「クレイジー・キッズ・フード!」-スティーブ・ローダン/ダン・グッドセル-

このアイコン・シリーズは、有名な写真家からビザールなもの、レトロなもの・・・・など、たくさん出ていて、中には「トラベル広告」や「アメリカン・アドバタイジング60s」など、ちょっとひかれるものもあるにはある。でも、すぐに折れそうなソフトカバーの感じ気になったり、本のサイズが物足りなかったりしてどうも買う気にはなれない。ときどき洋書バーゲンなどでまとまって売られていたりするけれど、そういうときに限って気になるタイトルがなかったりする。逆にこの「クレイジー・キッズ・フード!」は、その本自体の安っぽさが内容と合っている気がする、というのは私の単なる“気持ち”だけかな。

お菓子のパッケージで使われたキャラクターを集めたこの本を見ていると、お菓子という安価な商品と今から見るとおおざっぱな、荒い印刷がぴったりと合っていて、ものすごくその荒さの隙間から、“夢”や“希望”がわき出てくるような気がする。高画質や精密さを突き詰めていくと、印刷としてはきれいだけれど、もともとお菓子のキャラクターというおおざっぱなものだけに、細かければ細かいほど“あら”が浮き出てしまって、加えて想像力の入り込み余地がなくなってしまって、どこか寂しい、つまらないものになってしまうのだろう。なんてことを、この本をめくっていて考えているわけでもなく、ただ「かわいいな」とか「これコピーしてどっかで使おうかな」なんて思ってたりする。

話は変わりますが、東京国立近代美術館で「河野鷹思のグラフィック・デザイン―都会とユーモア」が2月27日まで開催されている。河野鷹思は、松竹キネマの宣伝ポスターから始まって、雑誌「NIPPON」の制作や、「日宣美(日本宣伝美術会)展」への参加など、戦前から活躍するグラフィックデザイナーで、展覧会では彼が手がけたポスターや雑誌の表紙、挿絵などが展示されてる。で、日本に限らずほかのデザイナーの作品を含めて、見ていていつも思うのだけれど、戦前はデザインというより、イラストに近かったり、印刷というより版画に近いようなものが、戦後、1950年代から1960年にかけて印刷技術が発達するに従って、構成や色づかいがはっきりと洗練される。この変化はどんなデザイナーの作品を見てもすごいなぁ、と思う。

ひとつの技術を使ったものでも、一方では今から見るとその荒さによって商品が引き立ち、一方では前の時代に比べて緻密になったせいで、デザイナーの意識や手法まで影響と与える、それは単に、見方や距離によって感じる印象が違だけかもしれないけれど、なんだか不思議なことのような気がしますね。

「アムール 翠れん」-ホンマタカシ-

1月のはじめにユトレヒトでやっていた「ホンマタカシ写真集『アムール 翠れん』発刊記念 ロシアの旅の写真展」を見に行った時に予約した本が、入荷されたという知らせが来たので、土曜日に取りに行った。とりあえず中目黒で降りて、雑貨屋などを見て回ってオーガニックカフェでランチ。去年の夏前くらいに「オーガニックカフェのある一帯が再開発されるので年内に閉店するらしい」ということを聞いていたので、すっかりもう閉店しているのかと思っていました。いまではそんなにしょっちゅう行けないけれど、昔は一週間に2、3度は通っていたこともあり、いつまでも残っていて欲しい。

写真集の方は、東野翠れんの写真集というよりもやはり、ホンマタカシのロシア写真集、といった感じです。ついでにたまたま去年ロシアに行った友達がいて(この本の撮影と同じ8月!)、その人の写真のスライドショウを年末に見たりしていたので、ページをめくっていると、夏のロシアに行きたい気分がどんどん高まってきます。今年はまたスウェーデンとフィンランドに行こうと思っていたけれど、ロシアもいいな。近いし。もちろん東野翠れんもかわいい。ホンネを言うともう少し彼女の写真があればいいのに。と思っていたら、今度は東野翠れんが撮りためた作品をまとめた写真集「ルミエール」が2月2日に発売されるそう。2月2日って今週じゃないですか。勢いにまかせて買っちゃおうかな。

