「佐野繁次郎展」-佐野繁次郎-

今年の4月から5月にかけて行われた東京ステーションギャラリーでの展覧会は、「行こう、行こう」と思っているうちに終わってしまったんですよね。佐野繁次郎に関しては、詳しい人がいろいろなところで書いているので、私はなにも言うことはありません。ぼんやりと「銀座百点」の表紙を見てたり、私の中で横山利一と菊池寛がごっちゃになってしまうのはなぜだろう、なんてどうしようもないことを思ったり、やっぱりデザイナーも手書きで魅せることのできる人とそうでない人の差は大きいな、なんてことを考えたりしているだけです。

このところCSで放送されている「ジュールズ倶楽部」を流しっぱなしにしている。「ジュールズ倶楽部」は、元スクイーズのジュールズ・ホランドがホストをやっているBBCのテレビ番組で、エコー&ザ・バニーメンとか、エヴリシング・バット・ザ・ガール、ディヴァイン・コメディ、クラウデット・ハウス、シンプリー・レッド・・・・といった人たちが出演していて懐かしい気分になる。もちろんオアシスとか名前も知らない新しいバンドも出てくるけれど。
先日はロディ・フレイムが出ていて、そのままアズテック・カメラが、小さなマイ・ブームに「Love」やら「Stray」「Dreamland」「Frestonia」、はたまた「The North Star」まで、CDの奥の奥から探してきて繰り返し聴いている。もちろん、アズテック・カメラの最高傑作は「High Land Hard Rain」であることに疑いはないし、私もそう思うけれど、今聴き返すということになると、「Dreamland」のメロウな感じが心地よいと思う。実際、今になって思えば、ロディ・フレイムの声はこういうサウンドの方がぴったりとくるような気がする。発売当時には「どうしっちゃったんだ」と思ってた「Love」とかも、1980年代的なサウンドプロダクションがちょっと気にはなるけれど、悪くない、というかいい。「Knife」が出たときのインタビューで、ロディ・フレイムは、「まだうるさい感じがする。もっと柔らかいサウンドにしたい」といったことを言っていたので、自分に合っている音楽ややりたい音楽が最初から分かっていたんだろうなぁ。分かっていなかったのはファンのほう。しかもこのアルバムは出たのは1987年、ロディ・フレイムは1964年生まれなので、若干23歳の時の作品だもの。
アズテック・カメラに限らず、1980年代の後半くらいに、メジャーなネオアコ的なバンドがどんどんAOR的な音楽に移行していってしまう時期があって、当時高校生だった私とかは、クリエーションとかエルとかアノラックとかどんどんマイナーなインディ方向にのめり込んでいってしまったのだけれど、自分が聴くか聴かないかは別として、結局のところロックンロールという音楽は、ソフトな方向に進むとAORになり、ハードな方向に進むとメタルになってしまうのではないかと、思うのだけれどどうだろう。そういう意味で、ロックンロールというのは1980年代の前半に完成してしまったのかもしれない。パンクロックがそれを壊したと言っても、壊しただけで、進むべき方向はエルビスからAOR、メタルのあいだをさまよっているだけに過ぎない。ロックンロールが、エレキギター、ベース、ドラム(+キーボード)という編成を核にした新しい音楽としてとらえると、そこからさらに新しい音楽を作り出すには、違う楽器が必要になるのは当然のことで、それがターンテーブルとサンプラーだったのかもしれないが・・・・。

そういえば、前回の雑記で「荒井由美の曲も含めてなんだか懐かしい」なんて書いたけれど、電車の中で流れているモニターからは音が出ていない、ということに今日の朝、気がつきました。でもこれまであの画面が流れるたびに私の頭の中では、「やさしさに包まれたなら」が普通に流れてたのですよ。まさに空耳というか妄想、いやただの洗脳、ですかね。

