■ドーナツについて書かれたエッセイを中心にレシピや物語、詩などを収録したありそうでなかったアンソロジー。といってもドーナツだけでは、一冊の本にならなかったということで、堀江敏幸や林望、角野栄子、いしいしんじなど書き下ろしのものも多い。
別のシリーズでのカレーと同様に、最後の清水義範の小説に明示されてるように、ドーナツと言って思い浮かぶものは人それぞれだけれど、誰もがどこかなつかしい気分になる感じが全体に漂っている。それは、カレーやドーナツという食べものの特性なのだろうか?食べものについて書いたものをまとめると自然にそうなってしまうものなのだろうか?あるいは編者がそういう思い入れを持って選んでいるからなのだろうか?まぁドーナツというとなんとなく古き良きアメリカ的な雰囲気もあるしね。いや、それは単にわたしがミスタードーナツに行き過ぎているだけか?
■1月の初めに修理に出したikontaが戻ってきた。もともと壊れていたフィルムを巻くダイアルもスムーズになったのをはじめ、ところどころ剥げていた外側もきれいになり、ファインダーもちょっと鮮明になってうれしい。11月にフィルムが入っているかと思って巻いたら、動かなくなってしまい、無理やり巻いたりしてだましだまし使っていたのですが、やはりこれを機会に直すことにしてよかった。といっても、試し撮りして現像に出して実際に写真を見るまでは安心できないけど。ということは再来週か‥‥
中古カメラ屋を除いてももうフィルムカメラも少なくなってるし、ikontaなんてなかなか見かけることもなくなってきたので、こういうことがあった時のために、もう一台ikontaを買っておきたい。といいつつ、それだったら二眼レフのカメラが欲しい、とか、それ以前に調子が悪いターンテーブルをちゃんとしたものに買い替えたい、とかいろいろ思ってしまう。物欲の春。というほど、欲しいものがいっぱいあるわけではないけれど(欲しいCD、レコードは常にいっぱいある)。
■いろいろな音楽を気の向くままに聴いてきたせいで、本当に自分が何が好きで、何を買わなくちゃいけないのか、わからなくなってる。年が明けてからはミニマル・ミュージック(と初期の電子音楽)に夢中。もともとは前にも書いたように、エレクトロニカを聴こうと思っていたのだけど、ついエレクトロニカのルーツってなんだろうなんて考えながらYouTubeでいろいろ聴いているうちにはまってしまった感じ。といっても、ミニマル・ミュージックのほうは、基本のスティーブ・ライヒとかフィリップ・グラス、テリー・ライリーくらいしか聴けてないんですけどね。ミニマル四天王と呼ばれているわりにはラ・モンテ・ヤングのCDが手に入りにくい状態になってしまっているのはなぜだろう?
■ミニマルといえば、一つのフレーズが繰り返されていくというイメージしかなかったのだけど、まぁその繰り返しの快感もありつつ、やはりそれが少しずつずれたり、変わったり、違う楽器に変わったりするところがよい。想像していたよりも、ふくよかな音楽だったというのが正直な感想。もっとストイックな音楽をイメージしてた。エレクトロニカを通過したせいか?人がやることでズレなどが生じるというおもしろさは、PC使って簡単にできてしまう今でこそ注目されるべきなのではないか、とか。
いや、普通に通勤時間や作業中のBGMとしてもいい。でも音に集中せずに流しているといつの間にか変わっていたりして「あれっ?」と思う。なんか、何かをしながら、つけっぱなしにしてビデオを見ていて、ちょっと目を離しているうちに事件が起きてがらりと雰囲気が変わってしまって巻き戻したくなる、感じ?ちょっと違う?かといって、繰り返されるフレーズに集中して聴き続けていると、つい意識が音楽から離れてしまいがちになったりして、難しい。木琴などの楽器で構成された曲は、なんだかガムランを聴いてる気分になったりするしね。
■それから、フィリップ・グラスのピアノ曲を聴いて、初めてマイケル・ナイマンが実験音楽~ミニマルの影響を受けていることに気づいた。なんか、「ピアノ・レッスン」の曲を作曲した人と、「実験音楽―ケージとその後」を書いた人、というのが長い間、いまいち結びつかなかったんですよ。聴けばすぐにわかるのに、そういうちょっとしたことをしないまま、知らないままで放置してしまうのはダメだな、と。