「マジメ人間」-山口瞳-

私小説とも少し違うような、身辺小説、もしくはエッセイとも言えるような作品と、フィクションと思われる作品が、半分ずつ収録された本。例によってかなり自虐的なのだが、これだけ山口瞳の本を読み続けていると、それほどつらい感じを受けなくなってしまう。ちょっと慣れてしまってると言えるかもしれない。

小学校の4年くらいの時だっただろうか、通信簿に「何ごともそつなくこなす」と、褒められてるんだかなんだか分からないコメントが書かれていたのを憶えている。多分、今でもそうなんだろうと思う。初めてのことでもなんとなく“こなして”、そのままになってしまっているような気がする。頭のいい人間ならば、一番初めのときでもちゃんとそれを理解して取り組むし、一番始めにつまずけば、初歩の基本的なところで足を止めて取り組む。でも初めの一歩をなんとなくカンでやり過ごしてしまうと、そのときはいいけれど、その後の努力をしないで過ごしてしまい、後で痛い目に遭う。「何ごともそつなくこなす」というのは、そういうことだ。だから今でも何ごともひと通りはできると思うけれど、得意なものはまったくない。でも、それは山口瞳にとって“できる”とは言わないんだろうけれど・・・・。

「ごぶ・ゆるね」-安藤鶴夫-

エレベーターを出ると、さっきまでの雨はすっかりやんでいて、ガラスのドアの向こうはまだ明るい。会議室をでたときに、視界の片隅に入った廊下の奥のガラス窓を見た時には、外が暗く見えたので、少しびっくりした。ガラス自体に暗い色が入っていたのだろうか。
4月も終わりの頃になると、6時くらいになってもまだ明るい。冬から春の日々は、春っぽい暖かい日とが続いたと思ったら急に寒くなったり、逆に5月を思わせるような、半袖のTシャツで外に出かけられるような日があったりして、行ったり来たり、時には急ぎ足で時にはゆったりとした足取りで、右に寄ったり左に寄ったりしながら、過ぎていくのだけれど、太陽が出ている時間はそれとは関係なく、寒い日も暖かい日も、晴れの日も雨の日も、毎日規則正しく長くなっていくので、気温に一喜一憂していると、日が長くなっていることを忘れてしまい、ある時、ふといつまでも明るくなっていることに気づいたりします。

春になる前に観ようと思っていた「花とアリス」をようやく借りて、深夜に本の整理などをしながら観る。高校入学前から文化祭までの、二人の女の子の毎日を描いたこの映画は、桜のシーンが印象的ではあるけれど、ちゃんと観てみると春とはあまり関係のなかったりする。
10代の半ばをこんな風に鮮やかに、清々しく過ごしている高校生は、今時いないだろうし、おそらく、どの時代にもいなかったに違いない。でも毎日の生活の中でそのような感情や風景がまったくなかったわけでもなくて、ほんのちょっとかもしれないその感情や風景を、虫眼鏡で拡大したり、足りない部分を補完したりして、この映画は作られている。いや、すべての映画も、小説も、音楽もそうやって作られているんだけれど、その世界観の作り方が岩井俊二はうまいと思う。でもどの作品からも同じような印象を受けてしまうのと、その世界観がどこかあざとい感じを受けてしまうのは、私だけだろうか。

「河岸忘日抄」-堀江敏幸-

2月に出たばかりの堀江敏幸の長編小説。正直言ってこんな早く手に入るとは思ってませんでした。しかもブックオフで。最近、ブックオフで前の作品もときどき見かけるようになったけれど、少しずつ売れてきているのかな。
物語のストーリーとしては、30代初めから半ばくらいの主人公「彼」が、妹の死や仕事での何かが理由で日本を離れ、異国のとある河岸に係留された船で生活をはじめる。そして日々、本を読んだりレコードを聴いたり、食事作ったりコーヒーを淹れたりして、過ごす。外部との関わりは公園で何年ぶりかで会った老人、その船の持ち主である大家と、時おり「彼」に郵便物を届けに来る配達夫、枕木さんという日本での友人とのFAXや手紙でのやりとり・・・・くらい。そのためらうこと、待機すること、逡巡することに身を委ねる「彼」の静かな生活と思索が、「彼」が読んだ本や映画の内容などと連想ゲームのように絡み合いながら、淡々とつづられていく。いくつもの挿話が、唐突とも思えるつながりで語られていくのだが、読んでいて違和感はまったくなく、むしろやわらかくなめらかな言葉のつらなる文章を目で追いかけていると、心地よい気分になってしまう不思議な感触の作品です。

