「日々の麺麭・風貌」-小山清-

小山清の本なんてそうそう手に入るものでもないだろうから、ゆっくり落ち着いて読むべきだよなぁとか、どうせならもっと収録してくれてもいいのに、などと思いながらも一気に読んでしまった。もったいない。
ついでにamazonで調べてみたら、「風貌―太宰治のこと」(津軽書房)、「二人の友」(審美社)、「落穂拾ひ・聖アンデルセン」(新潮文庫)の三冊、そして筑摩書房から「小山清全集」が出てきたけれど、どれもすぐには手に入りそうにない。小山清は、生涯に短編50足らずしか発表していない作家なので、ちょっと値段もはるし、持ち歩きもできないけれど、もし手に入るならば、全集を買ってしまってもいいかもしれない、とも思ったりするが、どうだろう。全集といっても一冊だし‥‥。

気がつけば、私小説と呼ばれるジャンルの本ばかり読んでいて、なんとなく自分が今読んでいる本が小説なのか、随筆なのか分からないときがときどきあったりする。そしてどの本を読んでいても、どこかに井伏鱒二が出てきたりして、他の作家の小説を読めば読むほど、なんだかわたしの中で井伏鱒二という作家の重要度が増していくという‥‥。最近では“すべての道は井伏鱒二に通ず”とさえ思ってしまう。
その一方で、井伏鱒二自身の作品はというと、どちらかと言えば登場人物をきちんと設定して、ストーリーを作っていく作風というのが不思議だ。もちろん井伏鱒二の場合、小説と違ったおもしろさが随筆にあるし、小説のほうもストーリーとは直接関係のないエピソード作りが巧みたっだりするところがよかったりするわけなのだが‥‥。
そういう意味で私小説のおもしろさの一つは、いろいろな小説の中で、それぞれの見方、とらえ方としながら人物が交錯していくところにある、とも言えるのではないかな。だから一人の作家の小説を読みつつけるよりも、いろいろな人のものをバラバラに読んでいった方がおもしろいし、もしかしたら私小説というのは関わり合う作家たちの作品を全部合わせて、一つの壮大でかつミニマムな作品として成立しているのでは、なんて思ってみたりもするわけです。

「文学交友録」-庄野潤三-

学生の頃に授業で習ったティペラリーやラムといったイギリスの随筆家から、伊東静雄、佐藤春夫など文学における先生、島尾敏雄、林富士馬ら友人たち、安岡章太郎、井伏鱒二、小沼丹など東京に来てから知り合った作家たち、兄であり児童文学者の庄野英二‥‥と庄野潤三が出会ってきた人々との思い出がつづられている。個人的には、出てくる人の関係や住んでいるところの地理がなんとなくわかるだけに、やはり東京での話のほうがおもしろい。その辺の“わからなさ”というのは、富士正晴の本を読んでいて感じることと同じような気が。直感的に「あんな感じなんだろうなぁ」ということが分かると、もっと興味がわくんだろう。いや、関西のことは興味ない、ってわけではないし、神奈川・東京のことならなんでも分かるってわけでもないんですけどね。

「縷縷日記」-市川実和子、eri、東野翠れん-

市川実和子、eri、東野翠れんの3人の手描きの交換日記をスキャンして、そのまま掲載した本。文字や絵だけでなく、古い切手、押し花、写真、お菓子の包み紙、シール‥‥といったものが貼り付けられたりしていて、かわいいけれど、なんだか男の子には立ち入れない雰囲気が漂ってます。普通、交換日記って男はしないものだし。
モールスキンの大きめのノートを使っているらしいのですが、同じモールスキンでも文字ばかりの私のノートとは大違い。きれいにスキャンされているので、貼り付けられたものの質感が微妙に伝わるし、汚れとかもあって、かなりリアルに再現されているような気がします。もう少しページ数が多ければいいのにな、とは思ったりもする。
当然、これは私が買ったものではなくて、ミオ犬が買ってきたもの。昨日、リブロ渋谷店で行われた“縷縷(るる)判子大会”に行って来たことを書きたいだけなのだった。

