「もののはずみ」-堀江敏幸-

先週のはなし。普段それほど本を買い込んでおくほうではないけれど、ときには「読む本がたまって、しばらく古本屋に行かなくていいな」、ということもあって、そういうときは早く次の本を読みたくなったり、今読んでいる本をもう少しゆっくり読もう、なんて、心がざわざわしてしまったりする。でもそんな風に気を抜いていると、いつのまにか読む本もなくなってしまって、あわてて昼休みや帰りに本屋に立ち寄るはめになるのだけれど、普段、古本屋に行きなれていると、これはと思う本がなかなかなかったり、あらためて新刊って高いなぁ、と思ったりしてしまう。
先日も京都に持って行く本を探しに、会社帰り渋谷の駅から一番近い本屋さんへ寄ってみたのだけれど、目的の講談社文芸文庫がどこにあるかわからない。しばらく歩き回ってみてから、店員に聞いてみて、「こちらです」を案内されたのは、講談社文庫の前でした。私:「いや講談社“文芸”文庫なんですけど・・・・。」、店員:「講談社・・・・むにゃむにゃ。探している本の題名とか著者はわかりますか?」、私:「山田稔か木山捷平なんですけど」、店員:「山田・・・・。すみません接客中ですので・・・・」・・・・と、どこかにいってしまった。そ、それはないのでは・・・・。結局、文芸文庫がどこにあるのかわからなかったんですけど、どこにあるのだろうか?

閑話休題
堀江敏幸の新刊は“モノ”についてのエッセイ集。スライド映写機、パタパタ時計、フレンチキーホルダー、原付自転車、カフェオレボウル、クマの縫いぐるみ・・・・など、パリや東京の古道具屋で出会ったガラクタたちについて、それにまつわる文章に著者自ら撮った小さなモノクロ写真が添えられてます。
堀江敏幸の場合、こうしたエッセイでなく小説の中でもモノに対するこだわりや偏愛が、割と大きな意味合いを持っているのので、こうしていくつものモノがまとめられて語られると、小説の中で扱われるよりも、どうしてもひとつひとつがあっさりとしていて、“こだわり”や“偏愛”という部分が希薄になってしまうような気がしてしまう。でも、それはもしかしたら一冊の本というかたちにまとめられているからであって、雑誌の連載として毎号ひとつずつ、最後の方の見開き2ページを読んでいくのは楽しいかもしれない、と思ってみたものの、初出は「東京新聞」と「本の旅人」でした。それにしても「東京新聞」連載時の「多情『物』心」というタイトルはいいですねぇ。

「百叩き」-小島政二郎-

「百叩き」とは、随筆の題名としては少し似つかわしくと思うかもしれない。江戸時代に行われて刑罰を、今ではすこし滑稽でノンビリしていると言い、「なんの権力も持たない我々が悪い奴を捕まえてきて、さも権力を持っているような顔をして、そいつを百叩きに処するところを空想するだけでも、正直な話、楽しいではないか」、と。そしてここであげられるのは、権力を振り回し私腹を肥やすことだけを考え、国民のことをまったく考えない政治家や役人や戦後、物事をいかに簡単に、インスタント済ますようになってしまった戦後派の人々、髪を長く伸ばして街を闊歩する若者たち・・・・など。
言いたいことをズバズバと書いていくのは、書くほうも読むほうも、ある意味気持ちがいいのかもしれないが、私は基本的に、年寄りの愚痴は恥ずかしい、と思う性格なので、やはりそれ以外の交友録や旅や料理の話のほうが好きです。
そもそも歳をとった人間が現状を嘆いたり、昔は良かった、というのはおかしいと思うのです。つい、今の世の中を作ってきたのは、自分たちであり、気に入らない子どもたちを育てたのも、自分たちなのでは・・・・と考えてしまう。そんな単純なことではないのだろうけど。
そんなこととは別に、この本を読み始めたのは月曜の朝からなのですが、前述の“百叩き”のターゲットとして一番最初に取り上げられたのは、郵政省と郵便局だったりする。一日2回の配達が1日となり、それさえも遅くなったことや、勝手な郵便番号をつけたのに全然便利にならない、など、郵政省、郵便局の役人的な態度を羅列して、最後には民営化するべきだ、と結論づけている。その民営化は否決されましたが・・・・。加藤紘一のときもそうだけれど、国会のやりとりを見てるとほんと政治って怖いなぁ、と思いますね。

