「甘酸っぱい味」-吉田健一-

昭和32年、3月から6月にかけて、熊本日々新聞に連載された随筆をまとめたもの。「甘酸っぱい味」というタイトルですが、食べものや飲みものについて書かれたものばかりではなく、言葉や雑誌・新聞について、東京や大阪などの都市、文明、戦争や政治・歴史について、あるいは暇つぶしや煙草の煙について、思い出話、昔話といった身近な題材まで幅広い。もちろんバーや飲み屋、おでん屋など、食べものや飲みものについての文章もあります。
政治的な意見などは、ちょっと違うような・・・・という気がする箇所もあるけれど(というか単なる見解の違い?)、新聞連載の割には、そのときの事件や出来事などを取り上げた直接的な時事ネタがないので今読んでも違和感はありません。でも3カ月のと期間が決まっていて、連載が始まる前に何編かは書きためておくにせよ、やはりたいへんな仕事だったらしく、「もうこんな仕事はしたくない」とあとがきで本人も書いてます。

先日、Web上で書いた文章はいつまでも残ってしまう、といったことを書いたけれど、この雑記も、毎日ではないにしろ、とりあえずカヌー犬ブックスをオープンした時から、書き続けているわけで、サーバー上にもデータを残してます。基本的に私は前の文章を読み返すことはないので、何を書いたのかぼんやりとしか憶えてなくて、その日その日の思いつきをただ書いているだけに過ぎません。
フリーペーパーの場合は、そのときのフリーペーパーがなくなってしまえば、書いた文章が人の目に触れることはないので、前に書いたことと違うことを平気で書いたり、ちょっとした思いつきを適当に書いたりしてました。いや、今でもかなり適当に書いてますが、最近、同じように書いてると、読み返した時、まったく反対のことを書いてしまったりしてないか、不安になります。
人間生きてりゃ考え方が変わったり、違う見方としたり、ということはよくあることだと思うのだけれど、こうやってひとつの雑記に書かれていて、多数の人に見られているのはちょっと困ったものかな。どうしたものかなぁ。今のところ、文章をきちんとしたり(そんなことしてたら日記なんて書けない)、過去のアーカイヴを削除したり、ということは考えてませんが・・・・。

「悦ちゃん」-獅子文六-

朝の8時就寝。mother dictionaryのフリマに行くので、9時半には起きなくてはいけないので、出かける前くらいに起こしてもらえるだろうと思って、ソファーで寝ることにする。・・・・と思ったのだけれど、隣で寝ているミオ犬も、隣の部屋から目覚まし時計の音が聞こえてくるにもかかわらずなかなか起きてこない。そんなわけで、結局、起きたのは11時、家を出たのは12時。フリマは14時までしかやっていないんですけどねぇ。

mother dictionaryのフリマは、三軒茶屋にあるものづくり学校のいち教室を使って行われていて、5月にカヌー件ブックスを開くライフアンドシェルター社の人も参加している。狭い教室の中は小さな子どもたちとお母さんたちでいっぱい。走り回る子どもをよけるようにして、知り合いに挨拶したり、フードコーナーでカレーを食べたり、クッキーなどを買ったりする。どういう風に書いたらいいのか分からないけれど、どのお母さんも、なんだか“お母さん”という感じではなくて、自分のやりたいことをしつつ、子育ては子育てとしてちゃんとしているという感じ。で、別にどちらがどうのこうのいう気もないし、比べるなんて気もまったくないのだけれど、前日、同級生、未婚女性3人と夜遊びに行ったばかりなので、まるで違う世界だな、なんて思ったりする。
30歳を半ばになると、それまでの生き方がストレートに出てきておもしろい。もう「願えば夢はかなう」なんてことも思わないけれど、自分にそもそもどんな能力があって、これまでにどのように毎日を過ごしてきたか・・・・といったものが、いい意味でも悪い意味でも今の自分を創ってきていて、その上でこれから自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、という方向が分かってくる。一日、一日が過ぎていくことで大きな意味での可能性はなくなっていくかもしれないけれど、重ねた日数分、違う意味での可能性が開けてくる。あとはその上でどう人生を楽しむか、ということなのかもしれない。適当。

2時の撤収にあわせて、ものづくり学校を出た後、そのまま下北へ歩く。はじめての道を適当に見当をつけて歩いたので、途中道に迷ったりもしたけれど、いい感じの本がある古本屋見つけたり、エクステリアの雑貨屋さんをのぞいたり、変な動きをするネコに出会ったり、なかなか楽しい。下北では、テラピンでお茶。歩き回ったので、フカフカのソファーがうれしい。

