このアイコン・シリーズは、有名な写真家からビザールなもの、レトロなもの・・・・など、たくさん出ていて、中には「トラベル広告」や「アメリカン・アドバタイジング60s」など、ちょっとひかれるものもあるにはある。でも、すぐに折れそうなソフトカバーの感じ気になったり、本のサイズが物足りなかったりしてどうも買う気にはなれない。ときどき洋書バーゲンなどでまとまって売られていたりするけれど、そういうときに限って気になるタイトルがなかったりする。逆にこの「クレイジー・キッズ・フード!」は、その本自体の安っぽさが内容と合っている気がする、というのは私の単なる“気持ち”だけかな。
お菓子のパッケージで使われたキャラクターを集めたこの本を見ていると、お菓子という安価な商品と今から見るとおおざっぱな、荒い印刷がぴったりと合っていて、ものすごくその荒さの隙間から、“夢”や“希望”がわき出てくるような気がする。高画質や精密さを突き詰めていくと、印刷としてはきれいだけれど、もともとお菓子のキャラクターというおおざっぱなものだけに、細かければ細かいほど“あら”が浮き出てしまって、加えて想像力の入り込み余地がなくなってしまって、どこか寂しい、つまらないものになってしまうのだろう。なんてことを、この本をめくっていて考えているわけでもなく、ただ「かわいいな」とか「これコピーしてどっかで使おうかな」なんて思ってたりする。
話は変わりますが、東京国立近代美術館で「河野鷹思のグラフィック・デザイン―都会とユーモア」が2月27日まで開催されている。河野鷹思は、松竹キネマの宣伝ポスターから始まって、雑誌「NIPPON」の制作や、「日宣美(日本宣伝美術会)展」への参加など、戦前から活躍するグラフィックデザイナーで、展覧会では彼が手がけたポスターや雑誌の表紙、挿絵などが展示されてる。で、日本に限らずほかのデザイナーの作品を含めて、見ていていつも思うのだけれど、戦前はデザインというより、イラストに近かったり、印刷というより版画に近いようなものが、戦後、1950年代から1960年にかけて印刷技術が発達するに従って、構成や色づかいがはっきりと洗練される。この変化はどんなデザイナーの作品を見てもすごいなぁ、と思う。
ひとつの技術を使ったものでも、一方では今から見るとその荒さによって商品が引き立ち、一方では前の時代に比べて緻密になったせいで、デザイナーの意識や手法まで影響と与える、それは単に、見方や距離によって感じる印象が違だけかもしれないけれど、なんだか不思議なことのような気がしますね。
1月のはじめにユトレヒトでやっていた「ホンマタカシ写真集『アムール 翠れん』発刊記念 ロシアの旅の写真展」を見に行った時に予約した本が、入荷されたという知らせが来たので、土曜日に取りに行った。とりあえず中目黒で降りて、雑貨屋などを見て回ってオーガニックカフェでランチ。去年の夏前くらいに「オーガニックカフェのある一帯が再開発されるので年内に閉店するらしい」ということを聞いていたので、すっかりもう閉店しているのかと思っていました。いまではそんなにしょっちゅう行けないけれど、昔は一週間に2、3度は通っていたこともあり、いつまでも残っていて欲しい。
こう言ってはなんだけれど、阿佐ヶ谷文士、鎌倉文士、私小説家という偏った本ばかり読んでいるせいで、この上林暁や木山捷平、外村繁、尾崎一雄・・・・など、それぞれの作品の内容や経歴がごちゃごちゃになってしまい、本を読んでいると、「この時期に大きな病気になったのは●●●じゃなかったっけ」とか「この人は一度小説家になることをあきらめたんじゃなかったっけ」などと思ったりする。特に私小説は自分の経験を元に作品を書いているので、そもそも作品の内容が、そのままその作家の経歴や私生活・日常とものすごく近い。そして近くに住んでいたり、一緒に飲みに行ったりと交流が多いので、当然、ある作家のことが、違う作家の、しかも複数の作家の作品に、違う視点から出てきたりして、読む方は余計混乱する。それも読み続けていればいずれ把握できるようになるのだろうか。逆に、そういったものをごちゃまぜにしたまま、架空のひとりの作家としてとらえてみるのもおもしろいかもしれない、などど勝手なことを考えたりしている。
