「朽葉色のショール」-小堀杏奴-

なんとなく、普段からいつか読んでみたいなぁ、と思っていて、本屋で名前を見かけたり、何かの時に話題に出たりするたびに、そういえば、と思うのだけれど、なかなか手に取る機会もなく、気がつけば何年も過ぎてしまっている、わたしにとってそんな作家の代表的な人が、幸田露伴と幸田文だったりします。
もちろん名前が一緒だから、という理由もあるけれど、それだけでもなくて、露伴の理系的な合理主義や神秘主義、理想主義などが入り交じったひとつの形に収まらない不思議な深さを辿ってみたいと思う。でも正直な話、敷居が高すぎてどこから読み始めて良いのかさえ、分かりません。そもそも有名な作品以外は、旧仮名遣い(文語体?)になってしまうので、スムーズに読むことすらできないだろうし‥‥。仮名遣いというのは、明治の作家の大きな壁になってしまってますね。あと数十年したら一部の研究者をのぞいて誰も読めなくなってしまうのだろうか、と思うとちょっとこわい気もします。
幸田文は、微妙にいつのときも人気あったりするので、さけてしまっているだけかもしれない。あるいは、どこか昔の日本の女性の理想型、みたいなイメージがなんとなく嫌なだけかもしれない。いや、単にきっかけがつかめないだけかもしれない。わかりません。

ということで、すこし切り口を変えて「作家の娘」というテーマで本を読んでみることしてみました。森鴎外の娘である小堀杏奴も前から気になっていたけれど、なかなか手に取る機会がなかった作家の一人だし、ちょうどいい。個人的にはいいアイデアだと思ってるんですけど、どうなるんでしょうか。だいたい、作家の娘の本といってもこの二人と森茉莉、ほかには太宰治の娘の津島佑子と太田治子、作家ではないけれど、青柳いずみこ(青柳瑞穂の娘)ぐらいしか思いつかないんですよね。

「てんやわんや」-獅子文六-

終戦三部作の一作目。表現の方法は違うけれど、終戦直後の価値観の変化に対する違和感の吐出は、どこか山口瞳と共通のものを感じます。ただ山口瞳の方が若いだけに、そして深刻に受け止めているために、よりストレートに嫌悪感が出ているけれど、獅子文六の方は、それをうまくユーモアで包んで作品として表現している。そういう意味では好みは分かれるのかな、どうなんだろう?

土曜日、恵比寿にある喫茶銀座で、ミオ犬の友達が主催しているイベントがあったので、昼間、代官山や中目黒を散歩したりして、夜になって恵比寿に行ってみました。恵比寿なのになぜ“銀座”かというと、恵比寿銀座という通りにあるかららしいです。1962年に創業した古い喫茶店で、割と広い店内は、まさに1960年代!、なのかどうかは、さすがに1969年生まれの私にはよくわかりません。というか、こういう店内が過剰になって、そして単一化されたものがルノアールなのかも!?なんて思ってみたり‥‥。でも、よくテレビの撮影などで使われている有名な喫茶店みたいですね。私は知りませんでしたが‥‥。そんな喫茶店なのに、なぜか店内の片隅にはDJブースがあり、天井ではミラーボールが回っている!という不思議な空間。イベント自体は、最初の頃は、邦楽が中心だと思って聞いていたら、AORみたいなのがかかったり、ノーザンソウルがかかったり、ギター、アコーディオン、ピアニカ、リコーダー、おもちゃの鉄琴、そしてテルミンなどの楽器で構成されたバンド(?)のライブ(?)があったり、統一感はまったくないけれど、暖かい雰囲気でした。
一人で来てものんびりできそうだしまた機会があったらこよう、と思っていたら、午前中、恵比寿で打ち合わせがあり、終わったのは12時半。これは行くしかないと、ふたたびランチを食べにいってみると、おばさんが一人で忙しそうに駆け回りながら、注文を聞いたり、料理やコーヒーを運んだりしていて、店内にはなにやら今の韓国のポップスらしきものが流れてました。何曲が曲流れて、CDが終わると、歩く道すがらあちこちで呼び止められるのを「ちょっと待ってて」と遮りながら、DJブースでCDを変えるおばさん。そして、そのあと流れてきた曲も‥‥。

