「象が踏んでも 回送電車IV」-堀江敏幸-

◆「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ-写真であそぶ」@東京都写真美術館

堀江敏幸の本では、エッセイから散文調の文章、身辺雑記ともフィクションともつかない掌編、評論のようなものなど、さまざまな領域の文章が、無造作に収録されているように思えるこのシリーズが一番好きかもしれない(といっても、たぶん、収録する文章も収録順も熟考されて選ばれていると思う)。ある一つのテーマに対してそれにまつわる本や写真、映画、自身の体験をまるで連想ゲームのようにつないでいくスタイル。
ほんとは取り上げられた写真や本の表紙、映画のスチールなどが、例えばページの下が区切られていて、注釈みたいについていたら親切なのだろうけど、あえて文章の説明だけで押し通す潔さが清々しい。いや、文章のみで表現していることによって、取り上げられていることの8割は知らないことでも、なんとなく想像することで楽しめるという利点もあるかな。注釈とかついてたら具体的になりすぎて隙間がなくなってしまうものね。
そもそもここにとりあげられているものが全部、実在するものとは限らないし‥‥(かなり疑い深いタイプ)

-アツコバルーの展覧会に続いて、写真美術館でやっている「植田正治とジャック・アンリ・ラルティーグ-写真であそぶ」展を見る。あとはステーションギャラリーでやっている展覧会を見るだけなのだが、年末までだしこちらはちょっと難しそう。
最初にこの展覧会のことを知ったときは、わたしは植田正治もラルティーグも好きなので、単純に一粒で二度おいしい展覧会だな、なんて思ったけれど、よく考えてみたら特に二人に交流などもなかったみたいだし、なんでこの二人なのかちょっと不思議。
二人とも生涯を通じてアマチュア写真家であったこと、作品が認められたのが遅かったこと、身近な人を被写体にして写真を撮っていること、などがあげられてましたが、ちょっと弱い気がしました。

植田正治って家族を撮った写真がよく知られているだけで、全体からしてみればそれほど多くの家族写真を残しているわけではないと思うのですがどうなんでしょう。事実、子どもたちが赤ちゃんの頃の写真、また10代、20代になった子どもたちの写真も作品としてはないですし。というか、植田正治の子どもの写真って、自分の子どもも含めて6、7歳から10歳くらいまでの年齢の子以外はあんまり見たことないかも?

逆にラルティーグは、赤ちゃんからおじいさんまで身近な人をまんべんなく撮っていて、今回の写真展でも2歳の子どもの写真の隣に、その子が大きくなって自分の赤ちゃんと一緒にいる写真が展示されたりしていて、まとめて見ると、被写体どうしの関係性や時間の経過がものすごく気になってきます。加えて、動きのある写真が多いので、その長い時間と関係性の一瞬を切り取ったという感じが伝わってきます。

そういった動きのあるラルティーグの写真に比べ、植田正治のほうは、構図や演出がきちんと決められていて動きはないというのは、もともとわかっていたものの、ラルティーグの写真と一緒に見ることによってその「静」がより強く強調されているようでした。

といった風に、わたしにとってこの展覧会で、二人の写真を交互に見ることで好きな写真家の作品の違いが際立ち、その違いを認識することによって、それぞれのよさを再認識したという感じです。

ちなみにどちらかというと植田正治の作風は、ドアノーに近いのかな、なんて思ったりしてます。ドアノーは、いかにも街角のスナップ写真ぽいけど、実際はかなり演出されたものだったらしいですしね。生まれも1912年で1歳違いだし。まぁドアノーにアマチュアぽさはあまりないですけどね。

そういえば堀江敏幸が翻訳したドアノー「不完全なレンズで」をまだ読んでない。