「随筆 泥仏堂日録」-川喜田半泥子-

◆「無茶法師」と「笛吹銅次」
川喜田半泥子は、伊勢の豪商の家に生まれた実業家であり、「東の魯山人、西の半泥子」と称された作陶家。
実業家としては25歳で百五銀行の取締役に就任、「安全第一」をモットーに堅実に業績を伸ばす一方、地元の中小銀行を買収・合併し、百五銀行を三重県有数の金融機関に成長させるなどの業績を残しています。また書画、茶の湯、写真、俳句と、その多芸ぶりを発揮するとともに、内田魯庵・泉鏡花・鏑木清方といったメンバーの交流を通して書画骨董の心眼を深めるうちに、自宅に窯を開き、自ら本格的な作陶を行うようになり、「昭和の光悦」とも呼ばれたらしいです。

この本はやきものの雑誌に連載したエッセイをまとめたもので、自宅に窯を開くまでのいきさつや、骨董について、ほかの作家の作品などについて書かれており、中には歯に衣着せぬ物言いで嫌いなものは嫌いと言い放っています。といってもそれほど嫌味には感じません。その辺は本人の性格によるものが大きいのだろうけれど、カタカナを多用したリズムのある文章のスタイルのせいも大きい気がします。それぞれで挙げているものを文章からピックアップしてみるのもおもしろいんじゃないかと思います。でもそのピックアップされたものの違いがわたしには分からないですが‥‥。

読んでいてなんとなく大滝詠一の話し方や文章を思い出してしまったのは、前述した文章のスタイルのせいか、それとも「無茶法師(むちゃほうし)」「莫加野(耶)廬(ばかやろう)」「鳴穂堂(なるほどう)主人」「紺野浦二(こんのうらじ)」「其飯(きはん)」「反古大尽(ほごだいじん)」「泥仏堂(でいぶつどう)」といった号のネーミングが、どこか「多羅尾伴内」「ちぇるしぃ」「笛吹銅次」「イーハトヴ・田五三九」「厚家羅漢」「RINKY O’HEN(臨機応変)」といった大滝詠一の変名になんとなく似ているからですかねぇ。(強引)

「冬の花」-立原正秋-

◆2013年にイコンタで撮った子どもの写真
前々から立原正秋の料理や骨董についての随筆を読んでみようと思いつつも、なかなか手が出なかったのは、小説のほうが古都を舞台にした恋愛ものというイメージがあったのと、昔、実家の本棚に何冊か置いてあった記憶があったせい。それから作品数が多いのでどれが小説なのか随筆なのか把握できてないというのもある。タイトルに「随筆集 ●●●●」と付けてくれればいいのに(笑)。

ものすごい知識と確かな審美眼があって、それに対しての自信、美意識が高くて、行間からそういった意識があふれるような文章を読んでいると年末に読んだ魯山人と共通したものを感じる。でもそれならばその世界の中で語ればいいのに、なぜかほかの人についてあれこれとを攻撃してしまうところが、なんだかなぁと思ってしまうところ。人が言っていることとか、わざわ別の人に確認して裏をとったいきさつを書いたうえで、やっぱりわたしの直感は正しかったみたいなことを言われると、いや、それは書かなくてもという気になってしまいます。そういう意味ではなんとなく読書の後味があまりよくないかな。ただ、こういう文章も収録されてしまっているのは、この本が死後にまとめられたものだからなのか、ほかの随筆集にも普通に収録されているものなのか分かりません。

そんなわけで、これから立原正秋の本を続けて読むかどうかは保留。読んだとしても随筆のみになるんでしょうけど。

毎年、イコンタで撮った写真で子どもたちが写っているものをスキャンしなおして、A4サイズにプリントアウトしているのですが、ようやく去年分のプリントアウトが終了しました。これまで一年に20枚くらいしかなかったのに去年は40枚くらいありました。
基本的には、子どもたちなどを撮るのは35mmのカメラで、自分のの趣味用の写真をイコンタで撮るよう決めているのですが、特に趣味で何をとるというテーマもないですし、なんとなく子どもたちの写真が増えてしまってます。逆にMFのカメラでで子どもの写真を撮れるのは今のうちだけかな、とも、引き伸ばした写真のピントがぼけている様子を見ながら思ったりしてます。
ほんとは自分で引き伸ばし作業をするとか、カメラ屋さんに持っていって引き伸ばしたいんですけどね。40枚だとまぁまぁお金かかるしね。でも、単にプリントアウトするだけでも写真を大きくしてみると、印象が変わったりして楽しいし、自分の写真の欠点とかがよくわかっておもしろい。