“縷縷(るる)判子大会”は、リブロ渋谷店で「縷縷日記」を購入した人、先着100名を対象に購入した「縷縷日記」に3人が作った判子を押してくれるというイベント。前に嶽本野ばらのサイン会に行った友達が「一人一人、握手して写真を撮った」と言っていたので、もしかしたら、と思ってデジカメも持ってミオ犬についていったのだけど、さすがに写真撮影禁止、しかも前も後ろも大きな板で囲われていて、外からは見えない状態になってました。周りには「なんでこんなに?」と思うくらいパルコの店員がうろうろしてたし(単なるファンか?)。お客さんのほうは、やはりというか、ほとんどが女の子で、キャッキャ、キャッキャ言いながらページいっぱいに、小さな判子を押す3人、そしてパルコの店員も含め、これも男の子には立ち入れない雰囲気。一人で来ている男もいるにはいたけれど、カップルできている人もあまりいなかったのはなぜ?
いやいや、もうそんなことはどうでもよくて、ただ東野翠れんかわいかったなぁ、という‥‥だけで満足なわたしですけどね。

「単線の駅」-尾崎一雄-

世田谷文学館で開かれている「花森安治と『暮しの手帳』展」に行ってきました。特に目新しいものはなかったけれど、原画とか手紙とかを見ていると“手描き”の力強さを感じますね。ただ、「暮しの手帖」という雑誌が、編集長である花森安治の思いをストレートに表したものであることはわかるけれど、今もあるわけじゃないですか。それなのに「暮しの手帖」=花森安治という図式があまりにも強くて、それはどうなのか、と。松浦弥太郎なんて、「今こそ僕らの『暮しの手帖』作らなくてはいけない」といった意味のことをコメントしてるし‥‥。
それから、一番はじめに書かれていた「~最先端の『ロハス(Lifestyles Of Health And Sustainability)=ココロとカラダと地球にやさしいライフスタイル』といった言葉には、花森安治が雑誌でくり返し主張して来たメッセージと共通するものがありそうです。~」というコメントを読んで、なんだかこの展覧会に対する興味が薄れてしまったということもある。「LOHAS」なんて企業が儲けるためのキーワードに過ぎないわけで、その企業や政府を敵に回しても自分の生活を守れってことなんじゃないか。「地球にやさしいライフスタイル」だけを主張する人が、トースターの性能実験ののためだけに、何万枚もの食パンを焼くのか。その行動を突き動かしているのは、企業や政府への強烈な不信感ではないのか。それをタイアップ記事ばかりの「クーネル」と一緒にされてもね。そういう意味では、「花森安治と『暮しの手帳』展」という企画自体が矛盾しているといえるかも。適当。
そういうこともあって今回はカタログも買わずじまい。強い風が吹き荒れる中、入り口で開店していた旅する本屋「traveling cowbooks」が、寒くて気の毒だったなぁ、なんてことばかりが気になってしまいました。

「昔の仲間」-久保田万太郎-

前回(この項続く?)なんて書いたのに気がつけば一週間経ってしまいました。最近、本を読むペースが遅くなっていますね。

で、そのあとなにを書こうと思っていたか、簡単に書いておくと、
・姿を見せなくなったサバは2週間ぐらい経った頃、家に帰ってくると4匹の子猫をつれてまた窓の下に来ていた。
・しばらくの間、窓の下には5匹の猫がいつも寝ていたり、じゃれていたりするようになって、ちょっとさわがしくなった。
・そのうち子猫が大きくなると2匹の猫はどこかに行ってしまって黒猫と白と黒の猫の2匹が家に残った。
・黒いほうをジュジュ、白黒のほうをテムテムと名付けた。
・3匹の猫は1年くらい一緒に家に来ていたのだけれど、ある時からサバが来なくなり、テムテムが来なくなり、最終的にはジュジュ一匹だけとなった。
・そのあとも、ジュジュは、そのアパートが取り壊しになるため、引っ越すときまでずっと“外様猫”として朝夕、私が家にいるときは窓の下にいた。
‥‥といったところか。

親が犬や猫が嫌いだったせいで、子供の頃から動物を飼うということがほとんどなかったわたしとしては、“猫のいる日々”といえば、その何年かだけですね。猫アレルギーということもあるし、これからも猫を家でかうことはないんだろうなぁ。とはいうものの、日曜に猫を飼っている友達の家に遊びに行って、猫と遊んだりしていると家に猫がいるのもいいかも、なんて思ったりもして‥‥。

