「船の本 第3」-柳原良平-

一冊買うとついまた買ってしまうという悪い癖が・・・・。でも5冊揃えようとしない、あるいは揃わないのも悪い癖とも言えるかな・・・・。ちなみに某古本屋さんでは5冊セットで12500円で売ってました。

昨日、今日と吉祥寺、月窓寺の盆踊り。ここ数年行っていなかったなぁと思っていたのですが、3年ぶりということ。なんだやってなかったのね。でも3年ぶりで集まりが悪かったのか知りませんが、あまり縁日とかも出ていなくてちょっと寂しい。
前はタイカレーのお店やミスタードーナッツとかその他いろいろサンロードのお店が屋台を出していたのに、今年は焼きそばも売ってなくて、中央で音楽の一足先に踊り方を教えるおじさんのマイクの声だけが盛り上げそうとしているような感じ。日曜だからかな、昨日だったら盛り上がってたのかな?よく分かりませんが来年に期待!ということで。
そういえば通りがかりにちらっとテントの中をのぞいたら盆踊りのレコード(シングル盤)をテクニクスのプレーヤーでかけてました。しかもその横にはCDJが2台置いてあった。どういうことなんだろう?曲の間が空かないように頭出しとかしてるのだろうか?もしくは曲と曲のあいだにスクラッチが入ったりして!?

話は戻って、昼間は暑い中、中目黒・代官山散策。朝起きたときちょっと曇ってたような気がしたので、思いきっていってみたのだが、単なる気のせいだったらしく、歩いているとものすごく暑い。ひとりで代官山に行ったときはたいていeau cafeかオーガニックカフェに行く。ほかのところはどうもきれいすぎて一人だと落ち着かないし、そもそも入り口からして一人で入る雰囲気ではないような気がしてしまう。たばこがすえればオクラがベストなんだが・・・・。
それでも周りと見渡せば女の子しかいない店内で、一人、本を読みながらクロックムッシュを食べアイスコーヒーを飲んでいる35歳男はいかがなものか?お店にとってもちょっと遠慮して欲しい、ドトールとか行って欲しい、などと思われているのだろうか?
ところでeau cafeは、8月31日まで江ノ島の海岸でbeach house eau cafeという海の家をやっているとのこと。夕方からライブやDJイベントもあるらしいので、ちょっと行ってみたい気もする。でも「これ!」というイベントが見あたらないんだよなぁ。

「おぱらばん」-堀江敏幸-

堀江敏幸の「郊外へ」を知り合いに借りて読んだときの気持ちは忘れられない。現実と虚構とそして史実をの垣根を軽やかに飛び越えて行き来し、そしてそれらが絡み合い緻密に組み立てられた構成の前に、僕はその世界にただ夢中になり、ただため息をつくしかないという感じでした。
それから何年か経っているのに未だに全部の作品を読んでないのは、「読みたくなったときに読んでない本がまだある」という状態にいつもしておきたいからと、あんまり夢中になると、どうでもいいような本の感想とただの思いつきとつまらない毎日をなんの工夫もなく勢いだけで書いているこんな日記を続ける気力がなくなってしまうかも、と思うから。

ところで先日、仕事中にyahooのニュースなんて見ていたら、フランスの写真家、アンリ・カルティエ・ブレッソンが3日亡くなっていた、というニュースを発見してびっくり。というか、そういえばまだ生きてたんだ!という気持ちに。95歳だったそうです。
勝手言い方をしてしまえば、たぶん趣味でも何でも若い頃にカメラを手に取った人は誰でも、「ロバート・キャパになりたい」と漠然と思い、自分にそんなバイタリティや行動力がないことに気づくのではないかと思うのだけれど、同じように「ブレッソンのような写真を撮りたい」とも思い、同じように挫折するのではないだろうか。
そう思うくらいブレッソンは、「決定的瞬間は出来事を完全な構図で撮る」というカメラという機械を用いた表現の一端を完璧に行っているのだけれど、個人的にはキャパに比べて一般的でないように思われる。それはやはり「なりたい」と思わせるか「撮りたい」と思わせるかの違いで、結局のところ、純粋に写真や絵画、音楽・・・・といったものだけで世の中を振り向かせるのは難しく、人々は作品とともにその人の生き方や主張というものに大きな影響されるのだなぁと。
それは毎年12月になると思うことで、なんでジョン・レノンの評価とポール・マッカトニーの評価はあれほどまでに違うのか、どうも私には理解できないんですよ。

今日は久しぶりにブレッソンの写真でも眺めて、週末はカメラを持って街に出てみようかな、なんてふと思ったりもするけれど、ブレッソンの写真なんて見ていると、どうあがいても自分には写真を撮る才能がないのだと思い知らされてしまいます。