「閑な老人」-尾崎一雄-

1972年に発表された“作品集”。この人のような私小説(心境小説)場合、“作品集”と“随筆集”の区別がどのようにつけられているのか不思議。発表された媒体やコーナーの違いなのだろうか。ちなみにこの本は“作品集”と銘打たれていたけれど、隣にあった本の帯には“随筆集”と書かれてました。
私が、二宮に引っ越したのは1970年代の真ん中なので、ここに書かれているような1960年代後半の足柄・下曽我の様子は知らない。大きな松の木や神社、お祭りなど様子を読んでいて浮かべるのは、小田原周辺だったりする。実を言えば、今にいたるまで、足柄はもとより、曽我の梅林さえも行ったことがないし、気にかけてもいなかったので、ときおり著者が東京に出ていったり、子供たちが横浜から訪ねてくるときにでてくる大磯・二宮・国府津といった駅名や地名を目にして、再確認するということ多い。それも国府津の駅の車庫には、SLが並んでいたなぁ、なんて物語とはまったく関係ないことだったりする。平塚・大磯・二宮というのは、湘南でもなく、小田原・箱根でもないどうも中途半端な場所で、しかもベッドタウンとして横浜方面から流れてきた人が多いので、どうも両側の土地から文化的に浮いてしまっているような気がする。だから江戸時代から下曽我に住んでいたという尾崎家の昔の記憶などと、私が育った環境とは大きく分断されてしまっている。

朝、山手線に乗っていると、ペンギンと女の子が早川まで行くSUICAのCMが社内で流れている。なぜ早川なのだろうか。最近は関西でもSUICAが使えるみたいだけれど、東海地方では使えないみたいなので、早川がSUICAの利用範囲の最西端なのだろうか。と思って調べてみたら伊東まで使えるらしい。それならばもっと海がきれいな(多分)伊東まで行ってみればいいのに、とも思うけれど、免許を取り立ての頃、釣り好きの友達と箱根や伊豆にドライブに行って、その帰りに早川の港で休憩して、海で釣りをしている人を見たりしていた私としては、荒井由美の曲も含めてなんだか懐かしい気分。
ところで、早川といえば、私が子供の頃は無人駅だったのだが、今でもそうなのだろうか。CMでは駅員が出てきたような気がするが、駅員がいなかったら自動改札なんて簡単にすり抜けられるのでは、なんてことを思ったりもする(前は車掌がいちいち切符を改修していた、ような・・・・)。もっとも実際に早川の駅で降りたことはないです。その荒井由美の「やさしさに包まれたなら」は1974年の曲。あぁこれが1972年だったら・・・・この文章もまるくおさまったんだけどなぁ。

「スーパーマーケットマニア アジア編」-森井ユカ-

海外に行った時の大きな楽しみの一つはその国のスーパーマーケットにいくこと。有名なメーカーの製品は、値段は別として、日本でも見ることができるけれど、誰もが使うような基本的な食材やお菓子、日用品などは、たいていどこの国でも、自分の国で作っているので(実際に製造しているのは違う国かもしれないけれど)、一番、その国らしさが出ているような気がするし、日本で見ることのできないちょっとしたものを見つけたりすることが多い。
この本には、バリのスーパーマーケットは載っていないけれど、先日のバリ旅行でも、ほとんど市街地近くにいなかったのにもかかわらず、一泊したスミミャックにあったビンタンマーケットにまず行ってきました。はっきりいって、バリでは、お土産らしいものや自分たちの欲しかったものはほとんど買わなかったし、夕飯もサラダから主食、ビール、デザート、コーヒーまで食べても多くて20万ルピアになることはなかったので、ホテルの支払いを別にすれば、一回で使った金額としては一番大きかったかもしれない。はちみつとかコーヒー・お茶、お菓子、歯ブラシ・・・・など、ビニールの袋に一杯になって、ホテルまで持って帰るのがちょっと苦痛なくらい買い込んでしまいました。

天気予報では午後から雨だったのだけれど、今日しか行く日がなかったので、昨日から11月3日までやっている神保町で神田古本まつりにいってきました。こういう時はあんまり仕入れとか考えずに、自分の読みたい本があればいいなぁ、と思う。でも実際にはものすごい人混みで、自分の読む本さえも探す気になれずに、ひととおり回っておしまい、という感じでした。先日、「この1か月間に本を『読まなかった』人は52%で、1980年から始めた同調査で3番目に高かった。年代別に見ると、20、30歳代は各41%で、前回調査より減ったのに対し、40歳代から上の年代は増加、50歳代は55%、60歳代は61%、70歳以上は66%だった。」というニュースが出ていたけれど、ほんとうか。毎年行くたびに人が増えているような気がするし、神田古本まつりに限らず、古本市に行くと60歳代以上人(割と夫婦できていたりする)が多いぞ。残りの30~40%がここに集結しているのだろうか。
それはまぁいいとして、けっきょく、そこにいるだけでぐったりした気分で本を探す気もなってしまい、しかも珍しく天気予報が当たって雨が降ってきたりして、すぐに帰ってきてしまいました。ほんとうはAmuletでやっている「秋のいろいろ絵本 本棚市」にも寄ろうと思ってたのですが・・・・。やっぱりこういう時にもっと活動的に動いていかないとダメだよなぁ。いろいろな意味で。

