「同行百歳」-山口瞳-

8月30日は、山口瞳の命日なので、寝かせておいたこの本を追悼の意味も込めて読んでみた。日本の習慣としては、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌・・・・と続くので、10年という区切りはあまり関係ない。でも、何をするわけでもなく、個人的に本を読み返すくらいなら、10年というのは区切りとしてはいいかもしれない。本当はもう10年前のことなんて思い出すのも、書いたりするのも面倒な気分ではあるんだけれどね・・・・。
そういえば、私が成人式の時のサントリーの広告はどんな言葉だったんだろうか。ちょっと気になったので調べてみたら、「卑しい酒を飲むな!」というタイトルが付けられた文章だった。

 (略)成人式を迎えた諸君!おめでとう!僕にはもう何も言うことはない。
 ただひとつだけ、卑しい人間になるな、と言いたい。
 コソコソするな。思いやりのない無神経な人間になるな。(略)

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「清水町先生」-小沼丹-

清水町先生とは井伏鱒二のことで、小沼丹が井伏鱒二のことを書いた本というと、関係的には戸板康二が久保田万太郎について書くというのと似ている気がします。でも内容的には、生い立ちから学生の頃からの交友関係、文学・演劇などの分野における功績・・・・など、久保田万太郎の人生や作品に正面から取り組んでいった戸板康二の本と違って、自身が書いた全集や文庫本のあとがきをまとめただけなので、かなりラフな感じです。同じエピソードが何度も出てきたりするし、そのときそのときに思いつくものを書いているようだ。それがまた小沼丹らしいといえば、らしいのだけれど・・・・。

私が手に入れたのは、単行本だけれど、この本は、ちくまから文庫化されていて、小沼丹の本を読み始めた頃、渋谷のパルコブックセンターに置いてあったのをよく見かけたのだが、その頃は、あまり井伏鱒二の本も読み始めていなかったときだったこともあり、「いつか買おう」と後回しにしているうちに、なくなってしまって、後悔してました。ちなみ同じように「いつか買おう」と思っているうちに、手に入らなくなってしまった本に、獅子文六の「てんやわんや」があります。この本もついこの間までは、普通に新刊の本屋さんに置かれていたのに、気がついたらどこにもないという状態になってしまった。最近は新刊でも見つけたときに買わないと、いつ手に入らなくなるかわからん。

この間までちくま文庫復刊アンケートが、筑摩書房のホームページで行われていて、私も何冊か投票したのだけれど、当然この「清水町先生」その中に入っている。単行本を手に入れた今となっては、復刊されても買わないけれど、復刊されるかどうかちょっと楽しみ。結果は11月とのこと。
それにしても総点数1900のうち、品切れ758というのは、どうなのでしょう。確かにちくま文庫は、好きな人は好きというツボを得た本がたくさんあって私も何冊も買っているけれど、どう見ても初版だけ出して、あとはおしまい、売り切れ。という感じが出過ぎで、加えて、再版を考えていないから本の価格も高い。ここ何年かで文庫本の値段が高くなってしまったのは、ちくま文庫のせいじゃないかと思ったりもするけれど、どうなのだろう。「いつの時代でも読むべき価値のある本を、手軽な値段で提供する」という文庫本に対する私の認識はもう古いのだろうか。そもそも“読むべき価値”なんて人それぞれなわけだしね。

「久保田万太郎」-戸板康二-

前から気にはなっているのだけれど、なかなか作品を読むきっかけを作れずにいるのは、単に私が演劇や歌舞伎に詳しくないからという理由で、かといって「ちょっといい話」のシリーズから読み始めるのもちょっと・・・・と思ってしまう。結局、どれから読んでいいのかわからない。しかし、どれを読んでいいのかわからないのに、気になる作家というのも、なんだか変な感じがする。そもそも何がきっかけで戸板康二と知ったのかも忘れてしまった。「銀座百点」だったろうか。池田弥三郎の本だったのだろうか(池田弥三郎は戸板康二の慶応大学の一年先輩)。
久保田万太郎が急逝したのは、1963年5月、この本に収録されている文章は、1966年2月号から1967年4月号にかけて雑誌「文学界」に連載されたものなので、死後直後というわけではないが、それほど時間も経っておらず、また久保田万太郎は戸板康二の恩師でということもあり、戦後、さまざまな役職に就いたり、文化勲章を贈られたせいで、名誉欲や権力欲、ボス的体質について語られることが多い久保田万太郎の人生を、かなりひいき目に、温かく語っている。そういう意味でも、文中でも多く引用されている、慶応での後輩、小島政二郎が書いた「久保田万太郎」も読んでみたいところ。いや、それよりも久保田万太郎自身の作品を読むべきなのだが・・・・。