「ルウ・ドーフスマン デザインワーク」-ルウ・ドーフスマン-

ルウ・ドーフスマンは、CBSの前副社長兼広告・デザイン担当クリエイティブ・ディレクター。数限りない広告、プロモーション用パッケージ、書籍、パンフレット、電波による宣伝、展示物やデザイン企画に関して、宣伝マンとしてクリエイティブ・ディレクターとして・・・・なんてことを、たいして詳しくもない私が書いてもしょうがないので割愛。

ところで昨日は、夜の9時に家を出て、新木場のageha@STUDIO COASTへ。Towa Teiの6年振りの新作「FLASH」を記念したイベントに行く。久しぶりの夜遊び&はじめての大バコクラブ、ということで、さっそく井の頭線で居眠りをして本を落としそうになったりしつつ、ちょっとワクワク。ここ数年、クラブといったら吉祥寺のDROPくらいしか行っていないものね。そんなわけで年甲斐もなくはしゃいている、35歳同級生、5人組ですが、いきなり身分証明書を持っていない人がいて入り口で止められ、右往左往。しばらく待たされた後、「規則的には身分証明書がないと中には入れないのですが、こういってはなんですが、皆さん、見たかぎりでは、明らかに20歳過ぎですので、今回は入っても構わないでしょう。でも次回は身分証明書を持ってきてください」などと言われ中へ入る。なんだかなぁ。
DJは、Towa Tei、M-floのTaku Takahashi、Moodmanなど。基本的には4つ打ち、ハウスものなので、DJが変わったからといって極端にフロアの雰囲気が変わることはないけれど、でもTowa Teiの時になると曲の使い方とかうまいなぁ、と思う。いや、うまいと言うより80年代をリアルタイムで過ごしてきた人の曲の使い方に共感、という感じかな。
結局、3時過ぎ、テイ・トウワのDJが終わった後、タクシーで近くに住んでいる友達の家に向かい、6時過ぎまでコーヒーやスープを飲みながら、彼女の家にある本(壁一面に本棚が据え付けてある!?)やDVDを見て話しているうちに夜が明け6時。眠い目をこすりながら帰宅。そして・・・・次の日へ続く。

「多甚古村」-井伏鱒二-

主人公は、南国の海辺の村に新しく赴任してきた甲田巡査。その甲田巡査が巻き込まれる大きな事件から小さい事件までの顛末が、彼自身の日記という形で描かれていきます。中には自殺や強盗といった深刻な事件も起こるのだけれど、どこかほのぼのとした雰囲気が漂っているのが、井伏鱒二らしい。
ところで“こうだ”という名字は、“甲田”が一番多いのだろうか?私は電話などで名前を名乗ると、たいてい“甲田”と書かれているような気がする。後は、“香田”。これは巨人の選手の影響が大きいのかもしれない。昔、友達の家に電話した時、当人が不在で家の人に伝言を頼んだら、「甲田さんから電話あり」というメモが残っていたそうで、それを見た友達が訂正したところ、次の時は“香田”になっていたということもありました。しかも以後、「いつもどっちか忘れる」と言いつつ“甲田”の時と“香田”が半々でメモに残されてたらしい。両方とも違うって・・・・。ちなみちょっと気になってネットで検索してみたら、幸田→甲田→国府田→香田→古宇田・・・・という順で多いらしい。本当がどうか分からないけれど、ちょっと意外でした。・・・・なんてことは、“こうだ”さん以外どうでもいい話ですね。いや、全国の“こうだ”さんにとってもどうでもいい話?

先週からトップページには告知していますが、ゴールデンウィークの後半、5月6日~8日の3日間、東麻布にある foo というオープンスペースで、古本屋さんを開店することになりました。カヌー犬ブックスもオープンしてそろそろ2年になりますが、まだまだサイトのアクセスも少ないし、ほんの小さなサイトですけれど、まぁできるときに一度やってみよう、と。fooは建築の設計を行っている ライフアンドシェルター社 の建物で、ほかにも編集事務所などが入っているのですが、一階部分はオープンスペースとなっていて、共有の打ち合わせスペースとして使ったり、いろいろイベントや展覧会が行われたりしています。吹き抜け(?)のテラスがあったりしてとてもいい感じのスペースです。場所は、地下鉄の麻布十番と赤羽橋のちょうど真ん中ぐらいの閑静な住宅街の中。ちょっと歩くと麻布十番の商店街や東京タワーなど、散歩するにはぴったりのところかもしれません。今のところ、古本屋さんとはんなみおのイラスト展と中心に、コーヒーやクッキーなどお茶ができる場所を作って・・・・くらいしか決めてませんが、5月までにいろいろ考えて、楽しいイベントにしたいと思ってます。なにか決まり次第、この雑記などで報告しますので、よろしく。