明日から夏休み。お盆と時期なんてどうせどこにも行けないし、実家に帰るわけでもないので、いつもならダラダラと過ごしてしまって、なにもせずに終わってしまうのですが、今年は京都に行って来ます。下鴨神社の古本市と百万偏の知恩寺で毎月15日に行われている「手作り市」です。なんだか野外ばかりで暑そうだけれど、楽しみ。というわけで、カヌー犬ブックスも16日まで夏休みとさせていただきます。

「風のない日々」-野口富士男-

まったく救いようのない、やりきれない気持ちにさせられる物語なのだけれど、読み終わって思い返してみると、私生児という主人公の生い立ちや、血のつながりのない姉たち(とその夫たち)の自分では主人公を思いやっているつもりの悪意のかけらもない押しつけ、太平洋戦争直前という不景気で暗い時代背景、そしてその当時の道徳観・・・・などが強調されているだけで、結局は主人公のなんらかの欠陥によって引き起こされた出来事なのではないか、と思ったりもするわけで、だからこそそうした周辺の要因が強調されているのかもしれません。でも“風のない日々”というタイトルは物語のテーマをうまく表していて秀逸。特に、会話もなく、お互いに理解しようとするのでもなく、思いやるわけでもなく、逆に言い争いやけんかなどもなく、すれ違いさえも起きていないような、主人公夫婦の毎日の生活は、まさに“風のない日々”で、淀んだ空気だけがやけに暗く重い。風が起きなければ、流れはよくならないし、もし起きないのであれば、自分で風を起こさなくてはいけない、ということだろうか。
とはいうものの、こう暑い日が続いていると、いくら風を起こしても流れてくるのは湿気を含んだ生ぬるい空気だけで、どうにもならない。一晩中エアコンをつけて置くわけにもいかず、夜中に何度も目が覚めてしまい、いつでも寝不足、という状態。だからというわけでもないけれど、涼しくて暗い映画館で映画を観ていると、つい眠ってしまう。先日観た「ライフ・イズ・ミラクル」なんて、予告が始まると同時に眠ってました。さすがに予告から寝ていたので本編は3/4くらいは見れたので、よかったことにするけれどね。
「ライフ・イズ・ミラクル」は、「黒猫白猫」や「SUPER 8」、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した「アンダーグランド」などで知られるエミール・クストリッツァ監督の最新作。ボスニア紛争を背景としているのだが、暗い雰囲気はなく、哀しみと陽気さが混じり合って不思議な魅力を醸し出している。登場人物たちも泣いたり、笑ったり、怒ったり・・・・と感情の起伏が激しい。ちょっと前まで親しみを込めて語り合っていたと思ったら、急に怒り出したりする。しかもその辺のものをひっくり返すは壊すはでかなり激しい。セルビア人はそういう気質を持っているのだろうか。

ついでにクストリッツァ監督の作品を検索してみたのだけれど、「アリゾナドリーム」もクストリッツァ監督作品なのですね。ジョニー・デップ主演。懐かしい。なんでだったか忘れたけれど、シネセゾンに観に行きました。確か映画好きの友達と1日に3本の映画観ようと言うことになって、一緒に観に行った時のうちの1本だったので、その友達に勧められたのかもしれない。で、このときも眠ってました。
思い起こせば1994年の夏も映画館で眠ってばかりいたような気がします。ほかには「トリコロール 青の愛」も寝てた記憶があるし、「レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う」なんか5、6人で見に行ったのに、最初から最後まで全部観てみた人がいなくて、映画が終わった後、それぞれが観た場面をつなぎ合わせてストーリーを完成させたこともありました。
ほかにも観たい映画があるんですけど、今年の夏もそんな映画館で寝てばかりの夏になってしまうのでしょうか・・・・。

「早稲田の森」-井伏鱒二-

井伏鱒二は生涯にどのくらいの本を出しているのだろう。文庫本で読めるものだけでも読んでおきたい、と思って、文庫についてはリストを作ってみたりしていたのだけど、いつの間にか単行本を買うようになってしまった。この本もそうですが、井伏鱒二の単行本は、普通の単行本のサイズよりも少しだけ横幅が広くて、正方形に近い形が多い。違う出版社から出ているものでも同じような形なので、井伏鱒二自身のこだわりだったのだろうか?よくわからないけれど、個人的には、なんだかちょっとだけ豪華というか、ちょっとだけ違う感じが出ていて、この形が気に入っていたりする。この「ちょっとだけ」というのがポイントです。ただしうちにあるスライド式の本棚の奥の棚に入れると頭が出てしまうので、手前のスライドが動かなくなってしまうのが難点。当たり前の話だけれど、スライド部分は容量が少ないんですよね。