「なんじゃもんじゃ」-山口瞳-

山口瞳に関しては、少なくとも文庫本だけは全部買っておこうと思っているので、持っていない本を見つけたら、そして高い値段がついていなければ、内容も見ずにそのまま買ってしまう。なので、バリから帰ってきて、この本を読み始めて、はじめてその内容がドスト氏(関頑亭画伯)との紀行文ということを知った。これならば先の池内紀とこの本と、もう一冊くらい探してみて、旅の本をバリに持っていっても良かったかな、と思う。ただし、今、ちょっと思うだけで、実際に持っていくことはない、と断言もできる。率直言って、旅行先でのんびりと山口瞳の本を読むという気にはなれない。ましてや、こちらは夫婦で旅行しているのに、この本の内容といえば、奥さんと家にいるのが窮屈になったいい歳の男二人が、蒸発と称して日本各地の旅に出る(逃げる?)のだが、二人の会話のほとんどは、それぞれの奥さんのことばかり・・・・というものだもの。気持ちは分からなくはないが、バリのホテルで読む本ではない。シチュエーション的には、弥次さん喜多さん的な男二人の気楽な旅の顛末となるバズなのだが、そうはならないところが山口瞳の山口瞳たるところ。もし女性の作家が、同じシチュエーション(逆?)のもと、女二人組で旅に出ることになって、その顛末を書いたとしたら、絶対にこういう雰囲気にはならないだろう。

「極楽人ノート」-富士正晴-

今年の一月にカシオ「EXILIM」という小さなデジカメを買ったので、普段、普通のカメラを持ち歩いていないときでも、デジカメだけは持っていって、ちょこちょこと写真と撮ったりしている。でも当初の目的だったPickwickのほうの更新はまったくできてない。ついでにデザインとかも変えてしまって、コンテンツを整理したりしてリニューアルしてしまおうかな、ともちょっと思う。基本的には、テキストファイルからテンプレートのhtmlをもとにプログラムでhtmlを生成しているので、リニューアルもそれほど難しくないはず、と思ってページを作ったのに、2000年にサイトを初めて以来、一度しかデザインを変えてないし。それならカヌー犬ブックスのほうのリニューアルを、という気持ちも・・・・。
そんなことを考えつつ、PCに画像を残しておくのももったいないので、とりあえずはてなのフォトライフにアップしてみました。風景とかはほとんど撮っていないので、たべものの写真だけ。個人的にたべものにこだわっておいしいところに食事に行ったりするほうではないので、写真を撮るようなごはんを毎日食べているわけでもなく、その辺のカフェや喫茶店のメニューばかりなんですけどね。

昼休みは、お弁当を食べて郵便局に行ってあと、たいてい近くのプロントでコーヒーを飲みながら本を読んでいる。周辺にはモスやタリーズコーヒー、ドトールといった店や普通の喫茶店もあるし、別にプロントが気に入っているわけではないけれど、12時半頃行ってもいくつか席が空いていることが多いので、なんとなく行ってしまう。別に何か食べるわけでもないしね。
半年前にそこに行きはじめた頃、コーヒーと入れたりしているときによく怒られている女の子の店員がいて、なぜかいつも怒られているので、「入ったばかりなんだろうな」とか「そんなに言わなくてもいいのになぁ」、なんて思いながら本を読んだりしてたわけです。で、まぁつい最近までそんな感じだったような気がするのだけれど、バリから帰って久しぶりにそのプロントに行ってみたら、逆にその女の子が別の子にいろいろ教えるようになっていて、「そうじゃない」「こうやるの」なんて言っててびっくり。まだ教え慣れてないんだろうけれど、イライラしてる様子が分かったりして、ちょっと「・・・・」な気分。なんだかなぁ。
だいたいそういうことは昼休みどきではなくてもっと店が空いている時にやって欲しい。

「一階でも二階でもない夜―回送電車2」-堀江敏幸-

旅についての本だの交友録だのいろいろと考えたり、実際に本屋を回ってみたりしたものの、けっきょく旅行に持っていったのは堀江敏幸の本で、以前読んだ「回送電車」と「ゼラニウム」に加えて新しく「一階でも二階でもない夜―回送電車2」を買った。堀江敏幸のきれいな日本語をゆっくりと読み返してみたいと思ったのだ。
実際、旅行中は雨の日が多かったりしてホテルで過ごすことが多かったので、本ばかり読んでいたような気がする。