「船の本」-柳原良平-

ツイデニ、コンナホンモ、カッテミマシタヨ。
実を言えば柳原良平の本って、その丁寧、かつ繊細ともいえる絵の方を見てるだけで満足してしまって、文章はちゃんと読んだことがなかったりする。
船と言えば、去年北欧に行ったときに乗ったシリアラインか、高校生の時に友達3人で三宅島に遊びに行った時くらい思い浮かばない私にとって、柳原良平の描く船旅なんてどこの世界の出来事?というくらい遠くの世界なのだけれど、ちょうど夏だし、夏といえば海!海と言えば船!と、強引に気持ちを持っていって一度じっくり読んでみるのもいいのではないかとも思いつつ、そもそも柳原良平の本ってイラストレーターの本にしては文章が多すぎで、例えば平野恵理子や大橋歩みたいに絵に文章が添えてあるという感じだったら、家でソファーに座ってレコード聴きながらのんびりと読んだりもできるのにと思う。
文章が多いのはマニアたる所以なのだろうが、持ち歩いて電車の中で読むという種類の本でもないだけに(特にこの本はそうですね)ちょっと困ります。

「江分利満氏大いに怒る」-山口瞳-

で、予告どおり山口瞳。といってもこの本についてのコメントはなし。一つ引用するとすれば・・・・

もっともっともっと、暑くて暑くてガマンできないときはどうするか?次の言葉を三唱することにしている。「ブレーキ踏まずにアクセル踏んだ」

ここ何年か夏になるとロックステディとかダブとかラヴァーズなんて音楽ばっかり聴いて過ごしていたのだけれど、今年は暑いくせになぜかそういう音楽を聴く気分になれず、そしてなぜだか分からないけれど、久しぶりにソフトロックなるもの、というかコーラスですね、をどっぷりと聴いてみたくなったりして、ラヴ・ジェネレーションだとかスパンキー&アワギャング、マショマロ・ウェイなんてレコードラックを見渡して目についたレコードを取り出して聴いているのだけれど、久しぶりに聴くといいっ。こんなこというと恥ずかしいけれど気持ちが高鳴るっていうんですか。ってそれだけ。

先日、注文を受けた本の梱包をしていたら昔やっていたイベントのフライヤーが出てきた。前に一度、10年以上前の写真を挟んだまま発送してしまったことがあって、私はどうでもよかったけれどむこうはちょっと困っただろうを思ってそれから気をつけるようにしてる。
フライヤーはヤング・ピスタチオというギターポップオンリーのイベントで1997年から2年くらいいろいろなところでやってました。「僕はギターポップしか聴かない!」と公言する友達に誘われて私も参加していたのだけれど、ソフトロックとかでもダメなのです。一回オルガンジャズとかワンセットかけたときは、イベント終わってから昼過ぎまでデニーズでコーヒーおかわりしながら反省会。
そんな友達も大阪に引っ越してしまいイベントもなくなったわけですが、最近、東京に遊びに来て、「大阪でときどき回してるんだ」と言われて見せられたフライヤーにはテクノ、ハウス、パンク・・・・などの文字が!「いや最近はDJが替わるたびにかける曲がかわっていったほうが飽きなくておもいしろいんだよね」だって。おいおい、返す言葉もなしです。人も変われば変わるもんだネ。

「伝法水滸伝」-山口瞳-

2冊続けて山口瞳。実は今読んでるのも山口瞳の本。なぜかといえば、ストックしてある本が山口瞳しかなくなってしまったから。
山口瞳、永井龍男の本については読む読まないにかかわらず見つけたら買うということにしていているので、ほかに読む本がないと山口瞳か永井龍男が続いてしまいます。たいていの場合はその週に読む本を週末、古本屋に行ったときに買っておくのだけれど、なんとなく本を眺めながら「これ」という本が見つからないまま(その「これ!」と思う基準が自分でもよく分からないのだが・・・・)帰ってきてしまうことがときどきあって、「やばい、そういえばなんにも本を買ってなかった!?」と思うのだけれど、平日は帰ってくるのが遅いのでなかなか本屋にも行けず、そういうときは山口瞳か永井龍男ばかり、ということになるわけ。そんなことはどうでもいいですけどね。