「アンクルトリス交友録」-柳原良平-

大学を卒業し壽屋に入社するきっかけから、宣伝部での開高健との交流、「洋酒天国」、東京での山口瞳とのエピソード、サンアド立ち上げの経緯、そして、自らの趣味である船について・・・・などを、柳原良平が語った本。随所に当時描いたイラストや漫画が掲載されてます。その後の仕事や作品の相性として、柳原良平と山口瞳というコンビの印象がどうも強くなってしまうけれど、大阪時代からの同僚として、開高健とのつきあいの方が長いのだなぁ、なんてことに改めて気づいたりした。開高健と山口瞳の「やってみなはれみとくんなはれ」も続けて読んでみるべきか。

タワーレコードのポイントが貯まってたこともあって、明日発売のリトルテンポの新作「SUPER TEMPO」をさっそく買った。基本的にリズムはレゲエの曲が多いものの、サウンドは完全に無国籍、というか不可思議な、モンドな雰囲気さえがただよう怪作。前作ほどの緊張感はなく、全体的にゆったりとしているのだけれど、どの曲も、どの音も聴き流せない、耳にしつこく引っかかってきて、単なるBGMには絶対にならないという不思議なイージーリスニング・アルバムになってます。これがダブになったどんな感じになってしまうのだろうか。この後出るダブアルバムがものすごく楽しみ。

「ku:nel」(Vol.13/2005.5.1)

「ku:nel」を眺めながらたまには料理でもしたいな、と思いつつ、夜中の3時半、会社帰り、旧山手通りを走るタクシーの中で、次の日曜日になにを作ろうか、なんて考えていたのは、もう2カ月前のこと。まだ冬の真っ盛りでものすごく寒かったけれど、2カ月経った今でもまだ寒くて、ピーコートが手放せない毎日。まだまだ春は遠いのか。井の頭公園の桜は少しくらい目が出てきたいしているのかな。

料理だけに限らず、自分の手を動かして何かを作るというのは、楽しい。豆本の写真集や部屋に置く棚やテーブルを作ったり、フリーペーパーも、PCで作れる環境になっても最後まで、写真やイラストを切り貼りしてた。そして、単に紙を四つ折りするだけの作業でさえ、楽しかった、ような気がする。音楽をかけたり、スペースシャワーTVで週に何度も再放送される番組をつけっぱなしにしたりして、一人で、あるいは友達と「缶ジュースの缶で押すと疲れないんだよ」なんて、しゃべりながら、何年間、そして何枚の紙を四つ折りしたことか。
なんてことを思い出してしまうのは、最近、久しぶりにギターポップをよく聴いているからかな、というか、いつから聴かなくなったのか分からないくらい久しぶりなのです。というわけで、今どんなバンドがいるのか、ぜんぜん分からず、かろうじて記憶にある、キンダーコアとか、フィルターレコード、エレファント6、ミンティ・フレッシュ、パラソル、マーチ・レコーズ・・・・などのレーベル買い。“レーベル買い”という言葉も懐かしい。2000年過ぎてからのギターポップ事情は、ほんとまったくわかりません。ちなみに今、これを書きながら聴いているのは、オレンジ・ピールズのセカンド「So Far」。

「続 飲み・食い・書く」-獅子文六-

気分的にはその前に「饗宴」を読んだばかりだし、獅子文六の随筆もまとめて読んだばかりなので、しばらくいいや、って感じではある。獅子文六なら随筆ではなくて小説の方を読みたい。でもこういうときに限って100円コーナーの片隅にこういう本を見つけたり、気を抜いてほかに読む本がない、なんて状態になったりする。読み始めるとおもしろいんだけれど、もう少しお腹がすいた状態のときに・・・・という気分がつきまとってしまうのはしょうがない。
なんてことを考えつつ、井伏鱒二の「多甚古村」と平行して読んでいたら、久しぶりに中華街へいくことに。獅子文六の本を中華街へ向かう東横線の中で読む、なかなかいいシチュエーションではないか、と、一人納得してみたり・・・・。