話は変わって、実際に読み始めるまで、この本を、久保田万太郎の実際の“昔の仲間”について書かれた随筆だと勘違いしてしまいました。でもちゃんと読んでみたら「昔の仲間」というフィクションで、この作品を中心に6編の短編が収録されている。
江戸ッ子、というか明治から昭和の初期の頃の東京ッ子が主人公が、昔、お世話になった人の二十三回忌を記念して、法事を行うために当時の仲間の消息をたどるという話。東京ッ子丸出しの登場人物たちの性格や行動だけでなく、それを語る語り口も東京ッ子言葉で書かれている。私は、久保田万太郎の本をそれほど読んでいるわけではないけれど、文学、あるいは小説というものに対するこの軽やかさが好きだ。

「猫のいる日々」-大佛次郎-

前にも書いたことがあると思いますが、20代の中頃、調布でひとり暮らしをしていた時に、通いの猫、大佛次郎風に言えば“外様猫”を飼っていたことがありました。その頃、住んでいたアパートは、ベランダもなく、窓を開けるとそのまま外に出られるようなところで、目の前は畑が広がっていて、アパートとの間には割と高い囲いがあって、庭とは言えないけれど、小さな空間ができていました。その空間は、その猫の通り道になっていたようで、部屋の中で何かしていると、塀の向こうから猫があらわれて部屋の前を通って、またどこかに行ってしまうのが、ときどき視界の隅にかすかに見えたりしていました。

何度か通り過ぎていく猫を見ているうちに、ある日、餌を飼って窓の外に置いておくことを思いついて、スーパーで猫の餌を買って、朝、バイトに行く前に窓の外に置いておきました。はたして、夜、家に帰ってくると餌はなくなっていたのです。でも、家にいるときに餌を置いておいても、なかなか姿を見せません。そのくせ、お風呂に行って帰ってきたりすると、餌がなくなったりしています。そんな風に朝、餌を置いて家を出て、帰ってくるとなくなっている、という状態が数週間続きました。

そのうち何がきっかけだったのか忘れましたが、わたしが餌を用意していると、囲いの向こうから顔をだしたりして近づくようになって、いつの間にか餌を食べ終わってもしばらくのあいだは、部屋の前で寝ころんだりしたり、頭をなでてやるとすり寄ってきたり、部屋の中に入りたがって網戸をガリガリするようになってきました。でも、そのころ私は、腕や首筋にアトビーが出ていたし、季節の変わり目には、必ずぜんそくの発作が出ていたので、部屋の中に入れてやることはできず、実際、何回か入れてやったこともあるのですが、30分くらいでわたしのほうがゼイゼイいって、苦しくなったりしたのです。

わたしはその猫にサバをいう名前をつけてました。サバは次第に、わたしが部屋にいるときは部屋の外にいることの方が多くなってきました。たいていは窓の下で寝ころんでいるのですが、部屋にいる私が立ち上がったりすると、餌をもらえるのかと思い、起きあがってガラスを叩きます。わたしが出かけているあいだは、どこかに行っているようで、帰り道、家の前の道を歩いていると、アパートの向こうから走ってくる音が聞こえ、部屋の電気をつけると、立ち上がってガラス窓寄りかかっているサバの姿が、曇りガラスの向こうで影となって見えました。

そんなサバがあるとき姿を見せなくなったのです。(この項続く?)

「新・東海道五十三次」-武田泰淳-

大阪から来た友達と久しぶりにあった。去年の9月から東京に来ていたのだから、“来た”というのはちょっと間違っているかもしれない。
何カ月ぶりに久しぶりにミクシィにログインして、その人の日記を見たら、BMXバンデッツのダグラスのライブを見に行ったとか、渋谷に映画を見に行った‥‥とか、書いてあったので、「もしかして東京にいる?」というメールを出してみたら、「9月からずっといる、気づけよ」みたいな返事が返ってきた。いやミクシなんて見てねぇよ、と。前回会ったのは、もう1年半くらい前なのかな、よく覚えていないけれど、その日の5時頃に「今、恵比寿にいるんだけど‥‥」という電話がかかってきて、吉祥寺の豆蔵でカレーを食べて、ハモニカキッチンで飲んで、別の友達に電話をかけて呼び出したのは覚えてる。そのときは出張で出てきたのだけれど、今回は道玄坂に事務所ができたのでずっとそこに泊まっていたらしい。
で、金曜日は、渋谷のユニオンで待ち合わせて、前々から一度行ってみるのもいいかもしれないと思っていた麗郷で台湾料理を食べ、土曜日は一年ぶりのパレードに行った。