堀江敏幸の本のいいところは、もちろんレコードプレーヤー、トロンボーン、レモン石鹸など、ものに関する偏愛を書いたエッセイや身辺雑記ともフィクションともつかない掌編も好きなのだけれど、自身の専攻がフランス文学であるにもかかわらず、永井荷風や小沼丹、田中小実昌、島村利正・・・・など、日本の作家の名前が多く出てくるところで、特にこの本では、獅子文六の本が手に入らなくなってしまった、という文章が出てきて、飛行機の中でひとり大きくうなずいてしまった。ここでは新潮文庫から出ている「てんやわんや」や中公文庫の「海軍」「食味歳時記」「私の食べ歩き」など、文庫されていた多くの本が絶版になってしまい、獅子文六の本を読もうとしたら、昭和40年代に刊行された全集を手に入れるしかなくなってしまった。ということを書いている。
私などは、「てんわやんわ」さえも、新潮文庫で出てたし、割とどの本屋にもおいてあるからと思っていたら、いつの間にかさえも絶版になってしまって、どの本屋にも置いてないし、ブックオフなど見かけることもなくなってしまい後悔しているくちで、ついでに書くと、最近、「うさぎのミミリー」や「せきれい」など、庄野潤三の文庫化が進んでいるなぁ、と並んでいる本を横目で見ていたら、唯一欲しいと思っていた(そしてもしかしたらこの旅行に持っていこうと思っていた)「文学交友録」だけがいつのまにか絶版らしく、どの本屋に置いていないという状態になってしまっていて、くやしい思いをしていたばかり。

旅行のほうは、取り立てて書くこともない。先に書いたように雨が降ってしまったこともあるし、雨が降らない日でも、ほとんどホテルでだらだらしたり、アフタヌーンティを楽しんだりしつつ、夕方になる頃から町をふらついて、ご飯を食べて帰ってくるといった毎日。
本やレコード、雑貨などを探しまわる旅でもないし、観光地を巡るような気ははじめからなし。いや、これこそヴァカンス、なんて思いつつ、たばことコーヒー、そして本とカメラ片手のちょっと遅い夏休み。

「ひとり旅は楽し」-池内紀-

旅行中に旅の本でも読もうと思って、まだアップしていない旅の本からこの本を取りだしてみたのだけれど、けっきょくそのまま読んでしまった。
ひとり旅なんてほとんどしたことのない私としては、若い頃にもっと旅行に行ったりしておけば良かったなぁと思う。若い頃は、ほんとお金なかったし、なんていいわけもできるけれど、普通に月に20枚くらいはレコード買ってたしねぇ。単に旅行に行こうと思わなかっただけなのだろう。基本的に家にいるのはいやなくせに出不精、という性格なので、近くをうろうろとしているだけで楽しかった。それは今も変わらないのだろう。だからひとり旅なんてそうそうできない今だからこそ思うのかもしれない。
でも、木山捷平や井伏鱒二のような身軽さでどこかに行けたら気分がいいだろう。映画を観た後にふと思い立って、ワンマンバスを乗り継いで伊豆とか名古屋まで行ってしまうような、田中小実昌の身軽さまでは望んでないのだが。
さて、旅行中は、皆さまにご迷惑をお掛けしますが、帰ってきたらまたコツコツと再開いたしますのでよろしくお願いします。

「ああ、そうかね」-山田稔-

1996年に発表されたエッセイ集。なので、取り上げられている出来事や映画など、私の記憶にあったりして、「私もこの映画を観に行ったなぁ」とか「このとき~してたなぁ」などと、思い出してみたり、私が読む本で、そんなことを考えながら読めるものもめずらしい。相変わらずいい感じのタイトルは、小津安二郎の映画のことを書いた文章から。

「言葉の過剰が芸を滅ぼす。それは映画・演芸だけでなく、文学の世界においても同様だ。
サイレントといういわば技術的に強いられた言葉の制約を、トーキー時代になって小津安二郎は寡黙の美学として積極的に活用した。小津の映画は比較的セリフが少ない。笠智衆の真骨頂は黙って坐っていることにある。たまにこう言うくらいだ。

『ああ、そうかね、そういうもんかね』」

私も縁側に座って、流れていく世の中の様子をぼんやりと、でもある意味しっかりと眺めながら、秋晴れの空なんて見上げて「ああ、そうかね、そういうもんかね」とつぶやいてみたいものだ、なんてことを思いつつ、まだまだそんな歳でもないか、と思い直してみたり・・・・。