明治26年、横浜出身の獅子文六は、幼い頃から中華街で遊んだり、ときには中華料理を食べたりしているのだが、明治から大正の頃の中華街というのはどんな街だったのだろうか。そもそも横浜という街はどんな街だったのだろうか。獅子文六の随筆にも、ホテルニューグランドは外国人しか入れなかった、など断片的には当時の様子が書かれているけれど、東京生まれの作家がこぞって、昔の東京について書いているのと違い、横浜についてのそういう回顧録やみないな本はあまりないような気がする。横浜出身の作家を私が知らないだけという理由もあるけど・・・・。大正時代の横浜を舞台とした小説とかも今度探してみることにしよう。

「ぼくのニューヨーク地図ができるまで」-植草甚一-

例えば今の若い人たちに、植草甚一という人はどのように受け入れられているのだろう。去年の9月からスクラップブックが再発されていて、時々本屋で平積みされているのを見かける。やはりある程度は売れているのだろうか、よく分からない。自分が興味をなくしてしまっただけなので、知らないところで意外と盛り上がっているのかもしれない。なんだか、私より少し下の世代で1990年代の半ばに植草甚一がブームだったときに、絶版で手に入れられなかった人たちが、まとめて買っているだけじゃないだろうか、という気もしないでもない。ほんとは持っていない分を再発で埋めてコンプリートにしたいところなのですが、実家に送ってしまってある──しかも冷蔵庫の裏に段ボールに入れたままで仕舞われているらしい──ので、自分がどの本を持っているのか正確に分からないという・・・・。

もうちょっと書くと、アメリカの雑誌を英語で直接読んで、今アメリカでどのようなムーブメントが起こっているか、なにが新しいか、なにがおもしろいか、ということを紹介するという行為に、今、どのような価値が価値があるのか分からない。そういうアメリカでの最先端の出来事や物事に価値があったのは、1980年代──おそくとも1990年代はじめ──までなのではないだろうか。そういうふうに思ってしまうのは、私の年齢のよるものなのか、世の中全般がそうなってきているのかは分かりませんが、少なくともCDのレビューなどで、“洋楽的な”とか“同時代性”といった言葉を見かけることがなくなったような気がします。

さて、この本は、何年か前に、“実際にその土地に行かなくても読んで楽しめる旅についての本”を集めようと思ったときに、西荻の音羽館で見つけたのですが、3500円という値段に躊躇しているうちに売れてしまったという経験もあって、先日、古本屋見かけてつい買ってしまった(値段もそれほど高くなかったし)。
さすがにニューヨークに行って、植草甚一と同じようなコースで、ガラクタ市や古本屋を巡ってみようなどとは思わないけれど、旅先で見つけたものをを使ったコラージュも含めて、読んでいるだけで楽しい。ものへの執着やアメリカの文化に憧れていた若い頃に読んだら、また違った感想を持っただろう。話を戻すと、植草甚一のすごさは、時代的な要因もあったにせよ、どんなに歳をとっても、そういう“あたらしいもの”や“おもしろいもの”を探すために情熱を注ぎ続けられた、ところにある、ということを再認識させられました。

「饗宴」-吉田健一-

あとがきには

「昔書いた『饗宴』という随筆が中心になっているこの本の内容は、出版元の編集部の御好意によって集められたものである」

と書いてあるけれど、「あまカラ」に掲載された食に関する随筆をまとめたものだろうということ以外、実際にどのようなにまとめられたのかよく分かりません。初出も書いてない。ちなみに「饗宴」は昭和33年に発表された「舌鼓ところどころ」に収録されています。というわけで、前にどこかで読んだ文章が出てきたり、あるいは全体を読むと初めての文章なのだが、一部分だけ前に読んだ記憶のある文章が出てきたりします。そんなことは普段あまり気にしないのに、気になってしまったのは、

「最近、『教えて!goo』質問が減ってきているような気がする。それはWebの場合、前に書いた文章がいつまでも残るので、アーカイブがだんだん溜まってくると、質問する方も解答する方も、書き込む前に前のログを参照すればこと足りてしまうからだ。同じようにブログの日記も1年2年と経つうちに毎回書くことが同じになってしまい、廃れてしまうだろう」