「白い屋形船・ブロンズの首」-上林暁-

こう言ってはなんだけれど、阿佐ヶ谷文士、鎌倉文士、私小説家という偏った本ばかり読んでいるせいで、この上林暁や木山捷平、外村繁、尾崎一雄・・・・など、それぞれの作品の内容や経歴がごちゃごちゃになってしまい、本を読んでいると、「この時期に大きな病気になったのは●●●じゃなかったっけ」とか「この人は一度小説家になることをあきらめたんじゃなかったっけ」などと思ったりする。特に私小説は自分の経験を元に作品を書いているので、そもそも作品の内容が、そのままその作家の経歴や私生活・日常とものすごく近い。そして近くに住んでいたり、一緒に飲みに行ったりと交流が多いので、当然、ある作家のことが、違う作家の、しかも複数の作家の作品に、違う視点から出てきたりして、読む方は余計混乱する。それも読み続けていればいずれ把握できるようになるのだろうか。逆に、そういったものをごちゃまぜにしたまま、架空のひとりの作家としてとらえてみるのもおもしろいかもしれない、などど勝手なことを考えたりしている。

「しゃぼん」-吉川トリコ-

去年、新潮社の「第三回女による女のためのR-18文学賞」大賞、読者賞ダブル受賞した吉川トリコの初めての単行本。ここに出てくる本の中ではかなり異色かもしれない。これで函入り背表紙茶色の本が並ぶ私の本棚もガーリーに!なんて、借りた本なんですけどね。なんだかものすごく日常的なことのような気もするし、日常的からかけ離れた物語のような気もするし・・・・普段、偏った読書ばかりでこういう女の子っぽい本はもちろん、現役の作家の本さえもほとんど読まない私としては、ちょっと新鮮なんだけれど、なんとなく「?」な気分にもなったりするわけで、多分、20代の女の子が山口瞳や吉田健一を読んだら、こんな気持ちになるんじゃないだろうか、などと思ったりもします(逆の意味でだけれど)。いや適当です。

昨日の夜は、前に勤めていた会社で一緒に仕事をしていた人と、大久保にある梁の家という韓国料理のお店に行ってきました。メンバーは4人。大阪の会社に転職していた人がいたりしたので(今は東京勤務)、4人そろうのは何年ぶりか、という感じ。「幸田さん、前に会ったとき禁煙してませんでした?」なんて言われたりして、歳を取ると年月が経つのは早い。ちなみに私が禁煙していたのは、一昨年の冬のことなのだ。
4人とも「辛いのは苦手なんだよね」などと言いながら、辛そうな真っ赤な色をしたスープの鍋を次々と注文し、箸休めでキムチを食べたりして、めちゃくちゃ酒が進んだ。でもどちらかというと飲み過ぎたと言うより食べ過ぎ。もうコーヒーも飲めないな、なんて思いながら荻窪からとぼとぼ歩いて帰ってきました。

「禁酒 禁煙」-山口瞳-

男性自身のシリーズから再編集した本。読んだこともある文章がいくつか出てくるし、統一されたテーマがあるわけではないので、どんな意図で再編集したのか分からないというのが本音。なにが困ったわけでもないけれど、困ったもんだなぁ、と思ってしまう。

年が明けてから髪を短く切ったせいで、どうも首筋や頭が寒くて、何年かぶりに毛糸の帽子を買った。なんて言うのか正確には分からないけれど、緑が入ったような青色でオレンジの縁、そして小さなつばがついている。今年の冬は、髪を短いままにしてこれをかぶって過ごす予定。昔は、いつも帽子をかぶっていたものだけど、一度かぶらなくなると、家を出るときについ忘れてしまうようになって、そのうち持っていた帽子も、捨ててしまったりフリマで売ってしまった。すでに今日も帽子を家に忘れてきたとことに、家を出てから気がついた。別の意味でそういうのも、なにが困ったわけでもないけれど、困ったもんだなぁ、と思ってしまうわけで。

