「下駄の音」-三浦哲郎-

◆「1を知るには10を知れ」
もう1月も終わりですが、ここまでが去年読み終わった本。三浦哲郎の本は一昨年の年末くらいに随筆集を読んで、次は小説も読んでみようと思ったまま一年がたってしまいました。時のたつのは早い、というか自分が全然本を読めていないことを改めて実感してしまいます。
そんなわけで、今年は月に5冊以上を意識して本を読むことを目標としたいと思ってるのですが、どうなることやら。やっぱりある程度の量を読まないと、系統立てて本を読めなくなってしまうのが物足りない。実際はまぁいい加減な性格なので、系統立ててってほどちゃんとしてないのですが、決まったテーマに沿った本をある期間まとめて読むことで気がつくことってたくさんあるような気がします。

前にも書いたような記憶がありますが、「質」か「量」って言ったら「量」なのですよ(月5冊じゃ量とも言えないですが)。ひとつの作品は、それ単体で存在しているわけではなくて、その作者のそれまでの習作や失敗作、駄作の積み重ねによって生まれてくるものだし、またほかの作家の影響も欠かせないし、さらに影響を受けているのは小説の分野だけに限ったことではない。そういうひとつの作品を形成する作品との相関関係がわかることで、ほんとうのおもしろさがわかるようになるのだと思う。それは本に限ったことではなくてね。

量をこなしていき、点と点を結んで線にしていき、線と線を重ねることで面にたどり着くくらいじゃないとだめなんですよね。でもそれを頭ではわかってるんですが、なかなか実践できないのも事実なわけで‥‥。今年は「量」を意識していろいろなものにふれていきたいと思ってます。

そんなことを教えてくれたのが大滝詠一でした。
(もう一人同じことを教えてくれた人がいて、それは植草甚一です)

「1を知るには10を知れ」「1を知って10を知るじゃないんだよ。10を知るためには12まで知って2戻るくらいじゃないとダメなんだ」っていうようなことをどこかで言ってたなぁ~と。

「夕暮の緑の光―野呂邦暢随筆選」-野呂邦暢-

◆古本屋の思い出(と言うほどものでもない)
古本屋の思い出や故郷の諫早や長崎、自分の作品などについてつづった随筆集。野呂邦暢の本は講談社文芸文庫から出ている「草のつるぎ・一滴の夏」を読んだきりで、なかなか読む機会がない。この本のあとがきに書いてあるように、古本屋での値段が高いんですよね。かといって、今手に入る大人の本棚シリーズは3000円近くしますけど。どうにかならないもんですかね。もうこういう状態の作家の本を気軽に読むには電子書籍しかないんでしょうか(いや野呂邦暢の本が今電子書籍で読めるのかどうかは知らないが)。普通に紙の本で読みたいんだけどなぁ。こういっちゃなんですが、電子書籍って紙の本の代用品じゃないですか、と(少なくとも今の時点では)。
この本でも、野呂邦暢がものすごく読みたかった本を、人から借りてコピーをとって読むのだけれど、やっぱりコピーじゃ満足できないって話が収録されてます。これは編者の岡崎武志が、電子書籍を頭に浮かべて収録したんだろうなぁ、なんて勝手に思ってます。

そんな本について書かれたものだけでなく、古本屋との思い出がつづられているのも楽しい。本は読みたいけれどなかなか買えないもどかしさや、古本屋の主人の様子などがダイレクトに伝わってきます。身近なことについてつづられた文章でも、作者の一つ一つの文章に対する気持ちや妥協のなさが伝わってきて軽く読み飛ばせません。かといって、重いわけでも、それが強調されることもなく、あくまでも文体は静かで軽妙なところがすごい。やはり少々高くてもまずは大人の本棚シリーズ「愛についてのデッサン」と「白桃」を手に入れたくなります。

話が変わりますが、お正月は一泊で二宮へ帰省。気分としては子どもを親にあずけてわたしは近くに出かけたり、友だちと飲みに行ったりしたいところですが、まだまだ子どもが小さいこともあり、また親と離れて過ごすことにあまり慣れてないので、数時間だけ親に子どもたちの相手を任せて海に行ったり、駅前の商店街を歩いたりしただけでした。
できるなら平塚に出て見ていろいろ散歩してみたいと思ってるんですけどね。もう平塚なんて20年以上も歩いてないので、記憶にあるものはほとんど残ってないんだろうと思う。ときどき自分が平塚の町を歩いている夢をみるけれど、起きてから思い返すと、夢に出てきた町は自分の記憶とはまた違っていたりして不思議な気分になります。

高校が平塚にあったせいで、学校からの帰り道に毎日のように古本屋か貸しレコード屋に寄って帰ってました。特に古本屋は学校から駅までの間に5軒ぐらいあって、順番に寄りつつ帰ったものだけれど、これらの店ももうぜんぜん残ってないんでしょうね。特に特色のある古本屋というわけではなく、普通の街の古本屋だったしねぇ。むしろ古本屋というと横浜の古本屋でよく買っていたような気もします‥‥。

