■あけましておめでとうございます。2015年もカヌー犬ブックスをよろしくお願いします。
気がつけばもう12年、干支が一回りしましたね。漣くんが生まれてから「子どももいるしまぁマイペースでやってます」なんて言い続けていますが、そんなマイペースの期間ももう6年。半分くらいマイペースでやってきてる状態になってしましました。そろそろ気持ちだけでも切り替えてやっていかなくては、と思っております。
■さて、2015年の一冊目は(読んだのは2014年ですけど)、牧村憲一の「ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989」、はっぴいえんどから、シュガー・ベイブ、加藤和彦、竹内まりや、大貫妙子、そしてフリッパーズ・ギターまで、牧村憲一が関わったミュージシャンを中心に、1969年から1989年までを1年ごとに、その年のポップス・シーンを代表するような音楽関係者をゲストに迎え日本のポップス史を語った本です。。
基本的に自分がかかわったミュージシャンについて語っているにもかかわらず、日本のポップス史を俯瞰するような内容になっているところがすごい。でももちろんこれは日本のポップス史のある側面でしかないことも認識しておくべきだと思う。
といっても、小学校の頃に大滝詠一に出会い、中学時代にナイアガラ関連、はっぴえんどなどに聴き、その後、ノン・スタンダードレーベルのレコードを聴いたのち、フリッパーズギターに夢中になったわたしにとっては、ある意味自分における日本のポップス史をたどっているようでかなり懐かしく、冷静にこれは「日本のポップス史のある側面」だからと割り切れるものではないですけどね。
■わたしは上の兄弟もいなかったし、学校で音楽のことを話すような友だちや先輩もいなくて、なんだか一人で回り道しながら音楽をたどっていったという気持ちが大きかったのだけれど、今になってみれば、わりとポップスのメインストリートをとぼとぼと歩いてきただけだったのだな、と思う。不思議。
いや、主観的に見れば、同級生に変な音楽ばかり聴いてると言われていた地方の高校生にとっては、自分がきいてきた音楽が、ある日、メインストリートとして上書きされてしまったという認識が強いかも?ミュージシャンには悪いですけど、10代に聴いていた音楽としてそっと埋もれていてほしかった。で、ときどき聴きかえしては懐かしんだり、新しい発見をしたりしたかった、という気持ちもありますね。
■そんなことを思いつつ、年末年始はエレクトロニカばかり聴いて、体系とか系譜とかといったことを考えていました。というのも、年末にインザパシフィックでDJをしたときに友だちが「Youtubeでいい曲をつまみ食いしながら聴くのではなくて、自分の好きな音楽を体系づけて聞くのが好きなんだ」みたいなことを言っていたから。わたしも一人のミュージシャンを軸に、そのルーツや横のつながりをたどっていくのが好きなほうだけれど、エレクトロニカに関してはルーツが辿りにくいし、たどることに意味があるのかとも思ってしまいます。
ルーツ的には、テクノ(電子音楽を含む)とアンビエント、ミニマムあたりがルーツになっているのだろうけれど、同じ時に全然違う国で、なんの横のつながりもなく背景も違うと思われるミュージシャンが同じようなサウンドを切り開いたりするし、なかなかピースが一つの線や面としてつながりにくい。先にあげたテクノとアンビエント、ミニマムというルーツもたどろうとするとめちゃくちゃ広範囲になってしまうしね。もっといろいろ聴きこんでいくと違うんでしょうけど、そればかり聴いているわけではないし、エレクトロニカ~電子音楽の奥は深い。
■それから普段インストの音楽ばかり聴いている身としては、音楽における言葉の意味ということも考えてしまいます。単純になんで作曲家よりも作詞家のほうが地位が高いのか?とか、音楽と言葉が結びつくことでなんで人はのめりこんでしまうのか?とか、みんな小山田圭吾の音楽に対してはわりと冷静に接しているように思えるのに、小沢健二に対しては、なんであんなに熱くなってしまうのか?青春の一曲と10代の頃の読んだ本の思い入れの違いはどこからくるのか?などなど。音楽によって言葉が人の中で増幅されてしまうメカニズムや、経験と結びつきやすくなる理由などを解説した本があったら読みたい。