日曜日、イベントのポストカードを置くついでにオーガニックカフェに行って来ました。オーガニックカフェは、再開発地域になっているのだけれど、まだ営業してますね。周りを見るとほとんどの店が閉まっていて、なんだか逆側のGTタワーができる前の商店街を思い出しました。そのとき、一回、夜に再開発前の商店街に行ってみたことがあるのですが、すべての店が閉店していて、街灯もついていないくて、まさ廃墟という感じでめちゃくちゃ怖かったです。
中目黒はいろいろ再開発しているけれど、結局盛り上がっているのは川沿いで、GTタワー周辺とか寂しいまま。やはり駅を出てすぐに通っている山手通りがネックなのか、なんてことを中目黒生まれの友達と話したのは、もう10年くらい前のことで、あれから中目黒もかなり変わったけれど、駅前の周辺はあんまり変わっていないような気がします。

「IT’S A STAMP WORLD! ~切手に恋して~」

「Stamp stamp stamp Europe」を読んだ勢いで、プチグラから出ているこんな本も買ってみた。プチグラだけあって、かわいさやデザインの良さに関しては、こちらの方がいいし、東野翠れんや江口宏志、パラダイス山元、小柳帝、やなせたかし・・・・など、人脈を活かした人たちのコラムも楽しい。
切手本のいいところは、切手自体が小さな紙に印刷されたものなので、本を見ているだけでもある程度満足できるところですね。これがファイヤーキングだとか、カフェオレボウルだとか、文房具だとか、スマーフグッズだとか、だったらどうしても現物が欲しくなってしまう。「いや、実際の切手と本に印刷されたものじゃぜんぜん違うんだよ」という声も聞こえてきそうですが・・・・。実際、ぜんぜん違うんだろうけどさ。そんないろいろ集められないって。

昨日は、「青い春」「ナイン・ソウルズ」の豊田利晃監督の新作「空中庭園」の試写会に行って来ました。小泉今日子主演で、そのダンナに板尾創路、子どもたちが鈴木杏、広田雅裕。小泉今日子は、母親との関係がうまくいかなかった反動で、「家族間で隠し事はしない」というルールの元、理想の家族を作ろうとするのだが、家族はそれぞれ言えない秘密を抱え・・・・という郊外に住む家族の話。はっきり言って泣けます。原作は角田光代。ぜんぜん読んだことなかったけれど、本の方も読んでみたくなりました。舞台挨拶での鈴木杏ちゃんがかわいかった、なんて言ったら、また何か言われそう・・・・。

「月と菓子パン」-石田千-

唐突言うと、エッセイと随筆の使い方の違いが分かなくって、文字の感じでどうも随筆のほうが堅い感じを受けてしまったり、単に「随筆」→「エッセイ」という時代的な変化だけなのかなと思ってしまう。
でも最近、読んだ本によると、作家が作品を書く合間に身辺のことを気楽に書いたものが随筆で、その内容がだんだん、幅広い分野のことや専門的なことになってきたので、随筆という言葉ではカバーしきれなくなってエッセイという言葉が使われるようになった、らしい。これもほんとうかどうか分からないけど・・・・。

そういった意味で、石田千のエッセイは、どちらかというと随筆という言葉が似合う。いや、どちらかというと短編小説のいった雰囲気が漂っている。実際、読んでいると、もう少し題材を深く掘り下げて、そして広げたら短編小説としてもおもしろくなるだろうなぁ、と思う。その「もう少し」という部分をあえて書かないところが、石田千のエッセイのおもしろさなのかもしれない。いつか彼女の連作短編を読んでみたい。

「クロッカスの花」-庄野潤三-

週末は、初夏のような暖かさでジャケットを着て歩き回っていると、汗をかいてしまうくらいだったのに、週が開けてからは雨続きで、冬に戻ったような寒い日になってしまった。せっかく咲いた桜も散ってしまったんだろう。今年は、3月になってもなかなか暖かくならない、と思っていたら、急に暖かくなって、ようやく春が来た、と思っていたのにね。天気予報では寒さのほうは明日まで続くようです。

「求められて、何か書きとめて」おいた「備忘録」らしく、子どもたちの行動や庭の様子、近所に住む人たちとのやりとりなどを書きとめたスケッチ、友人や恩師たちとの想い出、文学について、ガンビア・・・・など、1ページにも満たない短文から数ページにまたがるものまで、思いつくままにつづられた89編。庄野潤三の作品は、完全なフィクションというよりも著者の身の回り、日常をつなぎ合わせて一つの世界を作るというスタイルなので、そういう意味では、随筆でもフィクションでもそれほど印象は変わらない。違いがあるとすれば全体を覆う世界観構築の緻密さ、という点になるだろうけれど、完成された水彩画よりもクロッキーや鉛筆で描かれたスケッチの方が、著者の心象が現れてくる場合もあるわけで。

