もちろん私は骨董収集なんていう趣味はなくて、骨董に関する本もこの青柳瑞穂と青山二郎の書いたものくらいしか読んだことはない。どちらかというと青山二郎の方が、骨董にのめり込んでいると同時に、逆にどこか粋でかつスマートというイメージなのだろうか。それは単に阿佐ヶ谷と港区の違い、あるいは甲州の田舎と山の手という育ちの違いからくるイメージなのかもしれない。ただ文章的には、青山二郎よりも青柳瑞穂のほうが、やわらかく随筆っぽいくて私は好きだ。
全編において“掘り出しもの”ということに、そして、ただ飾っていくのではなく日常の中で使ってこそそのもの自体の本来の姿がわかる、ということにこだわり、自分の骨董収集を“文庫本を集めるようなもの”という青柳瑞穂だが、もちろん「価値が定まっていて高価な骨董品」≒「有名作家の初版本」、「価値が定まってなくまだ日常で使われていたり、どこかに眠っている骨董品」≒「文庫本」、という意味で、文庫本のように安い品、という意味ではない。蛇足だが、田舎の神社や民家に眠っている仏像や陶器、お面などを見つけて悦に入っている姿は、どこか地方のレコード屋さんで普段見たことのないレコードを見つけて試聴したらこれがまたすごくよくて、ヘッドフォンをつけたまま一人ドキドキしている、なんていう光景を連想してしまったりもする。いや値段と歴史が全然違いますが・・・・。
週末、本格的に暑くなる前に、と思い、八王子、国立、国分寺と中央線を下る古本屋・レコード屋をはしごしてみました。八王子を田舎とは言わないけれど、普段通っている古本屋と違うお店に行くと、なかなか手に入らなかった本を見つけたりしてうれしい。ほんとは八王子なんて中途半端なところではなく、青柳瑞穂が定期的に浜松に行くように、もう少し遠くまで出かけてみたいのだけれど、なかなかそういう機会を作れないままになってます。しかも最近は歩くコースも決まりつつあって、初めての場所に行くことはほとんどなくなってきているのも寂しい。そしてたいていの場合、その駅周辺をひととおり歩き回った後、喫茶店に入ってひと休みする。荷物が増えてきて休みたいとか、たばこをすいたい、いうこともあるけれど、一番の理由は手を洗ってハンドクリームを塗ることだったりする。
もともと手が乾いているのか、古本屋や中古レコードばかりさわっているうちに手が乾いてきちゃったのか、わかりませんが、夏でも手がカサカサしていて、いつもささくれができてしまって困ってしまう。山下達郎みたいに軍手をしてレコード屋に行くわけにもいかないし。古本屋さんや中古レコード屋で働いている人はどうしているんでしょうか。
私が勤めている会社の本社は名古屋にあるので、東京にいる人でも、単身赴任してきた人や週に3日だけ東京に来て残りを名古屋で仕事をするなんて人がいたりする。私は、営業でもないので、基本的にテレビ会議とメールでやりとりするだけで名古屋に行くことはほとんどないのだけれど、久しぶりに名古屋にいくとなるとちょっとウキウキしてしまう。特に今回は説明会と懇談会だけなので準備したりするものもないし、頭のなかはちょっと早めに行ってどこでお茶しようか、ということと、新幹線の中でどんな本を読もうかということだけだったりする。
みすず書房の「大人の本棚」シリーズで小沼丹と出会ったことが、私の読書生活に大きな変化と収穫をもたらしてくれた、といっても過言ではない。「素白先生の散歩」もおそらく元の本が手に入りにくいだけにうれしかったし、佐々木邦の「心の歴史」や小津安二郎の「『東京物語』ほか」戸川秋骨の「人物肖像集」などもいつか手に入れて読んでみたいと思ってる。思っているものの、なかなか買う機会がないのは、1冊2400円という値段のせい。だから“大人”の本棚なのかもしれないけど。大人だったら2400円くらいの本をさっと買えるようになりなさい、ということなんだろうなぁ。でも、古本屋に行くたびに、100円均一のコーナーを隅から隅まで探しているような私には、なかなか“大人”になるのは難しい・・・・。
