「ぼくのニューヨーク地図ができるまで」-植草甚一-

例えば今の若い人たちに、植草甚一という人はどのように受け入れられているのだろう。去年の9月からスクラップブックが再発されていて、時々本屋で平積みされているのを見かける。やはりある程度は売れているのだろうか、よく分からない。自分が興味をなくしてしまっただけなので、知らないところで意外と盛り上がっているのかもしれない。なんだか、私より少し下の世代で1990年代の半ばに植草甚一がブームだったときに、絶版で手に入れられなかった人たちが、まとめて買っているだけじゃないだろうか、という気もしないでもない。ほんとは持っていない分を再発で埋めてコンプリートにしたいところなのですが、実家に送ってしまってある──しかも冷蔵庫の裏に段ボールに入れたままで仕舞われているらしい──ので、自分がどの本を持っているのか正確に分からないという・・・・。

もうちょっと書くと、アメリカの雑誌を英語で直接読んで、今アメリカでどのようなムーブメントが起こっているか、なにが新しいか、なにがおもしろいか、ということを紹介するという行為に、今、どのような価値が価値があるのか分からない。そういうアメリカでの最先端の出来事や物事に価値があったのは、1980年代──おそくとも1990年代はじめ──までなのではないだろうか。そういうふうに思ってしまうのは、私の年齢のよるものなのか、世の中全般がそうなってきているのかは分かりませんが、少なくともCDのレビューなどで、“洋楽的な”とか“同時代性”といった言葉を見かけることがなくなったような気がします。

さて、この本は、何年か前に、“実際にその土地に行かなくても読んで楽しめる旅についての本”を集めようと思ったときに、西荻の音羽館で見つけたのですが、3500円という値段に躊躇しているうちに売れてしまったという経験もあって、先日、古本屋見かけてつい買ってしまった(値段もそれほど高くなかったし)。
さすがにニューヨークに行って、植草甚一と同じようなコースで、ガラクタ市や古本屋を巡ってみようなどとは思わないけれど、旅先で見つけたものをを使ったコラージュも含めて、読んでいるだけで楽しい。ものへの執着やアメリカの文化に憧れていた若い頃に読んだら、また違った感想を持っただろう。話を戻すと、植草甚一のすごさは、時代的な要因もあったにせよ、どんなに歳をとっても、そういう“あたらしいもの”や“おもしろいもの”を探すために情熱を注ぎ続けられた、ところにある、ということを再認識させられました。