今日からミオ犬が友達と一泊二日の日光旅行。で、今日の夜はひとりでのんびり何しようかなぁ、なんて思ってみたりするのだけれど、週の始まり月曜の夜なんて夜遊びにも行けないし、飲みに行く気にもなれないし、実は特にすることもない。別にミオ犬がいたって飲みに行ってるしね。というか、そもそも家に帰ってみるとすでに11時過ぎ。いや、そんなことは最初から分かっているのに、ひとりと思うとなぜかウキウキしてしまうのも、なにが困ったわけでもないけれど、困ったもんだなぁ、と思ってしまうもののひとつ。

「自分で仕立てる本」-文化出版局編集部-

一時期、吉祥寺のユザワヤで画用紙と厚紙、布を買ってきて、気に入った写真を使って豆本を作るのに凝っていたことがあって、定期的に写真集を作っては、イベントやPickwickWebで売ってみたり、友達の誕生日のプレゼントに添えたりしてました。ちょうど武井武雄の「本とその周辺」を読んだ頃だったと思う。武井武雄のように外側を革張りにしたり、木工細工にしたりなんてことはもちろんできないし、本の作り方なんてぜんぜん知らなかったので、はじめはほんと適当に作ってましたね。でもその頃作ったものの方が丁寧だったりするんですけどね。
最近はぜんぜんそんな時間もとれなくて、昨年、カヌー犬ブックスの一周年記念プレゼント用に作った写真集も、当選分だけ作ってやめてしまったので、自分の分さえないという有様。北欧の写真だったしちょっともったいないな、と思ってはいるのですが。

さて、月曜日にHEAL NIIGATAというイベントに行って来ました。これはFUJI ROCKを主催しているところが中心となって開催した新潟中越地震のチャリティコンサートなのだけれど、いくつかのライブハウスで行っており、私がいったのはZEPP東京。無戒秀徳や横山健、ハナレグミ、忌野清志郎、eastern youth、JUDEといった人たちが出演しました。
もちろん私の目当てはハナレグミ、でも一番の収穫は、おそらくこれからずっと見ることのできないだろう横山健かもしれない。CDだとちょっとおとなしくなってしまっているけれど、ハードな、そしてメタルな(?)ライブのほうがぜんぜんいい。ダイブでめちゃくちゃになっていた前の方には、もちろん行けませんが・・・・。無戒秀徳、ハナレグミ、忌野清志郎の3人は弾き語りだったのですが、どれもそれぞれ自分の持ち味を出した演奏で、さすがプロという感じ。個人的にはハナレグミには「上を向いて歩こう」ではなく「夢で会いましょう」を歌って欲しかった。あと、清志郎が相変わらず「愛と平和」とか叫んだり、「イマジン」のカバーをやったり、「デイ・ドリーム・ビリーヴァー」を観客に歌わせたりしているのにはちょっと閉口。でも帰り際に若者がフロアに座ってビールの見ながら、「ライブでみんなで歌うのってなかなかないけどいいよね」と言っていたので、これでいいのか?(どっちが?)この中に「たまらん坂」を知っていた人は何人いただろうか?