「スーパーマーケットマニア-ヨーロッパ編」-森井ユカ-

「スーパーマーケットいらっしゃいませ」を読んだから、というわけではないけれど、続けてスーパーマーケットの本。実際、買ったのはこちらのほうが早かったりします。月並みだけれどこういう本を見ていると、またどこかに行きたくなりますね。ただ最近こういうヨーロッパの雑貨を紹介するような本ばかり出ているなぁという気もして、個人的にはかなり食傷気味なことも確か。本屋さんに行くとものすごい勢いで平積みされているし、もうこの手の本は買う必要はないかな、とも思ってます。同時にカヌー犬ブックスの品ぞろえも少し違う方向にシフトしていくときなのかも、なんてことも考えてしまったり、しなかったり‥‥。まぁこれからことなんて、まったく分かりませんよっ。

日が経ってしまったので、タイミング的に時期を逃してしまった気もしないでもないけれど、一応記念なので書いておくと、13日は私の誕生日でした。それで、サンデーソングブックで、番組の最後に山下達郎が、「誕生日おめでとう」とか「結婚何周年おめでとう」とか「大学合格おめでとう」といった内容のはがきを読むコーナーがあって、ときどき、半分冗談、半分本気で、サンデーソングブックに「誕生日おめでとう」のはがきを出してよ、とミオ犬に言っていたのですが、今年は、ほんとに出してくれていて、11日の放送でに読まれたのです。パチパチパチ。意外に簡単に読まれるものなのかな、とちょっとびっくり。10代の時もラジオ番組にはがきを出したりすることがなかったので、自分の名前がラジオで読まれるのは初めてだったりします。でも一番びっくりしたのは、番組終了後すぐに「サンソン聞いたよ」というメールが友達からきたことかもしれません。
それにしても最近のサンデーソングブックは、リスナーの平均年齢が高すぎ。今どき、日曜昼のラジオなんてそんなものなのだろうか。

「スーパーマーケットいらっしゃいませ」-平野恵理子-

平野恵理子の展覧会は、たいてい2年に一回6月~7月頃に行われていて、昔はこれを見るとなんだか夏が始まったような気がしたものです。なぜか雨が降っていた記憶もないし、暑い中、表参道を歩いたり、迷いながら広尾まで歩いて有栖川公園でサンドウィッチを食べたりしたせいかもしれません。友達からメールが来たときは、前回からもう2年も経ったのか、と、時の経つ早さにびっくりしていたのだけれど、これを書く前に、過去の雑記を調べてみたら、前回は2005年2月でした。あれっ冬?しかも一年前?
この本は、そのときに展示されていた作品をまとめたもの。原画を見たときもやっぱり平野恵理子はものを描くといいなぁ、なんて思いながら、展覧会を見た後、移転して間もない紀伊国屋に寄ってみたりして、本としてまとまったら欲しいと思っていたのでうれしい。

今年は12日から17日だったため、週末は土曜しかなかったので(ギャラリー自体が日曜日お休みらしい。この間日曜日に行って見損ねた河野鷹思展といいホンマタカシ展といい、最近のギャラリーは日曜日お休みなのだろうか。それともずっと前から日曜はお休みで私が気がつかなかっただけだろうか)、17日の夕方ごろに行ったですが、中にはいるとちょうど友だちが絵を見てました。天気もわからないし、行けるかどうかわからなかったから、──実際、午前中に渋谷に出たときは、表参道まで出るのも面倒になってしまって、ユニオンやバナナレコードに行ったり、アンリ・カルティエ・ブレッソンのドキュメンタリー映画を観たりしてました──約束とかしなかったので、なんとなくうれしい偶然。
で、ついでにNidCafeでお茶。そう考えると、ほんと見かけはどうだかわからないけど、やってることは20代の初めからあまり変わらない(ような)。一緒に買ったわけではないのに、たくさんあった平野恵理子の本の中から、同じ本を買っていたりするしね。

