「家族」-山口瞳-

このところリリー・アレン「オーライ・スティル」ばかり聴いてます。MTVかなにかで初めて「スマイル」を聴いたときから、イギリスらしい、レゲエというには軽快なリズム感がいいなとは思っていたんだけど、結局アルバムを買ってしまった‥‥。お休みの日にこういう音楽を聴きながら朝食を食べて、そのあと映画を観に渋谷に行って、ついでに原宿まで歩いたり、洋服を見たり、カフェでお茶したり、小さなギャラリーでやっている展覧会を見たりしていると、なんだかイマドキの若者みたいだな、なんて思ってしまうのだけれど、実際の若い人がどんな休日を過ごしているかなんて知るよしもないです。でも西荻のそれいゆとかで遅い朝食を食べて、そのまま西荻、荻窪の古本屋をのぞいたりしつつ、高円寺の古書会館に行ったりしているよりは若者らしいんじゃないかな。だからどうしたということでもないけれど‥‥。

さて、前売りを買って、公開したらすぐにでも見に行こうと思っていたのに、なかなか行くことができなかったマイク・ミルズの「サムサッカー」を見てきました。親指を吸うクセが直らない17歳の少年を主人公にした物語で、「大切なのは、答えのない人生を生き抜く力。」という30代半ばのわたしにはちょっと青いテーマの作品なのだけれど、主人公の少年だけでなく、両親や先生、主人公が治療を受けている歯科医の先生など大人たちの心理もきちんと描かれているところが良かったです。舞台となる郊外の風景のいかにもサーバービアという感じもいいしね。イントロで映させれる風景の感じがなんだかホンマタカシっぽい。と思っていたら、マイク・ミルズとホンマタカシは友達なんですね。後で知りました。実をいうとマイク・ミルズについて断片的にしか知らないんですよ。
ついでに原宿まで歩いて、ドゥファミリィ美術館でやっている「WORKSHOP MU」の展覧会を見る。ドゥファミリィ美術館なんて行ったことがなかったのですが、思っていたよりも広くて、でも土曜日なのにお客さんは自分たち以外誰もいないという‥‥不思議な空間でした。「WORKSHOP MU」は、1970年代に小坂忠、細野晴臣、大滝詠一、はっぴいえんど、YMO、サディスティックミカバンドなどのレコードジャケットのデザインを手がけたデザイナー集団。そのうちの一人が現在、ドゥファミリィの役員をしていることから、ここで展覧会が開かれたらしい。なので、音楽関係のレコードジャケットやポスターだけでなく、その後の作品としてドゥファミリィの販促なども置いてありました。
個人的には、ナイアガラレーベル一連のオールディーズっぽいジャケットのイメージが強かったので、今回、細野晴臣とかYMOのジャケットも手がけていることを知ったり、特に大滝詠一のトレードマークとなっている(と思われる)丸い円の中で男女がキスしているイラストが、WORKSHOP MUによるもので、しかも大滝詠一だけではなく、サディスティックミカバンドのジャケットでも使われていたことにちょっとした衝撃を受けました。本も出ているので、近いうちに手に入れようと思ってます。

「ずばり東京」-開高健-

アンソロジーなどに収録されていたものは別として、開高健の本を読むのは実は初めてだったりする。深夜タクシーや屋台のオデン屋、うたごえ喫茶、下水処理場‥‥など、1960年代前半、東京オリンピック前後の東京のあちらこちらに行き、そこにいる人の話を聞くという昭和38年10月~39年11月にかけて「週刊朝日」に連載されたルポタージュ。
あとがきで本人が書いているように、各章をさまざまな文体でかき分けていたりするので、どことなく習作っぽい雰囲気もあるけれど、それぞれの完成度は高いし、それによってより対象に迫っている感じで出ている面もあるので、前後の作品を読んでいないわたしには、この本が開高健の中でどういう位置にあるのかの判断は難しい。ただこの連載が終わった後に、連載終了の褒美として、朝日新聞の臨時海外特派員としてベトナム戦にいくことになったらしいので、ある意味、転機の作品と言えるのかもしれない、言えないのかもしれない。
そして確かに1960年代前半に、その当時の東京を取材したものではあるけれど、取材されている人々の話を読んでいると、実は2006年の今、同じような場所を同じように取材しても、大きな変化はないのではないか、と思ったりもする。確かに表面的な街の様子や人々の暮らしは変わっただろうけれど、実はそれは見かけだけなのかもしれない。いや適当。