「早稲田の森」は、1972年に刊行された本で、第23回読売文学賞を受賞しているらしい。内容は、井伏鱒二が早稲田周辺に下宿し、大学に通っていた頃、近くに“箱根山”と呼ばれた東京都内で一番高い森があって、それが消えてなくなってしまった、ということを中心に、その頃の早稲田の町や地形、よく通ったお店、学友などの思い出話がつづられている。このほかには、相変わらず釣りに関しての昔話や日経新聞に掲載された「私の履歴書」(この本に収録されるにあたり「半生記」と改題)、木山捷平の詩碑の落成式の様子を書いたものをなどが収録されている。
これに限らず、井伏鱒二の文章からは育ちの良さがにじみ出ている。実際にはどのくらい本が売れていたのか、生活的に厳しかったのか楽だったのか・・・・など、よくわかりませんが、どんな場面でも、気持ちにも行動にも、常に余裕が感じられる。「半生記」を読むと父親を早くに亡くしているようだけれど、母親や兄弟、祖父や祖母に愛され、かわいがられながら育っていったのだろうな、と思う。井伏鱒二の文学には、反抗とか自分を追いつめた切実さ、ガツガツした上昇志向・・・・といったものはない。その辺が、金持ちだったけれど、自分を追いつめていった太宰治と評価の大きく分かれるところなのかもしれない。適当です。

話は変わりますが、私が住んでいるマンションでは7月からケーブルテレビが見られるようになりました。そのせいで、もう家にいる時はほとんどスペースシャワーTVだとかMUSIC ON! TVだとかMTVばかり見てます。もうニュースもぜんぜん見てない。地上波で見てる番組といえば、「サクサク」くらい。それで最近の音楽に詳しくなったかといえば、よくわからない。ずっと見てると、どの局でも、いつでも、同じような曲ばかりかかっているような気もする。それじゃ、どんな番組や音楽が聴きたいのさ?、と聞かれてもよく分からないけれどね。
で、今日はヘアカット100のライブを見ました。懐かしすぎ。ラテンなのになぜか盛り上がりに乏しいリズムが、今聞くと逆に新鮮だったりする。レコードさえももう何年も聴いていないのに、なぜか口ずさめてしまうのは、さすがに10代の頃に聴いた音楽だけのことはある。ニック・ヘイワード若いのにオヤジだなぁ、なんていいながら、盛り上がってしまった。・・・・・・・・のだが、ライブが終わって最後のクレジットを見ていると「ライヴ1983」というタイトルが!あれ?????1983年ってすでにニック・ヘイワード脱退してません?というか、もうソロ出してるはず。私が中2のときですよ。というわけで番組表をネットで調べてみたところヴォーカルはマーク・フォックスでした。残念。

「山口瞳の人生作法」-山口瞳-

生前、交流があった多くの人たちに、死後これほど愛情を持って語られる作家というのも例がないんじゃないだろうか。担当した編集者、作家仲間から行きつけの飲み屋の主人、近所の住民・・・・など、誰もが機会を与えられれば(いや与えられなくても?)懐かしそうに山口瞳との思い出を語る。ほんとうに不思議な作家だと思う。でもその反面、誰もがその作品と山口瞳の生き方や信念、そしてそれを読んだ自分自身の気持ちが抑えられなくて、この作家の作品を純粋に、あるいは客観的に批評するといったことが行われにくくなっているのかもしれないとも思う。もしかしたら1990年代以降、オヤジの小説・エッセイとして黙殺されてきた(それは私か?)、山口瞳の作品が純粋に批評・評論していくのは、このブームのような再評価の後、これからなのかもしれない。

