「鍛冶屋の馬」-庄野潤三-

どちらかというと、すぐに影響を受けやすいタイプなので、たてまつるで暗室を借りて、紙焼きをしたせいで、モノクロ写真を撮りたくなってしまった。今回は特に、高浪さんの写真を見せてもらいつつどのように焼いているか、とか、知り合いの写真家がどんなことをしてるか、といったことを話してもらったりしながら、作業をしたので、前の写真美術館でのワークショップと違って、ものすごく楽しかった。
実際、自分で紙焼きをするということは、自分で撮ったを最終的にどのように仕上げるか、ということはもちろん、撮った写真をどうしたらいちばんいい形に仕上げられるかということを試し繰り返すうちに、自分がどんな写真を撮りたいのか、あるいは自分の好きな写真がどんなものなのか再確認できると思うし、逆に被写体にカメラを向けてシャッターを切るときの意識も変わってくるような気がします。いや適当。そんなわけで週末は、C35にモノクロフィルムを入れて、歩き回ろう、なんて思っていたのに、雨、でした。

それとは関係なく、土曜は、友だちが参加した写真のグループ展のクロージングパーティに行ってきました。場所は下北のadd cafe。パーティなので、人もたくさん来ているし、壁際にテーブルが並べられていたりするので、写真をゆっくり見ることはできなかったけれど、まぁそれほど混雑しているわけではなく、動き回ったりしやすかったし、周りの人にも話しかけやすかったし、ひさしぶりに会う友だちと話したりしていい雰囲気でした。
前にも書いたと思うけれど、こういう機会があると普段なかなか会えない友だちに気軽に会えたりするのがうれしい。クラブとかと違ってゆっくり話もできるしね‥‥。

「きょとん-旅情短篇集」-田中小実昌-

“短篇集”と副題がついているけれど、これはエッセイなのだろうか?フィクションなのだろうか?私小説なのだろうか?‥‥よく分かりません。「そういうことはどうでもいいことじゃないか」なんて声も聞こえてきそう。でも実際には、みんな主人公にコミマサさんを思い浮かべながら読むのだろうな、と思う。そしてそんな風にして、コミマサさんのイメージが人それぞれにどんどん広がっていく。本当のことは分からない。でも「そんなことはどうでもいいじゃないか」と。

“旅情短篇集”というサブタイトルのつなげて、長崎の話でも書こうと思っていたのだけれど、長崎から帰ってきていきなり熱を出してしまい、その熱も下がらないまま、仕事のトラブルで(カヌー犬ブックスではありません)家に帰ってくるのが12時過ぎてしまったり、あげくの果てには、会社に泊まるという羽目になるという、ぐたぐたな一週間を過ごしてました。金曜日の帰りは、1度目は寝てて、2度目は急行に乗ってしまい、2度最寄り駅を通り過ぎましたから‥‥。

「本の音」-堀江敏幸-

こちらは、純粋な書評集。グルニエやグランヴィルといったフランスの作家はもちろん、パワーズ、オースター、クンデラ、そして村上春樹や保坂和志、伊井直行‥‥など、国もジャンル的もバラバラの84冊の書評が収録されてます。まぁ自分からというより依頼を受けて読んだのかな、という感じもないわけでもないし、実際、分量が短いこともあって、さらりとこなした、という感じは否めない。個人的には、この本を読んで、取り上げられている本を、実際に読んでみようという気にはあまりならないかも。同じように本を取り上げたものでも、エッセイだとおもしろいのに、ちょっともったいない気がします。

ようやくというか、今さらというか、週末にiPod nanoを買いました。家であまり音楽を聴けないので、持ち歩いたら少しは聴くようになるのではないかと。それで、毎日のように家に帰ってきてからCDを見渡しながら適当なCDをnanoに取り込んでます。でもそうやってると、2G、約500曲ってすぐにいっぱいになりそうなので、割と入れては消し、入れては消し、という感じです。今は、週末にHARVARDの「ORACLE」とtoddleの「I dedicate D chord」を買ったせいで、HALFBYとかHANDSOMEBOY TECHNIQUE、ヲノサトル、Refelyといった打ち込みものと、Comeback My Daughter、MICHELLE GUN ELEPHANT、Husking Bee、横山健などのギターバンドものが入ってます。‥‥なんだか両極端だなぁ。

