内田百けんを“百けん先生”と呼んでしまうように、高橋義孝も、“高橋義孝先生”と言いたくなってしまうのはなぜか?単に大学の教授をしていたから、あるいは山口瞳の本を読み続けているから、だけではないような‥‥。と、前回から半月も経っているのに、同じふりをしてみたりして。どちらかというと内田百けんよりも高橋義孝の方が、“先生”というか“師”という言葉が似合う気がします。まぁ、二人ともすべてのことにかなり細かいこだわりがあるので、どちらの“生徒”になってもたいへんそうですけど‥‥。逆に、そのこだわりがあるからこそ“師”として、たくさんの人に慕われたとも言えるわけで‥‥。
若い頃にそういった“先生”とか“師”に出会っていたらもう少し違った人生を送れたのではないかと、この歳になってみると思う。今考えると無駄な回り道をしたり、めちゃくちゃな20代を過ごしていたので、そういう“師”に出会うような環境でなかったとも思うけれど、実際は、それに気がつかなかっただけ、受け入れるための姿勢ができていなかったことが大きかったと思う。「先生は自分で決める」という言葉もありますしね。