を出して、用もないのに店の中をうろうろしたり、人が沢山はいってくると居場所がなくなってときおり外に出てみたり、コーヒーやケーキを食べたり、ほかの本屋さんの本を眺めたりしてるつもり。ロバロバカフェ自体もかなり居心地のいいカフェですしね。

「年年歳歳」-安藤鶴夫-

今年中にもう一冊くらい読んで、大晦日あたりにここの更新ができるといいのだけれど、どうなるのだろうか。
「あまカラ」に「食べもののでてくる話」という題名で連載されていたものをまとめた「雪まろげ」の続編。当然のことながらこちらのほうも、食べもののことよりも身辺雑記が中心になっているが、「雪まろげ」の一番最初に取り上げられた浅草の駒形どぜうが、「年年歳歳」の最後にふたたび取り上げられてたりする。
江戸っ子の言葉なんて、わたしにはぜんぜんわからないし、ときどき意味のわからない言葉も出てくるけれど、安藤鶴夫や秋山安三郎の文章の、ていねいできれいな言葉の使いようと、「ン」など話し言葉を表した勢いのあるカタカナの使いようのバランス、その適度なリズム感が好きだ。江戸っ子という狭い範囲を超えて、日本語の一つのお手本といえるのではないかと思う。特に、小説のように肩に力の入ったものではなく、内容的に気楽なもの・ことを書いているだけに、文章の流れやリズムが強調されるのかもしれない。こういう本を、もっと前、10代の頃に少しでも読んでいたら、わたしの書く文章も少しは違ったものになっただろうに、なんて後悔も少しだけしてしまいますね。別に文章を書く仕事をしているわけではないので、独自のスタイルを駆使したり、難解なロジックを組み合わせたりする必要はぜんぜんなく、ただ正しくてきれいな日本語を使って、流れがスムーズで読みやすい文章が書けたらいいな、と思うのだけれど、まず正しい日本語を使うということから難しいわけで・・・・。

「青春忘れもの」-池波正太郎-

20代の後半頃は、毎年12月になると池波正太郎の随筆ばかり読んでいたものだけれど、最近ではもうほとんど読むことはなくなってしまってます。この雑記でもちゃんとした池波正太郎の本が取り上げられたのははじめてになるのではないかな。時代物まで手がのばさなかったせいもあるし、随筆ばかりだと、読み重ねていくうちにタイトルは違っても内容は似たようなエピソードが書かれているなんてことが多くなってきたりして、気がついたらまったく読まなくなってしまった。でも池波正太郎を読み、檀一雄や吉田健一、獅子文六、小島政二郎・・・・といった人の料理に関する随筆をたどっていったことによって、今の私の読書傾向が決まったという意味では、池波正太郎の存在は大きいといえるかもしれません。よくわかりませんが・・・・。

さて、クリスマスだからといってそれほど気合いを入れているわけではないのだけれど、小さなツリーもあるし、クリスマス用の電飾も2つあるので、毎年なんとなく部屋の飾り付けをしてます。近年は23日や24日になってやっと用意して、大掃除の時はそのままにしておくことが多くなってしまった。今年も少し大きめのツリーを買おうと思っていたのに、気がついたら23日になっていて、慌てて買いに行ったらちょうど良い大きさのものは売れ切れになっているという始末。「210cmのものならあるんですけど・・・・」と言われてもね。で、今年は、24日は、荻窪にあるル・ジャルダン・ゴロワのブッシュ・ド・ノエルを買って、毎年恒例になっているチーズフォンデュ(年に一回しかフォンデュ鍋を使う機会がない・・・・)して、25日は、友達が来て大きなチキンを3人で食べました。だいたいこのくらいからお正月にかけて、食べ過ぎの日が続くようになりますね。
来年こそは、大きめのツリーを買って、もう少し早めに部屋の飾り付けをしたり、ビーチボーイズやフォーシーズンズ、モータウン、フィル・スペクターなどのクリスマスアルバムをそろえたりして、クリスマスを迎えられるようにしようと思う。なんたって、うちにあるクリスマスアルバムと言えば、ビンス・ガラルディの「スヌーピーのクリスマス」と、Hair stylisticsやSxOxB、Seagull Scrueaming Kiss Her Kiss Herなどが参加している「the Christmas Album」、そしてコレクターズやワウワウヒッピーズ、ヤングオデオン(小西康陽)、オリジナル・ラヴなどの曲が収録されている「Mint Sound X’mas Album」の3枚だけですから・・・・。

クリスマスも終わればもう気分は年末。プリンターを修理に出していたせいで年賀状もぜんぜん作ってないし、スキャナーも使えず(複合機なんで)先週まったく本の更新ができなかったので、年末年始のあいだに少し更新しておきたいし、ロバロバカフェの古本市の準備もまったくしてないし、行きたいところもいくつかあるし、飲みにも行きたいし、大掃除もしなくちゃいけないし・・・・なんて考えるだけで歳が明けてしまいます。できるだけ来年に持ち越さないようにして、年明けは少しのんびりしたいと思っているのだけれど、どうなることやら。なんかバタバタしているうちにお休みも終わってしまいそう。