基本的に私は、その作品とその作家の私生活、生活は別のものと思っていて、どんなに性格が悪かろうと、私生活がどんなにめちゃくちゃだろうとその人が書いた本がおもしろければいい。そもそも性格がいい、悪い、なんて簡単に判断できるものでもないし、ある人から見たらいい人だけれど、違う人から見たらいやな人だった、なんてことは珍しいことではなく、ましてやすでに亡くなっている人であれば、その人についてどういう風に評価されようとも確かめる方法はないわけで、どうしようもない。人はいつかは亡くなり忘れ去られてしまうけれど、作品は残る、ということだろうか。
と、いいながらも、こういう本を読んでしまうのは、きっと明治の東京・浅草に生まれ、大正・昭和を生きた久保田万太郎という、ある意味架空の人物の物語として、この本を読んでいるから、かもしれない。

「昨日の會」-井伏鱒二-

まず「昨日の會」という題名がいい。「會」が「会」ではないところもいい(昭和36年発行、時代的にはまだ普通に「會」が使われていた時期なのだろうか?)。特に洒落ているとか、独特の言葉遣いをしているといったこともないので、なにがどういいのか、はっきり言えないけれど、そこがまた井伏鱒二らしくていい。自身の随筆の中で、広津和郎の「年月のあしおと」を取り上げて、広津和郎は題名をつけるのがうまいと褒めたあと、、「本の題名は絵画における額のようなもので、どんなにいい絵でも額がひどければ見た目は悪くなるし、額によって絵が引き締まる」といったことを書いていたけれど、井伏鱒二自身も題名をつけるのがうまい。「駅前旅館」「本日休診」「貸間あり」「逢拝隊長」「珍品堂主人」「厄除け詩集」「さざなみ軍記」・・・・など、有名な作品だけをあげてみても、どれも井伏鱒二らしいいい題名だと思う。私はまだ読んだことがないけれど「猫又小路」なんていう作品もあるそうだ。
気のせいかもしれないけれど、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻、そして吉祥寺といった場所の古本屋さんでは、井伏鱒二の本に割と高めの値段がつけられているような気がする。いや、すみません、単なる思いこみと気のせいに過ぎないだけです。でも国立の古本屋さんで買ったこの本は300円でした。箱がかなり焼けているというのが原因だろうけれど、前述の街の古本屋で、井伏鱒二の単行本が、300円で売られているのを見かけることは、あまりないように思えます(「荻窪風土記」など、文庫本になっていて手に入りやすい本は見かけるけれど・・・・)。まぁここらの古本屋さんで安く売られていたら少し寂しいですけどね。

その国立の、それほど大きくはない古本屋さんで、縦や横に重ねられた本をどけながら、奥にある里見弴や永井龍男の本を引っ張り出していると、なんとなく店主の「楽しくやっていればそのうちいいことあるよなぁ」という店主の言葉が耳に入った。その店主は、私が店に入ったときからずっとお客さんと話していて、なにげに聞き耳を立てていたのだけれど、その“いいこと”というのは、どうやら「四谷に住んでいる人が、その本屋のことを聞いて、国立までわざわざ来てくれて、専門的な研究書をたくさん売ってくれた」ということらしい。どんな本なのかは題名を聞いていても、私にはぜんぜんわからない。でもとにかく自分の店に合うだろうと思って、わざわざ持ってきてくれたことが、店主にはうれしかったらしい。何度も「四谷から」という言葉を繰り返してました。世の中が買収とか言っているのに、なんだかほんとうに小さな喜びだけれど、よくわかる。そしてそういう喜びの積み重ねこそが人生のほんとうの喜びなのかもしれないとも思う。

