一冊の本やある作家をきっかけとして、対象についての考察はもちろん、過去における著者とのつながりや、関連する事柄が、ある時は堰を切ったように次々と、ある時はなかなかたどり着けないいらだちをそのままに表しつつ描かれていきます。ある意味取り上げられる本や作家は一つのきっかけに過ぎなくて、まるで山田稔の脳内を散歩しているかのような、時間や空間を行き来する森の中をさまよっている感じがするのは、この本に限ったことではないのかもしれません。山田稔の本を読んでいると、なんとなくアントニオ・タブツキの「レクイエム」を思い出すのは私だけでしょうか。さまよっている感や空気の密度みたいなものに共通点を感じます。
と、書きながら気づいたのだけれど、「レクイエム」の空気さえまとわりつくような感覚を思い出してしまうのは、単に去年の夏暑いさなか、下鴨神社の古本市や手作り市を見て回ったり、進々堂で朝ごはんを食べたりした経験と結びついているのかも。そんなことを考えているうちに、ふと、山田稔の作品の中でスペインに行く話があったような気がしてきて、ほかの本をめくってみたけれど、やはり気のせいらしく見つからなかりませんでした。
来週末に長崎にいくのですが、そのときにたてまつるで暗室を借りることになっているのです。ふふふ、暗室の作業なんて、一度写真美術館のワークショップに参加しただけなのですが、いろいろと教えてくれるみたいなので今から楽しみ。それで、久しぶりにカメラにモノクロフィルムを入れて写真を撮ってるのですが、そもそも最近は、カメラを持ち歩くことさえなかったし、モノクロのフィルムなんて、それこそ何年ぶりという感じなので、つい、この壁の色がきれいだからとか、こっちの家と空の色の比較がはっきりしているから‥‥なんていう理由で、カメラを構えてしまってます。基本的に被写体の色合いしか見てないのかも。割と平気でピントもぼかしてしまうし、露出も常にオーバー気味だし‥‥。
予定では、ゴールデンウィーク中に2、3本写真を撮って、その中から気に入ったものを引き延ばしてみよう、と思っていたのだけれど、連休は首を痛めてしまったせいで、あまり歩き回れず、まだ一本分しかとれてません。今週末が最後の機会なのですが、天気悪そうだしね。来週は天気がよかったら会社にカメラを持ってきて、昼休みに近所を散策してみよう、とさえ思ってます。
ところでたてまつるは陶器や雑貨、てぬぐいなど、長崎をモチーフとしたものが売られているお店で、高浪敬太郎の弟の高浪高彰さんがやっているそう。私は始めていくのだけれど、ミオ犬は長崎に帰るたびに行っているみたい。いいなぁ。この間は、ブライアン・ウィルソン「Smile」や高浪敬太郎がプロデュースしたミスゴブリンのCDRをもらってきたりしてました。
そういえば、うちのどこかに高浪高彰さんが参加したフリペが残っているはず。10年以上前に新宿でやっていたフリーマーケットで手渡されたのですが、フリマに出ていた人は誰だったのだろう?
ゴールデンウィーク中はすっかり怠けてしまって、ここもまったく更新せず、この本を読んだのは、いつだっけ?という感じになってしまってます。もっとも、お休み中はほとんど本を読まなかったし、5月の初めの一週間はなかったことにして、今週からまた再開、なんて、まだお休み気分の抜けない頭で、ぼんやりと考えたりもしてます。
最近、なんとなくバスで通勤するようにしている。ときどき時間がかかったりもするけれど、乗り換えもないし、遅刻ぎりぎりに会社に行くわけではないのでかなり楽だったりする。暖かくなってきたからバス停でバスを待っている時間もつらくない。
木山捷平はいい。木山捷平はおもしろい。としか言いようがないような気がする。なんやかんやと理屈をこねてみてもしょうがない、静かに繰り返して読む、そんな作家だと思う。いや、私の語彙が足りないだけなんですけどね‥‥。
「てんやわんや」「自由学校」に続く終戦三部作の三作目。戦後米軍が進駐して一時活況を呈するが、その進駐軍が横浜を引き上げるという時期の横浜、進駐軍の兵士との混血児のための慈善養護施設「双葉園」が舞台となっている。その元財閥の未亡人が設立した双葉園で、働く亮子と、戦後ふぬけのようになってしまい、まったく働かず、家でごろごろしているだけの夫を中心に、産児制限運動に携わる女性、プロ野球選手、シューマイの売り子、作家、そして横浜に滞在する外国人など、戦後を象徴するような登場人物がが絡み合い話が進み、もちろん最終的には大団円を迎える。
ここのところ新しい出会いもなくちょっと倦怠期。
表題の“ニセ札つかい”は、文字どおり“ニセ札つかい”であって、ニセ札を製造しているわけではない。、主人公は、源さんという正体不明の男からニセ札を渡され、使ったらその半分(つまり釣り銭)を渡している。ギター弾きという職業を持ち、独身の主人公は、特にお金に困っているわけではないが、不思議な魅力を持つ源さんと、ニセ札を媒介としての断ちがたい連帯感を感じ、それに加え源さんが、ニセ札を使う相手に自分を選んでくれたことに喜びを感じている。しかしそのニセ札も最後の一枚となり、源さんは最後の一枚を主人公に渡して、いなくなってしまう。残された主人公は、源さんとの“特別な”つながりを確認したくて、そのニセ札を警察に渡すが‥‥。というなんだか不思議なストーリー。
というわけで、井伏鱒二の「海揚がり」を読む。表題は、瀬戸内海に沈んだ骨董品を引き揚げる仲間に入らないか、と誘われる話で、このほかに徴用中の戦死した戦友のことを書いた「ブキテマ三叉路と柳重徳のこと」「徴用時代の堺誠一郎」、木山捷平、上林暁についての随筆など、8編が収録されている。
「私小説というのは関わり合う作家たちの作品を全部合わせて、一つの壮大でかつミニマムな作品として成立しているのでは」‥‥なんてことを書いたばかりだけれど、尾崎一雄、庄野潤三、小山清、上林暁と続くとちょっとお腹いっぱい。たまには違う系統の本を読みたくなってきてしまう。と言いつつ、この本の後、今読んでいる本は、井伏鱒二だったりするのだが‥‥。新しい出会いを期待してしまう季節だし。
初めてあった人に「カヌー犬ブックスという古本屋をやってます」という自己紹介をすると、たいていの場合「なんでカヌー犬?」と言われます。そんなときはとりあえず「本名がガクなんで」と答えているのですが、最近は分かってくれる人が少ない。昔は逆に「じゃ椎名誠のファンなんだ」と言われたりして、椎名誠の本と言えば、高校生の時に母親が記念だからと(なんの記念だ?)買ってきた「岳物語」しか読んでないわたしとしては、それはそれで返事に困ったものでしたが、「ガクだとなんでカヌー犬?」といわれるのもなんだか説明しづらい。