ミオ犬がmixiで知り合った人のライブを見に何年かぶりにスターパインズ・カフェに行った。たぶんノーナリーヴスの人がDJやってマイケル・ジャクソンのカラオケにあわせて自分で歌ったFeelin’Now以来。あれはいつ?ちなみにそのときはサリー久保田とか高波敬太郎も出てました。そういうわけで金曜日は仕事終えた後、東京駅経由で荻窪に出て古本屋をちょっと見てから、30分ちかくかけて家まで歩いて帰ってきたのが10時半。それから出かけたのだが、やっぱりだめですね。3時くらいからイスに座って寝てました。
マイケル・ジャクソソがライブ(?)中に帰ろうとしたら、受け付けで「帰っちゃうんですか~。マイケル・ジャクソソ見ないんですか~」と言われた。私の中でスターパインといえばマイケルという印象が強くなるような予感・・・・。
ところで行く前にスターパインズのホームページをチェックしてみたら、その日のライブはなんとヒカシュー!まだやってたのか!びっくりです。ほかにもハプニングス・フォーやカジヒデキ、遠藤賢司(guest:曽我部恵一)、柳ジョージ、大槻ケンヂ(guest:ムッシュかまやつ)、木根尚登・・・・など言っちゃ悪いけど微妙な人たちがいろいろ出てで、いちいちびっくりしてしまいました。HAKASE-SUNと吾妻光良 & THE SWINGING BOPPERSはちょっと見たかったな。これからときどきチェックすることにしよう。

「ku:nel」(Vol.9/2004.9.1)

2カ月なんてすぐに経ってしまう。前の号が出たのが引越しする直前だったのでこの部屋に来てからもう2カ月になるわけで。時間が過ぎていくのは早いことは早いんだけれども、久我山4丁目に住んでいたときのことなんてかなり前のことのように感じられてしまう。ましてや三鷹台に住んでいた頃なんてね・・・・。
そうしていつものことながら井の頭線のつり革広告で新しい号が出ていることを知ったのだが。こういうとき、会社の帰り道にある本屋が11時まであいているのは便利といえば便利。なんだけど普通に読みたい本、特に文庫本がほとんどないので意味がないといえば意味がない。
「ku:nel」は表紙の写真がいつもきれいなのでつり革広告とかで見かけるとつい欲しくなってしまうね。でも混雑している電車の中で無理矢理読んでると、すぐにヨレヨレになってきてるような気がして、もう少し表紙が厚い紙でもいいのに・・・・と思う。

さて今号の巻末エッセイは堀江敏幸。このところもう亡くなってしまった人たちの、しかも回想録みたいな本ばかり読んでいるせいか、最近堀江敏幸の本を読みたい気分なので、こういう風に取り上げられているとうれしい。古本屋に行くたびに必ずチェックしているのに全然見つかないのはなんでかな?「一階でも二階でもない夜―回送電車〈2〉」という新しい本も出たらしく、その中には獅子文六についてのエッセイが入っている、ということなので思い切って新刊を買っちゃおう!、なんて一瞬思ってみたりもするけどけっきょく買わないんだろうなぁ。

小笠原付近から三重の方へと西へ進んでいくという珍しい台風が近づいて来ているため、ここ2,3日、天気予報は雨続き。でも時々晴れ間に雨がさっと降るだけで逆に蒸し暑くなるだけ。今年はパーと夕立が降ることもあまりないような気がする。今年は前々から「ついに今年の夏はスーツかぁ」と思っていたので、私服で会社に行けるようになってホント良かったデス。
もし夏の2カ月~3カ月間、日本中の全部の会社がスーツをやめてTシャツで仕事できるようにしたら、かなりエネルギーが節約できるんじゃないかと思うのだけれどどうなのだろう。でも暑い方が電気や電気製品、ビール、アイス・・・・など、消費が進んで経済的には良いらしい。極端な話、無駄遣いすればするほど景気が良くなるのか?まぁそういうことでもないんだろうけど・・・・。

「わが町」-山口瞳-

「たとえば一軒の床屋があって、日曜日にそこへやってくる高校生からおじいさんにいたるまでのひとが、順番を待ちながら、のんびりと一回分だけ読んでくれるというような小説を書きたいと思ってこれを書いた」・・・・というようなことが帯に書いてあって、それいゆに置いてある「西荻カメラ」を思い出したりした。

同じ町で暮し、近所の飲み屋で酒を飲み、野球チームを作って試合をし、釣りをしに奥多摩のほうまで足をのばし・・・・エピソードは東京のはずれのある町で繰り広げられるほのぼのとしたものだけれど、登場してくる人々はそれぞれに心に抱えるものがあってでもそれが表に出るとこがないだけにせつない、そんな小説集。
たぶんなにかふと思う度にこの本を読み返すんじゃないかとちょっと思った。そういう風に思って買ったわけではないけれど、山口瞳の本で初めてのハードカバー。しかも函入り。柳原良平の描いた素朴な国立駅の絵がとてもいい感じです。「男性自身」の表紙にも出てきた国立駅の絵はもう少し新しい。

また帯には「時代の流れに逆行して『どれだけ隣人を愛せるか』に賭けたつもりなのである」とも書かれていて、「男性自身」なので書かれている近所の人たちへのものすごい気の使い方はこういう気持ちだったのか?なんて本文とは関係ないところで感慨深くなってしまう。もちろん近所の人だけではなく、周りの人全員に、と言っていいほど山口瞳は気を配っていて、私などはそういうことが全然だめなので、すぐにこういう生き方って大変だろうなぁといつも思ってしまう。でも、そんなことのほほんと思ってる場合じゃないんだ。

