「東京の小さな喫茶店」-常盤新平-

気がつけば前回書いてから一週間経ってしまってました。はやいねぇ。

常盤新平の本は高校生の頃よく読んでいました。多分、海外文学の本を選ぶ基準として初めて意識した翻訳家かもしれません。でも翻訳家として有名な割には作品としてはアーウィン・ショーと「大雪のニューヨークを歩くには」くらいしか思い浮かばないんですけどね。それよりも20年代のアメリカや「ニューヨーカー」についてなどのエッセイのほうが記憶に残ってます。

「東京の小さな喫茶店」は、彼がむかし通った喫茶店の思い出をつづったもの。私は行ったことのない喫茶店ばかり、そして今ではなくなってしまったお店もたくさん出てくるだけれど有名なお店なのでしょうか。よく分かりません。でも基本的に彼がその店にかよっていた頃の喫茶店での(あるいは自身に起きた)出来事や喫茶店の店長の話(喫茶店をはじめたきっかけとか、どんなふうに、どんな気持ちで喫茶店を営んでいたとかなど)が中心となっているので、そのお店自体を知らなくても楽しめます。

私は彼のように自由業ではないので気が向いたらとか気分転換にちょっとコーヒーを飲みに行く、なんてことはできないけれど、朝、会社に行く前の30分だったり、お昼休みだったり、会社を出て家に帰るまでのあいだだったり、一日のうちで一回でいいからそういう自分の気持ちをリセットできるような時間があればいいと思います。今のところそれは家に帰ってご飯を食べた後、ゆっくりとコーヒーを淹れる時間になるのかな。自分でゆっくりお湯を落としていくときが好きなんで、ただコーヒーを飲むというよりその前に淹れるというのが私にとっては大切だったりします。

「ku:nel」(創刊2号)

昔は一つの雑誌を好きになると内容も見ずに発売日になると本屋に行って、もしそれがあまりおもしろくなかったとしても「次に期待」という感じで雑誌を買っていました。でもいつのまにか毎月絶対買うという雑誌もなくなってしまってなんだか寂しいような、「いや欲しい雑誌がないのが悪いのよ」となかば開き直りのような態度をとってます。
そういえば「Relax for girls」の新しい号も買ってないですね。

そんなわけでこの「ku:nel」も「どうしようかなぁ」と思いながら本屋に寄ってみたのですが、表紙の「コーヒーはいかが?」という文字を見て即買い、です。
「ku:nel」は今の、新しいことが載っているわけではないので、その辺がちょっと雑誌として物足りない。別に流行を知りたいなんてことは思わないし、そういう生活を送っているわけでもないんだけれど、2003年の今を生きているからには、一応はおもしろい音楽や映画、本、場所、遊びを知っておきたいじゃないですか。「ku:nel」は雑誌と言うよりちょっとした暮らしに関する本、という感じで読んでます。

今日は神田でやっている「エフェメラ・マーケット」に行って来ました。ミオ犬は神田に行くと聞いて「また古本屋につきあわされるのか」と思っていたらしい。神田の古本街は神田駅じゃなくて神保町です。ってこの前神保町に行ったばかりじゃないですか。ねぇ。
スノードームも売っていていろいろ欲しかったけれど、フローティングペンだけ購入。最近フローティングペンをよく買ってます。だってスノードームを置く場所がないんだもん。なにせ狭い部屋なので・・・・。

「僕は散歩と雑学が好き」-植草甚一-

「コラージュ日記」が発売されているせいもあって、最近また植草甚一の本を読み返してみようかなぁ、なんて思っているのだけれど、10代や20代の頃に聴いて置くべき音楽や読んでおくべき本、観ておくべき映画・・・・というものがやっぱりあって、植草甚一の本は私にとってそれにあたっていて、30代半ばにして植草甚一の本を読みふけるというのは健全でない気がしてしまう。あの知識の多さや生き方はどう考えても若い頃に憧れるものだと思う。それを30過ぎまで引きずってしまうのはどうなんだろう。かといってノスタルジックな気分で読むのも納得がいかないし・・・・なんてことを考えて迷ってるところ。

さて、スクラップブックのシリーズが実家に起きっぱなしになってしまっているので(しかもどこにしまわれているのかまったく分からない状態)、きちんと一冊読むのは本当に久しぶり。何年か前に「ワンダーランド」を読み直して途中でやめたのは、そういうなんでも気になるものを買って、調べて、それをそのまま書くというスタイルに読んでいて疲れてしまったからだけれど、今回読んでみてもその印象はあまり変わらなくて、そんな中で植草甚一の日常がちらりとうかがえる文章が出てきたりするとすこしほっとします。