今週は、ホール&オーツの「アバンダント・ランチョネット」ばかり聞いている。1973年の作品。1980年代のポップさはないけれど、ゆったりとしたいいメロディと伸びのあるヴォーカルが心地よい。もともと嫌いではなくて、どちらかというと好きなグループではあるのだけれど、中学くらいの時に聴いた以来、自分からはまったく聴くこともなかったのだが、ちょっと前に初期の頃のホール&オーツのライブをテレビを見て、また聴きたくなってしまったのです。
「アバンダント・ランチョネット」を買ったのはそのライブが1973年のものだったからなのですが、これってフリーソウルでは定盤になっているんですね。最近はまったくチェックしていなかったので知りませんでした。ホール&オーツのフリーソウル版ベストなどレコード屋さんに置いてあってびっくり。というか、今じゃなに聴いてもフリーソウル関係が関わっているような気がするなぁ。ちなみにプロデュースは、アリフ・マーディン。これもなんだか久しぶりに聞く名前で懐かしい。

「随筆 あまカラ」-小島政二郎 編-

「あまカラ」に掲載された随筆をまとめた本で、編者をつとめた小島政二郎はもちろん、志賀直哉、永井龍男、獅子文六、福田恆存、徳川夢声‥‥といった作家の随筆が収録されている。あとがきには二冊目、三冊目と続けていきたい、といったことが書いてあって、実際にこの後、何冊か刊行されたらしい。

旅行から帰ってきてから、神楽坂のKADOにご飯を食べに行って来ました。行く前は、古い家なのですきま風とかあって寒かったらどうしよう、なんてどうでもいいことを気にしたりしていたのだけれど、もちろんそんなこともなく、ビールを飲みながらゆっくりとご飯が食べられてよかった。結局のところ、わたしには、小皿に盛られたお総菜料理をゆっくりビールを飲みながら食べるのが性に合っているのだなぁ、と思う。ここで日本酒じゃなくて、ビールという時点で、間違っている気もするけどね。しかもこの「あまカラ」では、そういうお総菜料理は“所詮”みたいな扱いにされがちだし‥‥。そうやって靴を脱いで家に上がって畳の上にあぐらをかきながら、ご飯を食べながらお酒を飲んでいると、気分だけは吉田健一。でも実際は足がしびれてちょっとつらい。

ついでにもう一つ。吉祥寺にある「お茶とお菓子 横尾」でお茶をした。先日、一人で吉祥寺をうろうろしているときに見つけたカフェで、古めの木の椅子やテーブルがこぢんまりと置かれていたり、壁際に本が置いてあったりするのが外から見えて、いい感じだったので、気になっていたお店。マンデリン好きのわたしとしては、コーヒーのメニューにマンデリンブレンドがあるのがうれしいし、スウェーデン紅茶のメニューもある。私が食べたのはクッキーでしたが、おしるこや粟だんごといった和風なお菓子も気になるし、比内地鶏のそぼろごはんや温野菜-比内地鶏の甘辛みそ添えなどのご飯もおいしそうです。でも全席禁煙なので一人では絶対に行かないお店ではあります。
南口には、ご主人がやっている「日本酒と料理 横尾」という和食のお店もあるとのこと。次回はそちらに行ってみることにしよう。