PickwickWebのほうを調べてみたら、私がポラロイドカメラを手に入れたのは、2003年の2月でした。コツコツとページを更新しているとこういうときに便利。といっても、前回、京都に行ったときに買ったので、わざわざ調べるというほどでもない。そのあと、北欧旅行やイギリス旅行に持っていって、旅の雑記帳を作ったりしたけれど、普段はそうそう持ち歩くこともなくて、去年は旅行にも行かなかったので、棚の下に入れっぱなしの状態になってしまってる。やはりモノがモノだけに普段の生活の中でちょっと撮って・・・・というわけにはなかなかいかないですね。来月は京都や神戸に行く予定なので、そのときは持っていっていろいろ写してみようと思ってます。今から楽しみ。その前に、練習をかねて、たまには家の中のや周りのものをポラロイドで写してみよう。
根気がないのか、あきっぽのか、一つのシリーズをきちんと集めると言うことができなくて、「田中小実昌エッセイコレクション」もまだ全部読んでいなかったりします。もう刊行されて3年近く経っているのでそろそろそろえておかないと手に入らなくなってしまいそう。田中小実昌の昔の本は高くて買えないので、少なくともこのくらいは、と思う。ちなみ実を言えば、出ると知ったときはあんなに盛り上がったちくまの「井伏鱒二文集」もそろってなかったりします。
少し前のこと、カヌー犬ブックスのイベントやったときに、友達に「幸田がiPodを持っていないなんて意外だった」と言われたのですが、私はウォークマンの時から外で音楽を聴くという習慣はまったくなくて、電車の中では、たいてい寝ているか本を読んでいるかのどちらか。電車の中は大切な読書時間なので音楽を聴いているのはもったいない、と思う。
しばらく庄野潤三はいいかな、なんて思っているとなぜか見つけてしまう。探している本はなかなか見つからなかったりするのにね。
旺文社文庫から出ている木山捷平の本が手に入るなんて思ってもいなかったのでうれしい。中身はもちろんのことだけれど、講談社文芸文庫と違って表紙もいい感じだし・・・・。
池島信平は、1933年に文藝春秋社に入社し、「文藝春秋」の編集長などを務めた人。1973年、社長在任中に急逝した。正直なところ、私はこれまで「文藝春秋」を一度も買ったこともなく、読んだこともない。そういえば去年、「文藝春秋」に掲載された随筆を集めた「巻頭随筆」のシリーズを読んだな、ってことが思い出せれるくらいで、今となっては販促ツールのひとつとしか思えない芥川賞にも直木賞にもあまり興味はない。出版社としての文藝春秋も、私にとっては永井龍男がいた会社という認識でしかなく、最近どこかに書いてあった「結局、日本のジャーナリズムは『週刊文春』と『週刊新潮』にしかないのか」と言葉もあまりぴんと来ない。そもそもジャーナリズムってなんだ、という気もしてしまうくらいその方面に関しては無知なわけで。その永井龍男は、池島信平の葬儀で弔辞を述べたらしいのだが、永井龍男が池島信平のことについて書いた文章はあまり思い浮かばないのは、私が単に流してしまっているだけだろうか。
「どちらにしろいつか買うだろうし・・・・」と思って、あまり内容を確認もせずに本屋さんで見かけるたびに流していた本。赤玉ポートワインで莫大な利益を得ながら、危険を冒して日本初の国産ウィスキー製造に取り組み、戦後には念願のビール市場参入を果たしたサントリーの歴史を、鳥井信治郎の人物像を中心に、宣伝部に所属していた開高健と山口瞳が描いている。・・・・のであるが、表紙の感じと二人の名前が並んでいることから、てっきりサントリーの歴史や鳥井信治郎のことを二人が語り合うといったスタイルの本だと勘違いしていました。実際に買ってみてページを開いたら、前半に山口瞳の「青雲の 志について」、後半に開高健の「やってみなはれ」と2つの作品が収録されていてびっくり、そしてちょっとがっかり。しかもまだ読んでいなかったけれど「青雲の志について」はすでに持ってるし・・・・。