そんなわけで、週末は、ラピュタ阿佐ケ谷でやっている倍賞千恵子特集の「下町の太陽」を見る予定だったのだが、10時半からの上映時間に間に合うように起きれず、断念。下町の工場を舞台に、下町長屋での生活を脱し、ホワイトカラーの団地生活を夢みる若者を描いた1963年、山田洋次監督作、ということで、山田洋次監督や倍賞千恵子にはそれほどひかれないけれど、この本と同じ1960年代初めの東京を描いた作品として比べてみるのもおもしろいのではないかと思ったのだ。映画だったらストーリーだけでなく当時の町並みも映像で見ることができるしね。21日までなのでチャンスはあと一回しかないのだが、はたして見れるかどうか‥‥。

「Krakel Spektakel Koper En Klubba」-レンナート・ヘルシング/スティッグ・リンドバーグ-

普段はそれほど気にしているわけではないけれど、先日、オイリ・タンニネンなどの絵本を買ったせいで、最近、古本屋さんに行くと必ず絵本コーナーをチェックするようになってしまいました。でも、うちでは絵本用のコーナーとなっている棚の1列が、もうすでに埋まってしまっていて、2月にパリに行ったときに買った本などはクローゼットのなかに無造作に置かれているという状態なので、実際に買うまではなかなかいたらないんですけどね。気持ち的には、今ある本を少し整理しつつ2段くらいは確保したい、けど、なかなかそうもいかないもので‥‥。そんなことを考えているうちに、ものの適正な量ってどこくらいなのだろう?なんてことを考えたりしてしまう。本は?レコードは?CDは?スノードームは?ファイヤーキングのマグは?スマーフ、フレッドくんグッズは?‥‥。ひとつひとつ考えていくとものすごく広い部屋に住まなくちゃいけないことになってしまうんだろうなぁ。現実的に絵本も含めて年末までにいろいろ部屋の中を整理したい、と思っている今日この頃です。

こんなところに書くのもなんですが、連休の最終日に熱を出して寝込んでしまったために、本の出荷が遅れてしまいました。申し訳ありませんでした。自分では昔に比べて健康になったと思っているのけれど、熱を出して寝込むのが今年3回目ということを考えると、あまり健康でもないのかもしれない。でも3回とも一晩寝た後の次の日には、普通に会社に行ったり、遊びに行ったりしているので、回復力は意外とあり。というか、寝込んでいるときはものすごい汗をかいたりして大変なのだけれど、あまりにも簡単に直ってしまうので、なんだか気が抜けてしまう。そもそもこれは風邪なのか?いや風邪なんだろうなぁ‥‥と。

「父の乳」-獅子文六-

「娘と私」と対をなす作品。“父親と息子”をテーマに、10歳の時に亡くなった父親のおもかげを追いかけながら、自分の少年時代を描いた前半と、60歳になって初めて男の子の父親となり、「自分はこの子が10歳になるまで生きられるだろうか」と思いつつ、男の子が生まれたうれしさを描いた後半とで構成されている。そのあいだの出来事は「娘と私」という関係。
大正時代から昭和の初めにかけての横浜の様子を随所に入れ込んだ前半は、おもしろいのだけれど、遅く生まれた長男ということで、かわいくてしょうがないという気持ちが、あふれんばかりに出てしまっていたり、慶応の幼稚舎に子どもを入れるために奮闘したり、学校帰りに誘拐されないかと心配してみたり‥‥と、意図的なのかもしれないけれど、親バカぶりばかりが目立ってしまう後半には、ちょっと閉口してしまった。個人的には、後半部分は蛇足のような気もしないでもない。でも獅子文六としては後半の出来事が前半部分を思い起こす呼び水となっただけに、息子について書かずにいられなかった、というところなのかな。

