ニッポン放送で放送されたラジオエッセイを活字として起こした本。なので、落語の一場面や豆腐屋、納豆屋などの売り声など、安藤鶴夫以外の人の声が入るところが区切られていたりして、どことなく台本にちかい。本では、それらの売り声が直接伝わらないことと、安藤鶴夫自身の声が想像できないのがちょっと残念。検索してみたらどこかのサイトの紹介文に「甲高いダミ声」と書いてありました。「甲高いダミ声」ねぇ~。ちなみにカセットテープは出ていたらしいです。
こういう音源こそ、パッケージはいらないので、ネットで販売してくれればいいのに、と思うのだが。いや、そういうサイトを見たことがないのでわかりませんが、すでに出ているのかな。「大滝詠一と山下達郎の新春放談」とか「大滝詠一の分母分子論」とかあったらわたしは買いますね。でも曲の部分は、著作権関係がからんでしまったりして、意外と難しいんだろう。
先日、ちょっと用事があって新宿御苑から新宿まで歩いたのだけれど、新宿通りと靖国通りに挟まれたこの区域は、なんだかよく分からない場所だなぁ、と行くたびに思う。ちょうど花見の直前の頃だったせいで、新宿通り沿いでは、店の前で声を張り上げてお弁当や飲み物を売っていたりするし、一方、靖国通りでは、何のコンサートか知らないけれど、厚生年金会館の前に人だかりになっている。
でもその2つの通りのあいだは、人通りもほとんどなくものすごく静かで、普通の飲食店なども土日は営業していなかったりする。で、バーとかスナック、アダルトショップなどがある割には、歌舞伎町のような雰囲気はないし、その横に普通に昔からあるような喫茶店があったり、バブルの名残か、建物と建物のあいだにぽっかりと更地ができていたり、建て壊し前のビルが囲われていて廃墟のようになっていたり、そんななかで末廣亭みたいな場所があったりする。そしてちょっと歩いたところには、伊勢丹や三越、ヨドバシカメラ‥‥などが立ち並ぶ新宿の繁華街というのも、なんだか信じられない。
安藤鶴夫が住んでいたという「新宿区若葉町1丁目」は、この地域から少し離れた四谷三丁目と四谷、信濃町に囲まれた場所になる。この辺もあまり行ったことのない地域で、地図を見てみると意外とお寺が多かったり、赤坂御用地と明治神宮外苑、新宿御苑に三方を囲まれたところに、小さな建物が密集しているのが分かる。地図や衛星写真では、高低差がわかりにくいのでなんともいえないけれど、イメージだけで言うとやはり坂の多い地域なのだろうか。
小山清の本なんてそうそう手に入るものでもないだろうから、ゆっくり落ち着いて読むべきだよなぁとか、どうせならもっと収録してくれてもいいのに、などと思いながらも一気に読んでしまった。もったいない。
学生の頃に授業で習ったティペラリーやラムといったイギリスの随筆家から、伊東静雄、佐藤春夫など文学における先生、島尾敏雄、林富士馬ら友人たち、安岡章太郎、井伏鱒二、小沼丹など東京に来てから知り合った作家たち、兄であり児童文学者の庄野英二‥‥と庄野潤三が出会ってきた人々との思い出がつづられている。個人的には、出てくる人の関係や住んでいるところの地理がなんとなくわかるだけに、やはり東京での話のほうがおもしろい。その辺の“わからなさ”というのは、富士正晴の本を読んでいて感じることと同じような気が。直感的に「あんな感じなんだろうなぁ」ということが分かると、もっと興味がわくんだろう。いや、関西のことは興味ない、ってわけではないし、神奈川・東京のことならなんでも分かるってわけでもないんですけどね。
市川実和子、eri、東野翠れんの3人の手描きの交換日記をスキャンして、そのまま掲載した本。文字や絵だけでなく、古い切手、押し花、写真、お菓子の包み紙、シール‥‥といったものが貼り付けられたりしていて、かわいいけれど、なんだか男の子には立ち入れない雰囲気が漂ってます。普通、交換日記って男はしないものだし。
世田谷文学館で開かれている「花森安治と『暮しの手帳』展」に行ってきました。特に目新しいものはなかったけれど、原画とか手紙とかを見ていると“手描き”の力強さを感じますね。ただ、「暮しの手帖」という雑誌が、編集長である花森安治の思いをストレートに表したものであることはわかるけれど、今もあるわけじゃないですか。それなのに「暮しの手帖」=花森安治という図式があまりにも強くて、それはどうなのか、と。松浦弥太郎なんて、「今こそ僕らの『暮しの手帖』作らなくてはいけない」といった意味のことをコメントしてるし‥‥。
前回(この項続く?)なんて書いたのに気がつけば一週間経ってしまいました。最近、本を読むペースが遅くなっていますね。
前にも書いたことがあると思いますが、20代の中頃、調布でひとり暮らしをしていた時に、通いの猫、大佛次郎風に言えば“外様猫”を飼っていたことがありました。その頃、住んでいたアパートは、ベランダもなく、窓を開けるとそのまま外に出られるようなところで、目の前は畑が広がっていて、アパートとの間には割と高い囲いがあって、庭とは言えないけれど、小さな空間ができていました。その空間は、その猫の通り道になっていたようで、部屋の中で何かしていると、塀の向こうから猫があらわれて部屋の前を通って、またどこかに行ってしまうのが、ときどき視界の隅にかすかに見えたりしていました。
大阪から来た友達と久しぶりにあった。去年の9月から東京に来ていたのだから、“来た”というのはちょっと間違っているかもしれない。
「あまカラ」に掲載された随筆をまとめた本で、編者をつとめた小島政二郎はもちろん、志賀直哉、永井龍男、獅子文六、福田恆存、徳川夢声‥‥といった作家の随筆が収録されている。あとがきには二冊目、三冊目と続けていきたい、といったことが書いてあって、実際にこの後、何冊か刊行されたらしい。
どのよう意図でまとめられた本なのかよく分からないし、それぞれの初出も書いていないので、どのような経緯で書かれた文章なのかもまったく推測できない本。基本的には本人の体験談を語った随筆なのだけれど、どの作品も獅子文六のストーリーテラーの才が光っていて、短編小説のような雰囲気があって、それでいて力の抜けてリラックスした文章がとてもいいです。まぁ1964年、獅子文六70代の頃の作、ということを考えると、リラックスした雰囲気も、いぶし銀のストーリーテラーもなんとなく納得がいくような気がします。