「むにゃむにゃ童子」-山口瞳-

「私の女房は機嫌のわるいときに歌を歌う。もっと機嫌がわるいときは、くちのなかで『むにゃむにゃ童子』と唱える。これが、いちばん辛い。『パパが悪いんだからね』女房が言う。私のすすめで、女房は二度の堕胎をし、生まれることのなかった子供に、私の知らない戒名をつけていた」

“むにゃむにゃ童子”というのは、そういうことだ。よく事情も知らないで、と言われそうなのを承知で言うと、その辺に山口瞳の怖さというか冷静さがあらわれているようで、読んでいてすこし怖くなってしまう。山口瞳の作品を、「私小説」というには違和感があるのも、書くことで自分を追いつめていったり、自分自身を切り刻んでいくだけではなく、どんな状況を描いていても、どこか第三者的な冷静な視線が見え隠れするからなじゃないだろうか、と思う。どんな状況に追いつめられたとしても、それに溺れることはなく、判断は常に冷静で、しかもある意味容赦ない。
ついでに貧乏ということに関して言えば、ここに収録されている「貧乏遺伝説」では、

「私小説を書く人は貧乏であるという。私小説とは貧乏を書くことだった。僕はそう思って愛読してきたのであるが、たとえば何かの折りに書物の口絵かなんかで、その小説家の生家が写真で紹介されたとする。僕は吃驚仰天する。裏切られたように思う、なんと、その小説家の生家は、城のように大きくて、今も現存しているのである。
たとえば、いよいよいけなくなって都落ちするという。そういう小説がある。僕は都落ちということが羨ましくてならなかった。なぜなら僕には落ちていく先きがないからである。どこに行くことも逃げることもできない。」

といったことを書いている。またこうも書いている。

「第一、貧乏生活を書けるということは、それ自体、金持ちなのである。本当の貧乏人は、恥ずかしくって書けない」

本人にとっては、他の私小説作家よりも深刻な状況下で、自分を切り刻みながら創作活動をしている気持ちなのだろうし、作品を読み続けていると、実際にそうであることもわかる。そういう気持ちで読んではいるのだけれど、深刻であれば深刻であるほど、滑稽さが表面にでてしまうという面もあったりして‥‥困る‥‥。

「まあだかい」-内田百けん-

この本を題材にした黒澤明の「まあだだよ」がなかったら、もっと早く内田百けんの本を読んでいたように思う。そういう意味では、遠回りしてしまった気もするけれど、本質的に天の邪鬼なので、そんなことが多すぎて最近では、どうも思わない。まぁ今、この本を読んだり、この音楽を聴いたりするのは、必然的な巡り合わせだった、と、よいように考えてしまうのは、元来の楽天的な性格のためか。それにしても常盤新平から山口瞳、高橋義孝と師匠をさかのぼって、ようやく内田百けんにたどりついたというのは、遠回り過ぎるというものか。高橋義孝の本をそれほど読んでいないので、摩阿陀会に出席していたのかどうかはわからない。この本を読んでいると教え子だけが出席していたようではないようだが、いつか高橋義孝による摩阿陀会の様子を読んでみたいものだ。

連休中は、予定通り、印刷博物館でやっている「キンダーブックの80年」展を見に行ってきました。博物館ではなくギャラリーでの展示だったので、昭和2年からのキンダーブックの展示が主なものだったのだが、さすがに80年分ともなると圧巻。個人的には戦前から戦後の表紙がやはり気になりました。武井武雄が描いた日の丸の国旗の周りを子どもたちが囲んでいる絵がいろいろな意味で印象的だったかな。他にもいいなぁと思う表紙があって、こういうときにきちんと作者をメモして、後で調べるようなマメさがあれば、いろいろなものをもっと深く知るようになるんだろうな、と思うけれど、そういう性格でもないのでしょうがない。って済ませられるものでもないが‥‥。
そんなことを書きながらも、実は私はキンダーブックを子供の頃読んでいたわけではなくて、20歳過ぎに何かのきっかけで知った後追いなのです。親もわりと本好きだったし、子供の頃も絵本とかよく買ってもらっていたのに、なんでかなーとずっと思っていたのですが、キンダーブックは、幼稚園などを通して販売されていたということを、今回はじめて知って納得がいきました。わたしは幼稚園に行ってないんですよね。これまで幼稚園に行かなかったことで、実際に困ったことはあまりなかったけれど、ときどきそういうことがあります。みんな普通に知っている童謡とか童話を知らなかったりとかね。