話が飛びますが、井伏鱒二続きでもう一つ。先日、吉祥寺に行ったときのこと。ミオ犬が買い物をしているあいだに、近くの古本屋さんで本を眺めていたら、その日はいつもよりも文芸文庫が多く出ていて、井伏鱒二の「人と人影」もある。値段は840円。ちょっと高い。600~700円くらいだったら買うのに、なんて思いつつ(この100円の違いはなんだろう)、目次をチェックしてみたら「継母の~」というタイトル、そして劇画調のイラスト・・・・。カバーは井伏鱒二、中身は官能小説、誰かが電車の中でこの本を読んでいる姿を想像しただけで笑えてしまった。そして笑いながら一度本棚に戻して、やはり思い直して店の人に指摘したら、「あらあら」と言いつつ、微かに、でもハッキリとがっかりした感じが出ていた。これもわかるよなぁ。市とかでまとめて売られているのを一束で仕入れたのだろうか。それにしても値段をつけるときにわかりそうなのにね。でも客としては講談社文芸文庫と官能小説という組み合わせがおもしろい。これが角川文庫だったりしたらありがちな感じがしてしまう気がする(その違いはなんなんだろう)。

「ZERO」-Pat Schleger-

京都に行ったときには、必ずと言っていいほど恵文社に行く。
というか、もっといろいろ個性的な本屋があるのは分かっているけれど、わざわざ京都まで来て本屋(古本屋)にいってもなぁ、という気分もある。一人じゃない、ってこともある。恵文社も正直に言ってここでしか手に入らない本、なんていうのもないのだけれど、わりと広めの店内なので、ゆっくり本が見れるのと落ち着いた雰囲気が結構好きだったりする。単に前回、今回と泊まったホテルが比叡山線沿いだったということもある。もし河原町の近くに泊まっていたら出町柳での乗り換えが面倒で行かなかったかもしれない。

実は、この「ZERO」という本を初めて見たのは、前回の京都旅行の時に恵文社に寄ったときで、家に帰ったらamazonでチェックしようと思ってメモったまま、いつのまにか3年以上経ってしまった。先日も代官山のハックネットで見かけてそろそろ買わなきゃなぁ、なんて思っていたところだったのだが、注文しなくてよかったです。現品処分で2500円。実は3年前に私が見た本がそのまま残っていたのでは・・・・なんて勘ぐってしまったり・・・・。

神戸に行くと必ず行くのは、Fabulous OLD BOOK。ここは洋書の絵本専門の古本屋さんで、真ん中に椅子とテーブルがあったりしてまるで図書館のよう。見ているだけでいつも申し訳ないなぁ、なんて思いながら、探していた絵本作家の本をチェックしたり、見知らぬ作家の絵本を取り出してみたり・・・・。ちょっとコーヒーでものみたいな、などと自分が古本屋にいることを忘れてしまったりする古本屋さん。

「残光のなかで」-山田稔-

先日書いた京都に持っていくために探していた本。山田稔が過去に発表した作品からのアンソロジィなので、それぞれの作品を読んでいくうちに重なりが出てしまうだろうけれど、とりあえず山田稔の略歴と作品の一覧を確認しておこうと思って・・・・。
さっそく、京都に向かう新幹線の中で経歴から読んでみて、山田稔が子供の頃から京都の下鴨神社の近くに住んでいて、糺の森を通って学校に通っていたことを知って、びっくりする。前にも書いたように今回の旅行の目的の一つは下鴨神社の境内で行われる古本市なのです。単なる無知にすぎないのだけれど、こういう偶然はものすごくうれしい。

そんなわけで、本の中に出てきた糺の森を舞台とした初恋の話を思い出したりしながら、京都の着いて荷物を預けたらすぐに、森の中の古本市を散策。考えていたよりも多くの古本屋さんが出店しているし、神保町やデパートの古本市のように本の周りに人だかりができているというわけでもないので、ゆっくりと見れてうれしい。ときおり雨がぱらついては止むといったような曇り空で、出店している店の人はハラハラしどうしだったかもしれないけれど、見るぶんにはちょうどいい、とは言わないまでも我慢できる範囲。希望を言えばもう2カ所くらい休憩する場所があって、コーヒーとか飲めるといいのに、と思いました。
基本的に自分の本をたくさん買い込もうとか、カヌー犬ブックスのための仕入れをしようとか、という気はなくて、古本市の雰囲気を味わえればいいという気持ちで回っていたのですが、結局、一日(夕方から)では回りきれず、2日に分けて見回って、小島政二郎とか小沼丹など、7冊くらい購入しました。2回も見に行ったのは、泊まったホテルが、下鴨神社の最寄り駅である出町柳駅から2駅しか離れていなかったことと、もう一つの目的たっだ手作り市が行われている知恩寺も最寄り駅が下鴨神社と同じで近かったせい。
手作り市が開かれる日は、めずらしく6時半に起きて7時にはタクシーに乗り込んでました。こちらのほうは、主婦の手作り雑貨っぽいものや、京都ならではの民芸品っぽいもの、漬け物などの食べ物が半分くらい。それに混じって若者による今どきの手作り雑貨やケーキ、パンといったものが並んでいました。・・・・なので、私が欲しいと思う、あるいは使えるようなものはほとんどないのだけれど、なんとなく見て回りながら、お多福珈琲のコーヒーを飲んだり、キッシュやケーキを食べたりしてました。