「一個・その他」-永井龍男-

永井龍男は新聞の隅に見つけたなにげない小さな事件の記事をスクラップにして置いて、その事件を何年もかけて少しずつ頭の中でふくらませて一つの短編小説を作るという。
そのせいか文章から醸し出される雰囲気は彼の日常生活を描いた随筆と同じような感じなのに、物語はどこか現実から浮遊していて、かといって、物語そのもののおもしろさを楽しむというスタイルでもなくてそこはかなとなく奇妙な味がある。その辺が短編の名手といわれる所以だろうか。

先日、ブックオフで本を探していたら中学生くらいの男の子2人組がなにやらリストを片手に「おまえ『坊っちゃん』にしろよ。俺、『猫』にするからさ」「でも『坊っちゃん』100円じゃないよ」なんて言い合ってました。どうやら夏休みの宿題の読書感想文のための本を選んでいるらしい。100円で売っているところから探しているところがいいね。しかも私も本屋に入ると長い方だけれど、彼らは私が来たときにすでにいて出るときもまだ悩んでました。
それにしても夏休みの宿題って懐かしい。小冊子みたいな問題集だとか、アイデア貯金箱だとか、なんかのポスターだったりとか(ちなみ私は絵を描くのが嫌いだったので毎年これが最後まで残ってました)、あと書道コンクールに出す作品だとか・・・・。

「パリ ノ ルール」

今年はお休みやお金、その他もろもろの理由から旅行なんて行けそうにないくて、しかも次の旅行先がパリという確立は割と低いと思うんですが、本屋で見つけてつい買ってしまいました。今から割と欲しかったんですよ。
旅についての本って、たいていはその国や町を客観的に見たものと主観的に見たものに分けられて、それぞれガイドブック、地誌・紀行文なんて呼ばれているわけで、じゃこの本というと基本的にはガイドブック、でも情報の隙間に主観的なものがちょこちょこ混じっているので読むだけでもけっこうおもしろい。
いつかパリに行くときのためなんて思いつつ情報部分も含めてパラパラと流し読みしてるんですけど、ほんといつになるんでしょうねぇ。そしてもし実際にパリに行くときになったとき、ここに載っている情報はまだ生きているんでしょうか。今でもパリに行ってゲンズブールのお墓参りやゆかりの場所をまわったりする人っているのか私にはちょっと疑問ではありますが・・・・。まぁそれはいつの時代にもそういう人はいるのかな。よく分かりません。

週末は夕方から渋谷から原宿、表参道を歩いたのですが、ラフォーレやフォレットがセールだったせいもあり、ものすごい騒ぎで、なんだかそこいらじゅうがマツモトキヨシの店頭にいるみたいでびっくり。店の人のメガホンはもちろん、館内放送も頻繁にかかるし、BGMも普段の5割り増し?って感じですかね。そしてもちろん私にはぜんぜん関係なし、です。

「怡吾庵酔語」-里見弴-

自分の生涯について振り返り語った本。「話し言葉で読みやすいなぁ」と思っていたら本当に里見弴がしゃべった言葉を速記して文字に起こした後、自身によって赤を入れるという方法で書かれたということ。よく考えれば、里見弴は1888年に生まれて1983年に亡くなっているのでこの本が出た1972年ではすでに80歳を越えてるんですよね。子供の頃、お盆などで田舎に帰ったときに縁側でお菓子かなんか食べながらおじいさんの昔話を聞いているって感じです。なんて言ったら失礼か!

ところで里見弴だけに限らず、こういう回想録を読んでると、それぞれの交友関係の中で登場人物たちの年齢差がどのくらいなのかとても気になってきます。話だけ聞いているとたとえば10代の頃に出会った人に関しては5歳くらい上だともうものすごい先輩で、敬語を使ったりするけれど、30歳を過ぎてから出会った人に対しては10歳くらいの年齢差はあまり関係なく会話していたりするし、書く人によって年齢差を気にする人と気にしない人、あるいは師弟関係や尊敬する人、昔からの友達・・・・などで口調や態度が変わってくるので、いろいろな人の回想録を読んでいくとどんどん混乱してくるのです。
昔習った国語の教科書みたいに代表作が出た年代をとって大正時代の作家とか戦前の作家なんて言っても本人はその後も生きているわけだし、そのあいだにいろいろ本を出していたりするわけですよ、なので、今度、自分の好きな作家についての年表を作ってみるのもいいかも、なんて思ったりしてます。その作品が何歳の時に書かれたかということや、どういう順番で作品が発表されていったかというのも気になるし。
いやほんとにそういうこと全然知らない自分に気がつかされます。