少し前のこと、カヌー犬ブックスのイベントやったときに、友達に「幸田がiPodを持っていないなんて意外だった」と言われたのですが、私はウォークマンの時から外で音楽を聴くという習慣はまったくなくて、電車の中では、たいてい寝ているか本を読んでいるかのどちらか。電車の中は大切な読書時間なので音楽を聴いているのはもったいない、と思う。
朝起きて家を出るまでほんと半分寝ているような状態で朝ご飯を食べたり、着替えたり、歯を磨いたり・・・・していて、駅まで歩く間も電車の中で寝ることばかり考えているのに、実際に電車に乗ってちょっと本を広げたりすると、気がつけば下北沢を過ぎてしまっていて、もうすぐ終点の渋谷だったりするのが不思議だ。その分山手線の中ではまた眠くなってしまうのだけれど、座れるはずもない。話がそれてしまったけれど、その友達はiPodで朗読をよく聞いているらしい。詳しいことを聞く時間もなかったし、忘れてしまったこともあるけれど、どこかのサイトから落としてiPodに入れているらしい。日本語なのか、英語なのかも忘れてしまった。
10何年前、名作の朗読を収録したカセットブックが本屋に並んでいるのを見かけたけれど、今はどうなのだろう。一部ではポエトリーリーディングとか根付かせようとしてるけれど、朗読を含めてあんまり一般的になっていないような気がする。アメリカでは、作家が新作を出したときに朗読会をよくやっているけれど、日本ではあまり聞かないし。普段の生活でも、声を出して本を読むということはないですね。明治くらいまでは黙読という概念がなくて、本を読む=声を出して読む、ということで、黙読という概念が成立したことで近代の読書が始まった、なんてことをどこかで読んだ覚えがあります(そしてここのどこかに書いたかもしれない)。
そんなことを思い出したのは、この「末枯・続末枯・露芝」を落語家が朗読したものを聞いてみたいなぁ、と思ったから。登場人物たちが下町の芸人だったり、商人だったりすることもあるけれど、会話が多く話のテンポもいいので、うまい噺家が読んだらより楽しめると思う。ついでに書くと、全部そうだとは言えないけれど、昔の作家で東京生まれか地方出身かの大きな違いは、落語と芝居からの影響があるかないかではないでしょうか。幼い頃から浅草の落語や芝居にふれて作家になった人と、ある程度の歳になっていきなり文学に目覚める人とではその作風が大きく違ってくる。そして前者の作品は、どうしても話し言葉を意識してしまうせいか話のテンポがよく、シリアスに陥ることがなくユーモアや皮肉に流れてしまうので、純文学というよりも中間小説としてとらえられがちになってしまうような気がします。気がするだけですが・・・・。
私などは、もちろん落語も芝居もわからないので(そもそも今の時代の40代以下の人で幼いことから落語や芝居にふれてきた人なんているのだろうか)、随筆などを読んでいても出てくる役者や噺家もしらないし、わからないことが多い。この辺はもう少し勉強する必要があるのかもしれない、と思うけれど、当時の落語と今の落語とは、娯楽としての位置づけもその内容自体もまた違うだろうし、なかなか難しい。浅草演芸ホールに落語を聞きにいったのは、何年前のことだろう。お正月だったせいもあって会場は満員だったけれど、昼頃から見初めて気がついて外に出たらもう周りは真っ暗だったというくらい時間を忘れて見てました。来年はまた行こう。じゃなくて、普段の土日に行ってもいいんですよね。意外と「タイガー&ドラゴン」の影響で人が入っていたりして、それもまたよしと。帰りはアンヂェラスでロールケーキをダッチコーヒー食べてよう。
今さらの話題ですが、普段はめったにドラマなんて見ないのに、しかもうちのDVDは録画ができないので、ちゃんと時間までに帰ってこなくてはいけないというのに、珍しく「タイガー&ドラゴン」は全部見ました。11週間ものあいだ、金曜日に夜遅くまで遊びにも飲みにもいかないなんてめずらしい。一話完結というスタイルもよかった。一回ぐらい見逃しても次は次で楽しめると思うと気楽だし。そういえば前回、同じく全話見た「濱マイク」も一話完結でした。テレビ版の「濱マイク」は、毎回違う監督が違う趣向で撮っていたので、軽やかな感じを期待していた私としては、途中からテーマが重くなったりして全部見るのはちょっとかったるかった。テーマは別として方法として、逆に「タイガー&ドラゴン」は、「落語の内容と実際のドラマとリンクさせる」という決まり事をつけて、三人くらいの脚本家で回していったほうがよかったような気がする。まぁ強引な展開も含めてなんだかんだ言いつつ毎回楽しめたらいいんですけどね。そういうことで今日の結論は“長瀬智也か岡田准一が朗読した「末枯・続末枯・露芝」をiPodに入れて電車で聞こう”ってことで。