「Zurich-Milano」-Hans Hoger-

まだ夏の暖かさが少しの残る秋の始まりに、涼しげな音色や弾むようなリズムが合うような気がして、久しぶりにヴィブラフォンのCDを聴いているのだけれど、今年の9月は真夏のように暑い日が続いたと思ったら、急に寒くなったりして秋の日らしいなかなかピッタリな気分になれず、期待はずれでした。おまけに暑いなーと思ってたら今週いきなり寒くなってしまうし。いや、一度、しばらくはこれを聴いてみようと思ったら、意外と気候なんて関係ないものなんですけどね。
というわけで、「秋の始まりとヴィブラフォン」と題して、9月によく聴いたヴィブラフォンのCD8枚、前編。前回は、面倒になってしまって後編はなかったことにしてしまいましたが、今回はどうなるのか?とりあえず前回より1枚増やして4枚。

■「Jazz’n’Samba」-Milt Jackson-
前半にはストレートなジャズ、後半にはボサノヴァ・サンバのリズムの曲が収録されていて、ヴォーカルやスキャットが入ったものなどもあり聴きやすい。A面B面を意識したこういう構成は、アナログ盤だとちょっと得した気分になったものなのだが、CDだとそういう感じはなくなってしまう。音楽的には、あくまでもサイドワークスというかミルト・ジャクソン本来の音楽性が全面に出ているとは思えなくて、その辺のリラックス感もこのアルバムのいいところかもしれません。

■「Mucho Mucho」-Shirley Scott-
イージーリスニングで使われるオルガンの音とジャズファンク系のオルガンの音の中間といった感じの音色とヴィブラフォンの音、そして弾むような軽いリズム感がマッチしていて心地よいアルバム。というか、なんでこのアルバムを今まで買ってなかったのか不思議なんですけどね。

■「New Time Element」-Emil Richards-
「Girl Talk」や「Call Me」「Sunny」といったヒット曲を変拍子で演奏するという変わったアルバム。もともと変拍子で演奏されていた「TakeFive」だけ4分の4拍子で演奏されているというところもひねくれ具合に念が入ってていいです。とはいえ、ヘッドフォンで聴いていると、リズムにのれそうでのりきれずに、知っている曲ばかりなだけになんだかが不思議な気分になってしまいます。

■「This Is Walt Dickerson!」-Walt Dickerson-
ウォルター・ディッカーソンは、ヴィブラフォンのコルトレーンと呼ばれているらしいのですが、コルトレーンを聴き込んでいるわけでもない私にはよくわからないです。全体的には、ラテンぽい曲があったり、ミディアムテンポでころがるようなヴィブラフォンが楽しめる曲があったりして聴きやすいと思います。

「Swissair Posters」-Georg Gerster-

渋谷の青山ブックセンターでの閉店セールで購入。終盤の3連休中に行ったら、それまで全品30%オフだったのが、50%オフになっていたのでかなり得した気分でした。洋書は、お店のセールに行っても、結局はamazonで買った方が安い場合もあったりするので困ります。いや、それなら最初から普通にamazonで買えばいいじゃん、という気もしますが、「洋書バーゲン」なんて文字をどこかで見たりするとつい出かけていってしまいます。
さてこの本は、1975年から1995年までに作られたスイスエアのポスターを集めたもの。各国の歴史的建造物や遺跡を空から撮った写真が、まるでスイスのグラフィックデザインをそのまま写真化したような構成になっているのがすごい。写真を撮ったゲオルグ・ゲルスターという人は、約40年かけて主要5大陸を旅し、ヘリコプターの上からさまざまな写真を撮っている航空写真家とのことですが、わたしはこの本を見るまで知りませんでした。今年の初めには大英博物館で展覧会も行われていたらしく、いつか日本で展覧会があったらいってみたい。個人的には、部屋にサビニャックのポスターを貼るんだったら、こっらの方を貼りたいと思う。

週末は、雨だし、寒いし、どこにも行く気になれず、豆本店の搬出のほかは、近くをうろうろしたりして過ごしたので、特に書くこともない。本当は印刷博物館でやっている「キンダーブックの80年」を見に行こうと思っていたのですけどね。まぁそれは来週ということで。でも世田谷文学館でやっている植草甚一の展覧会も見に行きたいし、渋谷に行ったらロゴスギャラリーの「東京町工場より-機械部品と工具の展示即売-」も寄りたいし、トタンギャラリーの「トラフ『くらしとあかり』展」見るついでに阿佐ヶ谷住宅を歩きたいし、「建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド展」のついでにたまには鎌倉散歩もしたいし、エッジエンドにも何回か行きたいし、今月は高円寺で「Boy Meets Girl」もあるし、暖かいうちに国立のFlowersにも顔出さなきゃ‥‥なんてピックアップしていくと、10月はなかなか忙しい。
まぁ1つか2つ行ければいいところかもしれないけど‥‥。

