「魔法の夜」-スティーヴン・ミルハウザー-

-■夏の夜更け満月の下、眠らずに町をさまよう人々を描いた作品。何年もひとつの小説を書き続けている39歳の独身男性やマネキン人形に恋する酔っ払い、仮面を着けて家屋に忍び込む少女たちの一団、屋根裏部屋の人形、14歳の少女‥‥といった登場人物たちの、ひと夜におきるそれぞれの物語が、短いセンテンスで同時並行的に語られいき、ときに交差しながら全体の物語が進んでいきます。
一つ一つの文章が短いので、状況をつかみ取れないまま次の登場人物が出てくるし、気がつくと前に出た人物がまた出てきたりするので、最初はちょっと戸惑うし、見落としもかなりあるんじゃないかと思う。でも、読み進めていくうちに次第に物語の中に入り込んでしまい、読み終えると不思議な感触が残ります。
しかし夏の夜の話ということがわかっていて、しかも帯に「月の光でお読みください。」と書いてあるのに、なんで冬のこんな時期に読んでしまったんでしょうね。夏の夜に読んで、読み終わったらそのまま外に出て、夜の町を散歩しながら物語を反芻したり、余韻にひたったりしたくなる作品でした。

■23日から25日かけて西調布にある手紙社のEDiTORSで行われた3Days Bookstoreが終了しました。開会期間中たくさんの人に来ていただきありがとうございました。本をとってじっくりと眺めたり、置いてあるイスに座って本を読んだりする人が多く、野外のイベントなどと違いゆっくりとすごしていただいた人がたくさんいて、よい雰囲気のお店になったのではないかなと思っていますが、いかがでしたでしょうか。
カヌー犬ブックスとしては、よかった点もありつつ、反省点もたくさんありました。次回は来てくれた人が、より楽しめるような本を並べられたら、と思っています。また個人的には、一緒に出展した古本屋さんの方とゆっくり話せたりして、いろいろ勉強になりました。野外のイベントで、ブースごとに会計を行う形ですと、自分のブースの対応で手一杯でなかなかほかの出展者の方と話す機会ってないんですよね。皆さんすごい人ばかりで話がおもしろい!

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「オディール」-レーモン・クノー-

-■アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」を読んだのはいつのころだったのだろうか?20代の前半だったと思うけれど、もうすっかり忘れてしまってます。いや、そもそも内容をちゃんと理解していたかというと、たぶん、してない。
これは、レーモン・クノーが若いころに参加したシュルレアリスム運動への参加と訣別、そしてオディールとの恋愛を描いた自伝的な小説。
登場人物も実在の人物をモデルにしていて、解説を読むと誰がどの人物なのか書いてあるのですが、もともとどんな人物なのかわからないので、どういう風に解釈すべきなのかもわかりません。
それよりも、徴兵でアラブに赴き、帰ってきた21歳で生まれたと宣言し、数学に耽溺している主人公が、シュルレアリスム運動にかかわることによって、より現実の世界に根ざした自分に生まれ変わるというストーリーと、容姿や性格、そして何を考えているかなどまったく書いていないオディールとの不思議な恋愛物語として素直に楽しめました。
ひさしぶりに「地下鉄のザジ」を見たくなった。

■「地下鉄のザジ」と言えば、20代の頃、ルイ・マルの「鬼火」がベスト5に入るくらい好きだった。アルコール依存症の治療を受けている人生の虚無に憑かれた主人公のアランが、自殺するまでの2日間を描いた作品。昔の友人や恋人に会いに行くものの容赦のない陰口を言われ、自暴自棄になっていく様子がエリック・サティのピアノをバックにモノクロの映像で映し出されていく。この映画を見た当時、自分もモラトリアムの時期で、友だちが次々に就職して一人取り残されていく状態だったこともあり、ものすごく主人公に共感したものだけれど、20年以上経った今、改めて見直したらどんな印象を受けるのだろうか。逆に当時はそれほどお酒を飲んでいなかったにたいして、今はけっこう呑むようになってしまったので、アルコール依存症として共感できちゃったりして(それはそれでしゃれにならない)。夜中にワインとか飲みつつDVDを見てみますかねw

