「小さな町」-小山清-

ようやくというか、今さらというかハーモニーグラスの「This Is Us」のCDを買いました。emレコードから出ているサマーワインもキャスタウェイズもソルト・ウォーター・タフィーの「Finders Keepers」のカバーが一曲目に収録されたトニー・リヴァースのCDも持っているのだけれど、なぜかハーモニーグラスだけは買っていなかったのです。このCDが出たのが1998年なので、気がつけば10年。よく廃盤にならなかったものだと思います。普通のメジャーなレコード会社から出ていたらとっくの昔に廃盤になっているんじゃないかな。
そんなわけで、前述のCDを全部iPod nanoに入れて、電車の中などでずっと聴いているのだけれど、トニー・リヴァースは、基本的にビーチボーイズフリークというか、コーラスも含めてかなりサウンド全体がアメリカ寄りだし、カバーも多いので、何枚も続けて聴いているとちょっとお腹いっぱいな気分になりますね。個人的には、コーラスだけでなく、メロディやサウンド全体に、もう少しトニー・リヴァースらしいさやイギリスっぽさがあるとうれしいのだけれど、まぁ基本作曲家ではなくて、ヴォーカリストだと思うので、その辺は仕方ないのかもしれません(よく分かりませんが。)。

その点、同じトニーでも、マコーレイのほうが(この人のカタカナ表記の仕方がわからん)、サウンド的には、A&M的なMOR(ってすご言い方だな)にもかかわらず、ちょっと曲を聴くだけでトニー・マコーレイだとわかるし、どことなくイギリスっぽさがあって好きかも。ファンデーションズの「Build Me Up Buttercup」や「Baby now that I’ve found you」、ペーパー・ドールズの「Something Here In My Heart」ピケティウィッチの「That Same Old Feeling」、フォーチューンズの「Here Comes That Rainy Day Feeling Again」、エジソン・ライトハウスの「Love Grow」‥‥などなど、一聴すると普通のポップなヒットソングなんだけれど、全然飽きないしね。
でも1960年代後半から1970年代初めにかけてのある意味ブリティッシュロック全盛の時期に、トニー・マコーレイやジョン・カーター、ロジャー・クック&ロジャー・グリーナウェイといった職業作家が、セッション・ヴォーカリストを中心にした実体のないセッショングループを作ってヒットを出していたということ自体が不思議な気もします。しかもモンキーズやアーチーズみたいに、最初からヒットを狙ってグループをでっち上げているという感じもあまりない。それはお国柄の違いか!?
そもそもフラワー・ポットメンが、どういう経緯で作られたのかいまいち分かりません。デモ?で、デモにしち出来過ぎてるからそのまま発売しちゃおう、てな感じで出した「Let’s Go To San Francisco」がヒットしちゃったので、気をよくしていろいろ作っちゃった~という感じなのか?適当。よく考えたら「Let’s Go To San Francisco」ってタイトルもすごいですよね。「そうだ、京都に行こう」みたいな‥‥「そうだ、サンフランシスコに行こう」。

「一本の道」-小林勇-

先日、会社帰りに古本屋さんに寄ったら、レジの横にアルバイト募集の張り紙がしてあって、応募条件のところに「大卒もしくは大学生」と書いてありました。どこの古本屋かは書かないけれど、大学に行かないと町の古本屋でも働けないのかーと思うと、ちょうどこの本を読んでいた時だったけに複雑。小学校卒の小林勇が代表取締役を勤めた岩波書店も、もちろん今では、そんなことはありえないだろう。そういえば、「文芸別冊 池波正太郎」にも、小学校卒で作家になったのは池波正太郎が最後になるのでは‥‥、と書いてあったっけ?
その小林勇の自伝。本を読みながら付箋を貼るような習慣がないので、改めて書き出そうとすると、きちんと思い出せないのだけれど、明治生まれの堅実でひたむきな生き方がにじみ出てます。出版社が、とりあえずタレントに本を書かせて儲かればいい、みたいな感じになってしまっている今、出版社に勤めているすべて人に読んで欲しいような、どうでもいいような‥‥なんてことを言える立場でもない。草思社の倒産とか見ていると、出版社も大変そうなので、こうなったらタレントでも何でもいいからめちゃくちゃ売れる本をいっぱい出してもらって、儲かったお金で、昔の優れた作家の本や、これから100年間読み継がれていくような新しい作家の本を出して欲しい‥‥なんてことも言える立場でもないです‥‥。