「東京の空 東京の土」-鷲尾洋三-

阿佐ヶ谷会の作家の私小説や随筆を読んでいると、どのエピソードを誰についてのものだったのかごちゃ混ぜになってしまう、といったことを前に書いたような気がするけれど、大正から昭和にかけての東京についてのエピソードも、だんだん作者がわからなくなってきてます。特に鷲尾洋三は、三田出身で文藝春秋の編集者という経歴をもった人なので、池田弥三郎や戸板康二、獅子文六、永井龍男など、よく読んでいる作家とのつながりが大きい分、同じではなくとも似たようなエピソードが出てきたりしてちょっと混乱気味。でも、そういった人たちのつながりを確認できるのも、こうした本を読む楽しみの一つでもあるわけで‥‥。

先週末から始まった豆本展は、いろいろなところに取り上げられていたり、会場の場所もよいこともあって盛況なようです。私が当番だった土曜日は、お客さんがとぎれることもなく、時には人だかりになっていたりしてました。わたしもお客さんがいない時間に出品されている豆本を見て、次回の参考にしようなんて思っていましたが、どれもかなり精巧に作られたものばかりなので、とても“参考”できるものではなかったです。う~ん、世の中には器用な人がいるもんだなぁ、なんて思うとちょっとため息が‥‥。

「ノラや」-内田百けん-

ノラがいなくなった後の取り乱し方が鬼気迫っててすごいとか、なんとか、あるけれど、単純に「~や」、とすっかり聞かなくなってしまった呼びかけがやさしいタイトルがいい。今や「おばあさんや~」「おじいさんや~」しか似合う言葉が思い浮かばないくらいですが‥‥。「●●さんや~」と名前についけるのはありか?“さん”をつけずに名前だけで「がくや~」と呼ばれるのはちょっと勘弁だな。

突然ですが、三軒茶屋にある生活工房ギャラリーで、9月21日(金)から9月30日(日)まで開かれる「箱の中の豆本たち~小さな豆本の小さな展覧会~」に、「PickwickWeb」で販売したり、カヌー犬ブックスでプレゼントしていたMOサイズの写真集を出展することになりました。わたしは、9月に入った頃に、知り合いから誘われて、図々しくも2つ返事で参加することになったのですが、展覧会のサイトを見てみたら、作品としてものすごくきちんと作られている豆本ばかりで、今さらながらちょっと気後れしてます。でも、それぞれの作家さんが30×30cmのボックスの中に思い思いのレイアウトで豆本を展示するということなので、どんな風になるのかかなり楽しみ。いろいろな作家さんの豆本を見たり、手に取ったりして、次に作るときの参考にしちゃおうかな~なんて思ったりもしています。興味のある方はぜひ見に来てくださいね~

 →箱の中の豆本たち~小さな豆本の小さな展覧会~
 →生活工房ギャラリー

「オランダ帆船と北欧フェリーの旅」-柳原良平-

なにかにせっつかれるように気を使い、どこか気の休まることがない山口瞳の紀行文や、世界中を旅し未開地にまでも入り込み、どちらかというと旅と言うより探検に近いような開高健の旅行記(こっちはイメージか)に比べると、柳原良平の旅は、マイペースでのんびりしていていい。この3人が同じ会社で机を並べて仕事をしていたのが不思議でもあり、これだけキャラクターが違い、それぞれがプロフェッショナルでもあるこの3人が同じ部署にいたら、できない仕事はないんじゃないかとも思う。なんとなく開高健が一番年上でそのすぐ下が山口瞳、ちょっと離れて柳原良平というイメージを持っていたのだけれど、実際に調べてみたら山口瞳が一番歳上で1926年生まれ、その下が開高健で1930年、柳原良平は開高健と一つ違いで1931年生まれ、だからどうしたということでもないけれど、「ふーん」と感じもします。アムステルダムで行われた帆船パレードの様子を描いた「オランダ紀行」とドイツとフィンランドの港、船をめぐる旅「北欧日記」でも、のんびりと、そしてどこかユーモラスな雰囲気で、楽しい。読んでいると素直にオランダやフィンランドに行きたくなってしまう。山口瞳や開高健の紀行文を読んでいても面白いんだけれど実際に行きたいとはあまり思わないものね~

