「LeBol カフェオレボウル」-山本ゆりこ-

うちにある2つのカフェオレボウルは、ほとんどカフェオレを飲むときに使われることはなくて、おもにはスープやごはん、あるいはちょっとしたお総菜などをよそうのに使われているのだけれど、そういった用途としても機会が、出会いがあれば、いい感じのボウルがあるといいな、なんて思っていたところ、先日、吉祥寺のギャラリー・フェブでこの本の出版記念イベント「フランスのボウルと小さな物産展」が開かれていたので、それほど期待もせずに行って、模様や形に工夫を凝らしたいくつものカフェオレボウルが、棚や階段に並べられているのを見ていたら、なんだか新しいボウルが欲しい気分になってしまい、とりあえず本を購入。実際は、どこにでも置いてあるものでもないので、ゆっくり探せばいいなぁ、と思ってます。

ところで、カフェオレボウルといえば、その存在を知って間もない頃、あるフランス映画を観ていたら(タイトルは忘れました)、朝、男の人がベッドで寝ている女性に「コーヒー飲む?」と聞いて棚から取り出したのが、カップではなくボウルで、「ホントにフランスで使われてるんだぁ」、なんて思っていたら、そのあと、無造作にボウルの中にインスタントコーヒーの粉を入れ、そのまま水道のお湯をボウルに入れて、女の人に差し出した・・・・というシーンが忘れられませんね。少なくともお湯くらい沸かして欲しいし、ミルクも入れて欲しかった。フランスの自宅におけるコーヒーの扱いなんてそんなものなのかな。日本人はなんでも凝りすぎるからね。
そんな日本人の性癖を半分皮肉りつつコーヒーの入れ方とお茶の作法を関連させていたのは、獅子文六の「コーヒーと恋愛(可否道)」でした。ついでに獅子文六は、この本を書くためにコーヒーを飲み過ぎて胃を悪くしたとか。皮肉っているのか、まじめに説いているのか、分からない話。

コーヒーついでにもうひとつ、今年になってからまったく映画を観ていないのは、会社が終わるとレイトショーにも行けない時間になってしまっているのと、休日は古本屋巡りばかりしているせい、そして大きいテレビとDVDプレーヤーを買ったので、TSUTAYAでDVDを借りたりしているせいで、かといって、予告も見てないし、チラシももらってきてないので、今なにが上映されているかぜんぜんわからないのだけれど、とりあえず、目に付いたジャームッシュ監督の「コーヒー&シガレット」を見るべく、前売り券を購入。
コーヒーとタバコにまつわる短編映画として1986年に作られたものの単独長編化らしい。11本のショート・ストーリーを連ねた掌編集なので、長編化ではないのかな。よくわからん。前売りを買うとロゴの入ったライターがついてくるのが個人的にはうれしい。黒はもうなくなっていたので、白が二つになってしまったけれどね。でも公開は4月2日から、まだまだ先ですね。

「眼中の人」-小島政二郎-

小島政二郎がまだ作家として独り立ちする前、“眼中の人”である菊池寛、芥川龍之介との交流をとおして、自己を見つめ作家をして目覚めてゆく過程を描き、また菊池、芥川だけでなくさまざまな作家が登場し、大正の文壇を知るうえでも興味深い作品。
年少より鴎外・荷風に傾倒していた著者は、まだ「三田文学」いくつか短編小説を発表しただけのかけだしの作家、文学に対して文章に対してそれなりの信念を持ちつつもそれを作品として昇華することができないでいる。だが、二歳しか歳の変わらない芥川はすでに文壇の寵児で、自宅で開いていたサロンでは文学について議論でも、その知識の「差」は悲しくなるくらい大きい、一方、菊池も文藝春秋社の創始者として会社経営も切り盛りしながら、緊迫した人間心理を描いた小説を出勤前に20~30枚書き上げる。そんな二人と食事に行ったり、旅に出たりといった出来事が語られ、そのたびに二人には「かなわない」と実感しつつも、やがて自分らしい自分の文学観をつかんでいきます。
そのときそのときの葛藤がストレートに書かれているので、読んでいると「芥川や菊池を相手になにもそこまで・・・・」という気もしないでもないのですが、この構図は、尾崎一雄が志賀直哉の弟子となり、「志賀直哉にはかなわない」という認識から「自分自身のことをそのまま、うそ偽りなく書いていこう」と腹をくくるまでの過程とほぼ同じで、師匠・弟子という関係が文壇でいきていた時代にはこういうことが多かったんだろうな、と思う。ちょっと前の時代になるけど、夏目漱石の弟子なんて、ある意味作家を目指す人にとって、ものすごく残酷なことなのでは、なんて気がしてきたり・・・・。なんにしても誰かの弟子になるということはそういうことなのかもしれないけれど。

