「ku:nel」(Vol.14/2005.7.1)

別になにが忙しいというわけではないのだけれど、家に帰ってうだうだしているうちに、すぐに寝る時間になってしまい、雑誌などを読んでいる余裕がない。だからこの「ku:nel」も5月の終わりに、ポイント欲しさにわざわざタワーレコードまで行って買ったのに、ほとんど読んでないままテーブルの下に置きっぱなしのままです。それは多分、時間の問題というよりも気持ちの問題なのかもしれないけれど・・・・。
気持ちといえば、6月に入ってから、これまでよりも40分くらい早い時間、7時(正確には7時5分)に起きなくてはいけなくなってしまったのだが、6時半に一度目が覚めて、その後6時50分にまた目が覚め、6時55分に一度目の目覚ましがなり、そして7時5分に2回目の目覚ましがなって実際に起きる、という日々が続いている。寝るのも早いが、一度寝たら宅急便が来ても気がつかないほど眠り込んでしまう私としてはめずらしい。緊張しているのだろうか。

先日読んだ「わが切抜帖より」に、井伏鱒二のことを紹介した文章があって、それが頭から離れない。

「井伏鱒二:本名、万寿次。明治30年2月、広島に生る。いわゆる中央線沿線作家の頭領として、地味ではあるが隠然たる勢力を持つ。有名な蔵書ぎらいで書斎には1冊の本もない」

永井龍男の言葉ではなく、何かの人名辞典から引用したものだが、井伏鱒二かっこよすぎである。そういえば、作家の随筆を読んでいるとたいてい、昔に買った本を取り出してその内容やその本を買ったときの思い出を語ったり、○○○○の初版本を手に入れたときの話などがたいてい一冊の本の中で2や3つあるものだが、井伏鱒二に関しては、ちょっと探し出して調べてみた、といったことはあまり書いていないかもしれない。自分で言うのもなんですが、私は買っている本の量に比べれば蔵書は少ないほうだ、と思う。といっても昨年は一年間で159冊なので古本マニアの方々にしてみれば大したことはない。でもそれを何年も続けている割には、一部はダンボールに入れてクローセット中やベッドの下においてあるけれど、いまだに普通のスライド式本棚1つのなかに収まっている。一人暮らしをはじめて初めて買った本棚1つで15年近く済ましているというのも不思議といえば不思議だ。そしていつのときにもその本棚には、これ以上はもう入らないだろうというくらい本が詰まっているという・・・・。
さて、「書斎には1冊の本もない」という状態にしたいと、この文章を読んでから真剣に思うようになった。いや、無理だろうけれど、いつかはそれに近くなるようになりたい。いつになったらなれるのか。それは単に蔵書は一冊もないが、在庫は○○冊あるという言葉の入れ替えになってしまうだけなのか。それは神のみぞ知る、ということで・・・・。

「木彫りの兎」-山口瞳-

山口瞳は私小説の作家といえるのだろうか。「江分利満氏の優雅な生活」をスタートとして「血族」「家族」をその到達点とし、それを補う形で「男性自身」が存在すると考えるならば、山口瞳の小説は、(過去やルーツを含めて)自身の身辺を語ったものと言えるかもしれない。後年の「迷惑旅行」「湖沼学入門」などの取材旅行ものも、どこか木山捷平や井伏鱒二を思い出させる。とはいうものの、あきらかに自身をモデルとした「江分利満氏の優雅な生活」を読んでいると、江分利氏の主張は、山口瞳の主張であり、江分利氏のつぶやきは、山口瞳のつぶやきであるのにもかかわらず、どこかフィクションっぽさを感じでしまうのはなぜだろう。
この「木彫りの兎」には、自身を主人公をした作品と完全なフィクションの作品が半分ずつくらい収録されていて、それらフィクションの作品を読んでいると山口瞳がストーリーテラーであったことに気づきます。山口瞳は、もしかしたら獅子文六のように事前に完全な下調べをして、完全なフィクションの作品を書き続けるという選択もあったのかもしれない。でも自身の中から湧き上がる“いいたいこと”がありすぎて、フィクションの中に組み込むことではフラストレーションがたまってしまったのではないだろうか。そしてこれはわたしの単純な意見だけれど、多くの私小説作家たちが、自分の思いどおりのストーリーを紡ぎだすことができず、そして強く主張したいこともない中で、それでも文学にしがみついていたいという願望から、自分の身辺を綴りはじめ、やがてその中で文学としての何かを見つけたのであれば、はじめから“いいたいこと”も“ストーリーを作り出す才能”をもっていた山口瞳による「江分利満氏の優雅な生活」が捕らえがたい私小説でもなくフィクションでもない不思議な魅力をもった作品になるのは当然のことなのかもしれない。なんていいすぎか。わたしはこの本も含めて、「結婚しません」とか「私本歳時記」といったフィクションの作品が好きなんですけどね。