初めて読んだ当時は実際はなんのことだかよく分からなかったりした作家の名前が分かるようになっていたり、リバイバル上映された映画が出てきたりするは、素直にうれしいような、「歳とったからなぁ」という気分だったりなんとも言えない気持ちになってしまうね。

「空飛ぶ絨毯」-堀内誠一-

このところ暇さえあれば古本屋に寄っているという感じなので(昔からか?)、ネットで本を注文することもなかったのだけれど、欲しい本があったのでいくつか注文してみました。やっぱり欲しい本が決まっているときはネットは便利ですね。

この本は、1980年代にananで連載していた旅行記を彼の死後にまとめたもので、ギリシアや東ドイツ、メキシコ、ソビエトなどの街の様子やスーベニールなどが紹介されています。そのときの気分なのでしょうかそれぞれの国によって絵のタッチが違うのがとても楽しい。
というよりも僕は絵や写真がたくさん入った旅行記が好きなのです。平野恵理子の「ハワイ島アロハ通信」、岡尾美代子「Land Land Land」、三枝克之の「旅のカケラ―パリ・コラージュ」、スコスステーショナリーズカフェの「文房具と旅をしよう」など、家でちょっと暇を持てあまりたりすると本棚から取り出しては、「どこかに行きたいなぁ」なんて気持ちになっています。といってもそれほど旅行好きというわけでもないんですけど・・・・。

「カフェの話」

カフェブームというものがいつから始まったのか、そしてもう終わってるのか、続いてるのか、よく分かりませんが、2000年に発行されたこの本を読んでいると「ブームの前から」という言葉が何回も出てきて、特に感慨もないけれど「ブームだったんだなぁ」と思ってしまいます。そういえばこの本を前後していくつもカフェの本が出たものだけれど、最近はあまり話題にならないような気がしますね。単にチェックしてないだけかな。

この「カフェの話」は、単にカフェの紹介という感じではなく、店長へのインタビューが中心になっているので、発行された当時からいつか買おうと思っていました。かなり売れたらしく古本屋さんに行くと1000円くらいで必ず売っていたのだけど、そうなると500円以下じゃないと、なんて思ったりしてなかなか買えないまま先日中目黒のブックオフで100円で売られているのを発見。100円だけにちょっとくたびれているけどまぁいいかな、と。

ブームといえば最近はだいたい行くところも決まってきて新しいカフェとか行ってないですね。行きたいなぁと思うところはあるけれど、ちょっと遠かったりしてわざわざそのために、という感じ。なんだかんだいっても自分の家の近くとか、よく遊びに行く場所で寄りやすいところにあるとかでないと、例え行ったとしても一回だけだったりするし、それじゃものたりないというか意味がないような気がします。

「男性自身 おかしな話」-山口瞳-

前の会社で仲の良かった人が会社を辞めることになったので、金曜日の夜に送別会に行って来ました。30人弱の小さな会社なのですが、送別会に出席した人数は27人。その内半数近くがすでに辞めてしまった人という状態。来れない人からは電話があったりして「変わんないなぁ」なんて思いながら久しぶりに酒を飲みつつ、「●●(会社名ね)はこれからこういう方向で進んでいくべき」とか「どういう風に仕事をするべき」とか「Webのデザインはどうあるべきか」なんてことをもう辞めてしまった人たちどうしで話したりして、よく考えるとなんだか変な光景でした。
変わったことといえば11時になった途端にみんな帰り支度をし始めたところかな。飲んだら早くても終電、毎回4、5人は朝まで、という感じだったのでちょっと「遠いんで帰りまーす」という現役組と「えっもう帰るの?」という退職組のギャップがおかしいかったです。

今週末は結婚式&休日出社と休んだ気がしません。先週3連休&有給で一日休み(=会社に行ったのは3日)だったので今週は一週間が長そうです。

「男性自身 素朴な画家の一日」-山口瞳-

山口瞳の本は、電車の中はもちろんちょっとした時間ができるたびにちょこちょこ読んでいって、まだ何冊もあるしね、なんて思いつつすぐに読んでしまいます。といっているうちに文庫本を読み尽くしてしまうのかな。