「獅子文六全集 第十四巻」-獅子文六-

2月9日に「ちょっと厚い単行本を読んでいるので・・・・」と書いた本。「随筆 てんわやんわ」「随筆 山の手の子」「へなへな随筆」「あちら話こちら話」「遊べ遊べ」「東京の悪口」「その辺まで」といった獅子文六の随筆が7冊分収録されています。これで500円は安すぎる!
でも読むのに時間がかかってしまったのは、2月は仕事が忙しくて、昼休みと帰りの電車の中で、本を読む時間が取れなかったということが大きい。昼はほとんど机で仕事しながら食べたりしてたし、週に2回は終電間にあわず、タクシーで帰ったり、電車で帰っても寝てしまったり・・・・。ところで話は変わりますが、一人でタクシーに乗ったときって何してればいいんでしょうか。一対一だと運転手さんと話すこともなくなってしまうし、本を読むには社内は暗いし、深夜にケータイメールを出す人いるわけでもなく、ゲームボーイみたいなものは持ってないし・・・・。みんな、なにしてるんでしょうか?といっても最近は寝てることが多いですが。あぁ今週は週末2日とも休みたい。というか、振休取りたい。暖かくなってきたし、平日の神保町や浅草、鎌倉、横浜・・・・を、フリッパーズ・ギターの「すべての言葉はさよなら」をくちづさみながら、ゆっくり散歩したい。入ったことのない喫茶店に入って、ちょっと濃い珈琲を飲みながら、買ったばかりの本やレコードを眺めてみたい。OM10を首からさげて、裏道を通り抜ける猫を追いかけて写真を撮ったりしたい。池波正太郎の本に出てくるようなお店に行って、おいしいもの食べたい。おみやげにはどこで何を買おう・・・・。いや、妄想は広がっても、実際は、そんなに休めないんですけどね。

さて、「獅子文六全集」。もともと全集なんてそろえよう、なんてことは、思ったこともないけれど、一冊読むとおトクな感じがしてちょっとそろえてみようか、と改めて思ってしまったりもします。さっそくネットで検索してみたら全16冊で2万くらい、安いところだと1万5千円。一冊1000円で単行本何冊分か収録されていて、しかもその作家のほとんどの作品をいっぺんにそろえられるっていうのは、なんだかすごいことのように思えてしまいます。まぁ一冊一冊探していくという楽しみはないけどね。あと問題は置く場所?それもバラバラに買うのに比べたら・・・・。少なくとも獅子文六に関しては、随筆だけ集めた十四、十五、十六巻は探してみるつもり。で、この十四巻を読んでいると・・・・って、7冊分だもの内容が多すぎて、なにをなにから書いていいのやら・・・・。

「人生玉ころがし」-秋山安三郎-

特に理由もなく最近、この秋山安三郎や安藤鶴夫、戸板康二といった人が気になっている。でも、歌舞伎や芝居に興味がなく、実際に見たこともなく、それについての知識もまったくないので、どうしたものか、と。やはりこの本でも歌舞伎や芝居のことになると雰囲気はなんとなく分かるものの、役者の名前や芝居の題名(もしくは内容)などはちんぷんかんぷん。でも昔は落語にしろ芝居にしろ、ひとつの題名をあげるだけでその内容やそこから導き出される教訓めいたもの、あるいは登場人物たちの性格など・・・・、世代を越えて老若男女分かり合える共通認識があったんだろうと思う。
なので、私にとっては、そういう意味ではまったく理解できないわけなのだが、昔の東京やそこに住んでいる人たちの様子を味わうという意味ではおもしろい。いや、おそらくほんとうはそれさえも私にはちゃんと伝わってないんじゃないかと思うけどね。