■ところでこの「鬼火」はピエール・ドリュ・ラ・ロシェルの「ゆらめく炎」という作品が原作になっているということをはじめて知りました。ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルは、第二次世界大戦中、反ユダヤ主義の雑誌に寄稿するなど、ファシズムを賛美する活動をしていた作家らしいです。そしてドイツの旗色が悪くなった1945年3月にレジスタンスによる復讐を逃れるため自殺したとのこと。
ヌーヴェル・ヴァーグに分類される監督の映画の原作が、そういう経歴の作家の本だったということにちょっとびっくりしている。こちらも読んでみて、映画と比べてみたいけど、なんか読んでてつらくなりそうな小説みたいなんですよねぇ。

-■さて、3days Bookstoreまであと2日。直接3days Bookstoreとは関係ないけれど、ひさしぶりに古本屋だけが集まるイベントに参加するということで、なんとなく古本屋について考えたりしてる。今回参加する古本屋は、それぞれ特色や得意分野があって、そうした古本屋が集まることで、3日間だけ一つの古本屋を開く、というのが、コンセプトの一つなのだけれど、古本屋って基本的に日本全国で同じ古本屋はないんですよね(ブックオフとかのチェーンはまぁ置いておきます)。特に取り扱う本のジャンルを決めていないどんな町の古本屋でも、買取の本はそれぞれ違うし、仕入れる本も違う。新刊の本屋だったら、今月出る新刊がどのお店にも並ぶのだろうけど、そういうことはない。
だからわたしの認識としては、古本屋というのは、1店舗のみだけでなく、(日本全国と言っちゃうと広すぎるので)自分が行ける範囲内の町にある古本屋全部を合わせて一つの古本屋なんじゃないかなと思う。そうやって各古本屋が集まることで、幅広いジャンルの本をカバーし、かつそれぞれのお店で古い本を扱うことで時間軸の幅も広がっていくわけです。
いうなれば、新刊の(特に大型の)本屋さんは今ある本を幅広く扱うことで面を広げていっているのであくまでも平面なんだけど、古本屋は、いくつもの古本屋が集まることで面を広げつつ、各店舗で時間を掘り下げることで深さ(高さ)が出てくるので立体になるんじゃないかな、と。
そんなわけで、今回の3days Bookstore、いい形の立体になるといいな、と思ってます。

「紅茶と薔薇の日々」-森茉莉-

-■幼いころに食べた森鴎外から伝わった欧風の料理や、パリで食べた料理、住んでいる下北沢周辺のお店、そして森茉莉自身が作る料理の紹介など、食についての文章を集めたエッセイ集。もともとは編者の早川茉莉が単行本に入っていない文章を集めていて、それを一冊にまとめる予定だったとのことですが、紆余曲折あり結果としてテーマ別にまとめたとのこと。このほかにもファッションについて、生き方についてのエッセイ集が出てます(もっと出てるのかもしれないけどわかりません)。
「私的読食録」での角田光代の言葉を、また思い出しちゃうんだけど、女性らしくかなり詳細に食べものそのものや作り方について書かれてるし、自分の好きなこととそれ以外のときの落差があって、ある意味わかりやすいのかもれないけれど、どこかつかみどころがない。そして、ものすごく女性っぽい文章だと思うけど、なんとなくつい引き込まれてて読んでしまう。でも文章を読んでいて、自分がちゃんと理解・共感できてるかというと、自信はない。
まぁそんなことを言えるもの、エッセイしか読んでないからかもしれません。もし「甘い蜜の部屋」などの小説を読んだから違う印象になる気がするけど、どうなんでしょ。いや、逆にそれが怖くて小説を読んでない、とも言えるかも?

■森茉莉が下北沢でよく行く喫茶店や食べもの屋などについてエッセイに、添えられたお店の場所などを示す手書きの地図がいい。手書きなので取り上げられているお店のほかには最小限のことしか描かれていないけれど、なんとなく手書きの地図って見てるだけで楽しい。
いつか手書きの地図が描かれている本を集めてカヌー犬ブックスで特集してみたい。と言っても、すぐに思いつくのは松浦弥太郎の「居ごこちのよい旅」くらいですけどね。これは、雑誌「coyote」に連載されていたときから好きでよく読んでいて、特にサンフランシスコの地図は、サンフランシスコに行ったときに雑誌を切り取って持って行った思い出がある。若木信吾の写真もいいし、文庫にもなっていますが、大きなサイズで持っていたい本。

