「木彫りの兎」-山口瞳-

山口瞳は私小説の作家といえるのだろうか。「江分利満氏の優雅な生活」をスタートとして「血族」「家族」をその到達点とし、それを補う形で「男性自身」が存在すると考えるならば、山口瞳の小説は、(過去やルーツを含めて)自身の身辺を語ったものと言えるかもしれない。後年の「迷惑旅行」「湖沼学入門」などの取材旅行ものも、どこか木山捷平や井伏鱒二を思い出させる。とはいうものの、あきらかに自身をモデルとした「江分利満氏の優雅な生活」を読んでいると、江分利氏の主張は、山口瞳の主張であり、江分利氏のつぶやきは、山口瞳のつぶやきであるのにもかかわらず、どこかフィクションっぽさを感じでしまうのはなぜだろう。
この「木彫りの兎」には、自身を主人公をした作品と完全なフィクションの作品が半分ずつくらい収録されていて、それらフィクションの作品を読んでいると山口瞳がストーリーテラーであったことに気づきます。山口瞳は、もしかしたら獅子文六のように事前に完全な下調べをして、完全なフィクションの作品を書き続けるという選択もあったのかもしれない。でも自身の中から湧き上がる“いいたいこと”がありすぎて、フィクションの中に組み込むことではフラストレーションがたまってしまったのではないだろうか。そしてこれはわたしの単純な意見だけれど、多くの私小説作家たちが、自分の思いどおりのストーリーを紡ぎだすことができず、そして強く主張したいこともない中で、それでも文学にしがみついていたいという願望から、自分の身辺を綴りはじめ、やがてその中で文学としての何かを見つけたのであれば、はじめから“いいたいこと”も“ストーリーを作り出す才能”をもっていた山口瞳による「江分利満氏の優雅な生活」が捕らえがたい私小説でもなくフィクションでもない不思議な魅力をもった作品になるのは当然のことなのかもしれない。なんていいすぎか。わたしはこの本も含めて、「結婚しません」とか「私本歳時記」といったフィクションの作品が好きなんですけどね。

ちょっと前のことになりますが、5月の終わりに文芸座で岡本喜八監督特集で上映された「江分利満氏の優雅な生活」を見に行ってきました。1963年の作品で、出演は小林桂樹、新珠三千代、東野英治郎・・・・ほか。江分利満氏のイメージにできるだけ忠実な格好をした小林桂樹は、映画では、江分利満氏であるとともに、山口瞳であり直木賞を受賞するところも描かれる。そして映画の中では柳原良平のアニメまで挿入されます。なんども書くように江分利氏≒山口瞳ではあるのだけれど、実際のイメージとしては、江分利氏のイメージ≒柳原良平の描く山口瞳だったりするわけで、加えて映画の中では、江分利氏の吐露≒岡本喜八の吐露という面もある。そうした複数のイメージが絡み合いながら、いくつものエピソードがテンポよくコミカルに描かれていて圧巻だった。
でも本で書かれてる江分利氏のぼやきが、映画では若い社員と飲みながら語られたりするのをみると、おもしろがると同時にうざったい気持ちになってしまったりする。いや、うざいなんて言っている場合ではなく、コミカルだけれど重い。そして哀しい。映画的でモダンな作品として仕上げながらも、小説の中のテーマや吐露はそのまま、映画が終わった後に何か重いものが残る。そもそも私は江分利氏と同じ歳なのである。この作品が作られた時代と現在では、全然状況が違うけれど、いや、むしろ現在のほうが状況が悪いだけに心に響くのかもしれない。