ちょっと前のことになりますが、5月の終わりに文芸座で岡本喜八監督特集で上映された「江分利満氏の優雅な生活」を見に行ってきました。1963年の作品で、出演は小林桂樹、新珠三千代、東野英治郎・・・・ほか。江分利満氏のイメージにできるだけ忠実な格好をした小林桂樹は、映画では、江分利満氏であるとともに、山口瞳であり直木賞を受賞するところも描かれる。そして映画の中では柳原良平のアニメまで挿入されます。なんども書くように江分利氏≒山口瞳ではあるのだけれど、実際のイメージとしては、江分利氏のイメージ≒柳原良平の描く山口瞳だったりするわけで、加えて映画の中では、江分利氏の吐露≒岡本喜八の吐露という面もある。そうした複数のイメージが絡み合いながら、いくつものエピソードがテンポよくコミカルに描かれていて圧巻だった。
でも本で書かれてる江分利氏のぼやきが、映画では若い社員と飲みながら語られたりするのをみると、おもしろがると同時にうざったい気持ちになってしまったりする。いや、うざいなんて言っている場合ではなく、コミカルだけれど重い。そして哀しい。映画的でモダンな作品として仕上げながらも、小説の中のテーマや吐露はそのまま、映画が終わった後に何か重いものが残る。そもそも私は江分利氏と同じ歳なのである。この作品が作られた時代と現在では、全然状況が違うけれど、いや、むしろ現在のほうが状況が悪いだけに心に響くのかもしれない。

「わが切抜帖より」-永井龍男-

「カレンダーの余白」に続いて昭和43年に発表された2冊目の随筆集。タイトルにあるように新聞や雑誌などで気になった記事を紹介する形のものや酒に関する交遊録「酒徒交傳」、中原中也、直木三十五、古川録波、菊池寛など、同僚や友人たちの思い出やエピソードを語ったものなどで構成されています。個人的にはやはりさまざまな作家たちが次々と登場する「酒徒交傳」が興味深い。もちろん変わっていく鎌倉の様子が描かれる身辺雑記もおもしろいけれど・・・・。先日、講談社文芸文庫の巻末に掲載されている作品リストをチェックしたら、このような随筆集もほぼ読みつくしている感じになってきていたるので、これからは一冊一冊大切に読んでいくことにしたい。

週末は、ミシェル・ガン・エレファントばかり聴いてました。私にとってミシェルというと、やはりデビューアルバムから「チキン・ゾンビーズ」までの、ブリティッシュ・ロック、モッズ、パブロック的な佇まいの頃までしか真剣に聴いてない。その頃はライブにも行ってました。でもバンドのサウンドがガレージっぽくなっていったこともあり、それ以降はほとんど追いかけていません。もっともそういうファンっていっぱいいるのではないだろうか。まぁミシェルを聴かなくなった一番の理由は、単にその頃からロックという音楽にほとんど興味がなくなってしまったという理由が大きい。もう1998年以降のU.K.ロックがどうなってるのか、なんてぜんぜんわからないです。
それでも解散してから、2カ月に一度か二度くらいなぜかミシェルばかり聴きたくなる日があって、そういうときにまず聴くのは、「カサノバ・スネイク」だったりする。単に日本のロックバンドを知らないので、ついこればかり聴いてしまうのかもしれないれけど、このざらざらした乾いたサウンドは唯一無二のもので、今でも私にとっては相変わらず最高のロックバンドかもしれない。

「娘と私」-獅子文六-

少し早めに仕事を切り上げてブックオフに寄って帰る。定期券内にブックオフがあるとつい寄ってしまうのは私だけか。平日の夜は、漫画の立ち読みする子供たちもそんなにいないし・・・・。とりあえず100円コーナーから眺めていくのだけれど、下の棚に何冊か本が積んであって、よく見ると一番上においてあるのは、「父の乳」。しかも100円。思わず運命か、と思って、近寄ってみると、ちょっと離れた場所で本を探していたおじいさんが近寄ってきて、その「父の乳」の上に手に持っていた本を重ねて移動させてしまった。どうやらその人がすでに確保した本だったらしい。