「南の男」-獅子文六-

どのよう意図でまとめられた本なのかよく分からないし、それぞれの初出も書いていないので、どのような経緯で書かれた文章なのかもまったく推測できない本。基本的には本人の体験談を語った随筆なのだけれど、どの作品も獅子文六のストーリーテラーの才が光っていて、短編小説のような雰囲気があって、それでいて力の抜けてリラックスした文章がとてもいいです。まぁ1964年、獅子文六70代の頃の作、ということを考えると、リラックスした雰囲気も、いぶし銀のストーリーテラーもなんとなく納得がいくような気がします。
そんなことを調べていて気がついたのだけれど、獅子文六も安藤鶴夫も1969年に亡くなっているんですね。獅子文六は1893年、安藤鶴夫は1908年生まれなので、亡くなった歳はぜんぜん違いますが、自分が生まれた年だけになんとなく、ふふふ~んという気持ちになってしまいます。ちなみに今読んでいる小島政二郎は1894年に1994年に亡くなっていて、ということは、獅子文六と一歳に違い。活躍した時期の違いも大きいのだけれど、イメージ的には芥川龍之介や菊池寛と関わりが印象深い小島政二郎よりも、戦後に映画化された大衆小説の印象が大きい獅子文六の方が、1歳とはいえ年上というのも意外な感じがしないでもない。それよりも小島政二郎が1990年代までに生きていたことに驚かされたり、そういえば獅子文六も小島政二郎も慶応出身じゃなかったか、なんて思ったりもします。

ところで、歳をとるにつれて人の生まれた年や年齢がわからなくなりませんか。自分と比べて前後1、2歳くらいならばいいのですが、5つくらい離れてしまうとぜんぜんダメで、だいたいその人の年齢を初めて聞いたときの歳のまま進まなかったりします。例えば、出会ったときに25歳だったとすると、それからもう8年も経ってるし、自分の歳も増えているのに、なんとなくその人が今でも24歳のままの感じがしてしまって、で、ちょうど誕生日近くにその人に会って、改めて歳を聞いたら「もう32歳なの?」などと驚いたりして。いや、特定の人のことを言ってるわけじゃじゃないですよ。
そんな具合なので、昔の作家の生まれ年なんて覚えられるわけもなく、本を読むときにその作家の何歳の時の作品なのかとか、同時代にはどんな作品があって、まわりのどんな作家と交流があったのか、なんてことがすぐにわかるといいな、と思って、年表なんかも作ってみたこともあるけれど、その時代の出来事さえも頭に入ってない私には、いまいちイメージとしてとらえることができなくて、今回のようにときどき調べてみてびっくりするわけです。
最近は、関東大震災(1923年)の時に何歳くらいだったか、終戦の時に何歳くらいだったか、というのをひとつの指標として考えているのだけれど、震災について書いていない作家については、あまり意味がなないのかな、とも思う。まぁ結局は、いろいろと本を読んでいくしかないんだろうけどね。

「あんつる君の便箋」-安藤鶴夫-

“あんつる君の便箋”とは、安藤鶴夫が小泉信三の誕生日に贈り、後に「気に入ったので注文したらまた作ってもらえるだろうか」と問い合わせがあったほど、気に入られた便箋のことで、小泉家ではその便箋のことを“あんつる君の便箋”と呼んでいたらしい。
このエッセイ集は、安藤鶴夫の死後に未刊行の文章をまとめられたもので、奥付の発行日は17回忌の命日、昭和60年9月9日にあわせてあります。あとがきによると、安藤鶴夫は、自分の書いた文章には、通し番号を入れて、すべて保管していたようだ。そして一番はじめの仕事は昭和20年8月の「随筆、浅草六区」で、最後の仕事は、亡くなる直前の昭和44年9月、7958番とナンバリングされた「三木助歳時記」の連載だったとのこと。よく戦争で焼けなかったなぁ、とも思うけれど、それよりもその一貫とした仕事ぶりがいかにも安藤鶴夫らしい、という気がする。
普段、手紙を書く機会のほとんどない私などは、つい使いやすい便箋を特別にあつらえる、ということが今でもあるのだろうか、なんてことを考えてしまいがちなのだけれど、文具店や紙屋さんの一画にいろいろな便箋や封筒が、必ず置いてあったり、どこにいってもポストカードが売っていたりするのを見ると、やはり今だからこその手紙であったり、便箋というものがあるのだろう。でも、昔はともかく、基本的に男は手紙なんて書かないよなぁ、というのは単なる偏見ですかねぇ。