境内の何周もして、歩き疲れたところで、知恩寺を一度出て、進々堂で休憩。広い店内では、おしゃべりをする人、本を読む人、新聞を読んでる人、誰かを待っているらしき人、ただ時間をつぶしてるだけのような人・・・・が、同じ空気の中でそれぞれに過ごしている。進々堂みたいな喫茶店が私の出身校の近くにあったらなぁ、なんて贅沢は言わないけれど、せめて西荻や荻窪にあったらいいのに、とつくづく思う。
さて、進々堂は1930年にカルチェラタンに感動したオーナーが日本にも同じような空間が欲しいとオープンさせた喫茶店。ということは、京都大学出身でフランス文学を専攻していた山田稔も大学時代、ここにに通って本を読みながらコーヒーを飲んだりしたのだろうなぁ。

「もののはずみ」-堀江敏幸-

先週のはなし。普段それほど本を買い込んでおくほうではないけれど、ときには「読む本がたまって、しばらく古本屋に行かなくていいな」、ということもあって、そういうときは早く次の本を読みたくなったり、今読んでいる本をもう少しゆっくり読もう、なんて、心がざわざわしてしまったりする。でもそんな風に気を抜いていると、いつのまにか読む本もなくなってしまって、あわてて昼休みや帰りに本屋に立ち寄るはめになるのだけれど、普段、古本屋に行きなれていると、これはと思う本がなかなかなかったり、あらためて新刊って高いなぁ、と思ったりしてしまう。
先日も京都に持って行く本を探しに、会社帰り渋谷の駅から一番近い本屋さんへ寄ってみたのだけれど、目的の講談社文芸文庫がどこにあるかわからない。しばらく歩き回ってみてから、店員に聞いてみて、「こちらです」を案内されたのは、講談社文庫の前でした。私:「いや講談社“文芸”文庫なんですけど・・・・。」、店員:「講談社・・・・むにゃむにゃ。探している本の題名とか著者はわかりますか?」、私:「山田稔か木山捷平なんですけど」、店員:「山田・・・・。すみません接客中ですので・・・・」・・・・と、どこかにいってしまった。そ、それはないのでは・・・・。結局、文芸文庫がどこにあるのかわからなかったんですけど、どこにあるのだろうか?

閑話休題
堀江敏幸の新刊は“モノ”についてのエッセイ集。スライド映写機、パタパタ時計、フレンチキーホルダー、原付自転車、カフェオレボウル、クマの縫いぐるみ・・・・など、パリや東京の古道具屋で出会ったガラクタたちについて、それにまつわる文章に著者自ら撮った小さなモノクロ写真が添えられてます。
堀江敏幸の場合、こうしたエッセイでなく小説の中でもモノに対するこだわりや偏愛が、割と大きな意味合いを持っているのので、こうしていくつものモノがまとめられて語られると、小説の中で扱われるよりも、どうしてもひとつひとつがあっさりとしていて、“こだわり”や“偏愛”という部分が希薄になってしまうような気がしてしまう。でも、それはもしかしたら一冊の本というかたちにまとめられているからであって、雑誌の連載として毎号ひとつずつ、最後の方の見開き2ページを読んでいくのは楽しいかもしれない、と思ってみたものの、初出は「東京新聞」と「本の旅人」でした。それにしても「東京新聞」連載時の「多情『物』心」というタイトルはいいですねぇ。