「特別な一日」-山田稔-

一冊の本やある作家をきっかけとして、対象についての考察はもちろん、過去における著者とのつながりや、関連する事柄が、ある時は堰を切ったように次々と、ある時はなかなかたどり着けないいらだちをそのままに表しつつ描かれていきます。ある意味取り上げられる本や作家は一つのきっかけに過ぎなくて、まるで山田稔の脳内を散歩しているかのような、時間や空間を行き来する森の中をさまよっている感じがするのは、この本に限ったことではないのかもしれません。山田稔の本を読んでいると、なんとなくアントニオ・タブツキの「レクイエム」を思い出すのは私だけでしょうか。さまよっている感や空気の密度みたいなものに共通点を感じます。
と、書きながら気づいたのだけれど、「レクイエム」の空気さえまとわりつくような感覚を思い出してしまうのは、単に去年の夏暑いさなか、下鴨神社の古本市や手作り市を見て回ったり、進々堂で朝ごはんを食べたりした経験と結びついているのかも。そんなことを考えているうちに、ふと、山田稔の作品の中でスペインに行く話があったような気がしてきて、ほかの本をめくってみたけれど、やはり気のせいらしく見つからなかりませんでした。

来週末に長崎にいくのですが、そのときにたてまつるで暗室を借りることになっているのです。ふふふ、暗室の作業なんて、一度写真美術館のワークショップに参加しただけなのですが、いろいろと教えてくれるみたいなので今から楽しみ。それで、久しぶりにカメラにモノクロフィルムを入れて写真を撮ってるのですが、そもそも最近は、カメラを持ち歩くことさえなかったし、モノクロのフィルムなんて、それこそ何年ぶりという感じなので、つい、この壁の色がきれいだからとか、こっちの家と空の色の比較がはっきりしているから‥‥なんていう理由で、カメラを構えてしまってます。基本的に被写体の色合いしか見てないのかも。割と平気でピントもぼかしてしまうし、露出も常にオーバー気味だし‥‥。
予定では、ゴールデンウィーク中に2、3本写真を撮って、その中から気に入ったものを引き延ばしてみよう、と思っていたのだけれど、連休は首を痛めてしまったせいで、あまり歩き回れず、まだ一本分しかとれてません。今週末が最後の機会なのですが、天気悪そうだしね。来週は天気がよかったら会社にカメラを持ってきて、昼休みに近所を散策してみよう、とさえ思ってます。
ところでたてまつるは陶器や雑貨、てぬぐいなど、長崎をモチーフとしたものが売られているお店で、高浪敬太郎の弟の高浪高彰さんがやっているそう。私は始めていくのだけれど、ミオ犬は長崎に帰るたびに行っているみたい。いいなぁ。この間は、ブライアン・ウィルソン「Smile」や高浪敬太郎がプロデュースしたミスゴブリンのCDRをもらってきたりしてました。
そういえば、うちのどこかに高浪高彰さんが参加したフリペが残っているはず。10年以上前に新宿でやっていたフリーマーケットで手渡されたのですが、フリマに出ていた人は誰だったのだろう?

「胸から胸へ」-高見順-

ゴールデンウィーク中はすっかり怠けてしまって、ここもまったく更新せず、この本を読んだのは、いつだっけ?という感じになってしまってます。もっとも、お休み中はほとんど本を読まなかったし、5月の初めの一週間はなかったことにして、今週からまた再開、なんて、まだお休み気分の抜けない頭で、ぼんやりと考えたりもしてます。

そうといっても、連休はどこかに行ってた、ということもなく、29日に一箱古本市に参加して、次の日にロバロバカフェでやっている「“本”というこだわり、“紙”でできることvol.3」を見に行ったほかは、ほとんど杉並区・吉祥寺から出てないという状態。
ロバロバカフェに行くのは、1月の古本市以来だったのですが、開けたドアの向こうから日差しが入ってきて、店内は明るいし、経堂から歩いてきて暑くなったせいで、アイスコーヒーなんか注文してたりして、雪が降ったり風が冷たい中、毎週通った頃が、はるか昔のことに感じられてしまった。
新しく作ったという本棚に並べられた小冊子たちを手にとって眺めていると、いろいろな人が、それぞれにいろいろな小冊子を作っているのだなぁ、なんだかいいなぁ。自分なりのこだわりを持ちながら、これからもずっと作り続けってほしいなぁ、と無責任に思う。でも自分が作りたいものは、もうないなぁ、とも思う。20代の頃、なんであんなに夢中になってフリペを作ってたのか、今になってみると不思議な感じがする。

