どこで、何を読んでそう思ったのか分からないけれど、この「自由学校」は、戦後の鎌倉アカデミアを題材とした小説、となぜか思いこんでました。鎌倉アカデミアといえば、林達夫、高見順、吉田健一、大仏次郎、木下順二、平野謙、吉野秀雄・・・・といった人が講師を務め、生徒には、山口瞳、いずみたく、前田武彦等がいたという大学令によらない大学で、自由大学とも呼ばれているのでその辺が勘違いのもとかもしれません。もちろんフィクションなので実際の講師たちが出てくることはないだろうけれど、個性の強い講師たちをどう描いているのか、また戦後の鎌倉の様子などがどのように描かれているのかなど、考えるだけでわくわくしてしまい、獅子文六の作品の中でも、特別に読むのを楽しみにしていた本でした。
だから下鴨神社の古本市で見つけたときも、実際に読み始めるときも、普段なら先に読むカバーに書いてあるあらすじや、巻末の解説もまったく見ずにページをめくりはじめ、なんだか思っていたのと違うことにすぐに気づいて、あわてて解説を読み直すはめに。
30代の気の強い妻と、体は大きいが怠け者の夫を主人公に置き、ある日、妻に「出ていけ」といわれた夫が、そのまま家を出てしまうことがきっかけで起こる珍騒動(?)が描かれていて(誤解を恐れずに、大まかに言ってしまえば、獅子文六の小説のほとんどは“珍騒動”なんですけどね)、その顛末を描きつつ、戦後の「民主主義」、「男女平等」、「自由」・・・・といった世相や思想を皮肉っていて(からかうといったほうが近いのかも)、それと物語の絡ませ方が絶妙。その主張に関しては、もちろん今でも通じるものではあるのだが、「民主主義」も「男女平等」も「自由」も、いろいろな思惑や利権、政治的なかけひきの材料となってしまって、複雑になってしまった今では、この作品で描かれているようなストレートな皮肉では通じない。でもそれが含まれているかどうかで、作品の広がりがぜんぜん違ってくるのではないかなと思う。
このところ、近況的なことを書いてなかったので、最近、行ったところなどをいくつか。
・毎年、恒例になりつつある横田基地の友好祭。今年は花火を見ようと思って夕方から出かけてみました。福生ではまず基地の中で、厚い肉のみのいかにもアメリカンなハンバーガーと、まだ霜が付いている冷凍のケーキなどを食べ、その後、街道沿いの雑貨屋さんなどをのぞいて、デモデダイナーでサラダとか食べてから、花火の直前に基地に戻ったのですが、なんとすでに入場が終わっていて、道ばたから花火を見ることになってしまった。来年は、最初に福生の街をふらついてから、基地の中に行こうと思う。
・9月3日まで吉祥寺のfeveでやっていた「mina perhonenのアトリエ展」にいく。もちろんいくら私がSサイズの服ばかり着ているといっても、女の子ものばかりのミナの服には興味はありません。色合いと模様のバランスがいいな、とは思うけどね。予想通り会場は2、3人組の女の子たちでいっぱいで、一人で行った私にはちょっと居心地が悪かった。
・セキユリオがパッケージのデザインをしたたばこを、神戸に行ったときに4箱も買い込んだのだけれど、どうも私には強い感じなので吸う気になれない。もともとおみやげに誰かにあげようと思っていたのだが、よく考えてみれば、私の周りの喫煙者で、セキユリオのデザインを喜ぶ人が見あたらない・・・・。
・神楽坂のKADOで食事。ここは古い民家をそのまま利用したカフェ(昔風に「古い民家をそのまま利用した家(うち)」といったほうが似合うかも)。夜はコース料理のみなのだが、珍しい材料を使った料理が小皿で次々と出てきて、小食の私にはうれしかった。次回は昼間に来て、神楽坂周辺を散策してみたい。
・3年半ぶりに携帯を買い換えた。前の機種なので1円。基本的にあまり電話にも出ず、メールのやりとりを頻繁にするわけではないので、携帯を持つ意味はそれほどないような気もするが、画面がきれいで文字が読みやすくなったのはうれしい(私は単なるお年寄りなのか?)
