「黒いハンカチ」-小沼丹-

小沼丹の本は以前ランカウイ島に行ったときに、「小さな手袋」や「懐中時計」など講談社文芸文庫から出ているものを集めて持っていって、空港や飛行機の中、ホテルの部屋やプールサイドで読み続けたのだけれど、小沼丹の本は手に入りにくいだけにいっぺんに読んでしまうのはもったいなかったな、という気もするし、あれは贅沢な時間だったという気もする。
で、最近になって新刊として出ていることを知ったこの作品はなんと推理小説。といってもそれほど深刻でないところがこの人らしい。推理よりも登場人物の性格や行動に重点が置かれています。

話は変わって、うちの会社は禁煙なので3階のテラスでたばこをすっていて、私はたいてい午前中は10時半くらい、午後は3時くらいと5時前くらいに、たばこをすいに外にでます。ついこの間までは5時になると外は真っ暗だったものですが、最近は明るくなってきましたね。まぁ寒いことは寒い。コートを着ていくわけにもいかないので、ほんとたばこ一本分くらいしか外にはいられない感じです。
小学生の頃、夏至は6月なのに暑いのは8月で、冬至は12月なのに寒いのは2月なのはなぜなんだろうと思ったことなどを思い出しながらたばこを吸ってます。今考えると「日照時間が長い」=「暑い」とならないことは明らかなんですけどね。そうじゃないとフォンランドの夏は猛暑になってしまうわけで・・・・。

「いつか王子駅で」-堀江敏幸-

週末はなんかだらだら過ごしてしまったなぁ、という感じなのだけれど、相変わらず歩き回ったのでなんとなく筋肉痛気味で今週もスタート。

2月にはいると春を待つ季節という気分を盛り上げようと週末は久しぶりにソフトロックのレコードを買ってみたりしたのだけど、やはり寒い。そして久しぶりにレコードをのせられたプレーヤーは機嫌が悪いのか回転が一定してなくて音がゆがんでしまって気持ち悪い。そろそろ新しいレコードプレーヤーが欲しいなぁと思い始めてもう一年くらいたっているのだけれどまだ買っていないのは、少しのあいだ回しておくと回転が安定してきて普通に使えるのと、電気屋をちょっとのぞいてみただけだが、どうも私が思う手ごろなレコードプレーヤーが売っていないせい。テクニクスとかのDJ仕様か1万円くらいの安っぽい感じのものしかないのはどうしたものだろう。別にDJ仕様のがっちりとしたプレーヤーなんていらないし、(というかうちの棚には大きすぎる)かといっておもちゃみたいのはすぐ壊れるような気がして買う気になりません。2~3万くらいで、いや値段よりもコンパクトでしかもきちんとした作りのレコードプレーヤーってないものだろうか。そういう需要はないのだろうか。

「流れ藻」-庄野潤三-

金曜日は会社が終わってから大森で新年会。8時待ち合わせ。残業はしない予定なので6時過ぎに会社を出れば大森近辺で1時間くらいのんびりできるかな、駅前に古本屋とかないかな、お茶する時間はないだろうけどいい感じの喫茶店とかあるかな、事前にネットでいろいろ調べなくちゃね、などと思いつつ週の真ん中を過ごしてきたのだが、こういう日に限ってめずらしく6時から来客、打ち合わせ。結局、遅刻。
場所は、その日のメンバーのひとりの奥さんの実家がやっている南九州というお店。日本酒や焼酎が充実している居酒屋なのだが、私は隣の人の頼んだものをちょっと飲むだけでいつものようにビールを飲んでました。

その後はみんなそのまま友達の行っていたけれど、私はおとなしく帰宅。スーツで友達のうちに行くのはねぇ。なんだか落ち着かないような気が・・・・するんだよねぇ。

「どこ吹く風」-山口瞳-

「どこ吹く風」というのは、ここに出てくる女の人たちをさしているのではないか、という高橋呉郎の解説での言葉が本を読み進めるうちに胸に重くのしかかってくるような短編集。

登場してくる男たちはたいてい会社の部長だったり、近いうちに役員になるような状況の人だったり、若いのに実力(ってなんだ?)で係長になっていたりするのだけれど、会議で説得力のある話し方を学ぶためにテレビの解説番組を欠かさず見たり、宴会の時のために日本舞踊を習ったり、学生時代にやっていた競歩の練習と称して1時間かけて愛人の家に通ったり、だれもがどこか哀しく、滑稽で、しかも最終的にはそうした努力はあまり報われず、左遷されたり、会社を辞めることになったりする(それで「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」というわけだ)。それに比べて女たちは堂々としていて、しかもしたたかだ。
所詮、男たちは女たちを養うために、せこせこと働かされているということなのだろうか。