日曜日、なんだかひさしぶりのお休みな気がするのだけれど、昼過ぎまで寝てしまい、いろいろやっているうちに、気がつけば夕方の5時前という・・・・。とりあえず郵便局でお金をおろして吉祥寺行き、KuuKuuの後にできた韓国百菜食堂 みな季へ。KuuKuuの雰囲気を微かに残しているけれど、すっきりときれいになった店内を眺め回したりして、つい「あそこにはクッキーが置いてあって・・・・」とか「カウンターがすっきりしてしまった」とか「ピアノが移動してる」など、KuuKuuの影を見つけてしまう。でも料理自体は、それほど「韓国!」という感じではなく食べやすく、特にチヂミと水餃子がおいしかった。最近はほんとサンドウィッチと菓子パン、クッキーしか食べてないんで、食べられるときはおいしいものを食べたいと思う。
といいつつ、その後、ミスタードーナッツなんか行ってしまって、寝る前までお腹が苦しいということになるはめに!みな季はデザートがアイスかシャーベットしかないのが個人的には・・・・ですね。

「雪沼とその周辺」-堀江敏幸-

いつか春が来る前に読もうと思っていた雪沼近辺に住む人々を描いた短編集。
それぞれに直接的なつながりはないけれど、ふと話の中に出てきたりとかすかにつながっている。映像にしたら通行人として見かけることだろう。出てくる人たちはたいてい人生の夕暮れを迎えた人、もしくは迎えようとしてる人たち、そして彼らがこだわり続けてきた、今の世の中では忘れら去られてしまいそうなものたち、ボーリンク場の古い機械、町レコード店、製函工場、書道教室、定食屋・・・・。彼らは、長いときが経って、これまで自分のこだわっていたことや自分の人生を振り返ってみたりする。しかしだからといって後悔に襲われたり、「いい人生だった」なんて歓喜にあふれることはなく、ただ思い出しているだけで、それがまるで雪が降っているかのようにとても静かで美しい。おそらく人生の多くを占めていたであろう、そのこだわりについても淡々としていて、執着や情熱というものは感じられない。なんて書くと寂しいストーリーのような気もしてくるけど、そういう感じをほとんど受けないのは、堀江敏幸の文章のうまさなのかもしれない。
初めて読んだと言うこともあって、いままで堀江敏幸の本の中では「郊外へ」が一番好きだったけれど、この本が一番好きかもしれない。(といっても全部読んでいるわけではないし、「郊外へ」と「雪沼とその周辺」では、作品のタイプがぜんぜん違うんだけどね)

なにやら忙しく3連休も2日は会社に出ていたり、夜も終電では間に合わずタクシーで帰ってきたりしている。でも休んだ一日は、平野恵理子の個展に行って来ました。「平野恵理子の個展に行って来た」なんて書くのは何度目か、ここ数年は和もののテーマが多かったのだが、今回は「スーパーマーケット、いらっしゃいませ」というだけに、はがきが届いたときから期待してました。やはりなんでもない「もの」や「商品」描いたらうまい。このテーマで一冊本が出ないかなぁと思ってしまう。ただ、ほとんどが同じフレームでひとつの題材を描いていたのがちょっと残念だった。もちろん帰りには移転してから初めて紀伊国屋に行ってみました。なんだか三浦屋みたいになっていたので、がっかり。じゃ、前の紀伊国屋と三浦屋の違いはなんなんだ?といわれると困るけど。

「火事息子」-久保田万太郎-

このところ会社の行き帰りにちょっと厚い単行本を読んでいるので、混み合っている通勤電車の中で片手はつり革につかまってもう片方の手で本を持って読んでいると、たった20分くらいのことなのに腕が痛くなったりしてしまう。単に私の筋力がないだけなんですけどね。でも週末くらいは荷物を軽くしたいし、歩き回ってもじゃまにならないような本が読みたいし、そもそもそれが長編ではなくて随筆をまとめたものなので、いくら好きな作家のものといえども気分的に中だるみしてきたので、ときどき違う本を間にはさむようにした。前にも書いたけれど、今、私の本棚には読んでいない本が意外とあるし。
これは、前に読んだ「ペケさらんぱん」と一緒にネットで頼んだ本。もう一冊、今日出海の本も注文したのですが、こちらはまだ未読。週末はもちろん、会社から早く帰ったときなど、こんなに古本屋さんに行っててもなかなか出会えない本というのはあるもので、まだまだ修行足りないということでしょうか。なんの修行かわかりませんが・・・・。