-■3days Bookstoreまで、もう2週間を切って少しずつ準備を始めてます。今回は古本屋さんだけのイベントなので、基本的にはいつものように料理随筆とかレシピ本とかが中心になっちゃうんだけど、今まで持っていくのに躊躇していた文芸書なども持っていくつもりです。場所も落ち着いた雰囲気になると思うので、ゆっくり見ていただいて、気になったものがあれば、どこかに座ったりしてちょっと読んでもらえればと思います。
食べものについての随筆って、書いている作家も、小説を書くときよりはもちろん、随筆としても、題材的にも世相などについて書いているときよりも、どこかリラックスした感じで書いていて、読むほうも気楽に読めるし、逆に小説などではあらわれない作家の素顔も垣間見れたりします。なので、今まで興味のなかった作家や敬遠していた作家の本でも、ちょっと読んでみると、見方が変わるのではないかとも思うので、こういう機会に手にとってもらえるとうれしいです。

「親馬鹿始末記」-尾崎一雄-

-■尾崎一雄と尾崎士郎という二人の作家の娘は、両方とも同じ一枝という名前で、年も1歳違いらしい(もちろん苗字は両方とも尾崎)。それをネタに赤ちゃんの頃のエピソードから同じ大学に入るという顛末、そして結婚し姓が変わるまで(結婚した時期もほぼ同時期という‥‥)をつづった作品を中心に、息子や次女のこと祖父のことなどをについての作品が収録された短編集。(尾崎一雄の場合、短編集と書くべきなのか随筆と書くべきなのかいまいちわからない)
同じクラスになって、先生が「あなたのお父さんの商売はなんです?」と聞くと、二人とも「小説家です」と答える。さらに先生は、「尾崎という小説家は二人いますが、いったいどっちの尾崎さんです?」と聞くと、二人は「うちのお父さんは、小説のうまいほうほうの尾崎です」と答えるという妄想が楽しい。売れてるとか人気があるとかではなく、「小説のうまい」という表現がいい。そういう関わりもあってか二人は仲もよく、後年、共著で、「ふたりの一枝」という本も出しているとのことです。

-■暁が4月に小学校に入学するので、入学祝を兼ねてうちの親に学習机を作ってもらい、週末にうちに来て組み立てました。父親は特にそういう仕事をしていたわけでもないけれど、昔から日曜大工が好きで、たぶん、実家にある家具の半分くらいは手作りなんじゃないかと思う。大学生の頃、外においてあった物置が壊れて、買いなおそうとしたときに、「丈夫なものを買ったら高い。自分で作ったほうが安く済む」と言い出して、作ってみたものの、下にものを入れられるように高くしたり、扉もちゃんとしたサッシを入れるなどして、買った場合よりも倍以上の出費になってしまったこともある。でも、それから25年くらい経ってるけど、いまだにその物置を使っているので、結果的にはよかったのかもしれないですけど。
話を戻すと、うちの兄弟に作ってもらった机は、もともと甥っ子に作ってものと同じ形で、妹がどこかの机のパンフレットを渡して、それに似せて作ったもの。今回で3台目なので、ところどころが改良してあったり、引き出しなどもよりスムーズに引き出せるようになっていたりして、作った本人はかなり満足してました。暁もようやく自分の机が来て喜んでて、机の前で座ったり、本を並べてみたい、なぜかランドセルをしょってみたりしてましたが、3年生くらいになるまでは、リビングのテーブルで宿題などをすると思うし、当分使わないんでしょうね。

■わたし自身は日曜大工で何かを作ったりすることもないし、上手に作れるわけではないので、子どもの頃に遊んでばかりいないでもっと父親の手伝いをすればよかったと今になってみると思う。と言っても、作りたいものはカヌー犬ブックスが出店したときの什器とかなんで、作ったとしても普段の置き場所がないというのが、作ら(れ?)ない一番の理由なんですけどね。在庫の本も含めていろんなものを収納できる倉庫がほしいー

■ところで、この短篇集の中の一篇に、尾崎一雄が、自分の敷地内になる大木を切って材木として売って欲しい、と言われ、いろいろ迷いつつも、他人に売るなら自分は器用なのでこけしでも作って、顔は奥さんに描いてもらって、商売でもしようか、というくだりが出てくる。
うちもお正月とかに親戚が集まった時など、売って商売にすればいいのにと言われていたけど、父親にそういう気はまったくなかったらしい。作るのはもっぱら自分の家の中のものだけで、近くに住む親戚などに頼まれたりすることもなかったな。あと何十年か若かったらネットで売ったり、請け負ったりすることもできたかもしれないけど、その辺はほんと疎いというか、まったく興味ないからなぁ。父親の興味のないものに対しての無関心さはなんなんだろう?とずっと思ってたけど、気がつけば自分がそうなってたりするからほんと怖い。そういえばそんな話を最近飲んでるときにしたな。