連休の最終日は小雨の中、ユトレヒトでやっている「柳原良平の装丁」展を見てきました。もちろん山口瞳の本もあったけれど、それ以外に開高健や遠藤周作、三島由紀夫(ちょっと意外でした)などの本がたくさんあってコレクションしたくなる気持ちを抑えるのがたいへんでした。そもそも私は文庫本しか持っていないんですけどね。とりあえず「柳原良平の装丁」という本が出るそうなのでそれで我慢しよう。
ユトレヒトには「植草甚一コラージュ日記」の発売記念ということで植草甚一の本が並べられたコーナーもあり、あいかわらず植草甚一人気も続いているんだなぁ、なんて人ごとのように思いつつ、実は最近ちょっと実家に置いてある「スクラップシリーズ」を読み返してみようと思っているのです。実家のどこにしまわれてしまっているんでしょうねぇ。

そんなふうに新しく入荷された絵本を眺め、料理についての本をパラパラとめくりチェックし、レジ前になにかおもしろうそうな雑貨がないか、ポストカートが置いていないか見て、でもなにも買わずに出てしまう私ってお店にとってはどうなんでしょう。実際、代官山に行ったときにはたいていここに寄るけれど、今までに買ったものって柳原良平のピンバッジぐらいだったりします。

「私の浅草」-沢村貞子-

私は別に懐古的ではないと思うけれど、年末が近づく頃になると日本的な文章が読みたくなってしまい、20代の頃でも普段はアメリカやラテンアメリカの作家の本ばかり読んでいるのに、12月になると池波正太郎の本ばかり読んでいました。この「私の浅草」もその頃から読みたかった本で、でも「暮らしの手帖」+「昔の浅草」+「沢村貞子」というストレートな組み合わせが恥ずかしくて買うことができませんでした。

今でもその直球さがどこか居心地が悪い気もするけれど、あんまり気にしないことにしよう。この本で描かれるのは沢村貞子が子供だった頃の浅草で暮らす人々なんですけれど、彼女の目に映る大人たち(特に女性ですね)はどこか哀しい。
子供なので実際に何が理由なのかはっきりと分からないけれど、でも大人たちの哀しげな表情やしぐさが妙に心に残ってるってことがあると思うのですが、そのもどかしい中の悲しさと今はもうない浅草の風景が混ざり合って、思っておいなかった感情が本から醸し出されてくるようです。

強引な話ですけれど、本にはいっぺんに読んでしまわない理解できない本と、ゆっくり読むことでその間に行間から文章からすぐに読みとれなかった感情が浮き出てくる本があると思うのだけれど、この本は明らかに後者です。どちらがいいというわけではないけどね。
あぁいっぺんに読んでしまって失敗した!

「最低で最高の本屋」-松浦弥太郎-

休日に遊びに行くちょっと前だとか寝る寸前の時間とかに少しずつ読んでいた「最低で最高の本屋」が読み終わってしまった。基本的に読みやすい文章だし、それほど厚い本でもないので一気に読んだらすぐに読めてしまうのだろうけれど、なんだかすぐに読んでしまうのがもったいないという気分になってしまうのはなんでなのでしょうか?

私は特に松浦弥太郎のファンというわけではなく、COW BOOKSに行ってもただ見るだけで本を買うようなことはないけれど、松浦弥太郎の文章を読んでいると、ちょっとだけでもきちんと地面に足をつけて生活しなくちゃなぁ、という気持ちになります。そしてそれが押しつけがましくはなく、自然に素直に思えてしまうところが彼のいいところなんだろうな、と思います。

「早春」-庄野潤三-

庄野潤三が奥さんと神戸を訪ね、市内を歩いたり、食事をしたり、さまざまなところを見物したりするという内容で、これといったストーリーはなく作者が私の「神戸物語」というように、同行する芦屋に住む妻の叔父夫妻と、作者の大阪外語学校時代の同級生で新聞社を停年退職したばかりの生粋の神戸っ子・太地一郎、作者の米国留学が縁でその息子たちと知り合った香港出身の貿易商の郭さん夫妻に証言を織り込んだ神戸案内と言えます。なのでそれぞれにとっての神戸であり、全体的なテーマなどがあるわけではありません。

私は生まれも育ちも神奈川だし、神戸には旅行で2、3回ぐらい行ったことがあるだけなので、ここに出てくる神戸の風景になじみはないし、特に現在(1980年当時)と過去(戦前、戦後)の情景が混じり合うのでついていけない部分もあるけれど、ある日本の都市(まぁ神戸なんですけど)における明治からの個人史という感じでとらえるとおもしろいと思います。