「娘と私」は、フランス人であった最初の妻とのあいだに生まれた娘、そして妻の死後、再婚した相手との交流を描いた私小説風の実際にあったことをつづった物語。架空の物語を作り上げるというタイプのものが多い獅子文六としてはめずらしい作品で、以前に随筆で読んだエピソードなども次々と出てくる。はっきりいってものすごく長い随筆という感じですね(文庫本で2cmくらいの厚さがあります)。そして「父の乳」はそれ以前、彼が10歳のときに死別した父の思い出と2人目の妻が亡くなり、娘が結婚した後再婚した3人目の妻との間に生まれた息子のことを書いた作品なのです。獅子文六の作品はただでさえ手に入りにくいので、次に出会うのはいつのことになるんだろうか。

「This Is Venice」「This Is Ireland」-Miroslav Sasek-

サセックの旅行絵本は、復刊されるたびに買っている。
多分、毎月2冊ずつ、といった感じで復刊されるのではなく、不定期に(?)ある程度間隔があいて復刊されるので、買いやすいのだろう。代官山の本屋ではじめてこの2冊を見かけたのはかなり前のことだったような気がする。絵のかわいさはいうまでもなく、ベニスの水色もアイルランドの濃い緑もとてもきれいで、表紙を手前にして本棚に並べておきたいくらいだ。このペースで少しずつ復刊していって欲しいと思う。

小遣いの問題もあるけれど、だんだん歳をとってくると、年月が過ぎるのが早くなるので、そう頻繁にいろいろなものが発売されると、追いつけなくなってします。昔は発売日になるのを楽しみにしていた月刊誌も、最近では、月間だともう次の号が出てるの?という気分になっていまうので、隔月がちょうどいい、なんて思っているし(そういう意味で「KuuKuu」はこのまま隔月のままでいて欲しいと思う)、好きなミュージシャンの新譜も、2年か3年置きぐらいがちょうどいい。むしろそのくらい待たされたほうが、発売されるときに気分が盛り上がるというものです。かといって、達郎みたいに5年も6年も間があいてしまうのもどうかと思うが・・・・。それに無理して毎年同じようなアルバムを出すよりも2年に一枚にくらいにしてじっくりと作ったほうが、長く聴けるいいものが絶対出せるって、思うんですけど。それでは生活していけないのだろうか。

それで、「今日、6年ぶりに発売されたTOKYO No.1 SOUL SETの「Outset」を買った・・・・」なんて、話を続けられると気持ちがいいのだけれど、そもそもまた「Outset」は出てないし、すぐに買う気も今のところなかったりする。私の気持ちとしてはもうソウルセットなんて、過去のバンドという認識だったのですが、(でも「Jr.」は、いまでも大好きなアルバムでときどき聴いてるんですけどね。)昨年出たZoot16が思いのほか良かったので、ちょっと期待してる。とりあえず週末にレコード屋に言って試聴してみますか。

「Petunia」-Roger Duvoisin-

久しぶりにアマゾンで買った本のうちの一冊。前回(といってもそれがいつだったか?)注文したときは、品切れか何かで手に入らなかったのだけれど、今回は意外と早く届いたのでうれしい。翻訳もされていて、日本語のタイトルは「がちょうのペチューニア」となってます。Roger Duvoisinの本は「White Snow Bright Snow」に続いて2冊目。ちょっと絵のタッチが違いますね。絵本は買いだすとどんどん欲しくなるんですよねぇ。

6月に入ってちょっと気分的にバタバタしているという感じではあるのですが、1日から始めたかった二周年記念のプレゼントページを、ようやく今日アップできました。今回もワンパターンだけれど、一昨年の12月にイギリスに行った時の写真を選んでMOサイズの写真集を作りました。カバーは靴の模様が入ったピンクの布にしたので、今まで一番かわいいものになったかな。中身の写真とあっていないという意見もありますが・・・・。ホントはその年に撮った写真をセレクトする形で一年に一回まとめる、というのが理想なんですけどね。今年はもう少し写真を撮り溜めて来年の写真集に使えるようにしたい。
とはいうものの、「最近、写真を撮っていないのでもっと撮りたいなぁ」なんてことをもうどのくらい思い続けているのか。私は写真を撮りにどこかへ行くというほど、本格的に写真を撮っているわけではなくて、単に街を散歩している時などに気がついた風景やものを撮っているだけなのだのだけれど、いっつも古本屋とレコード屋を結んだ同じ道ばかりで、寄り道もせずに歩いているので、写真という気分ではないのだ。たまにはいつもとは違う雑貨屋やおもちゃ屋に寄ったり、横道に入ってみたりすればいいのだけれど、その余裕がどうもない。それはカメラを持ってないからなのか、余裕がないからカメラを持ち歩く必要がなくなってしまうのか?
あぁ、どうでもいいことですみませんでした。