「百叩き」-小島政二郎-

「百叩き」とは、随筆の題名としては少し似つかわしくと思うかもしれない。江戸時代に行われて刑罰を、今ではすこし滑稽でノンビリしていると言い、「なんの権力も持たない我々が悪い奴を捕まえてきて、さも権力を持っているような顔をして、そいつを百叩きに処するところを空想するだけでも、正直な話、楽しいではないか」、と。そしてここであげられるのは、権力を振り回し私腹を肥やすことだけを考え、国民のことをまったく考えない政治家や役人や戦後、物事をいかに簡単に、インスタント済ますようになってしまった戦後派の人々、髪を長く伸ばして街を闊歩する若者たち・・・・など。
言いたいことをズバズバと書いていくのは、書くほうも読むほうも、ある意味気持ちがいいのかもしれないが、私は基本的に、年寄りの愚痴は恥ずかしい、と思う性格なので、やはりそれ以外の交友録や旅や料理の話のほうが好きです。
そもそも歳をとった人間が現状を嘆いたり、昔は良かった、というのはおかしいと思うのです。つい、今の世の中を作ってきたのは、自分たちであり、気に入らない子どもたちを育てたのも、自分たちなのでは・・・・と考えてしまう。そんな単純なことではないのだろうけど。
そんなこととは別に、この本を読み始めたのは月曜の朝からなのですが、前述の“百叩き”のターゲットとして一番最初に取り上げられたのは、郵政省と郵便局だったりする。一日2回の配達が1日となり、それさえも遅くなったことや、勝手な郵便番号をつけたのに全然便利にならない、など、郵政省、郵便局の役人的な態度を羅列して、最後には民営化するべきだ、と結論づけている。その民営化は否決されましたが・・・・。加藤紘一のときもそうだけれど、国会のやりとりを見てるとほんと政治って怖いなぁ、と思いますね。

明日から夏休み。お盆と時期なんてどうせどこにも行けないし、実家に帰るわけでもないので、いつもならダラダラと過ごしてしまって、なにもせずに終わってしまうのですが、今年は京都に行って来ます。下鴨神社の古本市と百万偏の知恩寺で毎月15日に行われている「手作り市」です。なんだか野外ばかりで暑そうだけれど、楽しみ。というわけで、カヌー犬ブックスも16日まで夏休みとさせていただきます。

「風のない日々」-野口富士男-

まったく救いようのない、やりきれない気持ちにさせられる物語なのだけれど、読み終わって思い返してみると、私生児という主人公の生い立ちや、血のつながりのない姉たち(とその夫たち)の自分では主人公を思いやっているつもりの悪意のかけらもない押しつけ、太平洋戦争直前という不景気で暗い時代背景、そしてその当時の道徳観・・・・などが強調されているだけで、結局は主人公のなんらかの欠陥によって引き起こされた出来事なのではないか、と思ったりもするわけで、だからこそそうした周辺の要因が強調されているのかもしれません。でも“風のない日々”というタイトルは物語のテーマをうまく表していて秀逸。特に、会話もなく、お互いに理解しようとするのでもなく、思いやるわけでもなく、逆に言い争いやけんかなどもなく、すれ違いさえも起きていないような、主人公夫婦の毎日の生活は、まさに“風のない日々”で、淀んだ空気だけがやけに暗く重い。風が起きなければ、流れはよくならないし、もし起きないのであれば、自分で風を起こさなくてはいけない、ということだろうか。
とはいうものの、こう暑い日が続いていると、いくら風を起こしても流れてくるのは湿気を含んだ生ぬるい空気だけで、どうにもならない。一晩中エアコンをつけて置くわけにもいかず、夜中に何度も目が覚めてしまい、いつでも寝不足、という状態。だからというわけでもないけれど、涼しくて暗い映画館で映画を観ていると、つい眠ってしまう。先日観た「ライフ・イズ・ミラクル」なんて、予告が始まると同時に眠ってました。さすがに予告から寝ていたので本編は3/4くらいは見れたので、よかったことにするけれどね。
「ライフ・イズ・ミラクル」は、「黒猫白猫」や「SUPER 8」、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した「アンダーグランド」などで知られるエミール・クストリッツァ監督の最新作。ボスニア紛争を背景としているのだが、暗い雰囲気はなく、哀しみと陽気さが混じり合って不思議な魅力を醸し出している。登場人物たちも泣いたり、笑ったり、怒ったり・・・・と感情の起伏が激しい。ちょっと前まで親しみを込めて語り合っていたと思ったら、急に怒り出したりする。しかもその辺のものをひっくり返すは壊すはでかなり激しい。セルビア人はそういう気質を持っているのだろうか。