ついでに書くと、この間夜、パンク/ハードコア系の音楽を紹介する番組を見ていたら、デモテープを募集しているコーナーがあって、審査員らしきどっかのバンドのメンバーがそのデモテープを聴きつつ、「これキャッチーでいいね。CMとかに使えるよ」とうれしそうに言っていたのにはびっくり。パンクも遠い昔のことになってしまったのねぇ、って、私は、パンクなんてそれほど聴いてませんでしたけどね。

「引潮」-庄野潤三-

「これは瀬戸内の島を生れ在所として七十年あまりの年月を、大工の道具、鼻に汗をかく牛、寝たふりをする狸、帆船の航海の苦労、高等科で習ったローマ字、製図の文鎮、台湾の子供たちのくれた旗、めばると海鼠、婚礼の歌、木で作った金庫、白狐を捕らえた木挽の友達、だいがら臼、輸送船の中で見た鱶、フィリピンの水田の印象、虫送り、苗床の泥を取りに来る燕、おじいさんの湯呑・・・・とともに生きて来た倉本平吉さんの物語である。」(あとがきより)

広島から汽車とバスと連絡船を乗り継いで行ったところにある棚井津という部落に住む倉本さんのところに庄野潤三が訪ね、上記のあとがきにあるような倉本さんの人生におけるエピソードを聞いていくというスタイルの作品で、ほぼ全編、倉本さんの方言をそのままにした語りによって進んでいきます。小説としてよりも明治・大正・昭和を生きたひとりの人生を残しておくべきだという思いによって書かれたのだろう。方言を含めて同じようなエピソードが何回も出てきたり、時には話がとんでしまったりするし、文章による説明は必要最低限におさえられているので、じっくりと読まないと話の内容が分からなかったりする。しかし、それは倉本さんの話をじっくり聞くことが大事だったからで、それを読む方も流して読んだりするべきではないということなのだ。ということを思いつつ読んでいたのだけれど、実際文章や内容を含めて読みにくいことは読みにくいかもしれない。

話は変わりますが、年末にスーザン・ソンタグは亡くなったんですね。先日、友達と飲んでいて初めて聞いて、ちょっと検索してみたのですが、死因は急性骨髄性白血病、71歳ということ。最近でも、テロ以降でも「テロよりもアメリカの方が卑劣」みたいなことを発言したりしてたのに。実際、テロについては、ほとんどの作家・批評家が沈黙してしまっていたので、スーザン・ソンタグの発言は際だってしたような気がする。なんてことを書きつつ本の方は読んでなかったので知らなかったけれど、その9・11に関することをまとめた「この時代に想う/テロへの眼差し」は、アメリカでは出版されずに日本のみの発売。うちにあった「写真論」や「ラディカルな意志のスタイル」、「土星の徴しの下に」・・・・といった本が、もう手元にないので、読み返すということはできないけれど、この「この時代に想う/テロへの眼差し」は、これを機に読んでみるのもいいかもしれない。

「壺のある風景」-青柳瑞穂-

青柳瑞穂の本は、翻訳ならモーパッサンやアベ・プレヴォー、ボーヴォワール、アポリネールなど手に入りやすいようし、著作も「骨董のある風景」や「ささやかな日本発掘」が簡単に手にはいる。でも骨董についての本は、青山二郎にしろ、白州正子にしろ、なんとなく敷居が高いような気がしてなかなか手が出ないんですよね。読んでみるとそれほどマニアックな記述が続いているわけではないのだけれど・・・・。

年末にテレビを買い換えてDVDのプレーヤーを買ったので、ここのところ毎週のようにTSUTAYAやドラマでDVDを借りてきて見ている。今週は「リトルヴォイス」と「クリクリのいた夏」。私は「24アワーズ・パーティ・ピープル」とか「ブラス」とかイギリス映画ばっかり見てます。ケン・ローチとかもまた見たい。でも11時過ぎに会社から帰ってきて1時前には寝てしまう私には一週間に夜2本見るのはちょっと難しい。そんな中でも今年は、時間をうまく作ってDVDでもいいから映画をたくさん見たいと思う。ホントはフィルムセンターとかラピュタ、三百人劇場で昔の日本映画を観たり、早稲田松竹やギンレイホール、文芸坐で2本立てとか見て、その後早稲田の古本屋を回ったりしたい。