「うたたね」-川内倫子-

前回、朝市について書いていたら、夕市をやりたくなってしまった。ちょっと広めの場所を借りて、市コーナーをラウンジコーナーの二つに分けて、市コーナーでは、パンやクッキー、ケーキ、もしくはちょっとしたおつまみみたいなもの、コーヒーや紅茶、アルコール類の飲み物、雑貨や古本などのお店を出して、ラウンジコーナーでそれを食べたり、飲んだり、雑談してもらったりして。コーナーを分けるのがポイントです。ついでにラウンジコーナーにはDJとか入れちゃったりして、なんて妄想が‥‥。う~ん、ホントにやる気はないけどね~

あんなに暑い日が続いていたのに、急に涼しく過ごしやすくなったなぁ、と思ったら台風が来た。夏の終わりに聴きたいCD6枚、前編、なんてタイトルでつらつらと書いていたのに、いきなり秋になっちゃうのかな。週末はまた暑くなるのかな。

■「Ray Barbee Meets The Mattson 2」-Ray Barbee meets THE MATTSON2-
一昨年、昨年の夏にファーストの「In Full View」を聴きまくったので、春にこのアルバムが出たときは「夏になったら聴こう」と思っていたのだけれど、すっかり夏も終わり。
双子ジャズ・ユニット、マトソン2との競演の影響か、趣味的で軽快なギターインストから、ジャズっぽいサウンドになっていて(ハービー・ハンコックの「Maiden Voyage」のカバーもあり)、それはそれでミュージシャンとして評価できるのだが、個人的にはちょっと肩すかしな感じ。こういう音楽は、あくまでも余技なんで、といった余裕がないとつまらなくなってしまいがちなので(いわゆるクラブ系と呼ばれてる人たちも同じ)、次がちょっと心配。でもサウンドがカチッとした分、夏真っ盛りの時に聴くよりも夏の終わり聴いた方があっているかもしれません。

■「Canto de Hermanos」-Epstein & El Conjunto-
先日、1時間半くらいタワーにいて、暇つぶしに試聴しまくっていたときに見つけた一枚。打ち込みのリズムとギターのアルペイジオ、そしてちょっとサブリミナル・カームの「カントリー・リヴィング」に似た涼しげなフレーズが入る1曲目を聴いただけで、ノックアウトでした(後でちゃんと「カントリー・リヴィング」を聴いたら全然違うフレーズでした)。
エプスティンは南米エクアドル出身の移民で、マイアミ、アトランタと移り住み、現在はブルックリンで活動するミュージシャンということくらいしか知りません。2004年には、バルセロナで行われたソナーにも出演しているらしい。ディスコやロッキンなブレイクビーツともミニマムなエレクトロニカでもなく、ミディアムテンポのリズムにかぶさる浮遊するようなアコースティックなフレーズが心地よいアルバムです。このCDを出しているRL66というレーベルがちょっと気になってます。

■「ラジオ」-ハセハジム-
これはけっこう前にアルバムですが、中のCDだけ行方不明になってしまっていたのが最近見つかったので、また聴き返してます。リゾートで聴くラジオ番組というコンセプト。1980年代の後半、おしゃべり中心になる前のFMラジオへのオマージュか?安易に英語のナレーションを挟んだだけといったものではなく、あくまでもコンセプトであり、そのイメージを抽出したサウンド、曲の並べ方であるというところが気に入っています。
打ち込みのリズムとスティールパンの響きがこんなにあうということにびっくりしつつ、15年くらい前、デジタルで録音されたスティールパンのCDの音があまりに悪くて、友だちと「やはりスティールパンみたいな楽器はアナログ録音のほうがいい」と話したことを思い出しました。(後編の3枚へ?)

「午前と午後と」-永井龍男-

主人公の若い男女二人を中心として、午前中の人生を送っている人たちと午後の人生を送っている人たちと描いたという作品。登場人物をもう少し絞って、それぞれの人生にきちんと焦点を当てて欲しかったかな、とも思うけれど、その辺の軽さが永井龍男の娯楽小説のよさだったりもするので何とも言えない。間違っても講談社学芸文庫などで再刊されることはないだろう、そんな作品。

7月から9月17日まで八王子市夢美術館でをやっている「ますむらひろしの世界展」に併せて行われた「ますむらひろし・よしもとばなな対談講演会」に行ってきました。よしもとばななの本を読んだことがないので、いつ改名したのやら、ひらがなの名前同士の対談は、進行役の編集者の段取りが悪すぎ。進行役ならば、事前にどんな質問をするかぐらいは考えてきて欲しい。そもそもますむらひろしとよしもとばななの話も聞いてるのか聞いてないのかわからない感じだったし、たまに質問を出しても答えにくい質問だったりするし‥‥。まぁそれでも1時間半というわりと長い時間で南米に旅行した話やガロに描き始めた頃の話などが聴けて、また進行役との「‥‥」なやりとりも含めておもしろかったです。
展覧会のほうも、初期のものすごく書き込んあるイラストテイストなものから、マンガの原稿、奥さんが色を塗っているというカラー作品まで、多くの作品が展示されていて見応えあり。ひさしぶりに「アタゴオル物語」読み返してみよう。