「禁酒宣言 上林暁酒場小説集」-上林暁-

これは一つの考え方なのですべての場合に当てはまるというわけではないけれど、物事を好きになるということの基準のひとつに「ひとりでする」かどうかということが挙げられると思う。例えば、映画。子供の頃はたいてい親や兄弟たち、友達と見に行っているけれど、映画が好きになると次第にひとりで映画館に入り浸るようになる。ライブやクラブ、あるいは旅行などもにいくのもそう。初めは誰かと一緒に行くけれど、だんだんとひとりで行くようになる。ずっと友達と一緒かもしれない。だからといって映画などが好きではないということにはならないけれど・・・・。でも“何かをひとりでする”ということは、やはりほんとうに好きだからだと思う。
そういう基準からいうと私はそれほど酒が好きというわけではないと言えるのだろう。自分から誰かを誘って飲みに行くことはあってもひとりで飲みに行くということはない。それほど飲めるわけでもない。記憶がなくなるくらい酔ったこともないし、最近は吐くまでの呑むこともない。たいてい中ジョッキ4杯か5杯くらいでやめる。近所の荻窪や吉祥寺で呑む時は、自転車で家まで帰えるあいだに酔いがまわるので、気をつけるようにもしている。

そのわりには読む本に関しては、酒好きの作家が多い。この上林暁、井伏鱒二、木山捷平、外村繁、小沼丹など、中央線、阿佐ヶ谷周辺の作家はもちろん、永井龍男や吉田健一、そして山口瞳などもそう。呑まない作家と言えば小島政二郎くらいもしれない。そしてこの人たちはみんな当然のようにひとりでも飲みに行く。そして何軒も酒場を梯子し、最後には記憶もあやふやになってふらふらと家路につく。
この本は、7年間の闘病生活の後、昭和21年に妻を失い、酒に慰めを求めるようになった時期から、ついには身体をこわして「禁酒」を余儀なくされるまでのあいだに書かれた作品をまとめたもの。宿酔と悔恨をいくら重ねても止められず、毎晩のように酒場を放浪し、寂しさから酒場のマダムに心をよせ、時に切実に壮絶に耐え難い酒に対しての悔恨を語り、時にマダムや酒場で出会う人々とのやりとりを滑稽に描いている。山口瞳も含めて、なんで私はこんなに“酒飲み小説”が好きなんだろうか。

「小黒坂の猪」-井伏鱒二-

突然ですが「物事を深く狭く掘り下げるタイプ」か「広く浅く掘るタイプ」のどちらかと言えば、私はそのどちらでもなくて、昔、友達に指摘された言葉を使うなら、「あるきっかけがあって地面に穴を掘ったら、そこからもぐらのように地下2mくらいの場所を掘り続けている」という感じ。しかも本当に適当に偶然に頼って掘っているので、まったく体系的な把握ができないし、ときどき自分が掘った穴に戻ってしまったりする。

本について言えば、最近、「どんな本を読んでいるか?」という質問に対して、「阿佐ヶ谷文士と鎌倉文士」と答えているのだけれど、それも、たまたまお店で小沼丹と手に取ったのがきっかけで、その小沼丹から井伏鱒二を再読し、そのついでで木山捷平、上林暁、外村繁、青柳瑞穂と辿って見ただけで、それぞれの作家が文学史の中でどのように評価されているのか、どのような位置にいるのか、なんてことはぜんぜん分からない。そもそも阿佐ヶ谷文士と言われる人々をうまく説明もできない。なので、その後に「例えば、井伏鱒二とか」なんて言ってしまうのだが、話し相手との共通認識は「黒い雨」と「山椒魚」しかなく、しかも私は「黒い雨」を読んでいるわけでもなく、「・・・・」となってしまう。かといって、「阿佐ヶ谷文士」というキーワードに対して、「私小説がどうたらこうたら」とか「私小説の作家では○○が好きだ」なんて言われてもこちらとしては困ってしまうわけで・・・・。
10年くらい前、バイト先の友達から「どんな音楽を聴いてる?」という質問に対して、つい「ピチカート・ファイブとかフリッパーズ・ギターとか」と答えると、たいてい「オザケンね」という答えをされて困ってしまったのを思い出す。かといって、当時渋谷系と言われていた人たちや、その元ネタのミュージシャンなどを挙げられてもわからなくて困る。こちらは単に、大滝詠一から適当に辿って行ってるだけなんだから。
音楽や本などを含めて、趣味の話をするのは難しい。思い入れが接し方がそれぞれ違うからねぇ。個人的なことなので詳しくは書かないけれど、もともとフリッパーズ・ギターが好きだったということはあるけれど、もし小沢健二が、1992年に「犬キャラ」を出して1993年に「Life」を出していたら、小沢健二に対して思い入れは全然違っていたと今となっては思う。もしかしたらまったく聞いてなかったかもしれない、とさえ思う。