週末、コマツくんが、阿佐ヶ谷の造園屋さんの温室で、定期的に行っているフリーマケットに行ってきました。コマツくんは我々というバンドのヴォーカルをやっている人。ということぐらいしか実は知らない。前はパルコで働いていたけれどいまはどうなのだろう。そもそも歳もわからない。そして不思議な交友関係を持っていて、その前の週は高円寺にあるOZという古本屋さんの一日店長をやってました。それにも寄ったので、2週続けて会っていることになりますね。ちなみにその前にあったのはいつだったか忘れたけれど、荻窪の古本屋だった。なぜかコマツ君とは、街で偶然に会うことが多い。高円寺の時は、私は六本木で行われた友達の結婚パーティに行く途中だったのですが、OZを出た後に総武線に乗っていたら地震に遭ってしまい、大久保で1時間以上足止めされて、結局、かなり遅れて会場に着くという羽目になったのだけれど、コマツくんは、狭い店の中で古本やCDが倒れてきたら・・・・と思って必死に本やCDの棚を押さえていたそう。地震の後、友達のBBSやブログに「家の本棚が・・・・」とか「レコード棚が・・・・」といった言葉があふれていて笑ってしまったけれど、古本屋で地震に遭うのはちょっと怖いかも。ちなみに私の家は本もレコードも大丈夫でしたが、フレッドくんやアンクルトリスの人形が落ちてました。
さて、阿佐ヶ谷温室フリマ。出店していた人が女の人ばかりだったので、私にとっては買うものもあまりなかったのですが、ちょっとだけ涼しくなってきた夕暮れに、細い路地に集まってビールを飲みながらしゃべってました。温室だけに中にはいるとちょっと暑い。昼間はどうしていたのだろう。秋ぐらいになって涼しくなってきたら、私も本とかおもちゃとか持って、出展してみようかな、なんてちょっと思ってます。

「旅のなかの旅」-山田稔-

この本は、著者が日本語教師として二年間パリに滞在したおりに、ギリシアやモロッコ、スコットランドに赴いた際の紀行文。予約などせず、ショルダーバッグひとつ肩にかけ、Cランクのホテルでその不便さを楽しむ。そして「旅のなかの平凡な日常、そしてその日常と空想、妄想のからみあいを描く、というのがわたしの狙いであった。」とあとがきで書かれているように、旅における平凡な日常と、各地で遭遇するちょっとしたトラブル、さまざまな国籍の人々との交流やすれ違い、さらにそこから広がる作者の妄想が混じり合いつつ、旅先での出来事などがユーモアたっぷりに描かれている。前述したように、ギリシアやモロッコ、スコットランドの3カ国の旅の様子が収録されていて、一つ一つ読みがいはあるのだが、できることなら、あと2、3カ国多く話が収録されていたらなぁ、とも思ったりする。
山田稔は、これから読んでみようと思っている人で、翻訳に関してもこれまで読んだことがなくて、全然これがはじめて。「あ・ぷろぽ:それはさておき」「ああ、そうかね」「リサ伯母さん」「影とささやき」「八十二歳のガールフレンド」「コーマルタン界隈」・・・・といったタイトルだけで読みたくなりませんか?まぁ一番有名なのは「スカトロジア(糞尿譚)」なのですが・・・・。

今日は、会社を休んで映画を見に行ってきました。夏休みの一日(1/4)。休日としては少しだけ早く起きて、朝ごはんも食べずに渋谷へいって、まずはVIRONで朝食。「パリの朝食」(サラダ、半熟卵、オレンジジュース、バゲットレトロドール、コーヒー)をのんびり食べる。ちなみにミオ犬は「VIRONの朝食」。こちらはVIRONのパンを2種類、バゲットレトロドール、コーヒー、それにカシスやマーマレード、ブルーベリーなど6種類のミオジャムと蜂蜜、チョコレートクリームが付いてきます。トレイの上に並んでいるジャムのビンを見ているだけで、ワクワクしてしまい、どれをパンにつけようか迷ってしまう。当然のごとく食後は口の中が甘くなってしまうけどね。お休みの日に、朝少し遅めに起きて、コーヒーを入れて、前日、お気に入りのパン屋で買ったパンを食べながら、家でのんびり朝食を食べるいいけれど、たまには、こういう朝ごはんもいい。
さて、映画の方ですが、「スプラウト」「リンダ リンダ リンダ」を見てきました。「スプラウト」は、ご飯を食べたばかりだったせいもあって、寝てしまった。もったいない。でもジャック・ジョンソン、トミー・ゲレロ、マニー・マーク、マイス・パレード、サム・プレコップといったミュージシャンが奏でる音楽と波の映像、どこかゆっくりと波の上を進むサーファーたちの姿が気持ちいい。時間があればまた観に行きたい。サントラはもちろんできればDVDも欲しいかも。
「リンダ リンダ リンダ」も、テイストはまったく違うけれど、細かいネタとかもいろいろあって楽しかった。こちらも、とにかくジェームス・イハの音楽がいちいちスバラシイ。こういう言い方もなんだが、女子高校生映画にもったいない。セカンドアルバム聴きたい。私もなにげに女子高校生映画観てるかもね。「Blue」とか「ラヴァーズキス」とか「花とアリス」とか・・・・、でも、そんなものかな。