ところで、対談の前には「ハナユラカヒミ」というケーキ屋さんで開かれていたハナユラ市にもちょっと寄ってみました。道沿いの小さなお店には人がいっぱいで、しかもお昼くらいになっていたので、パンなどももう少なくなっていて、ランチを買って食べる時間もなく、ホントにただ寄ってみただけなんですけどね。でもお店の2階(普通のアパートの部屋)も開放して雑貨や古本もあり、なかなかいい雰囲気でした。
このあいだ行った国立のニチニチ日曜市や阿佐ヶ谷のオトノハ朝市とか、最近は日曜市がはやっているのだろうか?どこも雰囲気はいいんだけれど、どこも小さなお店で人がぎゅうぎゅう詰めになっているので、もう少し広い場所だったらいいのになぁと思ってしまいます。

「ちいさい隅」-大佛次郎-

大佛次郎の随筆を読みたいな、とずっと思いつつも、機会がなく時間が過ぎてしまった。「猫のいる日々」について書いたのが去年の3月、ようやく2冊目です。
日々の移り変わりや出来事をとおして想う事柄が、適度な力加減でつづられていていい随筆だなぁと思う。10年後ぐらいにまた読み返したい。実際のところ、読み終わった直後にまた読み返したい、と思わせる随筆やエッセイはそれほどないものなのだ。ちなみにあとがきは永井龍男。これから10年、20年経って新しい作家との出会いがあったとしても、この大佛次郎や永井龍男、吉田健一、小沼丹、井伏鱒二、木山捷平といった作家は、ときおり読み返すことになるのだろう。

そんなことを考えたのは、夏の初めくらいに、今買っているこのCDを自分はいつまで聴き続けるのだろうか、自分にとって一生つきあっていけるアーティストやジャンルはなんなんだろうか、ということを、ふと思ってしまったから。少なくとも60や70歳になったとき、ハーフビーやジャスティスは聴いていないのではないだろうか。ソフトロックやギターポップはどうなんだろう?ボサ・ノヴァ?ジャズ?なんて考えたり‥‥。でもこれから20年、30年後と思うと、1960年代の音楽なんて60年、70年前の音楽になってしまうのか、なんて計算をすると愕然としてしまいます。まぁどうでもいいことだけれど、どうなっちゃうんでしょうねー。そもそも今持っているCDを20年、30年後に聴くことができるのか?という疑問もありますしね。そういえば昔、CDが出始めた頃、CDのデータは10年くらいで全部消去されてしまう、なんて噂もあったな~

で、おじいさんになっても演奏したり歌ったりしている音楽ならば、歳をとっても聴き続けられるのではないか、という安易な考えのもと、今年の夏は、おじいさんのCDばかり聴いてました。
まず頭に浮かんだのが顔が、イブライム・フェレールとカルトーラ、それからリコ・ロドリゲス、アンリ・サルバドール。とりあえず、ブームから10年遅れの「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」から聴いてみたら、あのときは嫌な経験もあってキューバ音楽を聴く気になれなかったのだけれど、今聴いてみるとよさがわかるというか、あのとき聴かずに今になってはじめて聴いてよかった、なんて思う。映画公開後に、ルベーン・ゴンサレスやコンパイ・セグンド、エリアデス・オチョアといった人の単独のCDが意外とたくさん出ていたのにびっくりしつつ、このまま古いソンまで聴いてみるかどうかちょっと思案中。やっぱり個人的には、ファニアみたいな盛り上がりまくりのサルサよりも、ゆったりとしたメロディが心地よいソンの方が好きだ。

サンバのほうは、もともと好きだったカルトーラをはじめ、ネルソン・サルジェントやギリェルミ・ジ・ブリート、オス・イパネマズ、ウィルソン・モレイラといったCDをよく聴いてました。
そんなわけで、コンポの横に積み上げられたCDのジャケットは、どれもおじいさんの顔ばかりで、平均年齢も80歳を越えているのではないかと思う。なんたって「愛するマンゲイラ」を発表した時のカルトーラの歳が69歳で最年少なのでは?という状態ですから。でも、どの人もいい顔をしていて、いつかこんなおじいさんになりたいなぁ、とコンポに入っているCDを変えるたびにちょっと思ったりもします。