今日、二子玉川の多摩川河川敷で行われた「王子様(ozaken)ピクニック」で、オザケンの曲に合わせて、歌いながら踊っている人を見ながら、そしてときどき一緒に踊りながら、ここにいる人はこれまでのどんな時に小沢健二の曲を聴いていたのだろうか、全員がそれぞれ違うのだろうなぁ、なんてことをそんな風に考えたりしてたわけですね。いや、ホント言えば、オザケンとかどうでもよくて、晴れた日に多摩川の河川敷という野外で、大音量で音楽聞きながら、シートの上に寝ころんだり、お菓子食べたり、フリスビーしたり、川沿いを歩いたり、飛行船を見ながら煙草をふかしたり・・・・してる、それだけでいい気分でした。

「半ドンの記憶」-上林暁-

上林暁、29作目、最後の作品。昔の作品も読んでみたいけれど、簡単に手に入りそうもないし、新たに出そうもないのが残念。とりあえず今日、坪内祐三が編集した「禁酒宣言」を今日はネットで注文したので届くのが楽しみ。

下北のモナレコードで31日まで行われている「まほ&さいだぁ≡博」に行って、ついでにEXPO LUNCHを食べる。モナレコードは、レコード屋とカフェが併設されていて、夜はライブも行われるらしい。レコード屋と言えばいいのか、カフェと言えばいいのか、ライブスペースと言えばいいのか、わからないところ。そして壁をスクリーンにして曽我部のライブが映し出されていて、BGMはキセル、という、いかもに下北らしい場所。私はそれほど、下北という街にも、ましてやそれをとりまく演劇や音楽といった文化にもそれほどに思い入れはないので、ちょっと居心地が悪いような気分になってしまいました。ちなみにEXPO LUNCHは、ハンバーグとトマト、そしてアボガドが挟まったハンバーガーとポテト、ブルーベリーのヨーグルトというセット。ポテトには「まほ&さいだぁ≡博」の旗が立ってます。ハンバーガーが厚くてガブリと食べられずにバラバラにして食べたのだけれど、おいしかったです。
ひさしぶりの下北の街は、なくなっているお店がところどころに散見して、空き地や工事中になっていたりして、少し寂しかった。

「鳴るは風鈴」-木山捷平-

木山捷平の本は、表紙の絵なども含めてよい雰囲気を出しているもが多く、できれば単行本でそろえたいのだけれど、彼のゆるやかなユーモア漂う作品には根強いファンがいるようで、古本屋さんで見かける木山捷平の本は割と高い値段が付けられていて、私にはちょっと手が出ない。だから少なくとも講談社文芸文庫から出ている9冊はそろえたいつもりで、本屋さんで見かけた時には必ず買うようにしている。ブックファーストやパルコブックセンターなどで探しても意外とないのです。
そんな風に思っている割には、たまたま時間があったので、一日で読み終えてしまった。ほんとうは、2冊くらい持ち歩いてゆっくりと読むか、もしくは旅行にまとめて持っていってじっくりと読みたい、と思う。そういう意味で、小沼丹の文庫を、ランカウイ島の、町に出るにはタクシーで1時間以上かかる森の中のホテルで、プールサイドや部屋のベッドサイド、海を見渡せるテラス席でまとめて読んだのは贅沢だったなぁ、と思う。いつかそういう時には、木山捷平の文庫本を持っていって再読することにしよう。

今年の夏は久しぶりにブラジルものとジャマイカもののレコードを聴いてみようと思って、寝室にあるレコードからブラジルものを引っ張り出して、テレビの下のラックに移動させてみました。ブラジルものは年々かおきに自分の中でブームが起きているわりには、思っていたよりも少なくて、20cmくらいしかなかった。これから9月くらいまでは、ブラジルものもジャマイカものも再発盤がものすごい勢いで出ているので、その辺を適当に選んで、レコードを買っていくつもり。と言ってもソウルセットやハーブビーなどの新譜が出たら当然買うので、そればかり、というわけではないですけどね。