「耽溺・毒薬を飲む女」-岩野泡鳴-

昨年、最後に読んだ本。年末ののんびりした時期に、東京の奥さんを置いて脚本を書くため国府津に滞在する売れない作家とそれほど美人というわけでもない芸者の駆け引きの話なんて読まなくても‥‥なんて思ったことを覚えてます。
この作品は、三人称で書かれていますが、自身をモデルとした私小説に近い作品で、いわゆる5部作と呼ばれている「発展」「毒薬を飲む女」「放浪」「段橋」「憑き物」という連作の2作目となります。この後、岩野泡鳴は、文学を放棄し北海道に渡って蟹の缶詰工場を作るという事業を始めるのですが、事業が軌道に乗ることもなく、北海道でも色町には遊びに入り浸って、そこで芸者といい関係になったりしてと、どうしようもない話が続くんですけど、もし手にはいるようだったらほかの作品も読んでみたい。それにしても昔の作家は、ほんといろんな意味で“ろくでなし(ほめ言葉)”ばかりだったのだなぁと。

土曜日は、「マザーディクショナリー春の会」へ。今回の会場は、新宿御苑に隣接した「ラミュゼ de ケヤキ」という一軒家。もともとはピエール・バルーご夫妻の住居だったのを、現在は夫妻が中心となってレンタルスペースとして貸し出したり、コンサートを行ったりしているらしいです。マザーディクショナリーのイベントは前回の森のテラス(仙川)といい、会場のチョイスがとてもよくて、ワークショップに参加したり、コンサートを聴いたりしなくても、その場所に行って、アートマーケットを眺めたり、ご飯を食べたりするだけで楽しい。
マザーディクショナリーのイベントだけあって、子どもや赤ちゃんを連れたお母さんや夫婦が多いのだけれど、最近はうちの子も、同じくらいの赤ちゃんを見ると近づいてって、手や顔を触ったりするようになってきたので、こういうイベントがあると、家では見れない行動や仕草が見られたりするのもいいですね。

「小津安二郎の食卓」-貴田庄-

多分、何に対しても「質」より「量」をこなすってのが大切で、吉田健一も言っているように、おいしいものだけ少しずつ食べるのはありえず、おいしいものもまずいものも全部含めてたくさん食べないと、本当においしいものはわからない。そういう意味では、1回の食事の量が多くないわたしは、ほんとうにおいしいものを食べることはないのかもしれないんだろうなぁと思ったりします。いや、小津安二郎が大食漢だったなんて話はここにはほとんど出てこないんですけど‥‥。
でも、食べものにかぎらず、音楽や本とかもそうで、いい音楽だけ聴いたり、おもしろい本だけ読むなんてことがありえなくて、たくさんの音楽を聴いたり、本を読んでいくうちに、自分の好きな音楽が分かってくるというものです。そもそもあんまり音楽を聴かずにいいものだけって、その「いい」は誰が決めるのさ。とか思うわけですよ。なんていいつつ、「量」のほうが大事とは思うけれど、どんなものでも「量」をこなすのは、体力や執念、経済力‥‥といったものがいるもので、なかなか難しい‥‥なんてことを思いつつこの本を読んでいたのは去年の終わり。最近ほんと雑記の更新が遅いので、いまだ去年読んだ本を取り上げているありさま。次の本で、去年の分が終わって今年に入って読んだ本に入ります。

「夏の光満ちて」-辻邦生-

なんてことを前回書きつつ、結局パリ滞在記に逃げちゃったりしてますが‥‥

3月になってもちょっと雪が降ったりして、春になる気配がなかなか訪れなかったけれど、さすがに春分の日ともなると暖かくて、ベランダでたばこをすっていると、多磨霊園にはお墓参りの人でにぎわっているのが見えたりします。加えて添えられた花のせいで、お墓全体が、なんとなく緑だったり黄色だったりといつもの灰色の風景とは違う気がしてしまうのは、春がやってきてちょっとだけ、気分が浮き立っているせいかもしれません。ただそのせいで駅に向かうバスがかなり遅れたり、小金井街道が車で渋滞になったりして、ちょっと不便。お彼岸の時期は毎回こうなのだろうか?

そんなわけで、天気もいいことだし、連休だし、週末は吉祥寺に出てみたり、国立に行ってみたり、しました。前にも書いた国立でやっているニチニチ日曜市には、できるだけ毎月行って、そのあと少しずつ国立を散歩できれば、と思ってます。
今回は、TAIYODOの人に教えてもらった匙屋やレット・エム・インまで線路沿いの住宅街を歩きつつ、昔一回だけ行ったことのある国立本店をのぞいたりしました。
匙屋は、もともとは国立でアトリエを構えていたオーナーの夫婦が開いたお店で、自身が作っている木の匙やお玉、しゃもじ、また漆や陶器、ガラスなどの食器などがギャラリーのように置かれているお店。古い商店だった建物を改築したと思われる落ち着いた店内に、広くとられた入り口から日の光が差し込んでよい雰囲気でした。
レット・エム・インは、日本の古い家屋などで使われていた家具などが売られている古道具や中古の家具屋さん。かなりセンスのよいものばかりなので、うちで使うのはちょっともったいないかも、なんて思いながら、見ていました。いや、お店の人には悪いですが、見ているだけでも楽しいんですけどね。

