2月に入ってからずっと、中国の農薬入りギョーザのニュースが流れ続けていますが、雑誌などでは普通に“餃子”と書かれているのに、ニュースではギョーザがカタカナで表記されているのがちょっと気になります。なぜ?いつから?チンジャオロースやホイコーロー、バンバンジーなどは読みにくいのでカタカナなのは分かるし、シューマイやチャーハンなどもなんとなくわかるのですが、ギョーザは逆になんとなく馴染めない気がするのは私だけでしょうか。
ちなみに杏仁豆腐の“杏”は、この使い方だと表外漢字になるらしい。当て字だから?と言っても、もちろん小堀杏奴は普通に表記できます。内田百けんのように[門構えに月]みたいな注意書きも当然いらない。でもいくら森鴎外の娘といえども、1909年(明治42年)生まれで“杏奴”と名付けられた女の子というのは、子どもの頃どういう扱いを受けたのだろうか、なんて余計なことを思ってしまいます。旅館で“あんずやっこ”と呼ばれたこともあるらしいし‥‥。まぁ、父親のことをかなり尊敬していたみたいなので、あまり気にせずに育った感じではあるし、子どもの頃の環境がわからないので、何とも言えませんが‥‥。
ついでにもう一つ、先日、社会保険庁で、派遣労働の中国人が、漢字読み違えや名字と名前の区切りを間違えて、転記ミスをするというニュースがありましたが、逆に、森鴎外の本名、森林太郎は、日本人だと知っていてもつい「もりばやし/たろう」と読んでしまいがちですよね。
ハーモニー・コリン監督の8年ぶりの映画「ミスターロンリー」を観る。と言っても「ガンモ」も「ジュリアン」も観ていなくて、観たものと言えば脚本を手がけた「KIDS」ぐらいなので、8年ぶりもなにもないですが。
パリの道ばたでマイケル・ジャクソンの物まねをして生計を立てている青年が、マリリン・モンローのものまねをする女性に恋をする。そして彼女と仲間たちが暮らす、物まね芸人だけが集まる共同体に招待されるのだが‥‥というストーリーで、他人を演じることでしか生きられない男の不思議で不器用な恋、そして葛藤が繊細に描かれています。ストーリーだけ取り出すと、ある意味普遍的でありがちなテーマを、奇をてらった設定で描いたものという感じではあるけれど、全体を覆う物まね芸人たちの哀しみ(どの人もあまり似てないし‥‥)や、主人公の心のうちが丁寧に描かれているのがよかった。
登場人物たちが舞台で歌う歌の内容など、多分、私が気がつかない(分からない)裏の意味もたくさん込められているような気がするので、何年かして観たらまた違う印象を受けるような映画です。
連休前の金曜日は、小学校の同級生と飲みに行くつもりだったのですが、相手が体調を崩してしまい延期になってしまいました。仕事中に倒れて救急車で運ばれたらしい。メールには、原因も分からないし年を取ったかなぁと書いてあったけれど、年も取ったけど、これからもまだ長いので原因がちゃんと分かって、全快とまで行かなくても元気になって欲しい。
昨年の3月に小学校の同窓会があってから、2、3回何人かの人と飲みに行ったりしているのだけれど、もちろん今はみんなバラバラで、それぞれ違う環境で生活していても、本質的なところでは小学校の頃とあんまり変わってないな、と思うことがときどきあります。同時に、今自分が仕事をしたり、日々暮らしたりしながら「こういうところは直していなくちゃ」とか「こういう風になりたいけれど、なかなか難しい」などと思っていることが、実は小学校の頃、先生や周りの友だちに言われていたことだったり、当時のクラスの中での役割が、そのまま会社の中での役割になっていることに気がついて、ちょっとびっくりします。そう思うと、20代から今までの自分は無理してきたのかもしれない。いや、そんなことはないって声も聞こえてきそうですが。「三つ子の魂百までも」ってところだろうか。
「モーにあったよ。彼女はまあまあ元気な様子。
彼女が言うには、人なんてそんなに変わるものじゃない」(アズテックカメラ)
そして一つ言えることは、生まれたときにマイケル・ジャクソンだったという人は、マイケル・ジャクソンだけってことですかね。いくらその後、マイケル・ジャクソン本人がどんな風に変わろうとも‥‥。そしてマイケル・ジャクソンや小堀杏奴という名前が一つの記号でしかないにしても‥‥。