8月30日は、山口瞳の命日なので、寝かせておいたこの本を追悼の意味も込めて読んでみた。日本の習慣としては、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌・・・・と続くので、10年という区切りはあまり関係ない。でも、何をするわけでもなく、個人的に本を読み返すくらいなら、10年というのは区切りとしてはいいかもしれない。本当はもう10年前のことなんて思い出すのも、書いたりするのも面倒な気分ではあるんだけれどね・・・・。
清水町先生とは井伏鱒二のことで、小沼丹が井伏鱒二のことを書いた本というと、関係的には戸板康二が久保田万太郎について書くというのと似ている気がします。でも内容的には、生い立ちから学生の頃からの交友関係、文学・演劇などの分野における功績・・・・など、久保田万太郎の人生や作品に正面から取り組んでいった戸板康二の本と違って、自身が書いた全集や文庫本のあとがきをまとめただけなので、かなりラフな感じです。同じエピソードが何度も出てきたりするし、そのときそのときに思いつくものを書いているようだ。それがまた小沼丹らしいといえば、らしいのだけれど・・・・。
前から気にはなっているのだけれど、なかなか作品を読むきっかけを作れずにいるのは、単に私が演劇や歌舞伎に詳しくないからという理由で、かといって「ちょっといい話」のシリーズから読み始めるのもちょっと・・・・と思ってしまう。結局、どれから読んでいいのかわからない。しかし、どれを読んでいいのかわからないのに、気になる作家というのも、なんだか変な感じがする。そもそも何がきっかけで戸板康二と知ったのかも忘れてしまった。「銀座百点」だったろうか。池田弥三郎の本だったのだろうか(池田弥三郎は戸板康二の慶応大学の一年先輩)。
まず「昨日の會」という題名がいい。「會」が「会」ではないところもいい(昭和36年発行、時代的にはまだ普通に「會」が使われていた時期なのだろうか?)。特に洒落ているとか、独特の言葉遣いをしているといったこともないので、なにがどういいのか、はっきり言えないけれど、そこがまた井伏鱒二らしくていい。自身の随筆の中で、広津和郎の「年月のあしおと」を取り上げて、広津和郎は題名をつけるのがうまいと褒めたあと、、「本の題名は絵画における額のようなもので、どんなにいい絵でも額がひどければ見た目は悪くなるし、額によって絵が引き締まる」といったことを書いていたけれど、井伏鱒二自身も題名をつけるのがうまい。「駅前旅館」「本日休診」「貸間あり」「逢拝隊長」「珍品堂主人」「厄除け詩集」「さざなみ軍記」・・・・など、有名な作品だけをあげてみても、どれも井伏鱒二らしいいい題名だと思う。私はまだ読んだことがないけれど「猫又小路」なんていう作品もあるそうだ。
京都に行ったときには、必ずと言っていいほど恵文社に行く。
先日書いた京都に持っていくために探していた本。山田稔が過去に発表した作品からのアンソロジィなので、それぞれの作品を読んでいくうちに重なりが出てしまうだろうけれど、とりあえず山田稔の略歴と作品の一覧を確認しておこうと思って・・・・。
先週のはなし。普段それほど本を買い込んでおくほうではないけれど、ときには「読む本がたまって、しばらく古本屋に行かなくていいな」、ということもあって、そういうときは早く次の本を読みたくなったり、今読んでいる本をもう少しゆっくり読もう、なんて、心がざわざわしてしまったりする。でもそんな風に気を抜いていると、いつのまにか読む本もなくなってしまって、あわてて昼休みや帰りに本屋に立ち寄るはめになるのだけれど、普段、古本屋に行きなれていると、これはと思う本がなかなかなかったり、あらためて新刊って高いなぁ、と思ったりしてしまう。
「百叩き」とは、随筆の題名としては少し似つかわしくと思うかもしれない。江戸時代に行われて刑罰を、今ではすこし滑稽でノンビリしていると言い、「なんの権力も持たない我々が悪い奴を捕まえてきて、さも権力を持っているような顔をして、そいつを百叩きに処するところを空想するだけでも、正直な話、楽しいではないか」、と。そしてここであげられるのは、権力を振り回し私腹を肥やすことだけを考え、国民のことをまったく考えない政治家や役人や戦後、物事をいかに簡単に、インスタント済ますようになってしまった戦後派の人々、髪を長く伸ばして街を闊歩する若者たち・・・・など。
まったく救いようのない、やりきれない気持ちにさせられる物語なのだけれど、読み終わって思い返してみると、私生児という主人公の生い立ちや、血のつながりのない姉たち(とその夫たち)の自分では主人公を思いやっているつもりの悪意のかけらもない押しつけ、太平洋戦争直前という不景気で暗い時代背景、そしてその当時の道徳観・・・・などが強調されているだけで、結局は主人公のなんらかの欠陥によって引き起こされた出来事なのではないか、と思ったりもするわけで、だからこそそうした周辺の要因が強調されているのかもしれません。でも“風のない日々”というタイトルは物語のテーマをうまく表していて秀逸。特に、会話もなく、お互いに理解しようとするのでもなく、思いやるわけでもなく、逆に言い争いやけんかなどもなく、すれ違いさえも起きていないような、主人公夫婦の毎日の生活は、まさに“風のない日々”で、淀んだ空気だけがやけに暗く重い。風が起きなければ、流れはよくならないし、もし起きないのであれば、自分で風を起こさなくてはいけない、ということだろうか。