さて、万太郎の幼馴染み、鰻屋「重箱」の主人をモデルにしたこの作品、主人公がこれまでの生涯やお店の変遷、東京の変化などについて語っていくという形式なのですが、語り口のテンポがよく、なんだか落語を聞いているような、あるいは久保田万太郎本人に話を聞いている気分になります。借金を抱えても、地震で家が壊れても、東京から逃げる羽目になっても・・・・深刻な感じはまったくなく、「ええぃ、しょうがねぇなぁ」ぐらいのいきおいで駆け抜けている感じが爽快。そしてそういう状況に陥った主人公を、昔、父親が主人公に世話になってという理由で、その息子が主人公を助けたりと、いつかの、どこかのつながりで助ける周りの人たちとのやりとりも爽快。

「『河野鷹思グラフィック・デザイン』展 図版」

先週見に行った「河野鷹思グラフィック・デザイン」展の図版。私は、夕方、閉館ギリギリの時間に見に行って、しかもそのまま併設のカフェでお茶をしてしまったため、カフェから出たときはすでに、美術館もミュージアムショップも閉まっていて、買うことができなかったので、そのあとに見に行った友達に買ってきてもらったのです。
世界のグラフィックデザインシリーズの河野鷹思の本は持っているのだけれど、もう少し大きなサイズで欲しいと思っていたのです。かといって、「青春図會」を買うほど小遣いに余裕はない。でもロゴが反転して印刷されていたり、ちょっと雑な作りかも・・・・。

日曜日は、その友達と、共通の知り合いの結婚祝いを買いに、初めて丸ビルへ。夕方の5時に待ち合わせをしていたので、ちょっと前に行ってひとりで、うろついてみようかな、と。こんな機会ないと絶対丸ビルなんか行かないし・・・・などと、考えてはみるものの、朝から吉祥寺、荻窪、新宿と歩き、午後から少し会社で仕事なんてしていたので、待ち合わせの5時に間に合わず、遅刻、という始末。
おまけにコンランショップとフランフランではめぼしいものが見つからなくて、銀座のWatashi no Heyaに移動。Watashi no Heyaだったら吉祥寺にもいいのでわ、なんて、思ったり、前に同じようなメンバーで、友達の結婚祝いを買いに行った時に全然決まらず、新宿のコンランとフランフランの間を行ったり来たりしたのを思い出したり。今回は自分たちの趣味でファイヤーキングの を買った。使ってくれるかな。どうかな?という感じです。●●くんこの雑記見てないよなぁ。

「ku:nel」(Vol.12/2005.3.1)

先日、ミオ犬が買ってきた「スマイル・フード」と、この本を寝る前にかわりばんこに眺めていたら、久しぶりに料理でもしたいなぁ、なんて気分になってしまった。なにげにソファーの前の机の下には、高山なおみのレシピ本が置いてあったりするし・・・・。
とはいうものの、結婚してから料理なんてときどき焼きそば作るくらいだし、平日はたいてい帰ってくるのが11時くらいなので、夕ご飯を家で食べることもほとんどないわけで、実際、料理なんていつ作るんだ?という感じだったりする。これでもひとり暮らしのときは、煮物とかスープとか、適当に自分で作って食べてたのにね。いや、実はお弁当作って会社に行ったりしてたときもあるですよ。もちろんここに出てきてるような素敵なお弁当ではないけれどね。
今週末も出かける予定があるし、いつのことになるのやら。そういうふうに時間が過ぎていくうちに、料理熱も冷めてしまうのか。どうなるんでしょうかね。

その(どの?)高山なおみの本の題名をもじったような、ハナレグミの「帰ってから、歌いたくなってもい いようにと思ったのだ。」を、先日買ったのだ。最小限の編成で永積タカシのうたというよりも声を、どれだけダイレクトに聴かせるか、というテーマが、前2作でもそうだったけれど、今回はホームレコーディングということで、より際だっているように思えます。ガラス越しに陽の光が差し込む冬の晴れた日の昼間にぴったりの音楽。