「おしまいのページで」-文藝春秋 編-

意図していたわけではなく、この時期に偶然に手に入れただけに過ぎないのだけれど、今年最後の雑記が雑誌「オール読物」の最後のページに数人の作家によって連載されていた随筆をまとめた「おしまいのページで」で終わるのはなんだかいい感じのようなような気がする。解説に書いてあるように「『オール読物』に『おしまいのページで』があるせいで、『オール読物』は一段と品がよくなった」と書かれているように、この雑記もちょっとは品が良くなるなったりしないだろうか。
収録されている作家は、獅子文六、丸谷才一、永井龍男、吉行淳之介、開高健、井伏鱒二、尾崎一雄、山口瞳、安岡章太郎、立原正秋、水上勉、小沼丹・・・・などなど。なんて豪華なメンバーが毎回、ちょっとした毎日の中での体験や考えたこと、思ったことを書いている。一つ一つはそれほど長くはないので物足りない気もするけれど、その中できちんとまとめられていてどれもうまい。随筆というのはこういうものだという見本のような本といえるのではないだろうか。

さて先に書いたようにおそらくこれで今年の雑記もおしまい。というわけで、今年読んだ本をちょっと総括しておきます。まず、ここで取り上げた本は全部で159冊。雑誌や写真集、絵本なども混ざっているので、だいたい3~4日で1冊の本を読んでいる計算になるかな。これが多いのか普通のなのか分かりませんが、自分の生活を考えるとこのくらいかな、と思う。
作家別に言うと山口瞳が18冊、永井龍男が15冊、井伏鱒二が10冊、吉田健一が8冊、片岡義男が7冊、といったところが多い。山口瞳と永井龍男、井伏鱒二の3人で、43冊、約1/3というのも偏ってますね。木山捷平や上林暁、小沼丹、獅子文六、外村繁などはもっと読みたかったけれど、数的に少ないのは簡単に手にはいるわけではないから。自分では庄野潤三はもっと読んでいるような気がしたけれど、4冊だけというのはちょっと意外。絵本や写真集、デザイン関係の本もほとんど買っていないので、来年はもう少し買いたいですね。

「銀座十二章」-池田弥三郎-

銀座で三代続いた天ぷら屋「天金」に生まれた著者が、自分の経験を元に銀座の街の変遷をつづった本。年末になると銀座や浅草の昔のことが書いてある本を読みたくなってしまうのはなぜだろう。でも正直言うとこういう本を読んでいても地理的な関係あんまり分からなかったりします。特に地名は今の呼び方とぜんぜん違ったり、途中で変わったりするので、ちゃんと地図を見ながら読んでいないと、「それってどこの角??」といった疑問でいっぱいになってしまう。
私が一番長く住んでいたのは小学校から大学の時まで住んでいた二宮で、そのあとは今住んでいる井の頭沿線に7年くらいなので、こんな風に変わっていく街並みについて書くことはできませんね二宮も子供の頃から比べれば家も増えてずいぶん変わったけれど、それほど思い入れもないしね。

週末は友達とクリスマスパーティをした。そういうのは久しぶりですね。友達に12月24日生まれの人がいて、その誕生会と兼ねて昔はよく集まったのですが、うるさくて隣の人に怒鳴られて近くのファミレスに逃げ込んだり、壁を叩かれたり、いろいろあったけれど、今の家は上は外国人だし(よく何人か集まってベランダで騒いだりしてる)、隣は空き部屋だし気兼ねするものはなし。といってももう大人なのでそんなに騒ぐこともないんですが・・・・。気合い入れて部屋の飾り付けをして、ミオ犬がケーキや料理を作って、何年かぶりに三角帽子を出してみんなでかぶって、プレゼント交換して(300円以内!)・・・・と、なんだかほんとにクリスマスらしい感じの週末を過ごしました。