安藤鶴夫の本は、「昔・東京の町の売り声」や「あんつる君の便箋」、「年年歳歳」、「雪まろげ」、「ごぶ・ゆるね」‥‥など、タイトルを見ているだけで読みたくなってしまうものが多い。この本のタイトルとなった「おやじの女」は、安藤鶴夫がものごころついたときから死ぬときまで、父親に女の人がいなかったことはなくて、ときには堂々と家につれて泊めてみたり、母親とその女の人がお酒を飲んだりしていたことを書いた短い文章なのだが、なんてこともないさらりした文章に時代を感じたりもします。タイトルとしても、義太夫だった父親をとおして明治の芸人たちの生き方を、遠く昔に眺めているような感じがするような気がしていいな、と思う。ところで、原作:安藤鶴夫となっている松竹新喜劇の「おやじの女」は、この随筆が元になっているのだろうか。ほかに「おやじの女」という作品があるのだろうか。ちょっと気になります。
で、結局のところ、外に女の人を作るのも、本人にそれだけの器があるか、ということにつきるのか、単に時代や考え方が変わっただけなのか、どっちなのだろう。もちろん私にはそんな器はないけれど、器のない人間が無理をすると、どこかで破綻してしまうわけで、その破綻がどんな結果になるかは、そのときの運次第ということなのだろう。なんて、なんのことかといえば、ウディ・アレンの新作「マッチ・ポイント」の話だったりする。
元プロテニス・プレイヤーの主人公クリスが、ロンドンの上流階級であるトムと知り合ったことがきっかけとなり、その妹と結婚することになるのだが、クリスはトムの婚約者であるノラにひかれてしまう‥‥というこれ以上ないストレートなメロドラマ。これを新境地とみるかどうかで、この映画の見方が変わるのだろうけれど、個人的には、なんでこの映画をウディ・アレンが撮る必要が?という印象は否めないかな。もちろん上流階級の妻とアメリカ人女性を手玉に取るような器の主人公もどうかと思うけれど、ウディ・アレンの映画としては、そういう器がまったくない主人公が、なんだかんだといいながら都合よく立ち回って、結果的に手玉に取ってしまっているような、いないような‥‥という展開を期待してしまうのは、私のウディ・アレンに対する偏見か。