「明治の人間」-小島政二郎-

気がついたら6月ももう半分過ぎてました。うはぁ~。なんだか、なにが忙しいというわけでもないけれど、本の更新をするだけで精一杯で、雑記を書く余裕がなかったりします。いちおう“あれについてこう書こう”なんてことを、会社帰りとか寝る前とかに考えたりしているのですが、いざパソコンにむかうと書く気になれず、iPodに曲を入れてみたり‥‥。で、次の日になると、“なんだかわざわざ書くほどのことでもないな”と思ってしまう。って、こんなことこそどうでもいいことですね。最近は本もあまり読んでいないな。

そういうわけで、この「明治の人間」も読んでからかなり日が経ってしまってます。若い頃は、ある年齢以上の人が、「昔はよかった」とか「今ではまったくなくなってしまった」的なことを書くことに、ものすごい反発を感じていて、「そのいいものを捨てたのは、どの世代の人々だよ」と思っていたけれど、自分がある程度歳を取ってくると、自分が暮らしている場所とはまったく違うところで、世の中が動いていくのを感じるし、結局は、その中で、自分なりにきちんと仕事をしたり、日々の生活を送ったりしていくしかないんだなぁ、という半分あきらめのような気持ちも分かってくる、なんてことを、この本を読みながら考えていたような思う。いや、ちょっと違ったような気もするな。

ところで6月10日で、カヌー犬ブックスも3周年を迎えました。ふぅ~。自分で言うのもなんですが、必死になってやってみたらもう3年経っちゃったよ、という気持ちと、なんだかだらだらと3年が過ぎちゃったな、という気持ちが混ざり合ってます。

「ムジカ・ロコムンド」-ムジカ・ロコムンド-

今さらという気もしないでもないし、「2」や「改訂版」が出ていることを考えると、実際今さらなんだろうとも思ったり、この本が出てから、かなりCDの再発盤が出ているので、ひととおり聴くだけなら、ディスクガイドなんて必要のないかな、とも思ったりする。でも、なんだかんだ言っても、こんなレコードあったのか、なんていう発見もあるし、これは手に入らないんだろうな、なんてあきらめも含めて、ディスクガイドを眺めているのは楽しい。反面、ディスクガイドによって奪われた楽しみや発見も大きいような気もしてしまうけど。まぁ必要悪とも言えますね。
ブラジルものは、何年かごとにブームがくるのだけれど、どうものめり込めないのはなぜなんだろう。ちょっときれい目なカフェやお店に入ると、必ずと言っていいほどボサノバの曲がBGMになっていたりするのも、なんだかどうにかならないものか、と思う。そういう意味では、好き嫌いは別にして、小西康陽が選曲をしていた頃のアフタヌーンティのBGMは気合いが入ってましたね。まぁそういう時代だったとも言えるか。そもそも、これだけいろいろな音楽が、クローズアップされては消えていく中で、選曲という行為がすでに煮詰まっているとも言えなくもないか。いや適当。

発売から8カ月にして山下達郎の「ソノリテ」を買った。コーラスがあまり入っていないのと、バンド編成の曲が少ないので、全体的にパーソナルなヴォーカル(あるいはメロディ)を中心に添えたサウンドになっているためか、ラップをフィーチャーしたものから、スカっぽいもの、カンツォーネ‥‥など、本人が言っているように、いろいろなアプローチを試した五目味のアルバムではあるけれど、それほどバラバラな感じはしない。むしろ前作の「コージー」のほうが、いろいろなタイプの曲が入っていたような気がします。もちろん、とうにゴールを過ぎているのも、あとは好きなことやっていくのをファンとしては見守るしかない、ということも分かってはいるのだけれど、このアルバムを聴いていると、つい「前はこんなもんじゃなかった」と思ってしまう。そんなわけで、今年は達郎の過去のアルバムを、CDで買い直したいですね(アナログでは、ほぼ全アルバムあるんですけどね)。