このほかにも、フジカワエハガキや黄色い鳥器店といったお店を教えてもらったのですが、0歳児をベビーカーで押しながらだと、ちょっと遠いかも、と思って次の機会にとっておくことに。あまり無理せずに少しずつね‥‥という感じで。

「廻廊にて」-辻邦生-

革命によって故国を捨てたロシア人の娘であるマーシャという芸術家の人生を、彼女の日記や手紙、友人や母親たちのの証言、そして語り手である日本人の「私」から見た姿‥‥といったさまざまな断片を織りまぜることによって再構築した作品。
辻邦生の本は、今までパリでの滞在記や、自身をモデルとしたと思われる短篇(かなりフィクションが入っていると思われる)しか読んでいなかったので、完全なフィクションの世界が構築されているこの作品は、よい意味で予想を裏切られた気持ちになってしまいながらも、読み進めるにつれて、その世界に引き込まれてしまいました。ここ数年、私小説を中心に本を読んでいたわたしとしては、ここまでフィクションの世界に引き込まれるのはかなりひさしぶりなので、逆に辻邦生のほかの作品を読むのが怖いくらい。次にどの作品を読むかというのが、かなり重要な気がします、なんて書いたら大げさですね。

昨日は訳あって会社を休んだのだけれど、その“訳”がなくなってしまったのでイケアに行って来ました。今年2回目。というか、前回買った本棚では本が収まりきらず、壁一面本棚、を改め、壁一面半本棚にすることにしたのでした。
平日のイケアは子ども連れでいっぱいで、週末に比べれば人は少ないのに、カート+ベビーカーで通路が埋まってしまう感じ。最近、どこに行っても赤ちゃんや小さな子どもがいる気がして、小さな子どもがいると行ける場所が限定されてくるし、時間や行動パターンも似かよってきちゃうんだろうなぁ、とつくづく思いますね。それはそれで仕方ないし、無理にそこと違うところに行こうとも思わないですけど、それはそれでいいのか、という疑問も少しはあったりして、なかなか難しい‥‥。まぁ選択肢はかなり限られてしまってるので、考えるまでもなかったりするんですけどね。
で、本棚のほうは、明日届く予定なので、3連休は再び組み立て&部屋の片づけで終わりそう、というか、なんかうちのなかが本棚だらけになりそうで怖いです。

「城・ある告別―辻邦生初期短篇集」-辻邦生-

冬になると花屋の店先に多肉植物が並べられるのは、寒い時期で華やかな花や植木が少なくなってしまうためなのだろうか。
引越しの際に処分してしまったものがあったり、ベランダが広くなったりしてこともあって、そんな冬の間にいくつか多肉植物を買っておきたいと思っていたら、先月、駅からうちまで歩いてくる途中にある花屋に、ただ茎を切っただけで根も生えていない多肉植物が、穴のあけられたダンボールにささって売られているのを見つけた。ちゃんと根が出るかどうか不安だったけれど、ひとつ80円だったこともあって2つばかり購入。念のため「普通に土に刺して水を上げればいいんですよね」と店員に聞いてみたら、「いえ、刺したから当分の間は水をあげないでください。水分があると逆に根が出にくくなりますから」とのこと。そういうものなのねぇ、なんて思いながら、あいていた容器に植えてみて、2週間くらいほおっておいたら、気のせいかもしれないけれど、ちょっとずつ大きくなってきているようで、うれしい。

昨日は久しぶりに天気がよくて、でも午後からうちの親が家に来る予定だったので、午前中、子どもをベビーカーに乗せて近くのケーキ屋さんにケーキを買いに行ったついでに、ちょっと遠回りして帰ってきたら、近所の花屋さんに小さな容器に3つくらいずつ寄せ植えされた多肉植物が置かれていて、つい2つばかり(6つ)買ってしまいました。これもひとつ150円で、安かったのですが、家に帰って植え替えてたら、やはり茎を切って刺しただけで、根が出ていなかったので、ちゃんと育つかどうかドキドキしながら、毎日眺めちゃうんだろうなぁと思う。
まだちょっと寒いのでベランダには出さずに、家の中に置いているのだけれど、思いがけず、多肉植物が増えたので早く暖かくなってベランダに並べたい、と思ってる。花が咲くわけではないので地味ですけどね。
ほんとうに春がきたら、ミオ犬が、花が咲いたり実がなったり鉢植えを買ってくるだろうから、そしたら少しはうちのベランダもにぎやかになるのかもしれません。

「随筆集 志賀さんの生活など」-瀧井孝作-

志賀直哉の本は、恥ずかしながら中学生くらいのときに「小僧の神様」が収録された短編集しか読んだことがない。10代の頃、日本文学を読んでおけばよかったという気もしないでもないけれど、その頃、読んだとしても分かったかどうかは不明。まぁ分かろうが分からなかろうが、日本語を学ぶという意味でも読んでおくというのが大切なことなのかもしれません。昔の人が意味も分からず漢詩を素読いたみたいにね。ちょっと違うか?

志賀直哉については、いつか友人、師弟関係などをまとめてみて、そこに出てくる人たちの本を端から読んでみたいという気はします。ちょっと思い浮かべるだけで、里見トン、者小路実篤、尾崎一雄、広津和郎、網野菊、藤枝静男‥‥などつぎつぎに出てくるし、かなり広範囲でおもしろい交友関係図ができると思うんですけどねぇ~。と思ったら、「志賀直哉交友録」なんて本が、講談社文芸文庫から出てることを発見。交友録好きとしては手に入れなければ‥‥。