ついでにクストリッツァ監督の作品を検索してみたのだけれど、「アリゾナドリーム」もクストリッツァ監督作品なのですね。ジョニー・デップ主演。懐かしい。なんでだったか忘れたけれど、シネセゾンに観に行きました。確か映画好きの友達と1日に3本の映画観ようと言うことになって、一緒に観に行った時のうちの1本だったので、その友達に勧められたのかもしれない。で、このときも眠ってました。
思い起こせば1994年の夏も映画館で眠ってばかりいたような気がします。ほかには「トリコロール 青の愛」も寝てた記憶があるし、「レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う」なんか5、6人で見に行ったのに、最初から最後まで全部観てみた人がいなくて、映画が終わった後、それぞれが観た場面をつなぎ合わせてストーリーを完成させたこともありました。
ほかにも観たい映画があるんですけど、今年の夏もそんな映画館で寝てばかりの夏になってしまうのでしょうか・・・・。

「早稲田の森」-井伏鱒二-

井伏鱒二は生涯にどのくらいの本を出しているのだろう。文庫本で読めるものだけでも読んでおきたい、と思って、文庫についてはリストを作ってみたりしていたのだけど、いつの間にか単行本を買うようになってしまった。この本もそうですが、井伏鱒二の単行本は、普通の単行本のサイズよりも少しだけ横幅が広くて、正方形に近い形が多い。違う出版社から出ているものでも同じような形なので、井伏鱒二自身のこだわりだったのだろうか?よくわからないけれど、個人的には、なんだかちょっとだけ豪華というか、ちょっとだけ違う感じが出ていて、この形が気に入っていたりする。この「ちょっとだけ」というのがポイントです。ただしうちにあるスライド式の本棚の奥の棚に入れると頭が出てしまうので、手前のスライドが動かなくなってしまうのが難点。当たり前の話だけれど、スライド部分は容量が少ないんですよね。

「早稲田の森」は、1972年に刊行された本で、第23回読売文学賞を受賞しているらしい。内容は、井伏鱒二が早稲田周辺に下宿し、大学に通っていた頃、近くに“箱根山”と呼ばれた東京都内で一番高い森があって、それが消えてなくなってしまった、ということを中心に、その頃の早稲田の町や地形、よく通ったお店、学友などの思い出話がつづられている。このほかには、相変わらず釣りに関しての昔話や日経新聞に掲載された「私の履歴書」(この本に収録されるにあたり「半生記」と改題)、木山捷平の詩碑の落成式の様子を書いたものをなどが収録されている。
これに限らず、井伏鱒二の文章からは育ちの良さがにじみ出ている。実際にはどのくらい本が売れていたのか、生活的に厳しかったのか楽だったのか・・・・など、よくわかりませんが、どんな場面でも、気持ちにも行動にも、常に余裕が感じられる。「半生記」を読むと父親を早くに亡くしているようだけれど、母親や兄弟、祖父や祖母に愛され、かわいがられながら育っていったのだろうな、と思う。井伏鱒二の文学には、反抗とか自分を追いつめた切実さ、ガツガツした上昇志向・・・・といったものはない。その辺が、金持ちだったけれど、自分を追いつめていった太宰治と評価の大きく分かれるところなのかもしれない。適当です。

話は変わりますが、私が住んでいるマンションでは7月からケーブルテレビが見られるようになりました。そのせいで、もう家にいる時はほとんどスペースシャワーTVだとかMUSIC ON! TVだとかMTVばかり見てます。もうニュースもぜんぜん見てない。地上波で見てる番組といえば、「サクサク」くらい。それで最近の音楽に詳しくなったかといえば、よくわからない。ずっと見てると、どの局でも、いつでも、同じような曲ばかりかかっているような気もする。それじゃ、どんな番組や音楽が聴きたいのさ?、と聞かれてもよく分からないけれどね。
で、今日はヘアカット100のライブを見ました。懐かしすぎ。ラテンなのになぜか盛り上がりに乏しいリズムが、今聞くと逆に新鮮だったりする。レコードさえももう何年も聴いていないのに、なぜか口ずさめてしまうのは、さすがに10代の頃に聴いた音楽だけのことはある。ニック・ヘイワード若いのにオヤジだなぁ、なんていいながら、盛り上がってしまった。・・・・・・・・のだが、ライブが終わって最後のクレジットを見ていると「ライヴ1983」というタイトルが!あれ?????1983年ってすでにニック・ヘイワード脱退してません?というか、もうソロ出してるはず。私が中2のときですよ。というわけで番組表をネットで調べてみたところヴォーカルはマーク・フォックスでした。残念。