「鍛冶屋の馬」-庄野潤三-

どちらかというと、すぐに影響を受けやすいタイプなので、たてまつるで暗室を借りて、紙焼きをしたせいで、モノクロ写真を撮りたくなってしまった。今回は特に、高浪さんの写真を見せてもらいつつどのように焼いているか、とか、知り合いの写真家がどんなことをしてるか、といったことを話してもらったりしながら、作業をしたので、前の写真美術館でのワークショップと違って、ものすごく楽しかった。
実際、自分で紙焼きをするということは、自分で撮ったを最終的にどのように仕上げるか、ということはもちろん、撮った写真をどうしたらいちばんいい形に仕上げられるかということを試し繰り返すうちに、自分がどんな写真を撮りたいのか、あるいは自分の好きな写真がどんなものなのか再確認できると思うし、逆に被写体にカメラを向けてシャッターを切るときの意識も変わってくるような気がします。いや適当。そんなわけで週末は、C35にモノクロフィルムを入れて、歩き回ろう、なんて思っていたのに、雨、でした。

それとは関係なく、土曜は、友だちが参加した写真のグループ展のクロージングパーティに行ってきました。場所は下北のadd cafe。パーティなので、人もたくさん来ているし、壁際にテーブルが並べられていたりするので、写真をゆっくり見ることはできなかったけれど、まぁそれほど混雑しているわけではなく、動き回ったりしやすかったし、周りの人にも話しかけやすかったし、ひさしぶりに会う友だちと話したりしていい雰囲気でした。
前にも書いたと思うけれど、こういう機会があると普段なかなか会えない友だちに気軽に会えたりするのがうれしい。クラブとかと違ってゆっくり話もできるしね‥‥。

「きょとん-旅情短篇集」-田中小実昌-

“短篇集”と副題がついているけれど、これはエッセイなのだろうか?フィクションなのだろうか?私小説なのだろうか?‥‥よく分かりません。「そういうことはどうでもいいことじゃないか」なんて声も聞こえてきそう。でも実際には、みんな主人公にコミマサさんを思い浮かべながら読むのだろうな、と思う。そしてそんな風にして、コミマサさんのイメージが人それぞれにどんどん広がっていく。本当のことは分からない。でも「そんなことはどうでもいいじゃないか」と。

“旅情短篇集”というサブタイトルのつなげて、長崎の話でも書こうと思っていたのだけれど、長崎から帰ってきていきなり熱を出してしまい、その熱も下がらないまま、仕事のトラブルで(カヌー犬ブックスではありません)家に帰ってくるのが12時過ぎてしまったり、あげくの果てには、会社に泊まるという羽目になるという、ぐたぐたな一週間を過ごしてました。金曜日の帰りは、1度目は寝てて、2度目は急行に乗ってしまい、2度最寄り駅を通り過ぎましたから‥‥。

「本の音」-堀江敏幸-

こちらは、純粋な書評集。グルニエやグランヴィルといったフランスの作家はもちろん、パワーズ、オースター、クンデラ、そして村上春樹や保坂和志、伊井直行‥‥など、国もジャンル的もバラバラの84冊の書評が収録されてます。まぁ自分からというより依頼を受けて読んだのかな、という感じもないわけでもないし、実際、分量が短いこともあって、さらりとこなした、という感じは否めない。個人的には、この本を読んで、取り上げられている本を、実際に読んでみようという気にはあまりならないかも。同じように本を取り上げたものでも、エッセイだとおもしろいのに、ちょっともったいない気がします。