「血族」-山口瞳-

雑記を書かなくちゃなぁ、と思いつつ、なんだか9月はそんな余裕もなくて、いつのまにか10月に入ってしまいました。この本を読んだものもかなり前のこと。

8月30日は山口瞳の命日だったので、その近辺に山口瞳の本を読もうと思っていたら、8月の中頃からCSで「血族」が放送されていて、ドラマなんてめったに見ないのに、めずらしく毎回見てしまい、ついには本のほうも読んでしまいました。
母方の親戚をたどっていって最終的には実家が女郎屋だったことを知るという、エッセイなどで何度もふられている内容なので、だいたいの事実関係や話の流れはわかるのですが、一つの作品の中で、ここまで執拗に追求する様子を読んでいると、気持ち的にはちょっとひいてしまう部分もあったりするけれど、ほっと肩の荷の降りるようなラストが用意されていて、今まで後回しにしていたのを後悔するくらいよかったです。わたしは年代順に本を読んでいるわけではないので分かりませんが、この「血族」の前後でエッセイの書き方が変わってしまっても不思議ではないと思う。

ドラマの方は、もとは1980年にHNKで放送された番組で、主演は小林桂樹。小林桂樹といえば、岡本喜八監督によって映画化された「江分利満氏の優雅な生活」でも、江分利満(≠山口瞳)を演じているだけに、どうしても山口瞳と同一視していまいます。もちろん小説とはすこし違うし、鬼気迫る様子がコメディっぽく見えてしまうところもある。特に会話の部分、本では独白との部分と会話がそのまま続いているので、気持ちの流れに違和感がないのだけれど、ドラマではナレーションが押さえられている分、普通に会話をしているときに急に小林桂樹が怒り出したりする場面が出てきてしまうので、単におかしな怒りっぽい人みたいな印象を受けてしまう。でもストーリーの流れとしては押さえるところは押さえてあって、ドラマ化としては及第点という感じかな。それよりもこんなドラマをNHKで放送していいのか、という気持ちになったりもするけど。
ミーハーなわたしとしては、つい横須賀に行ってみたいような、どうでもいいような‥‥。いや、テレビで見た柏木田の寂れた風景がなんとなくよかったんですよね。でも26年前の風景なのでかなり変わっているんだろうなぁ。
そういえば「居酒屋兆冶」のモデルになった国立のお店も9月で閉店しちゃったみたいですね。

「三の酉」-久保田万太郎-

本というのは、文字を読むだけではないのだなぁと。行間のみならず、少しすれかかった函や背だけが焼けて薄くなった布張りの本体、黄色の紙、押したように少しへこんだ活字‥‥など、そういったものすべてがこの小説の醸し出す雰囲気や世界観を作り出していて、それはおそらく文芸文庫などで読んでも味わえないものだろうという気がします。かといって、初版とかオリジナルにこだわっているわけでもなくて、読めればいい、聴ければいい、というのが基本ではあるのですが、やはりその小説や音楽が初めて世の中に出たときの“かたち”で、接したいという気持ちもあったりして、その辺のバランスが微妙で、かつ難しい問題なのは、本好き音楽好きだけでなく、誰もが抱える課題だろうと思う。わからん。まぁ逆に、そういった雰囲気ではなく、言葉だけで人を感動させるのがほんとうの小説である、音だけで人を感動させるのがほんとうの音楽である、という言い方もできると思うけれどね。

今週は、月曜日、火曜日と夏休みをとったのですが、どこに行くわけでなく、だらだらと過ごしてしまいました。何かしたといえば、わたしが今年の夏行ったイベントで、唯一フェスと呼ばれるイベント、大人計画フェスティバルぐらい。それも、前々日くらいまで行くかどうか迷っていたせいで、せっかく行ったのにもかかわらず、まったく無計画。とりあえず午後から行って、ドッジボール大会とお化け屋敷見て、松尾スズキのママさんコーラス聴いて、展示をさらっと見つつ、純喫茶マンハッタンでコーヒーでも飲んで、エンディングセレモニー見て帰れればいいかな、と簡単に思っていたのですが、そう甘くなかったです。
ドッジボール大会は人だかりでぜんぜん見れず、お化け屋敷は校舎の中のみならず、運動場まで列ができていて、松尾スズキのママさんコーラスは、2時間前から並び始めているという状況。純喫茶マンハッタンなんて、3時の時点でコーヒー売れ切れ‥‥という状態。エンディングセレモニーで校庭に集まった人たちを見て、改めて大人計画って、松尾スズキって、クドカンって、‥‥すごいんだなぁと実感。今どきこんなに人を集められる劇団があるのだろうか?
といいつつ、出店も割と充実していたし、ちょこちょこホットドッグなどを食べながら、校舎の中を回ったり、サケロックの星野源の弾き語りを聴いたり(普通過ぎ!)、文化祭気分を味わいました。