話は変わりますが、年末からずっと原田知世の「music & me」ばかり聴いてます。デビュー25周年記念、5年ぶりということで、過去の曲のセルフカバーがあったり、鈴木慶一、大貫妙子といったつながりのあった人たちが参加したりと過去を振り返る要素を入れつつ、プロデュースは伊藤ゴローで、高木正勝やキセルが曲を提供していたりとそのバランスがとてもいい。ずっと追いかけているわけではないけれど、原田知世は、そのときのサウンドを適度に取り入れつつ、でもマニアックにもならず、基本的には自分の声を活かすということに重点が置かれていて、あまりブレがない。「時をかける少女」をボサノヴァのリズムで再演するというありがちな手法も、原田知世が演るといいなと思ってしまうのは、単にわたしがファンだから、というだけではないと思う。

「文芸別冊 池波正太郎」

「鬼平犯科帳」の最後には、「人間というものは妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く。心をゆるし合う友をだまして、その心を傷つけまいとする」と妻に向かって鬼平が言い、この本のどこかで“ただ偉い人を書いてもおもしろくない。」みたいなことを言っていたような気がする(該当箇所が見つからず)。
でも、池波正太郎に関してはっきり言ってしまうと、欠点が見あたらないのが大きな欠点なんじゃないかと思う。池波正太郎のエッセイには、酔っぱらって醜態をさらすようなことも出てないし、一人で悶々と悩む姿もない。経歴的にも、親が離婚して苦労したことも出てこないし、戦時中、軍隊で嫌な目にあったということもないし、デビューするまでに苦労したということも出てこない。また脚本を書くだけでなく、演出もするし、原稿は締め切りの3日までにはきちんとできてるというし、絵もうまいし、料理もできる‥‥。そういう部分はあえて出す必要はなく、裏で努力するもの、と考えているのかもしれないけれど、読み手としてはなんだか堅苦しい気持ちになってしまう。人間なんてこうしたい、こうあるべきだ心がけていても、実際にはなかなかそうはいかないものじゃないだろうか。そういう意味で、わたしは、池波正太郎の「男の作法」よりも、山口瞳の「礼儀作法入門」が支持したい気持ちになってしまうのだ。

「温泉へ行こう」-山口瞳-

「未老先白頭」
1日に浅草寺に初詣に行ってことを前回書きましたが、その時に引いたおみくじに書かれていた言葉。「それ程の年令でもないのに白髪が目立つのは心労が多いためでしょう」という意味らしいです。大きなお世話です。そんなに白髪目立ってないぞー。というと苦労してないみたいでそれもちょっとどうなのか、という感じになってしまいますね。そもそもこれは占いの言葉として適当なのか?「今年は心労が多くて白髪が増えますよ」ってことなのかし知らん。それもそれでいやだなぁー。
だったら温泉でも行ってのんびりしようか、というわけではないけれど、去年はあまり山口瞳の本を読めなかったので、年の終わりくらい読んでおこうと思って、ストックしてあったこの本を年末から読んでみました。タイトル通り、西伊豆や由布院、奥鬼怒など、国内の温泉を巡る紀行文なのですが、「酔いどれ紀行」や「湖沼学入門」といった紀行文のように珍道中というわけではなくて、多少のトラブルはあるにしても、大筋ではつつがなく旅が終わります。まぁ物足りないと言えば物足りない。どことなく「仕事ではあるけれど、山口先生の体調が悪いので、すこしゆっくりしてもらおう」という編集者(スバル君)の心づかいも見え隠れするような気もします。実際、この「温泉へ行こう」の単行本が出たのは1985年12月、山口瞳が“還暦老人”と称して絶筆宣言をした年でもあるのだ。