「場末風流」-小島政二郎-

予定ではPickwickWebのほうに書くつもりだったのだが、小さすぎて私のデジカメではきれいに撮れなかったのでここに書いておくと、西荻にある音羽館が開店5周年記念のピンバッジをもらった。500円以上買うともらえるとのこと。図柄は看板や袋のスタンプに使われている、本を読んでいる女の子の絵で、黒縁のものと金縁のものがあります。かわいいです。
西荻には古本屋がたくさんありますが、私が一番本を買っている古本屋は音羽館だと思う。西荻と限定しなくて、古本と限定しなくて、単に一番本を買っているお店かもしれない。仕入れの本を買うブックオフはのぞいて、自分の本ね。その次は荻窪のささまかな。この「場末風流」もここで買った本だし、そのときは小島政二郎の本をもう一冊買った。加えて、私が毎週のように西荻をうろうろするようになったのは、結婚して三鷹台から久我山に引っ越してきたときからなので、ちょうど5年になるわけで、なにげに音羽館とは開店当時以来のつきあい(というこほどでもない)になる。でも私がこんなオンラインの古本屋をやっていることは恥ずかしくて言ってません。
多分、一番はじめの時は、よみたやを探して行ったら音羽館だった、というような気がします。その頃勤めていた会社は、30人くらいの編プロだったのだけれど、思い出すだけでも、4人は西荻に住んでいて、吉祥寺に2人、私が三鷹台、もう一人久我山に住んでいた人がいたり、近所に住んでいる人が多くて、よく会社帰りに渋谷で飲んだ帰り、夜中の3時、4時にみんなでタクシーで帰ってきたりしてました。で、その西荻に住んでいる人のうちの2人が、その会社に入る前に西荻のよみたやでバイトをしてたことがあって、場所とかと聞いたような記憶があります。ただの記憶違いかもしれないけれど。いや、そういう風にしておこう。

気がつけば5年経って、そのあいだになくなってしまったお店もあるし、かわりに新しくできたお店もある。西荻に対する注目度も変わったような気がする。私もいつもまで、自転車で西荻に通える場所に住んでいるかわからないけれど、これからもいまのような雰囲気の古本屋を続けて欲しいな、と思う。これからも本を買いに行ったり、売りに行ったりしますので・・・・。

「ku:nel」(Vol.15/2005.9.1)

初めてカリプソを聴こうと思ったのは、いつのことだったのだろうか。結婚前に長崎に行ったときに、マイティ・スパロウのレコードを買った記憶があるので、仮にその前の年の夏としても1999年なので、もう6年も経っている。なのに、いまだに数えるほどしか集まっていないのは、単に中古屋にあまり置いていないから、という理由に過ぎないのだけれど、あまりにもいつまで経っても進まないので、今年はコンピレーションCDを買ってしまおうかと思っている。幸い、ここ2、3年、静かなカリプソブームが起きているらしく、カリプソのコンピCDが再発されているようだし・・・・。というわけで、まずは「Calypso Awakening」と「Trojan Calypso Box Set」を購入。ラテン音楽にもかかわらず、押しつけがましくないので、それほど暑苦しくなくて、適度にハッピーなリズムと素朴な流れるようなメロディが心地よいのと、なんとなく朝昼晩、いつ聴いてもその場になじむような気がするところがいい。もちろん社会問題を取り上げているという歌詞については、まったくわかりませんけどね。
とは言っても、実を言えば「Trojan Calypso Box Set」は3枚組だし、各ミュージシャンによってサウンドが大きく変わるということもないので、この4枚と元々持っていた何枚かのCDを繰り返し聴いていれば、それだけでカリプソはもうお腹いっぱいかも、という気分になってしまったりする。夏は始まったばかりなんですけどねぇ。