そういえば、それらのひとつに、別にお客に話しかけたりするわけではないけれど、古本屋にしては愛想のいい夫婦がやっていて、入りやすかったせいで、かなり頻繁に立ち寄って本を眺めたり、立ち読みしたりしていた古本屋がありました。

高校生の頃のわたしはアトピーが出たり、すぐに風邪をひいたりと、まぁいろいろ体が弱くて、午前中に病院に行ってから学校に行くということが多かったのですが、診察が終わると、すぐに学校に行くわけでもなく、本屋さんやレコード屋さんにちょっと寄って、昼休みが終わるくらいに学校に行くということをよくしていました。

ある日、例によって診察が終わってその古本屋に行ったら、いつもニコニコしている男の人がすごい剣幕で女の人を怒鳴りつけていて、あげく本を投げつけたりして、なんか怖くなって、入ってすぐにお店から出てしまったのを思い出します。それからなんとなく長い時間立ち読みをしたり、買う気もない本を取り出したりするのを躊躇するようになってしまったんですよねぇ~

あ、今年は平塚の七夕にでも行ってみましょうかね。

「ひまつぶし」-吉田健一-

◆ゲイリー・ウィノグランド展@タカイシイギャラリーとジョナス・メカス展@ときの忘れもの
婦人画報の連載をまとめたもの。婦人雑誌ということだけあって、「食」や「暮らし」といった身近なテーマを取り上げつつ、戦後の日本についてつづっている。吉田健一はこの手のエッセイが多いけれど、わりと「日本はだめだ」的な話になってそうでなっていないところがよい(なってる場合も歩けど)。この本ではわりとヨーロッパの国と比べるときでも、ヨーロッパが優れているということにはならなくて、ヨーロッパはこうで、日本はこうだけれど、そもそも歴史も違うし、日本はもともとこうだし、まだ戦争が終わって間もないのでこれからこうしていくことが大切なのだ、みたいな感じで話が進められていく。
また戦前戦中に比べて今(と言っても1950~1960年代だが)がよい、もしくは戦前戦中はひどかったと、単純に言うこともなく、戦前にはちゃんとした日本の文化があり、それが戦争をすることで忘れさられてしまったという認識で、きちんと戦前の日本の文化を評価ししているところも吉田健一のいいところだと思う。そして戦争中は、平時ではないのだからそれまでの文化が廃れたり、軽く扱われたりすることは仕方なくて、しかしそれはそれでもう戦争も終わったのだから、これからでも少しずつでもそれを取り戻していけばいいし、そういう文化を軽く扱うような状況を作る戦争をするべきではないのだ、と。ある意味すごく楽天的な人なのかもしれません。

ちなみにこの本の題字は井伏鱒二によるもの。吉田健一と井伏鱒二というと作品を読んでいるだけではなんとなく結びつきません。井伏鱒二の随筆で、銀座・新橋での飲み仲間だったことや一時期、同じ同人誌に参加していたいことが書いてあった記憶があるけれど、まさか飲み屋で飲みながら勢いで書いた(頼んだ)ものでもないだろうし。どういう経緯だったのかちょっと知りたいです。きっとおもしろいエピソードがあるはず‥‥

なんだか最近は展覧会の話しかしていないような気がしますが、年末は、タカイシイギャラリーでやっていたゲイリー・ウィノグランドと、ときの忘れものジョナス・メカスの展覧会を見てきました。

-ゲイリー・ウィノグランドは、もともとは広告の写真を撮っていたのですが、ロバート・フランクの影響を受けて1960年代前半からストリート・スナップを撮り始めた写真家。広角レンズを着けたカメラで、人物などを近い距離から撮影するという手法を用いています。そのため人物だけでなくその周りの風景や歩く人なども一緒に撮影されているのですが、広角レンズで撮っているため、被写体の比率が微妙に変わってしまったり、垂直に建っているはずの建物が斜めになってしまったりして、不安定な構図の写真になっています
ただ写真自体は実験的というほどのものではなく、基本的にはニューヨークの路上を写し取った作品という感じでした。
展覧会では「The Animals」(1969年)と「Women Are Beautiful」(1975年)の2つのシリーズからの写真が展示されており、基本的にはニューヨークの路上を写し取った作品と言えるもので、実験的な要素はちょっとしたスパイスという感じでした。
偶然にも、ちょうど何年かぶりにOM1にフィルムを入れて子どもを撮っていたので、すぐに真似をしたくなるわたしとしては、OM1に広角レンズを着けていろいろ撮ってみようと思ったりしてます。