さて、今日で年末年始のお休みもおしまい。朝ゆっくり起きて、日の出ている頃は家にいて、夕方から出かけることが多かったので、なんとなくだらだらとしているうちに、三が日が過ぎて、気がついたら普通の週末しかお休みが残ってなくて、明日からは仕事始め、みたいな気がするけれど、うちで新年会をやったり、友だちのうちに遊びに行ったり、実家に帰ったり‥‥、よく考えれば、忙しくはないけれど、休みが長いだけにいろいろ遊んだな、という気はします。「遊んだな」というより、「よく食べて、よく飲んだな」の方が正しいのだけど‥‥。お正月というのはそういうものかねぇ~。

「残夢三昧」-内田百けん-

あけましておめでとうございます。今年もカヌー犬ブックスをよろしくお願いします。
年が明ける前にこの雑記のまとめをしておこうと思っていたのですが、年末は九段下ビルで行われていたカウントダウンのイベントに行ったり(カウントダウンといっても29日)、大掃除したり(30日)、大晦日は吉祥寺でちょっと買い物をして、夕方からのんびりしつつ、夜は近くの銭湯に行って、ワインを飲みながらぼんやりとテレビを見ているうちにジャーニーズカウントダウンになっていて、気がついたら年が明けてました。そんなわけでざっと数えてみたら、昨年は69冊でした。一番多かったのは、やはり内田百けんで13冊(今回を含めると14ですか)、次が山口瞳で7冊、あとは1~3冊くらいが続いているという感じですね。今年は大佛次郎の現代物と随筆を読みたいというのと、自分にとって新しい作家との出会いがあるといいなという感じです。

さて、新年になって、浅草に初詣に行って来ました。出かけた時間が遅かったので、落語を聞いたりということはもちろんできなくて、浅草に着いてすぐに天国でお茶して、お詣りしただけで帰ってきました。元旦の渋谷はすいてていいな。
天国は、伝法院通りを歩いていったところにあるホットケーキやホットボッグが主なメニューの小さなかわいい喫茶店。前に浅草に行った時に見つけて、それ以来行きたいな、とは思っていたのですが、行く機会がなかったので、ちょうど店内から人が出てきたタイミングで入れてうれしい。ちなみにディモンシュの店長、堀内隆志さんも前にABCで行われたトークショーの時に、「トークショーの前に浅草にある天国でホットケーキを食べてきました」と言ってました。店の様子もいい感じですが、コーヒーカップやコーヒー豆からピンバッジ、帽子などお店のオリジナルグッズがたくさんあったり(わたしもカヌー犬ブックスグッズ作りたいー。そもそもロゴもキャラも決めってませんが‥‥)、包装紙がかわいかったり、大滝詠一や南佳孝、EPOといった曲がBGMで流れていたりしていて、お店の人に親近感を覚えてしまいます。
でも浅草に行く機会もそんなにないし、浅草にはアンジェラスを含めていい雰囲気の喫茶店がいっぱいあるし、次に行けるのはいつになるのかなぁー。

「今日の雪」-大佛次郎-

7月くらいに買ったものの、さすがに真夏に「今日の雪」を読むのもなぁと思って、冬が来るまで寝かせておいた本。内容のほうは「飛騨の朝市」「散歩について」「物を書く話」など身近な出来事やどこかに旅行に出た時の話、ビートルズ来日公演の見物記である「ビートルズを見た」など、特に“冬”とは関係はない随筆集。ちなみにタイトルは、“フォランソア・ヴィヨン以後用いられているという「昨日の雪」の反語”とのことです。“フォランソア・ヴィヨン以後用いられている”という意味がわたしにはわかりませんが。