この本が出てからもう30年経っているわけだが、現在でも男たちはこうした傍目から冷静にみると滑稽な世界で、本気になって生きているのかな。私自分では気がつかないままにもそんな中のひとりになっているだろうかね。

「ku:nel」(Vol.6/2004.3.1)

「ku:nel」は、号を追うごとに「都会を離れて田舎でのんびり暮らそう」みたいな雑誌になっていくような気がします。確かに東京で自分のペースで暮らしてる人ってそんなにいないのだろう。ここに出てくる人もたいていがフリーで、しかも雑誌の性格上女の人がほとんどだ。
この雑誌と山口瞳のサラリーマン小説を交互に読んでいるとなんだか変な気分になる。片方は久保田万次郎の「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」に対して「なにがイロハニホヘトだよ、俺たちのイロハニホヘトは、どうもすこし、どぎつすぎるようだな」とつぶやく物語だもの(これだけじゃ全然わからない?)。
会社員でありながら自分のペースで暮らしてくなってことは所詮不可能なのかな、と通勤途中に半分眠りかけた状態で思ってみたりして・・・・。

ところで私はたいてい金曜日になると古本屋とかレコード屋など寄り道して会社から帰ってくるのだけれど、今週は金曜日に飲む予定だし今日はミオ犬が飲みに行っているので、ちょっと吉祥寺に出てみて久しぶりにアナログ盤を買ってみたりした。ついでにずっと気になっていたタオルかけを直そうと思って金具を買ってサクッと帰る。

うちにあるタオルかけは、2、3年前にマーガレットハウエルのお店で見かけたものをまねて作ったのだが、強度が弱くてガタガタしていたのです。金具を使わずにほぞを組むべきところを釘でごまかしたのがいけない。一応、穴は埋めたんだけどね。でもあまりにもゆらゆらしてしまうので背に腹はかえられずL字でおさえてしまいました。みかけはあまり良くないけど、タオルをかけてもきっちりとしているので満足です。

「雑文集 ネクタイの幅」-永井龍男-

表題の「ネクタイの幅」は、普段スーツを着る機会のない永井龍男が、たまに背広を着て出かけると「そのネクタイいいですね」とほめられる。でもそのネクタイはもう20年も前から使っているもの。それをあまりにもそれをほめられるので、ちょっと恥ずかしい気分になってしまう。
だから次に背広を着るときのために、新しいネクタイを買おうとするのだけれど、どのネクタイもどうも幅が太いような気がするし、長さも長いような気がする。友人の末息子にこれでいいのか聞いてみてもどうもすっきりしない、といった内容。

私も30をなかばにして初めてスーツを着て会社に通うようになって、毎朝ネクタイを締めるたびに「長いんじゃないかなぁ」と思ってしまう。
とりあえずスーツの下からネクタイが出てしまうのはOKなのでしょうか?ほかの人を観察しているわけではないのでよく分からないけれど、私のばあいほとんどの場合出てます。中にはどんなに細い方と長さを合わせてもズボンのチャックの真ん中ぐらいまで届きそうなものもあったりする。私の身長は168cmなので、特に背が低いってわけでもないと思うし、世の中168cmくらいの人って結構いますよね。
ネクタイを買うときってつい柄で選んでしまうものだけれど、長さもどこかに書いてあるのかな。まぁ書いてあってもどのくらいの長さが自分に合っているのかさえ分からないですけどね・・・・。

「河野鷹思」

先週はちょこちょこと本を買ったので、ここの更新ができるなと思っていた割には、金、土と飲みに行ってしまったこともありなかなか更新できず。
金曜日は去年の8月から10月頃に関わっていたイベントの新年会だったのだけれど、朝、延期になったとのメールが来ていた。で、しょうがないねぇなどと言いつつ、一緒に行こうと思っていた友達3人で渋谷のアプレミディの入っているビルの3階のカフェで飲む。といっても3人中1人はひとりは飲めないし、もうひとりは「最近酒を飲むと疲れる」ということで、まぁ夕ご飯ですね。

土曜のほうは大学の時の友達と池袋で。平均年齢34歳の男4人。昔の知り合いの消息やお互いの近況を交換。その頃の仲間で去年3人も離婚していたのにちょっとびっくり。以外と離婚ってあるのね。3人とも女の子というのはどういうことなのか。
結局、「バブルの時に年上の男とつきあっていい思いをした同年代の女の子はダメだね」という結論になる。ちなみに今回集まった4人の中で結婚してるのは私だけです。