「田中小実昌エッセイ・コレクション[5] コトバ」-田中小実昌-

最近、なんとなくバスで通勤するようにしている。ときどき時間がかかったりもするけれど、乗り換えもないし、遅刻ぎりぎりに会社に行くわけではないのでかなり楽だったりする。暖かくなってきたからバス停でバスを待っている時間もつらくない。
バスの中ではたいてい本を読んだり、寝ていたりするのだが、ときどき顔を上げて窓の外を見ると、今まで気がつかなかった建物があったりして、朝からなんだかいい気分になる。そんな風にバスに揺られていると、コミマサさんの本を読みたくなる。単純ですね。つい会社の前のバス停を通り過ぎ、終点まで行って、適当にバスを乗り継いで、伊豆の方まで行っってしまったりする、ということは、もちろん、ない。

コミマサさんの本を読むのはちょっと怖い。例えば、「ときおりユーモアを交えてなんて言わない」ユーモアとは生き方であり、生活なのだから。なんてことが書いてあったりすると、自分が前にそんな言い回しをしてなかったかどうか、ドキドキしてしまう。その反面、「感動なんて、つまりは泣き落としじゃないか」なんて書かれていたりして、ついうなずいたりしてしまうのだけれど、それもコミマサさんに言わせればよくないことだろう。ましてや、こうやってその言葉だけ引用するなんて、言語道断なことだ。
そういう風にヒヤヒヤしたり、ドキドキしたり、自分の胸に手を当てて読み進めていくと、取り返しのつかないことばかり思い当たって、体に悪いような気さえしてしまう。というのは言い過ぎか。

「下駄にふる雨/月桂樹/赤い靴下」-木山捷平-

木山捷平はいい。木山捷平はおもしろい。としか言いようがないような気がする。なんやかんやと理屈をこねてみてもしょうがない、静かに繰り返して読む、そんな作家だと思う。いや、私の語彙が足りないだけなんですけどね‥‥。

ようやく暖かくなってきて、気温も落ち着いてきたような気がしたので、週末、ベランダに放置されていた植木鉢にあさがおの種を植えてみました。木山捷平や山口瞳のように木や草花を繁らすような庭も、「空中庭園」のように植木鉢を並べるような広いベランダもないし、そもそも草花を育てるという趣味もない。でも朝、ご飯を食べた後、ベランダであさがおの花を眺めながらたばこを吸うのもいいんじゃないかな、と思う。とはいうものの、なんだか今週は急に雨が降ったりしてぜんぜん晴れない‥‥。昨年、一度死にかけた多肉植物も、この頃、急に大きくなってきたので、近いうちに大きな鉢に植え替えたいと思ってる。

「やっさもっさ」-獅子文六-

「てんやわんや」「自由学校」に続く終戦三部作の三作目。戦後米軍が進駐して一時活況を呈するが、その進駐軍が横浜を引き上げるという時期の横浜、進駐軍の兵士との混血児のための慈善養護施設「双葉園」が舞台となっている。その元財閥の未亡人が設立した双葉園で、働く亮子と、戦後ふぬけのようになってしまい、まったく働かず、家でごろごろしているだけの夫を中心に、産児制限運動に携わる女性、プロ野球選手、シューマイの売り子、作家、そして横浜に滞在する外国人など、戦後を象徴するような登場人物がが絡み合い話が進み、もちろん最終的には大団円を迎える。
物語の最後の方でやっと何かに目覚め、働き出す夫が大団円における鍵を握っているのではなかと思わせつつも、微妙にキーパーソンとなっていなくて、結局は、元財閥の未亡人がすべてをおさめてしまうところなどは、ちょっと物足りない気もするけれど、それも戦後を象徴していると言えるのかもしれません。

双葉園は、戦後、獅子文六が住んでいた大磯にあるエリザベス・サンダース・ホームをモデルとしたものらしい。大磯の駅を出たところにそんな施設があったなぁ、なんてふと思ったりもする。が、しばらくたって、高校の時に、エリザベス・サンダース・ホームの見学に行ったことを思い出した。あれは何で行ったのだろうか?そもそも簡単に見学できるような場所なのだろうか?ぜんぜん思い出せない。夏休みの初めの方の時期で、集合場所の大磯駅がものすごく暑かったのと、施設内の木陰が涼しげだったのは覚えていて、それほど大人数ではなかったので、多分、図書委員のなにかで行ったのだろう。それにしても図書委員の活動とエリザベス・サンダース・ホームが結びつかない。
絶対にありえないことだけれど、その頃、獅子文六を読むような高校生だったら、少しは興味の度合いも違って、きちんと記憶に残っていたりしたのかもしれない。そういえば、夏の大磯なんてもう何年も行ってない。西湘バイパスと平行に走る海沿いのサイクリングロードを通って、バイト先まで通っていたことを思い出した。