「なつかしい顔」-小島政二郎-

なんとなく、昨日のつづき‥‥
はなうたサーカスの次に登場したSAIToCAMELは、WATER WATER CAMELというバンドの人らしいのですが、ギターもうまいし、声も通るし、バンドより弾き語りのほうはいいのでは、と思ったりして‥‥。もっともわたしはWATER WATER CAMELの音を聴いたことないのですが。いや、実は弾き語りのうまさって、ギターのうまさとか歌のうまさうんぬんと違うところで決まるような気もします。
途中でスティールパンが加わったのも、こんなライブで、テルミンとスティールパンを両方聴くことができるとは!という感じでうれしい。それほど大きな会場ではなかったので、マイクなどアンプをぜんぜん通さずに、そしてそれほど強く叩いているわけでもないのにきれいに響いていて、改めてスティールパンの生音のよさを実感しました。でも、こういう演奏を聴いていて困るのは、ろくに楽器も弾けない&弾かないくせに、スティールパンが欲しくなってしまうことですよねぇ。

なんて冗談はおいといて、アナログ盤を買わなくなってしまったせいで、すっかりスティールパンのレコードもまったく買ってません。どうもCDで買う気が起きないのは、昔聴いたスティールパンのCDの音が、なんとなくこもっているような気がして、あまり好きになれなかったからなんだけど、それから10何年も経ってるので、録音技術やマスタリング技術が進んで、スティールパンの音もきれい響くようになってるんだろうなぁ、と、書きながら、リトルテンポとかそんなに違和感なく普通に聴いてることに気がついたりして。まぁリトルテンポの場合、スティールパン以外の要素のおもしろさもあるわけなんですが。
スティールパンのレコードも含めて、アナログ盤を買わなくなると、新しい発見がなくなってしまうような気がします。CDだとあんまりジャケ買いをすることもないし、そもそもCDが出て20年くらいしか経ってないし、その20年間もどちらかというとポップミュージックのフォーマットが安定してしまっている時期だし、適当に買ってきて聴いてみたら、いい意味でも悪い意味でも「なんだこりゃ?」とびっくりするようなものは少ない。再発ものは基本的になんらかの評価があっものが発売されているわけだしね。見知らぬ森の中をザクザクと歩いていくようなわくわくした感じがなつかしいかも、なんてことを、その日、11時くらいに町田から帰ってきてから遊びに行ったパレードで、「最近は意地になってアナログ盤を買ってる」という友達の話を聞きながら思ったりしました。

「ボタンくんとスナップくん」-オイリ・タンニネン-

なんとなく8月は、昼間はだらだらしてしまって、夕方頃になってから、ちょっと出かけてご飯を食べて、その辺を歩いて帰ってくる、という休日を過ごしてしまいます。朝、起きるのが遅かったりすると、でかける時間がちょうど一番暑いときだったりするのがいけない。それにしても海とかプールとか山とか‥‥もう何年も行ってないなぁ。
9月に入って少し涼しくなったからというわけではないけれど、週末、町田に行って、イシイリョウコの個展&はなうたサーカス、SAIToCAMEL、Quinkaのミニライブを見てきました。まぁ私としては、絵はいいと思うけれど、人形のほうはちょっと乙女過ぎデス。実際、会場に来ている人たちもほとんど女の子ばかりで、まさに「むさい男がなんでここに?」状態、に加えて、ライブの席は一番前という‥‥。
そのイシイリョウコも参加しているはなうたサーカスは、アコーディオンやギター、リコーダー、マトリョーミン(マトリョーシカの形をしたテルミン)を中心に、ウクレレや音の出るおもちゃ、小さな鉄琴などをつかって、映画のバックにそのまま使えそうなかわいい曲を演奏するグループ。見かけは、仲のよい友達が周りにある楽器を持ち寄って演奏してみました、というリラックスした感じなのだけれど、曲や演奏自体はしっかりしていて、繰り返し聴いても飽きないような気がします。演奏を聴きながら芝生の上に座ったりして外で聴いてみたいぁ、なんて思っていたら、井の頭公園で練習してる、と言ってました。でもこういう演奏を聴いていて困るのは、ろくに楽器も弾けない&弾かないくせに、おもちゃ楽器を集めたくなってしまうことですよねぇ。