-ジョナス・メカスのほうは「ジョナス・メカスとその時代展」というタイトルどおり、アンディ・ウォーホルやピーター・ビアード、ジョン・ケージといったアーティストの作品も展示されていて、ジョナス・メカスの作品は10点ほど。ただ日替わりでジョナス・メカス映像作品の上映も行われていました。わたしが行ったときも「Walden」という日常の風景を切り取った作品が上映されていましたが、時間がなくてちょこっと見て出てきてしまいました。映像もいいけれど、1時間以上見続けるのはちょっと辛いかも?それよりもやはりフィルムをつなぎ合わせてプリントした作品のほうが好きですね。ジョナス・メカスはきちんとまとめた形の展覧会をどこかでやって欲しいなぁ。

ほんとはもうひとつ、仕事納めの日にフレックスで早めに会社をあがって、ステーションギャラリーでやっていた「植田正治のつくりかた」も見ようと思っていたのだけれど、こちらは仕事が終わらず見れず。年が明けて開催期間が終わってしまいました。ザンネン。
大きな会場の展覧会はある程度時間をとらなくてはいけないので、なかなか行けないけれど、ちょっと時間が空いたときに寄れるギャラリーには、今年も都合がつく範囲で行きたいと思ってます。

「ちよう、はたり」-志村ふくみ-

◆やぼろじ ガーデンパーティー
明けましておめでとうございます。
今年もカヌー犬ブックスをよろしくお願いいたします。

志村ふくみの本を読むのは「一色一生」に続いて2冊目。仕事に対する探究心やひたむきさはどことなく辰巳芳子に似てる。二人とも1924年、大正13年生まれ。この時代に女性が仕事を持って生きていくためには、どれほどの決意と絶え間ない努力の積み重ねが必要だったんだろうと思う。ちなみに児童文学作家の神沢利子やいぬいとみこ、女優の淡島千景や高峰秀子、越路吹雪も同じ歳です。

志村ふくみは、母親が若い頃に柳宗悦の民芸運動に共鳴して織物を習っていた影響で、17歳の頃から母親から染色を習い、離婚後、30歳を過ぎてから本格的に染色家としての道を歩みます。1957年に、日本伝統工芸展に初出品で入選した後、数々の賞を受賞し、農村の手仕事だった紬織を「芸術の域に高めた」と評価さされることになるのですが、同時に柳宗悦からは「あなたはもう民芸作家ではない。」と言われ破門となります。このことはたびたび出てきて、これが自身の道を歩むきっかけになったと思われますが、わたしの知識では、その言葉がどういう意味を持って発せられたのか、いまいち理解できないままになっています。その後の柳宗悦との関わりについてもまったく書かれていないので破門になったことは事実だろう思うのですが、なんとなく腑に落ちない気分になってしまうのは、わたしがまだ柳宗悦について詳しく知らないからなんでしょうねぇ。

年末はやぼろじ ガーデンパーティーへ行ってきました。
やぼろじは、江戸時代からの旧家を改装してカフェや工房、ガーデン、オフィス、シェアハウスなどに利用しつつ、地元のつながりを大切にしたイベントを行ったりしているコミュニティ(?)。谷保駅というちょっと行きづらい所にあるのですが、自然や畑に囲まれたいい環境でガーデンパーティーでもレットエムインやアンティークエデュコ、古本泡山、ゆず虎嘯といった古道具屋さんや古本屋や、たいやき屋ゆい、やまもりカフェパンとお菓子mimosaなどの飲食店が出店するだけでなく、やぼろじ音楽隊によるライブや鼓狸、餅つきや豚の窯焼きといったイベントも開催されていました。そのせいか子ども連れの人も多く、庭はたくさんの人でにぎわっていました。

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この日ははけのおいしい朝市にも参加しているヨシタ手工業デザイン室の個展も開かれていました。
個展では吉田守孝さんがデザインしたお椀やおたま、ピーラー、ナベシキといった生活用品だけでなく、図面やプロダクトができる前のモック、完成前のパーツなども展示されていました。
どれもシンプルな形のプロダクトなのですが、とりわけ曲線の美しさが目を引きました
会場では手書きの設計図をもとに職人が製品に仕上げていく映像もiPadで見れるようになっていて、例えば一本のステンレスが丁寧に折り曲げられピーラーなどになっていく過程がわかるようになっています。
最初は何を作っているのかわからなくて、ただ金属を折り曲げているだけの映像なのですが、ある工程を経たときに完成する製品が分かる瞬間があり、それを見ていた人たちが、大人も子どもも同じく「あっ」と小さな声を上げて息を飲む光景が印象的でした。なんかマジックというか、ものが生まれる瞬間そこにあって、しかもよくテレビで工場で製品ができるまでの映像を映している番組がありますが、それとはあきらかに違う美しさがあるのです。残念なことにうちの子どもたちは会場で大騒ぎしてしまったので、外で遊ばせておいて、親が交代で展示を見たのですが、こういう瞬間を子どもたちに見て欲しかったですね。