私が持っているジャクソンファイブのベスト盤が、クリスマスソングから始まるせいか、12月に入ってからは何年かぶりにモータウン→ノーザンソウルばかり聴いてます。といっても7インチを集めるようなマニアではなし、そもそも個々のアルバムさえ買わずにベスト盤とコンピですましているだけですけど‥‥。でも、例えばコンピ10枚分、約250曲のノーザンソウルのシングルを手に入れるために、どれだけ手間とお金がかかるかと思うと、私のような自分内ブームを追いかけているような人間には手が出ません。基本的にはKENTとかGoldmineから出ているコンピを買っているだけなのですが、思ったよりも簡単に手に入らないです。イギリス盤だから新品は割と高かったりするし‥‥。新宿ユニオンのソウル館とか行くとぜんぜん違うんでしょうけどね。パレードが終わって一年以上経つけれど、久しぶりにノーザンがかかるようなイベントに行きたくなります。
今年もそんな風に無節操にCDを買ってました。だいたい月に10枚~12枚くらいCDを買っている感じなので、年に100枚くらいですかね。その中から特によく聴いたものと言えば、まずは、去年の終わりに出たスペシャル・アザーズの「Good Morning」。これはコーネリアスやToeのアルバムと合わせて聴いてましたね。珍しく過去のミニアルバムもほぼ一気にほぼそろえてしまったし、ライブにも行ったし、かなり聴き込んだグループかもしれません。でもポストロック系、ジャムバンド系のインストは、定期的に聴きたくなるけれど、結局、何を聴いたらいいのか分からなくて意外ときちんと聴き進めていくことがないですね。
それからThe Viewの「Hats Off to the Buskers」。これがきっかけになって、今年は10年ぶりくらいにUKロックに夢中になりました。ある意味、十代のくせにまとまっているなーとも思えるけれど、メロディもサウンドもストレートで、変にマニアックな感じがしないのがいい。あ~ライブにも行きたかった~。
あまり期待していなかったハーフビーの「SIDE FARMERS」もよく聴いた一枚。この手の人はアルバムを重ねると、結局、4つ打ち、女性ヴォーカルみたいな形式に固まってきたりしてつまらなくなるものだけれど、サンプリングの仕方や曲の作り方がいい意味でこなれてきて、聴きやすくて完成度の高いポップスのアルバムになったと思う。
夏の終わりに聴いていたEpstein & El Conjuntoの「Canto de Hermanos」は、前にも書いたようにタワーレコードで偶然試聴して気に入ったCD。この辺のラテン系移民によるブレイクビーツももっと聴きたかったけれど、これ1枚で終わってしまいましたね。
10月、11月は生まれて初めてピアノトリオ(ヨーロッパジャズ限定)にはまったりしていたのですが、そのきっかけとなったのがウォルフガング・ダウナーの「Music Zounds」。ウォルフガング・ダウナーといえばシタールが入った「The Oimels」が有名ですが、こちらはすべてトリオの演奏。ちょっと軽るめのピアノの音と、グルーヴィーとかブルージーな要素がほとんどないライトタッチのノリのよさがなんとなく新鮮でした。ピアノトリオではスティーヴ・キューンの「Watch What Happens」もよく聴きました。で、ついECMまで手を伸ばしたくなってみたりして‥‥

「蜜蜂が降る」-尾崎一雄-

20%OFFセールも終わってなんとなく今年も終わりという雰囲気ですね。あとは、いつもどおりマイペースに本を更新していくだけか。雑記も久しぶり。20%OFFセールでいつもより少しだけ忙しかったということもあるけれど、単に忘年会やらなんやらで飲んで帰ることが多かったことが大きい。前に飲んで帰ってきて発送作業をしたら、間違えて違う本を送ってしまったことがあって、それ以来、飲んで帰った日は基本的に発送作業などはしないようにしているので、飲まない日に発送作業がたまってしまい、雑記どころではなかったのです。とはいうものの私は営業職ではないので、取引先やクライアントなどの飲みはあまりないし、言うほど飲んでもいないんですけどね‥‥。
そんな毎日を送っているせいで、あまり本も読んでませんが、これから31日にかけていろいろ今年を振り返ってみたいと思います。年々一年が短くなっていく中で、振り返るものがなくなっているような気もしないでもないし、やり残したこともあるような、ないような‥‥。いや、「今年はこれをやりたいなぁ」なんてこともここ数年は考えたこともないので、そもそも“やり残し”なんてものは存在しないわけで‥‥。なんてことをぐだぐだと書きつつ今回は予告だけ。