「ユリシーズの涙」-ロジェ・グルニエ-

犬を題材にした古今東西の文学作品をめぐるエッセイ集。ロジェ・グルニエは、愛犬のユリシーズが死んだときに、もう犬は飼うまいと決心し、その代わりに犬に関しての本を集め出したのだそう。愛犬家の作家による思い入れたっぷりのから犬を機械とまで定義した厭犬家まで、さまざまな文章が縦横無尽に引用されつつ、グルニエの犬への、特にユリシーズへの思いがつづられてます。私自身は、カヌー犬ブックなんて名前をつけているわりには、それほど犬好きというわけでもなくて、むしろ、小学校くらいまでは犬が嫌いだった、というか怖かった、というほうだったりします。というのも、私が小学校低学年くらいの頃までは、まわりに野犬がいて、しょっちゅう追い回されていたから。学校に行くときにかみつかれて、病院で検査とかされたりしてました。背が低いから顔とかかみつかれちゃうんですよ。
なので、そういった思い入れの部分に関しては、あらあら、ふんふんという感じなんですけど、犬好きの人が読んだら、やはり感じ方が違うのかな。どちらかといえば、こういう散文的なエッセイが好きなこともあり、そういった内容よりも文章の構成や言い回し、引用の仕方‥‥といったことの方が気になるわけで‥‥。まぁそれも内容がおもしろければこそ、ですけど。

「ニコラスのペット」-インゲル&ラッセ・サンドベルイ-

銀座で友達と待ち合わせしていたので、自転車で荻窪まで出て、阿波踊りとも知らず好書会でも行こうと思って高円寺に行ったら、駅前からすごい人でした。
まだ始まっていない時間だったのだけれど、もう道の両端はビニールシートとか敷いてあって場所取りしてあったり、すでに飲み始めている人がいたり、とうぜん通り沿いのお店は、店の前にいろいろ出してたり‥‥いまにも祭りが始まる寸前という感じの雰囲気。阿波踊りって、場所とって見るものということを初めて知りました。よく考えれば、七夕祭りみたいに飾り付けとかあるわけではないし、行列が動いてくるわけだから、こちらが歩く必要はないですね。

そんな中、店の前でフリマみたいなのをやっているところがあり、洋服とかレコードとかおもちゃとかの中に「ニコラスのペット」と「ボタンくんとスナップくん」を発見。講談社から出ていた世界の絵本シリーズのスウェーデン編とフィンランド編で、おしゃれな雑貨屋とかに行くと洋書は置いてあったりするけれど、絵本はやはり日本語版の方がいいかも。もちろん洋書には洋書のよさがあるけれど、日本語だったら普通に読めるし‥‥といっても、絵本とそんなに繰り返して読むわけでもないか。

さて、銀座では、前の会社で同じ部署だった人と3人で飲んだ。一人はしょっちゅう会っているのけれど、もう一人のほうは会うのは一年ぶりくらい。会社に入ってきたときは新卒で、それから3年くらいしか経ってないのに、「最近の新人は~」なんて言い出すのがおかしい。いや、そういうことは言っちゃいかんよ、(威張ってはいかんよ)、と常盤新平風に思ったりもするけれど、女の子が多そうな職場だし、別の意味で大変なのかも知らん。
で、いろいろ話してるうちにiPodの話とか聴いてる音楽の話とかになって、今度は「最近わたし、スウェデッシュ・ポップに凝っていて、ジャニスとかに通ってるんですぉ」って‥‥。2006年のいま、スウェデッシュ・ポップとか、ジャニスとか聴くとは思いませんでした。
でも先週、エッジエンドに行ったときに、「次はスウェデッシュポップ特集なんですよ」と、ACID HOUSE KINGSのジャケ写が使われたevery planets sonのフライヤーをもらったし、実は流行ってるんですか?スウェデッシュ・ポップ?ま・さ・か・ねぇ。
というか、なんだか「スウェデッシュ・ポップ」という言葉を声に出すだけで。恥ずかしい気持ちになってしまうんですけど‥‥。わたしだけか?

そんなわたしですが、うちに帰ってCDラック探したら思っていたより売り払ってなくて、30枚くらいありました。「恥ずかしい気持ち」なんて言う資格なしですね。