「草のいのちを 高見順短編名作集」-高見順-

ここのところ新しい出会いもなくちょっと倦怠期。
世の中には、もっとおもしろい本や音楽があるのだろうなぁ。いや、この高見順の本がつまらない、というわけではないけれど、初めて小沼丹の本を読んで、いきおい文芸文庫をそろえてみたり、山口瞳の文庫本を、すぐには読み切れないほど買ってみたり、古本屋さんに並んでいる永井龍男の本を端から一冊ずつ読んでいったり‥‥そういった勢いのある出会いが欲しい。それは単にわたしの知識や運の問題に過ぎなくて、こういうものは、一つなにかを知ることによって返ってくるものがあるもので、何かのきっかけで、いくつものものが返ってくるようなものに出会ったりすると、ものすごくうれしい。なにかを知るというのは、後攻で点を入れれば入れるほど、先攻で点を入れられてしまい、回が進むにしたがって、どんどん点差が開いていってしまう野球の負け試合みたいなものなのだ。なんてことを思ったりもするけれど、こちらが点を入れなくては、いつまで経っても0対0のままなわけで‥‥。う~ん、あんまりいい例えではないですね。そんなことを考えつつ、毎日のように昼休みに近くの本屋に行ってみたりしているのだが、そんなに毎日品ぞろえが変わるはずもなく、わたしが言うのもなんですけど、最近はどの本屋さんに行っても雑貨や料理、デザインの本がばかりなような気がする。普通の小説なんて店のほんの片隅に申し訳程度に置かれているだけだ。もう本は読むものではなくて、必要なときに調べたり、気が向いたときに眺めたり、雑貨のように自分の部屋の片隅を飾るものだったり、するものなのかもしれない。適当。でもその気持ちも分かるような‥‥。

「ニセ札つかいの手記」-武田泰淳-

表題の“ニセ札つかい”は、文字どおり“ニセ札つかい”であって、ニセ札を製造しているわけではない。、主人公は、源さんという正体不明の男からニセ札を渡され、使ったらその半分(つまり釣り銭)を渡している。ギター弾きという職業を持ち、独身の主人公は、特にお金に困っているわけではないが、不思議な魅力を持つ源さんと、ニセ札を媒介としての断ちがたい連帯感を感じ、それに加え源さんが、ニセ札を使う相手に自分を選んでくれたことに喜びを感じている。しかしそのニセ札も最後の一枚となり、源さんは最後の一枚を主人公に渡して、いなくなってしまう。残された主人公は、源さんとの“特別な”つながりを確認したくて、そのニセ札を警察に渡すが‥‥。というなんだか不思議なストーリー。
“ホンモノ”と“ニセモノ”の境目、そしてそれによって明らかにある、実際にそこに存在し、その存在に対して価値がつけられる“モノ”と、信用によって価値がつけられる“お金”の根本的な違い‥‥といったことが、主人公を含めた飲み屋の店員・客などによって、軽妙に語られていくのだが、それが妙に正論だったりするところがいい。武田泰淳は、なんだか作品によって雰囲気がぜんぜん違うような気がします。というほど読んでいませんが‥‥。

そろそろ告知しなくちゃなぁ、と思いつつ、すっかり書きそびれていましたが、4月29日に行われる不忍ブックストリートの一箱古本市に参加します。詳しいことは、不忍ブックストリートの公式ホームページを見ていただくとして、簡単に説明すると、谷中、根津、千駄木の中心をとおる不忍通り周辺のエリアの本屋さん、雑貨店、ギャラリー、カフェなどの軒先を借りて、100人の出品者が一箱ずつ持ち寄り青空古本市を開くというもの。カヌー犬ブックスは、谷根千工房の前にお店を出すことになりました。100名も参加するので、店主の一覧を見ているだけで、自分が出ることも忘れて、なんだかわくわくしてしまいます。売る本より買う本の方が多くなってしまったらどうしよう。
で、それに合わせて、と言うわけではないけれど、カヌー犬ブックスのカードも作りました。パリで撮った写真をそのまま使っただけのものなのですが、今週末発送分くらいから同封する予定なのでお楽しみに。ついでに1月に作ったしおりも、少し紙を厚くして使いやすくしました。この辺のおまけもページにアップしておきたいんですけどね。