去年、新潮社の「第三回女による女のためのR-18文学賞」大賞、読者賞ダブル受賞した吉川トリコの初めての単行本。ここに出てくる本の中ではかなり異色かもしれない。これで函入り背表紙茶色の本が並ぶ私の本棚もガーリーに!なんて、借りた本なんですけどね。なんだかものすごく日常的なことのような気もするし、日常的からかけ離れた物語のような気もするし・・・・普段、偏った読書ばかりでこういう女の子っぽい本はもちろん、現役の作家の本さえもほとんど読まない私としては、ちょっと新鮮なんだけれど、なんとなく「?」な気分にもなったりするわけで、多分、20代の女の子が山口瞳や吉田健一を読んだら、こんな気持ちになるんじゃないだろうか、などと思ったりもします(逆の意味でだけれど)。いや適当です。
男性自身のシリーズから再編集した本。読んだこともある文章がいくつか出てくるし、統一されたテーマがあるわけではないので、どんな意図で再編集したのか分からないというのが本音。なにが困ったわけでもないけれど、困ったもんだなぁ、と思ってしまう。
一時期、吉祥寺のユザワヤで画用紙と厚紙、布を買ってきて、気に入った写真を使って豆本を作るのに凝っていたことがあって、定期的に写真集を作っては、イベントやPickwickWebで売ってみたり、友達の誕生日のプレゼントに添えたりしてました。ちょうど武井武雄の「本とその周辺」を読んだ頃だったと思う。武井武雄のように外側を革張りにしたり、木工細工にしたりなんてことはもちろんできないし、本の作り方なんてぜんぜん知らなかったので、はじめはほんと適当に作ってましたね。でもその頃作ったものの方が丁寧だったりするんですけどね。
「これは瀬戸内の島を生れ在所として七十年あまりの年月を、大工の道具、鼻に汗をかく牛、寝たふりをする狸、帆船の航海の苦労、高等科で習ったローマ字、製図の文鎮、台湾の子供たちのくれた旗、めばると海鼠、婚礼の歌、木で作った金庫、白狐を捕らえた木挽の友達、だいがら臼、輸送船の中で見た鱶、フィリピンの水田の印象、虫送り、苗床の泥を取りに来る燕、おじいさんの湯呑・・・・とともに生きて来た倉本平吉さんの物語である。」(あとがきより)
青柳瑞穂の本は、翻訳ならモーパッサンやアベ・プレヴォー、ボーヴォワール、アポリネールなど手に入りやすいようし、著作も「骨董のある風景」や「ささやかな日本発掘」が簡単に手にはいる。でも骨董についての本は、青山二郎にしろ、白州正子にしろ、なんとなく敷居が高いような気がしてなかなか手が出ないんですよね。読んでみるとそれほどマニアックな記述が続いているわけではないのだけれど・・・・。
意図していたわけではなく、この時期に偶然に手に入れただけに過ぎないのだけれど、今年最後の雑記が雑誌「オール読物」の最後のページに数人の作家によって連載されていた随筆をまとめた「おしまいのページで」で終わるのはなんだかいい感じのようなような気がする。解説に書いてあるように「『オール読物』に『おしまいのページで』があるせいで、『オール読物』は一段と品がよくなった」と書かれているように、この雑記もちょっとは品が良くなるなったりしないだろうか。
銀座で三代続いた天ぷら屋「天金」に生まれた著者が、自分の経験を元に銀座の街の変遷をつづった本。年末になると銀座や浅草の昔のことが書いてある本を読みたくなってしまうのはなぜだろう。でも正直言うとこういう本を読んでいても地理的な関係あんまり分からなかったりします。特に地名は今の呼び方とぜんぜん違ったり、途中で変わったりするので、ちゃんと地図を見ながら読んでいないと、「それってどこの角??」といった疑問でいっぱいになってしまう。