去年撮った子どもたちの写真で気に入ってるのはこの辺かな。

-

で、ついでに最近はイコンタで撮った写真をインスタに上げているせいで、なんとなく放置気味になっていたFlickrに、今までにスキャンしてデジタル化したものをアップしてみました。スキャンした後、最終的に解像度72、サイズ640×640ピクセルまで落としてしまっているので、普段、iPhoneで見ている分にはあんまり気にならないんですけど、PCで見てみるとかなり画像が荒いが気になったりします。まぁこっちはどうでもいいや。

ちなみにイコンタは1930年代から1950年代にかけてツァイス・イコンが製造したスプリングカメラ。ツァイス・イコンは1920年代にドイツの4つのカメラメーカーが合併してできた会社で、このイコンタのシリーズはツァイス・イコンになっての初めてオリジナルのカメラだったらしいです。
-6×4.5cm判をスーパーセミイコンタ、6x6cm判をスーパーシックスそして6x9cm判をスーパーイコンタと呼んでいて、それぞれいくつもの機種があります。わたしが使っているイコンタは Super-Ikonta Six 3型で、1954年に登場したもの。6×6フィルムのカメラとしては小型で、蛇腹をしまった状態でなら持ち歩きもかなり楽。ちょうどモレスキンを携帯するためのポーターのモバイルバッグに入れるとぴったりだったので、どこかに出かけるときはたいてい肩からポーターのバッグをかけてます。

構造が単純ということもあるでしょうが、60年前のものを今でも普通に使えるというのがカメラのいいところだと思う。雑貨や家具とかだと普通にあるけれど、機械的なものだとそんなにないんじゃないかな。電気を使ってるものはだいたいもう今は使えないものになってる気がするし、ちょっと考えて思いつくのは楽器ぐらいかな。
わたし自身はまだ4年くらいしか使ってないんですけど、大切にして長く使っていきたいです。

「落穂拾い・犬の生活」-小山清-

◆今年は1963年のアメリカンポップスをテーマにしたい(のだが‥‥)
タイトルどおり一作目の「落穂拾ひ」と三作目の「犬の生活」をまとめたもの。編集しなおして作品集とするのではなく、そのまま全部を合わせた収録されているところがいい。最近のちくま文庫は充実していて、これが続くようにちゃんと新刊で買わねばと思うけれど、古本ばかり買ってしまって新刊はなかなか買えてないです。そんなわけであんまり売り上げに貢献できてませんが、この勢いでほかの本も文庫化してくれないだろうか。特に「幸福論」「日日の麺麭」はもともと筑摩書房から出ているわけだし‥‥(全集もですね)。ちなみに二作目の「小さな町」はみすず書房の大人の本棚から出てます。

基本的には生い立ちや日常生活、これまでの体験をつづった私小説なんですが、貧困で孤独な生活をつづりながらも、文章はどこか余裕やユーモアさえ感じられ、周辺の人たちの描写もどこかやさしく暖かい。その中でところどころでつぶやくように小さく小説家として独り立ちすることへの決意がつづられているところが心に響きます。
私小説だけに、もともと知っている小山清の実際の境遇や出来事と描かれているエピソードをつい重ね合わせてしまいますが、もちろんそれだけではなくて、登場人物や情景の描写など、はっとするところも多い。もう少しいい境遇で作品をある程度自由に書けたなら、もっと違うタイプの作品も残せたんじゃないかと思うと残念です。もっといろいろな作品を読んでみたかった。

年が明けてからは、なんとなく(いや、ほんとはなんとなくじゃないんだけど)、ビートルズ以前、1950年代後半から1960年代前半のロックンロールやアメリカンポップスばかり聴いてます。といっても、幅広すぎて改めて聴くには何から手を出していいのかわからないので、フィル・スペクター関連のものやエリー・グリニッチ&ジェフ・バリー、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングといったブリルビルディングのソングライターチームの楽曲を集めたもの、エルヴィス、バディ・ホリーといった基本的はロックンローラー、フォーシーズンズやディオン&ベルモンツ、アールズなどのホワイトドゥーワップ、あとはいわゆるガールポップスやティーンポップスなどをばらばらと聴いている感じ。
この辺のアメリカンポップスはジャンルの境があいまいなので、どこから手を入れてどこまでを聴き進めるかの按配が難しいのだけれど、そのジャンルの境があいまいないところがこの時代のポップスのおもしろさなんだと思います。