カリプソついでに、スティールパンレコードの話。こちらも(当たり前といえば当たり前ですが)基本的にどのレコードを聴いても同じようなサウンドだったりするんですが、見かけるとつい買ってしまうアイテムの一つ。最近手に入れたのはPAN AM JET NORTH STARS STEELBANDの「FORM TRINIDAD」というレコードで、これは内容はともかく、ジャケットがいい。
表側はスティールパンの形にくりぬいてあって、内側の女の人の写真が見えるようになっているダブルジャケットの(といってもその女の人が特別きれいだとか、水着姿というわけではない)、裏はホテルの庭と思われる広い庭にPanamのロゴマークが入った空色のスティールパンを演奏しているメンバーが並んでいるというもの。写真を載せられないのがもどかしい。

「角帯兵児帯」-木山捷平-

この本を出版している三月書房は、タテ15.5cm×ヨコ11.5cmの大きさ、函入・糸綴り・箔押の「小型愛蔵本」といわれる本を、1961年から出版し続けている会社。なんと社員は2人だけらしい。サイトを見たら限定70部定価10500円、なんていう限定特装本も出してました。
実際に買ったりはしていませんが、豆本を見たり、作ったりするのが好きな私としては、前々からこの形の本を古本屋さんで見かけるたびに、豆本のようなコレクションのための本ではなく、読むことを目的としていて、でも装丁などはしっかりとした小さな本、として気にはなっていたのですが、実際、「欲しい」と思える作品がなくて、という感じでした。今回、ちょっと調べてみたら、安藤鶴夫や池島信平、池田弥三郎、秋山ちえ子・・・・といった人たちの作品も出ているみたいなので、これからはもう少しちゃんとチェックしてみるつもり。
そんなに売れているわけではないだろうけれど、いつまでも地道に本を出し続けていって欲しいですね。

「ささやかな日本発掘」-青柳瑞穂-

もちろん私は骨董収集なんていう趣味はなくて、骨董に関する本もこの青柳瑞穂と青山二郎の書いたものくらいしか読んだことはない。どちらかというと青山二郎の方が、骨董にのめり込んでいると同時に、逆にどこか粋でかつスマートというイメージなのだろうか。それは単に阿佐ヶ谷と港区の違い、あるいは甲州の田舎と山の手という育ちの違いからくるイメージなのかもしれない。ただ文章的には、青山二郎よりも青柳瑞穂のほうが、やわらかく随筆っぽいくて私は好きだ。
全編において“掘り出しもの”ということに、そして、ただ飾っていくのではなく日常の中で使ってこそそのもの自体の本来の姿がわかる、ということにこだわり、自分の骨董収集を“文庫本を集めるようなもの”という青柳瑞穂だが、もちろん「価値が定まっていて高価な骨董品」≒「有名作家の初版本」、「価値が定まってなくまだ日常で使われていたり、どこかに眠っている骨董品」≒「文庫本」、という意味で、文庫本のように安い品、という意味ではない。蛇足だが、田舎の神社や民家に眠っている仏像や陶器、お面などを見つけて悦に入っている姿は、どこか地方のレコード屋さんで普段見たことのないレコードを見つけて試聴したらこれがまたすごくよくて、ヘッドフォンをつけたまま一人ドキドキしている、なんていう光景を連想してしまったりもする。いや値段と歴史が全然違いますが・・・・。

週末、本格的に暑くなる前に、と思い、八王子、国立、国分寺と中央線を下る古本屋・レコード屋をはしごしてみました。八王子を田舎とは言わないけれど、普段通っている古本屋と違うお店に行くと、なかなか手に入らなかった本を見つけたりしてうれしい。ほんとは八王子なんて中途半端なところではなく、青柳瑞穂が定期的に浜松に行くように、もう少し遠くまで出かけてみたいのだけれど、なかなかそういう機会を作れないままになってます。しかも最近は歩くコースも決まりつつあって、初めての場所に行くことはほとんどなくなってきているのも寂しい。そしてたいていの場合、その駅周辺をひととおり歩き回った後、喫茶店に入ってひと休みする。荷物が増えてきて休みたいとか、たばこをすいたい、いうこともあるけれど、一番の理由は手を洗ってハンドクリームを塗ることだったりする。
もともと手が乾いているのか、古本屋や中古レコードばかりさわっているうちに手が乾いてきちゃったのか、わかりませんが、夏でも手がカサカサしていて、いつもささくれができてしまって困ってしまう。山下達郎みたいに軍手をしてレコード屋に行くわけにもいかないし。古本屋さんや中古レコード屋で働いている人はどうしているんでしょうか。