ここにに収められている随筆の一つに、「英語歳時記/春」という文章がある。アメリカやイギリスには日本の歳時記に当たるものはないが、詩歌や散文の中には四季の花や天候についてふれているものが多い。それならば日本人の手でイギリス・アメリカの文学作品に描かれたものを素材として、歳時記らしい書物を組んでみようという試みから組まれた「英語歳時記/春」を紹介したもの。その中で、一つ取り上げられているのが、「スプリング・シャワー」(春のにわか雨)。「雨を含んだ風が吹き出すと、遊んでいた子どもらはわが家へ走り、辻音楽師も近くの軒先へ逃げ込む」と、イギリスの4月の雨の気まぐれな降りかたをあらわした言葉だそうだ。

「小さな手袋/珈琲挽き」-小沼丹-

吉祥寺のDropで隔月第2金曜に行われているフェビラス・パレードというイベントに行く。パレードは、友達がDJをやっているので、ときどき遊びに行く。いやよく考えてみたら、たまに、くらい。冬のあいだは、吉祥寺まで自転車で行くのは寒いので、12月、2月は行かないし、6月、7月は梅雨に入ってしまっているので、たいてい雨が降っている。で、10月くらいも台風が来ていたりする。となると、遊びに行っているのは、4月と8月くらい。DJのみなさん、今年はもう少し行くようにします。でも4月は毎年のようにいっている気がします。たいてい3時過ぎに出て、井の頭公園の桜を横目で見ながら、ふらふらと帰ってきてますね。

4時くらいに家に帰ってきて、少し寝た後、井の頭公園で友達と花見をする。井の頭公園で花見をするのは、何年ぶりだろうか。前回井の頭公園で花見をした時は、前の日に会社の人と渋谷で深夜まで飲んで、そのままタクシーで吉祥寺に出て、飲み直して、井の頭公園の近くに住んでいる友達の家で朝までしゃべって、そのまま花見をした。あれはもう、7年くらい前のことだったか。

この本の冒頭に、吉祥寺駅近くの芝居小屋での猿たちの様子が描かれたユーモラスな文章が収録されている。この文章が書かれた1956年のころの吉祥寺というのは、井の頭公園周辺というのは、どのような感じの街だったんだろうか。ここに出てくる猿のようにのんびりとした郊外の公園だったのだろうな、なんてことを、大学生や社会人の団体で狂ったように騒がしい花見の様子を見ながら、思った。

「甘酸っぱい味」-吉田健一-

昭和32年、3月から6月にかけて、熊本日々新聞に連載された随筆をまとめたもの。「甘酸っぱい味」というタイトルですが、食べものや飲みものについて書かれたものばかりではなく、言葉や雑誌・新聞について、東京や大阪などの都市、文明、戦争や政治・歴史について、あるいは暇つぶしや煙草の煙について、思い出話、昔話といった身近な題材まで幅広い。もちろんバーや飲み屋、おでん屋など、食べものや飲みものについての文章もあります。
政治的な意見などは、ちょっと違うような・・・・という気がする箇所もあるけれど(というか単なる見解の違い?)、新聞連載の割には、そのときの事件や出来事などを取り上げた直接的な時事ネタがないので今読んでも違和感はありません。でも3カ月のと期間が決まっていて、連載が始まる前に何編かは書きためておくにせよ、やはりたいへんな仕事だったらしく、「もうこんな仕事はしたくない」とあとがきで本人も書いてます。

先日、Web上で書いた文章はいつまでも残ってしまう、といったことを書いたけれど、この雑記も、毎日ではないにしろ、とりあえずカヌー犬ブックスをオープンした時から、書き続けているわけで、サーバー上にもデータを残してます。基本的に私は前の文章を読み返すことはないので、何を書いたのかぼんやりとしか憶えてなくて、その日その日の思いつきをただ書いているだけに過ぎません。
フリーペーパーの場合は、そのときのフリーペーパーがなくなってしまえば、書いた文章が人の目に触れることはないので、前に書いたことと違うことを平気で書いたり、ちょっとした思いつきを適当に書いたりしてました。いや、今でもかなり適当に書いてますが、最近、同じように書いてると、読み返した時、まったく反対のことを書いてしまったりしてないか、不安になります。
人間生きてりゃ考え方が変わったり、違う見方としたり、ということはよくあることだと思うのだけれど、こうやってひとつの雑記に書かれていて、多数の人に見られているのはちょっと困ったものかな。どうしたものかなぁ。今のところ、文章をきちんとしたり(そんなことしてたら日記なんて書けない)、過去のアーカイヴを削除したり、ということは考えてませんが・・・・。