‥‥というのもなんなので、備忘録として。
デビュー40周年を記念して八王子夢美術館で行われている「林静一展」とそれに合わせて行われた「林静一展 トークショー」に、週末、行ってきました。林静一と言えば、有名なのはやはり小梅ちゃんか「赤色エレジー」。そんなわけで、展覧会の方も、女性の絵を中心にイラストレーションや漫画、日本画などが展示されており、ちらしに書かれていた「現代の竹久夢二」という内容。わたしは「ガロ」とか読んでいないので、「赤色エレジー」よりも、「僕は天使ぢゃないよ」やはっぴいえんどのファーストアルバムの印象が強いですね。あのゆでめんのジャケットの絵が「赤色エレジー」一場面ということも初めて知ったくらいです(オリジナルだと思ってました)。
トークショーは、最近出版された作品「夢枕」が、夏目漱石の「草枕」を下敷きにしたものだったり、美術史を語った部分が大きいことから、林静一、夏目房之介、山下裕二、湯浅学というメンバーで、どの出演者も「俺は、俺は」といった、どちらかというと押しが強い雰囲気もありましたが、話の内容としてはおもしろかったです。話しすぎて時間が過ぎてしまい、質問コーナーとかなかったし‥‥。あの質問コーナーって自分が何か質問するわけではないけれど、「えーそんな質問しちゃうの~」とか「そもそも質問の意味がわかんないよ~」みたいな質問があったりして、なんとなくドキドキしちゃうんですよね~。
「林静一展1967~2007」は、2008年2月3日(日)まで。「林静一・浜田真理子 上映会&ライブ」「原マスミ ライブ」などのイベントもあります。八王子夢美術館は、八王子駅からけっこう歩くけどあるので、冬はつらい。

「蜻蛉玉」-内田百けん-

さて、内田百けん集成も後半に突入。

1日は映画の日、しかも土曜日。ということで、ウディ・アレンの新作「タロットカード殺人事件」を観ました。個人的にはウディ・アレン作品としてはいまいちだった前作の「マッチポイント」同様、スカーレット・ヨハンソン主演でイギリス撮影なので、ちょっと心配していたのだけれど、ウディ・アレンが出ているだけあって、いつもの軽快なコメディタッチのミステリーになっていてほっとしました。もうウディ・アレンが画面に出てきてちょこまかと動き回って、おもしろいんだかおもしろくないんだかわからないユダヤをネタにしたギャグを連発して、周りの人を困惑させている様子が出てくるだけでOKです。欲を言えば、「カイロと紫のバラ」みたいな作品を最後に撮ってほしい。

映画の日なので、たまには2本くらい映画を観たいと思いつつも、特に観たいものもなく、家に帰って「アタゴオルは猫の森」をテレビで見る。去年、ガーデンシネマで予告を見たときは、「アタゴオル」なのにCGっぽいアニメはないよなとか、音楽、石井竜也かよとか、不安要素がありすぎて見に行く気になれなかったのだけど、結果としては見に行かなくてよかったです。もうね、最初の石井竜也をモデルにした人がお祭りで歌っているところからダメ。ストーリーもなんだかな~という感じだしね。先日、「ますむらひろしの世界展」に行ったときに、会場で流れていたビデオが「銀河鉄道の夜」だったのがうなずけました。

続いて「進め!ジャガーズ 敵前上陸」「ザ・タイガース 華やかなる招待」「ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを」と、GS映画を3連チャンで、いろいろやりながら横目で見る。ジャガーズの映画は、中原弓彦が脚本を書いているだけあって、なんとなくモンキーズのテレビシリーズを思い浮かべてしまいそうなめちゃくちゃなコメディ。今度放送されたらちゃんと見直したい。そのあとは、タイガース→テンプターズと進むに従って、だんだん話が湿っぽくなっていくのがどうもね‥‥。タイガースは「世界はボクらを待っている」の方を見てみたいかな。

「ア・ピース・オブ・ヘブン」-蜷川実花-

気がつけば週の真ん中。
先日、世田谷文学館でやっていた植草甚一の展覧会に、終了間際駆け込みで行って来ました。会場はそれほど大きなところではありませんが、植草甚一の幅広い仕事(趣味?)をコンパクトにポイントを抑えて展示してあって、思っていたよりもいい展覧会でした。もっともそんな風に思えるのは、個人的に、植草甚一を追っかけていたころから、かなり時間が経ってしまっているからなんだと思います。もし夢中になっている頃だったら、物足りない部分やもっと自分を知らない部分を求めてしまっただろうしね。
まぁ、植草甚一の展覧会を、世田谷文学館でやる、ということに大きな意味があるような、ないような‥‥。