「他人の帽子」-永井龍男-

昭和35年から日経新聞に230回にわたって連載された新聞小説。なにか起こりそうな、そして秘密がありそうな感じをかもし出しつつ、でも最終的に劇的なクライマックスを迎えるわけではないというのが、永井龍男らしい。新聞連載の大衆小説なのでそれほど気合いを入れて書いているように思えないし、実際、割と気楽に連載していたのだろう、なんて言ったら失礼か。
でも、おそらく現在の作家でこの感じそのままの小説を書いている人がいたら、私は「退屈」のひと言ですましてしまうだろう、と思う。昔のことだったら許せてしまうというのはなんでかな。ある意味逃げてるとも言えますが・・・・。

この作品は違いますが、永井龍男の作品も「街燈」「明日はどっちだ」「風ふたたび」など、いくつか映画化されているものがあります。原作を読んでいるものがないので、内容は分からないけれど、新聞や週刊誌に連載されたものがほとんどみたいですね。なので、どれも他愛のない物語だろうということは想像つくのだけれど、いつかそれらを見ることができたらと思ってます。そんな機会はくるかどうかは分かりませんが・・・・。それで、去年フィルムセンターで上映されたのに、すっかり気がつかなかった獅子文六原作の映画みたいならないように、フィルムセンターや阿佐ヶ谷ラピュタの上映スケジュールを、気がついたときに必ずチェックするようにしているのですが・・・・。でも、そう思っていると機会はなかなか訪れないもので、忘れたことに上映されたりするんだろうなぁ。

「クレイジー・キッズ・フード!」-スティーブ・ローダン/ダン・グッドセル-

このアイコン・シリーズは、有名な写真家からビザールなもの、レトロなもの・・・・など、たくさん出ていて、中には「トラベル広告」や「アメリカン・アドバタイジング60s」など、ちょっとひかれるものもあるにはある。でも、すぐに折れそうなソフトカバーの感じ気になったり、本のサイズが物足りなかったりしてどうも買う気にはなれない。ときどき洋書バーゲンなどでまとまって売られていたりするけれど、そういうときに限って気になるタイトルがなかったりする。逆にこの「クレイジー・キッズ・フード!」は、その本自体の安っぽさが内容と合っている気がする、というのは私の単なる“気持ち”だけかな。

お菓子のパッケージで使われたキャラクターを集めたこの本を見ていると、お菓子という安価な商品と今から見るとおおざっぱな、荒い印刷がぴったりと合っていて、ものすごくその荒さの隙間から、“夢”や“希望”がわき出てくるような気がする。高画質や精密さを突き詰めていくと、印刷としてはきれいだけれど、もともとお菓子のキャラクターというおおざっぱなものだけに、細かければ細かいほど“あら”が浮き出てしまって、加えて想像力の入り込み余地がなくなってしまって、どこか寂しい、つまらないものになってしまうのだろう。なんてことを、この本をめくっていて考えているわけでもなく、ただ「かわいいな」とか「これコピーしてどっかで使おうかな」なんて思ってたりする。

話は変わりますが、東京国立近代美術館で「河野鷹思のグラフィック・デザイン―都会とユーモア」が2月27日まで開催されている。河野鷹思は、松竹キネマの宣伝ポスターから始まって、雑誌「NIPPON」の制作や、「日宣美(日本宣伝美術会)展」への参加など、戦前から活躍するグラフィックデザイナーで、展覧会では彼が手がけたポスターや雑誌の表紙、挿絵などが展示されてる。で、日本に限らずほかのデザイナーの作品を含めて、見ていていつも思うのだけれど、戦前はデザインというより、イラストに近かったり、印刷というより版画に近いようなものが、戦後、1950年代から1960年にかけて印刷技術が発達するに従って、構成や色づかいがはっきりと洗練される。この変化はどんなデザイナーの作品を見てもすごいなぁ、と思う。

ひとつの技術を使ったものでも、一方では今から見るとその荒さによって商品が引き立ち、一方では前の時代に比べて緻密になったせいで、デザイナーの意識や手法まで影響と与える、それは単に、見方や距離によって感じる印象が違だけかもしれないけれど、なんだか不思議なことのような気がしますね。