「悦ちゃん」-獅子文六-

朝の8時就寝。mother dictionaryのフリマに行くので、9時半には起きなくてはいけないので、出かける前くらいに起こしてもらえるだろうと思って、ソファーで寝ることにする。・・・・と思ったのだけれど、隣で寝ているミオ犬も、隣の部屋から目覚まし時計の音が聞こえてくるにもかかわらずなかなか起きてこない。そんなわけで、結局、起きたのは11時、家を出たのは12時。フリマは14時までしかやっていないんですけどねぇ。

mother dictionaryのフリマは、三軒茶屋にあるものづくり学校のいち教室を使って行われていて、5月にカヌー件ブックスを開くライフアンドシェルター社の人も参加している。狭い教室の中は小さな子どもたちとお母さんたちでいっぱい。走り回る子どもをよけるようにして、知り合いに挨拶したり、フードコーナーでカレーを食べたり、クッキーなどを買ったりする。どういう風に書いたらいいのか分からないけれど、どのお母さんも、なんだか“お母さん”という感じではなくて、自分のやりたいことをしつつ、子育ては子育てとしてちゃんとしているという感じ。で、別にどちらがどうのこうのいう気もないし、比べるなんて気もまったくないのだけれど、前日、同級生、未婚女性3人と夜遊びに行ったばかりなので、まるで違う世界だな、なんて思ったりする。
30歳を半ばになると、それまでの生き方がストレートに出てきておもしろい。もう「願えば夢はかなう」なんてことも思わないけれど、自分にそもそもどんな能力があって、これまでにどのように毎日を過ごしてきたか・・・・といったものが、いい意味でも悪い意味でも今の自分を創ってきていて、その上でこれから自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、という方向が分かってくる。一日、一日が過ぎていくことで大きな意味での可能性はなくなっていくかもしれないけれど、重ねた日数分、違う意味での可能性が開けてくる。あとはその上でどう人生を楽しむか、ということなのかもしれない。適当。

2時の撤収にあわせて、ものづくり学校を出た後、そのまま下北へ歩く。はじめての道を適当に見当をつけて歩いたので、途中道に迷ったりもしたけれど、いい感じの本がある古本屋見つけたり、エクステリアの雑貨屋さんをのぞいたり、変な動きをするネコに出会ったり、なかなか楽しい。下北では、テラピンでお茶。歩き回ったので、フカフカのソファーがうれしい。

「ルウ・ドーフスマン デザインワーク」-ルウ・ドーフスマン-

ルウ・ドーフスマンは、CBSの前副社長兼広告・デザイン担当クリエイティブ・ディレクター。数限りない広告、プロモーション用パッケージ、書籍、パンフレット、電波による宣伝、展示物やデザイン企画に関して、宣伝マンとしてクリエイティブ・ディレクターとして・・・・なんてことを、たいして詳しくもない私が書いてもしょうがないので割愛。

ところで昨日は、夜の9時に家を出て、新木場のageha@STUDIO COASTへ。Towa Teiの6年振りの新作「FLASH」を記念したイベントに行く。久しぶりの夜遊び&はじめての大バコクラブ、ということで、さっそく井の頭線で居眠りをして本を落としそうになったりしつつ、ちょっとワクワク。ここ数年、クラブといったら吉祥寺のDROPくらいしか行っていないものね。そんなわけで年甲斐もなくはしゃいている、35歳同級生、5人組ですが、いきなり身分証明書を持っていない人がいて入り口で止められ、右往左往。しばらく待たされた後、「規則的には身分証明書がないと中には入れないのですが、こういってはなんですが、皆さん、見たかぎりでは、明らかに20歳過ぎですので、今回は入っても構わないでしょう。でも次回は身分証明書を持ってきてください」などと言われ中へ入る。なんだかなぁ。
DJは、Towa Tei、M-floのTaku Takahashi、Moodmanなど。基本的には4つ打ち、ハウスものなので、DJが変わったからといって極端にフロアの雰囲気が変わることはないけれど、でもTowa Teiの時になると曲の使い方とかうまいなぁ、と思う。いや、うまいと言うより80年代をリアルタイムで過ごしてきた人の曲の使い方に共感、という感じかな。
結局、3時過ぎ、テイ・トウワのDJが終わった後、タクシーで近くに住んでいる友達の家に向かい、6時過ぎまでコーヒーやスープを飲みながら、彼女の家にある本(壁一面に本棚が据え付けてある!?)やDVDを見て話しているうちに夜が明け6時。眠い目をこすりながら帰宅。そして・・・・次の日へ続く。