ようやくというか、今さらというか、週末にiPod nanoを買いました。家であまり音楽を聴けないので、持ち歩いたら少しは聴くようになるのではないかと。それで、毎日のように家に帰ってきてからCDを見渡しながら適当なCDをnanoに取り込んでます。でもそうやってると、2G、約500曲ってすぐにいっぱいになりそうなので、割と入れては消し、入れては消し、という感じです。今は、週末にHARVARDの「ORACLE」とtoddleの「I dedicate D chord」を買ったせいで、HALFBYとかHANDSOMEBOY TECHNIQUE、ヲノサトル、Refelyといった打ち込みものと、Comeback My Daughter、MICHELLE GUN ELEPHANT、Husking Bee、横山健などのギターバンドものが入ってます。‥‥なんだか両極端だなぁ。

「特別な一日」-山田稔-

一冊の本やある作家をきっかけとして、対象についての考察はもちろん、過去における著者とのつながりや、関連する事柄が、ある時は堰を切ったように次々と、ある時はなかなかたどり着けないいらだちをそのままに表しつつ描かれていきます。ある意味取り上げられる本や作家は一つのきっかけに過ぎなくて、まるで山田稔の脳内を散歩しているかのような、時間や空間を行き来する森の中をさまよっている感じがするのは、この本に限ったことではないのかもしれません。山田稔の本を読んでいると、なんとなくアントニオ・タブツキの「レクイエム」を思い出すのは私だけでしょうか。さまよっている感や空気の密度みたいなものに共通点を感じます。
と、書きながら気づいたのだけれど、「レクイエム」の空気さえまとわりつくような感覚を思い出してしまうのは、単に去年の夏暑いさなか、下鴨神社の古本市や手作り市を見て回ったり、進々堂で朝ごはんを食べたりした経験と結びついているのかも。そんなことを考えているうちに、ふと、山田稔の作品の中でスペインに行く話があったような気がしてきて、ほかの本をめくってみたけれど、やはり気のせいらしく見つからなかりませんでした。

来週末に長崎にいくのですが、そのときにたてまつるで暗室を借りることになっているのです。ふふふ、暗室の作業なんて、一度写真美術館のワークショップに参加しただけなのですが、いろいろと教えてくれるみたいなので今から楽しみ。それで、久しぶりにカメラにモノクロフィルムを入れて写真を撮ってるのですが、そもそも最近は、カメラを持ち歩くことさえなかったし、モノクロのフィルムなんて、それこそ何年ぶりという感じなので、つい、この壁の色がきれいだからとか、こっちの家と空の色の比較がはっきりしているから‥‥なんていう理由で、カメラを構えてしまってます。基本的に被写体の色合いしか見てないのかも。割と平気でピントもぼかしてしまうし、露出も常にオーバー気味だし‥‥。
予定では、ゴールデンウィーク中に2、3本写真を撮って、その中から気に入ったものを引き延ばしてみよう、と思っていたのだけれど、連休は首を痛めてしまったせいで、あまり歩き回れず、まだ一本分しかとれてません。今週末が最後の機会なのですが、天気悪そうだしね。来週は天気がよかったら会社にカメラを持ってきて、昼休みに近所を散策してみよう、とさえ思ってます。
ところでたてまつるは陶器や雑貨、てぬぐいなど、長崎をモチーフとしたものが売られているお店で、高浪敬太郎の弟の高浪高彰さんがやっているそう。私は始めていくのだけれど、ミオ犬は長崎に帰るたびに行っているみたい。いいなぁ。この間は、ブライアン・ウィルソン「Smile」や高浪敬太郎がプロデュースしたミスゴブリンのCDRをもらってきたりしてました。
そういえば、うちのどこかに高浪高彰さんが参加したフリペが残っているはず。10年以上前に新宿でやっていたフリーマーケットで手渡されたのですが、フリマに出ていた人は誰だったのだろう?