で、改めて植草甚一が選んだものを見てみたら、どの分野に関しても選ぶ基準がはっきりしていることと、かなり真っ当なセレクトをしていることにに気がつきました。特に音楽に関しては、過去のさまざまなジャンルのお墓を掘りおこし尽くしたピチカート・ファイヴ→サバービア→モンド・ミュージックを通り抜けたあとだけに、植草甚一のこだわりがより目立つました。
あとは手紙やノートなどの私物を見られたことがよかったです。私物や私信であっても、どれも丁寧にきちんと書かれていたり、作られていたりして、昼間は神保町などを歩き回り、夜は映画を観て、帰ってきてこんなものをコツコツと作っていたとすると、この人は一体いつ寝てたんだろうという疑問が頭を離れません。あー、お酒飲まないから?いや知らないけど、あまりお酒のこと書いないような気がするし‥‥。

「シェリー酒と楓の葉」-庄野潤三-

庄野潤三が1957年秋から翌58年夏まで、米国オハイオ州ガンビアのケニオンカレッジに留学していたときのことを、後年、そのときの日記を見ながらつづったエッセイ集。
ガンビアのシリーズとしては、留学生活の前半を描いた「ガンビア滞在記」が1959年、その19年後、1978年にこの「シェリー酒と楓の葉」、後半を描いた「懐かしきオハイオ」は、さらに10年以上経った1989年という長いスパンで発表されています。なんとなく「ガンビア滞在記」など読んだようなエピソードがあるような気がするけれど、そんな気がするだけで、実際はどうなのかわかりません。でも今になると、さらさらと三冊続けて読むこともできますが、リアルタイムで庄野潤三の本を読んでいた人にとっては(もしくは庄野潤三本ににとっては)、ほんとに忘れられた頃に届けられる(書き始める)、という感じだったのだろうから、ある程度、エピソードを重ねることによって、前のエピソードを思い出してもらうという意味合いがあったのかもしれません。

週末は、古今亭駿菊独演会を見に鈴本演芸場に行ってきました。駿菊さんは、真打ちになった6年(くらい)前から、毎年秋になると独演会を開いてます。ここ3年くらいは毎年見に行っているので、駿菊さんの落語を聞くともう今年も終わるなぁ~と思う。で、お正月くらいまでは、なんとなくまた落語でも聞きに行こうかとか、初詣は浅草にして帰りに浅草演芸ホールに寄ってみようか、なんて気分になるのけれど、実際に行くことはあまりない。今回は土曜だったせいもあって会場前から列ができ、開演時にはほぼ満席という盛況ぶり。こう言ってはなんだけれど、駿菊さん以外には特に有名な人も出ていないのにね。前座に出ていたのは、ミオ犬に記憶によると去年、座布団をひっくり返したりしていた人だったらしく、客席も暖かく見守るといった感じで、こういう人が、だんだんとうまくなって、やがては真打ちになったりするのを見るのも落語の楽しみなのかもしれないと思う。でも、それだけに駿菊さんが話し始めると、話に引き込まれてしまい、改めて駿菊さんの話のうまさを実感しました。特に2つ目の「宗珉の滝」は、人情話なので大きな笑いはない。それにもかかわらず、駿菊さんの身振り・手振り、手ぬぐい、扇子といった小道具だけで、観客を引きつける様子を見ていると、普段、“落語=笑い”のイメージを抱きがちだけれど、実は、落語のおもしろさはその話芸にあって、その中の一つの要素して“笑い”があるのだな、と思ってしまう。いや適当。

落語を“話芸”とするならば、小説は“文芸”って、あらら、そのまんま。小説の場合は、“文章”自体で引きつけるか、“物語”で引きつけるかという2つの選択肢があって、庄野潤三は間違いなく前者。でも、個人的には、昔ほど庄野潤三の文章に引きつけられるということがなくなってるので、前者の代表に選ぶのはちょっと‥‥という気はする。クセはないし、読みやすいんですけどね。