「第2食いしん坊」-小島政二郎-

会社の帰りにタワーレコードによってHALFBYの「Green Hour」を買う。我ながらミーハーだなと思うのですが、6月から連続リリースしていたFREDOの「SMACK!」、HANDSOMEBOY TECHNIQUEの「ADELIE LAND」とあわせて、セカンド・ロイヤルのCDを続けて買ってしまった。
コンピもRUFUSのCDも持っているので、あとSATORU ONOの「FRANKENSTEIN」(アルバム)「WAVERED IN CAMBRIDGE」(シングル)を手に入れれば、セカンド・ロイヤルのCDが全部そろってしまう。クラブ・ユース的には、CDなんてどうでも良くて12インチが主になるのだろうけれど、アナログレコードをまったく買わなくなってしまった今では、そこまで手を伸ばす気はないので、――ましてやアルバムはまだしも、12インチのシングルなんてもう一生買わないんでは、と思っているくらいなので――、CDのみだとしてもなかなかめずらしい。単にほかのインディレーベルを知らないだけか。と思ったけれど、PCを見たら、sucre→aar recordsだとか、VROOM-SOUND RECORD、カクバリズム、abcdefg*record、Coa records、DIW PHALANX、Quince Records・・・・と、意外とインディレーベルのブックマークがたくさんしてありました。あといちおう、NATURAL FOUNDATION、readymade international、minty fresh japan、カフェオレーベルなどもあり、これはただの消し忘れかも?

話をHALFBYに戻すと、前のミニアルバムから2年、リミックスなどで名前を見るたびに、「アルバムでないのか」と思っていたせいもあって、「やっと出たか」という感じです。まだ、あんまり聴いていないけれど、思っていたよりも曲にバラエティがあるのでぜんぜん飽きないだろうし、自然な流れで全体をとおして聴けるところがいい。しばらくのあいだ、我が家のヘビーローテンションになりそうではある。でも、ストレートにサバービア・スイートの影響を受けた世代らしく、昔、どこかで聴いたような、聴かないようなフレーズがサンプリングソースとして多く使われていて、ちょっと恥ずかしい気分になります。次はRUFUSのフルアルバムか!?

「八方やぶれ」-富士正晴-

読んだことのない作家の本をはじめて読むときは、ちょっとドキドキする。もちろん闇雲に知らない作家の本を買っているわけではなくて、たいてい好きな作家が随筆などで言及しているのを読んだりして、その作家を知るわけだけれど、好きな作家が褒めているからといって、自分が気に入るかどうかの確証はないわけで。
中には読み始めてすぐに「!」となる作家もいるし、最初は「どうなのかなぁ?」なんて思いつつ、2、3冊読んでみたら急にはまってしまう作家もいる。それは人も同じで、初めて会ってですぐに友達になる人もいるし、何回か会っているうちに気が合うということもある、そういうこと。
富士正晴に関して言えば、たまたま古本屋で気になっていたのと、山田稔が寄稿していた「VIKING」という同人誌の会員だったということがきっかけだったので、言うなれば、山田稔という近所の人の仲介で見合いをした、という感じかな。で、第一印象は悪くないので、また何回(何冊)かデートして(読んで)みて決めたい、という感想にしておきます。

さて、来週初めくらいにトップページに告知しますが、15日から20日までバリに行ってきます。北欧、イギリスと物欲の旅が続いたので、今回はなにもせずにのんびりと過ごす予定。
バリに行くのは5年ぶりで、前の時は、出発の飛行機が8時間も遅れて、そのあいだ成田空港のなかで時間をつぶす羽目になり、結局、ホテルに着いたのが午前4時になってしまったり、ミオ犬がホテルのプールでおぼれたり、最終日に私が39度の熱を出して空港の医務室に運ばれたり・・・・いろいろありました。
とりあえず今は、旅行にどんな本を持っていくか思案中。いちおう一人の作家の本だとか、同じテーマの本をだとかをまとめて持っていこうと思っているのだけれど、なかなか決まりません。今のところ交友録か、あえて旅の紀行文にするか、それとも木山捷平か小沼丹の本を読みかえす・・・・などと、迷ってます。けっきょくは、旅行に本を持っていっても意外と読めなかったりするんですけどね。それでも本を持っていてしまうのは、旅行中にあいた空白を本で埋めようとするさもしい精神の現れか、もしくは旅行中という非日常に日常を持っていくことのパラドックスを楽しむためか、なんて大げさに考えてもしょうがない。それよりも、先週、バリで爆破テロがあって、日本人の死者も出ているというのに、そんなふうにのんびりと構えていて大丈夫なのか、無事に帰ってこれるのか、ちょっとシムパイ。