あと、言い方は変ですが、やっぱり歌が中心にあるってのがいい。ここ数年は、電子音楽とかエレクトロニカをはじめ、ポップスでもどちらかというとインストをよく聴いていて、どうしても歌(メロディ)よりもサウンドばかりに興味がいってしまいがちだったので、こういう歌のメロディとサウンドのバランスがぴったり寄り添った音楽を改めて聴くといまさらながらに楽しい。改めてキャロル・キングの曲のよさとか実感している次第です。

そんなわけで今年のテーマは1963年以前のアメリカンポップス、となるのだろうかな?(すぐに違う方面に興味がいってしまうのはいつものことか)

「春夏秋冬 料理王国」-北大路魯山人-

◆1月に行った展覧会。ルネ・ブリ&ヴォルフガング・ティルマンス
実を言うと北大路魯山人の本を読むのははじめて。気にはなっていたのですが、敷居が高いような気がしてなかなか手に取る機会がなく、そのままになってしまってました。実際、読んでみた後の感想としても敷居が高いことのは変わらなかったです。
といっても、料理全体に関わることから、鮎、河豚、豆腐、鴨、どじょうといった食材、山椒や日本芥子などの香辛料・調味料、ヨーロッパやアメリカ、デンマークを各地で食べた料理についてなど幅広いテーマについて、それぞれ短めの文章でつづられているので読みやすいし、それぞれの内容も真っ当な意見も偏見ぽい物言いも含めておもしろい。
でもやっぱり「味もわからず、普段適当なものばかり食べているお前なんか相手にしてないんよ」というところが基本になってると思う。「ああそのとおりだと思ったら、必ず実行していただきたい」と書いてあるけど、その後で括弧書きで(やれるもんならやってみろ)と書かれている気がしてしまうのはわたしがひねくれものだからでしょうか。
そういうわけで、これを読んで料理やたべものに向かう姿勢をちょっとだけでも取り入れようかな、なんていうのはちょっと違う気がしますね。そういう部分もあることは否定しないけれど、まぁ別の世界の話として読んで、その世界楽しむというのがいいのではないかと。
敷居は高いけど本としてはおもしろいので、平野雅章が編纂したものをもう少し読んでみようかなと思っている次第。「魯山人について」書かれた本はたくさんあるけど、魯山人が書いた本ってそれほど多くないんですよね。

さて、1月は、銀座のライカギャラリー東京でやっていたルネ・ブリの写真展とワコウ・ワークス・オブ・アートでのヴォルフガング・ティルマンス展を見てきました。

-ルネ・ブリの写真展は、1950年代末~60年代半ばにかけて撮影された代表作品が14点と、それほど点数も多くなかったのですが、モノクロで撮られたポートレートやスナップは、どれもプリントがきれいで、ついなんども見てしまうほどでした。
また写真自体も動きがあるというか、スナップでもどことなく切り取られたシーンの前後が浮かび上がってくるようだったり、ポートレートも被写体がそのとき話している動きが思い浮かぶような作品で、つい何度も行ったり来たりしてしまいました。ただし、ストーリーが浮かんでくるといっても、ドアノーのようにストーリーを想起させるために何かをしているわけではなくて、あくまでも自然な感じで想起されるところがいい。

しかし初めて行ったライカギャラリー東京は、場所が銀座ということもあり高級感にあふれたお店で、なんだか気後れしてしまいました。

-ヴォルフガング・ティルマンスのほうは、2004年にオペラシティーで行われた展覧会ぶり。10年前かと思うとなんだかびっくり。最近は世界各地を旅しながら撮影をおこなったり、印画紙を操作して抽象絵画のような作品を撮っているらしく、そういった作品を中心に展示されていました。世界各地といっても作品自体は、日常の延長というかミニマムな世界なんですけどね。

このところ、植田正治やラルティーグ、ゲイリー・ウィノグランド、そしてルネ・ブリとモノクロの銀塩写真や、ジョナス・メカスのようにフィルムのアナログ感が強く出ているものを見ることが多かったせいで、なんとなくプリントされたデジタルの写真を見るのは違和感がありました。いや、プリントもきれいだし、作風とも合ってるし、展示の仕方もデジタルの特色を活かしていてよいのだけれど、どこか写真展を見ているというよりも、アートを見えるような感じかな。単に慣れと先入観の問題なんでしょうけどね。

■ルネ・ブリ写真展「Rene Burri Photographs」
 ・ライカギャラリー東京
 ・東京都中央区銀座6-4-1ライカ銀座店2F
 ・2014年1月17日~4月13日

■ヴォルフガング・ティルマンス『Affinity』
 ・ワコウ・ワークス・オブ・アート
 ・東京都港区六本木6-6-9 ピラミデビル3F
 ・2014年1月18日~3月15日