という日記をちょっと前に読んだから。
一週間のうちに5日は会社に行って、しかもだんだん歳を取ってくると、ほんと毎日が、そして季節ごとが繰り返しになってしまい、日記なんて書くことなくなってしまう。それを防ぐために「読んだ本、買った本」についてというとっかかりでこの日記を書いているのだけれど、同じ作者の本を読み続けていれば、あんまり変わらなくなってしまいますね。そこで話を吉田健一に戻すと、逆に、同じとことを書いても違う文脈の中でだったり、違う結論に結びついたり、書き方を変えたりすることで、同じ文章でもそれをあまり感じさせないようにはできるわけだ。少なくとも吉田健一や山口瞳の文章にはそれがある、と思う。

ついでに同じこいえば、3月21日。今年は「Niagara Moon 30th Anniversary」らしい。1995年に「Niagara Moon」ほかナイアガラレーベルの作品が再発されてから、毎年、Anniversaryを繰り返しているような気がします。去年は「EACH TIME 20th Anniversary Edition」だったので、これから10年間また続くんだろうか。今回も新曲(?)、未発表曲、リズムトラックとボーナストラック満載。とりあえず買わねば。私と同じくらいの歳のナイアガラファンは、中学くらいの時にソニーから過去のアルバムが再発されたり、ボックスセットが出たりしていて、でも中学生なのでそんなに買えるわけでもなく、大学くらいになって買えるようになったらものすごく高くなってしまってた。という経験を持っているので、どうしても買っておかなくちゃという気分になってしまう。最近は、アナログにこだわらなければ、時間が経っても普通にCD買えますけどね。
ところで大滝詠一は、なぜか今週のテレビブロスに清水ミチコと対談してます。しかも現在の姿の写真が!こちらも必見!

「パリのおさんぽ―パノラマでいこう!」-プロジェ・ド・ランディ-

「旅のカケラ-パリ・コラージュ」もうそうですが、パリってフォトジェニックな街なのだなぁ、と思う。「旅のカケラ」では、看板や標識、マンホールなど、ミニマムな視点で撮り集めた写真がおもしろかったし、こちらは通りや建物を大きく捕らえたパノラマ写真が楽しい。このほかにもちょっと視点を変えれば、もっといろいろな写真を撮ることができるかもしれない。私は特にフランスかぶれというわけでもないし、パリに行ったこともないし、近いうちにパリに行くという予定もないので、観光案内というよりも写真集として楽しめるかどうかが、買うかどうかの基準となるのだけれど、そういう基準で選んでもパリのガイドブック(?)はおもしろいものが多いような気がします。意外と写真がおもしろいアメリカの本ってないような気がします。やはり街の写真といえば、ヨーロッパなのだろうか。よくわかりませんが。別に街にこだわっているわけでもないんですけど・・・・。

ところでいつの間にかパノラマ写真ってなくなってしまいましたが、パノラマ写真が流行っていたのはいつ頃だろう?私は、昔から古いカメラばっかり使っていたので、パノラマの撮れるカメラを持っていなかったけれど、、写真屋さんにフィルムを持っていくと必ず「パノラマ写真は入っていますか?」って聞かれたし、小型のカメラにはたいていパノラマと普通の大きさとの切り替えがついていたような気がする。あれって結局フィルムの上下を切って写したものを大きなサイズで現像するから、現像代が高いんですよね。当時バイト先の仲間、10何人でバーベキューをしたときに、友達がパノラマで写真を撮りまくっていて、後で焼き増ししたら、ものすごい値段になってしまっていたのを思い出します。
この本に載っているパノラマ写真は、それとは違い、普通の写真をつぎはぎした形で、ところどころずれたりしていて、好みもあるだろうけれど、私は雰囲気が出ていていいと思う。ただちょっと素人っぽい。でもそれはこの本に限ったことではなく、最近の本――特にこういう旅行関係の本――は、「プロが撮った写真」というのが少なくなってきたよう思います。実際このくらいの写真なら、私でも何回か、あるいは何日かパリで過ごしたら、撮れるんじゃないだろうかという気がしてしまいます。それを“味”と取るか単なる手抜きと取るかは、それぞれなんでしょうけど、それならば、プロがちゃんと撮ったスナップ風の写真を載せるべきで、これが許されるのは、DTPが普及したせいなのか、それとも単なる不景気で予算が取れないだけなのか。イラストなどと違って、写真はカメラさえあれば誰でも撮れるものだからこそこだわって欲しいです。
ただそういうことを抜きにして、久々に切りあわせのパノラマ写真を見て、今度自分でもやってみようかな、と思ってます。