「北園町九十三番地 天野忠さんのこと」-山田稔-

-■かなり前に買ってはみたものの、天野忠という詩人についてはまったく知らないし、山田稔の回想がいくらおもしろいうはいえ、一人のことで一冊はちょっとハードル高いかなと思って、そのままにしてなってました。実際読んでみたらどんどん引き込まれてしまって、一気に読んでしまった。もっと早く読んでおけばよかったということと、もっとゆっくり読めばよかったという2つの後悔。
天野忠は、山田稔が若い頃に非常勤講師を勤めていた奈良女子大の図書館に同時期に勤めており、両方とも家が京都だったことから、帰り道に一緒になったエピソードから始まり、その何十年後かに、天野忠が読売文学賞を受賞したことを新聞で見つけ、手紙を出したことから本格的な交際が始まります。お互いに自分の著作を郵便ポストに入れ合ったり、編集者と同行して天野忠の家を訪ね、文学について映画についてなどの話を、出されるお酒を飲みながら聞いたりという話が、天野忠の詩や随筆の内容とともにつづられていきます。
最後に天野忠が亡くなったときに、山田稔が奥さんに「何度も伺わせていただいて、ありがとうございました」と言うところなど、これまでの交際の様子が一気によみがえってくる。そして、その頃、山田稔もやっと定年退職して、「わたしは、いつでもヒマですさかい」と言える身分になったのに、天野忠はいないという余韻で、ちょっと泣いてしまいました。
ところで山田稔によると天野忠は詩もいいけど、それよりも随筆がよいとのことなので、読んでみようと思い、amazonで調べてみたら、ほぼ全部在庫切れでした。気長に探してみることにします。(いつ手に入ることやら)

■前回、「平野甲賀と晶文社展」に行ったことを書いたけれど、この本の装丁は平野甲賀なので、今回に残しておけばよかったということに今気がつきました。晶文社じゃなくて編集工房ノアですが。

-■このところ、1980年代に活躍したイギリスのブルーアイドソウルやフェイクジャズ、ファンカラティーナなどのレコードを聴いている。ブロウ・モンキーズやキュリオシティ・キルド・ザ・キャット、ファイン・ヤング・カニバルズ、ワーキング・ウィーク、カリマ、ニック・プリタス、モダン・ロマンス‥‥などなど。去年、DDFCの80年代特集でDJをさせてもらったときに、改めて聴いてみて、いいけどもう当分は聴かないんだろうなと、思っていたんですけど、一年もただないうちに自分の中でのブームが復活という感じ。この辺をよく聴いていた高校生の頃(1985年~1987年)がちょっと懐かしい。
わたしは、高校くらいまでちゃんとジャンルを意識して洋楽を聴いてなくて、テレビやラジオなどで流れてきた曲でいいと思ったものを聴いてただけだったんですよね。アズテック・カメラやニック・ヘイワード、ハウスマーティンズを聴いてるときもぜんぜんネオアコということを意識してませんでした。そもそもネオアコという言葉を知ったのは、高校3年の終わりくらいじゃないか?という。
そんな中、唯一緩やかにジャンルを意識してたのが、この辺のバンドだったのです。たぶん「ビギナーズ」を見て、その後、サントラを買ったということが大きい。このサントラでいろんなアーティストがつながって、広がった気がしますね。ちょっと話が違うけど、サントラに収録されていたスリム・ゲイラードを聴いてジャイヴをいう音楽を知ったりしました。当然のことながら映画の内容自体は、もうまったく覚えてません。今度、DVDを借りて見てみようかしら。

■どのレコードを聴いてもソウルやジャズそのまま演っているわけではなくて、ソウルやジャスをベースにしながら80年代の音楽を再構築しているので、本格的なソウルやジャズを聴いたあとでは、打ち込みの音や軽めのサウンドが物足りない。と、90年代以降ずっと思ってたし、なにかの折りに実際に聴いてみてもそういう感想しか持ってなかったんですが、今聴くとそのブレンド感や軽さがいい。こういうあからさまな折衷音楽ってもうないんじゃないかな。でも自分の好きな音楽をベースに新しいものを作ろうという気概は伝わってきます。でもその新しさが、時を経てひどく古いものになってしまった、という事実はあるし、今後も当時を知らない若い人たちに、これらの音楽が再評価されるということもないんじゃないかと思うけれど。