「絵空ごと」-吉田健一-

吉田健一の小説は全部絵空ごとである、なんて言いつつ、でも吉田健一の小説のおもしろさはただそういうストーリーを追うところ以外にあり、また小説というのは結局のところどれも絵空ごとに過ぎないという吉田健一のメッセージもこめられているんだ、といったことはきっとどこかで誰かがもっと説得力のある文章で書いているだろうから、私が書いてもしょうがないわけなのだけれど、それとは関係ないことかもしれないが、とりあえずある本を読んでいるとその本を読んでいるその合間はなぜかその作者の文体で考えてしまうということで、ついこんな長い文章を書いてしまうわけです。

でもいくら吉田健一のスタイルで考え事をしていたとしても考えている“脳”は私のいつものさえない脳なわけで、いくら考えてもすばらしい答えが出てくることはないのだけれど、ふと片岡義男のエッセイを読んでいたときに出てきた「英語でものを話すことは、英語で考えることであり、強いては英語(圏)の考え方や論理の組み立ての学ぶことだ」という文を思い出して、吉田健一の本じゃなくてもいいんだけれど、ある作家の本を読み続けるということは、その内容だけからでなく自分の考え方さえもその作家に似てくるのかもしれない、なんてあたりまえのような結論に辿り着く冬の帰り道なのでした。

「胡椒息子」-獅子文六-

獅子文六の小説はどれもテレビのホームドラマの小説版といった感じなのだが、これが昭和12年に書かれたもの打と思うと許せてしまいます。続けて読もうとは思いませんが・・・・。

さて、私は昨日今日と大掃除に追われ、夕方ちょっと自転車で吉祥寺に出るという年末の日々。映画を見たり散歩したりと思っていたのだけれど、昨日の朝、「ちゃんと9時に起きて時間もあるし、ちょっと気になったところもあるし」なんて思い、片づけはじめたらもうダメ。5時過ぎても終わらず。とりあえず寝るところだけ確保して寝るはめに。
今日も10時くらいから始めて終了したのが4時半。っうか、いろいろもの動かしてみるも結局うまく収まらず元に戻したり、と無駄が多いのですよ。もうさ大晦日の昼間にひとり散らかった部屋の中でカップラーメンを食べてる30代男。隣もおじさん一人暮らしなので多分同じ風景が繰り広げらているものと思われる。その隣は一人暮らしのおばあさんなので・・・・もう少しちゃんとしたもの食べてるだろうけれど、部屋の前を通ったら掃除機の音がしてた。

よく考えてみると土曜日も台所のガスまわりの掃除をほとんど一日中していたので、合計3日も掃除に冬休みを費やしているよオレ。しかも日曜は3時間だけだけど会社に行って仕事してるよオレ。結果、年末のんびりしたのって一日だけかよ。と落ち込む大晦日でした。でも掃除した分、部屋がさっぱりして気持ちいいです。自己満足ですけどね。

わたしはそんな風ですが、みなさん良いお年を。

「deja-vu N12 特集:安井仲治と一九三〇年代」
「deja-vu N19 特集:バウハウスの写真」

今日からミオ犬が長崎に帰省中。というわけではないけど、昼は中央線沿いを歩き回り夜は会社の友達と「バー部(イクラじゃないよ)」で浅草のフラミンゴバーへ。
会社の友達といっても今では4人とも違う会社に勤めてます。半年前は4人とも同じ会社だったのに。世の中何が起こるかわかりません。うちの会社だけか!?

フラミンゴバーはもともとジャズバーだったらしく、ガラス越しにジャズのレコードが収められた棚があって3000枚くらいレコードが置いてあった(適当)。ケニー・バレル、バーニー・ケッセル、ジョニー・スミス、ガボール・ザボといったアーティストのジャケットが表向きにされていてマスター(って言うのかな)がギター好きなのが分かります。
いつもは安い居酒屋で同じことを何度も繰り返し言い騒ぎながら飲んでいる私たちですが、たまにはこういう雰囲気もいいかな。

そこで1、2時間でさっと飲んでどこかでちょっと食べて帰る予定だったのだが(バーにはつまみしかないので・・・・)、結局、浅草を出たのは11時前。で、銀座線に乗るのが面倒になり、荻窪に住んでいる人と一緒に中央線で西荻へ。
しつこくも昼間行けなかったスコブル社に寄りこれらの本を購入。いや寄って良かった。前から欲しかったんだよね。しかも両方とも1000円。「deja-vu」って普通1800円くらいするよ。スコブル社はときどき写真関係の本が安く売られているので侮れません。
そういえば新宿駅のホームでジーパンを下げたままパンツを見せて(ジーパンが下がっているので)小股で歩いている女の人がいました。年末はいろんな人がいるなぁ・・・・。