◆iPhoneで撮ったデジタルの写真は“写真”って言っていいんでしょうか?
こういう本を読むと普段自分がどれだけぬるま湯に浸かっているような本の読み方しているか痛感します。雑な本の読み方に慣れてしまっているので、文章の理解度のスピードに合わせて文字を追う目の動きを合わせられないんですよ。いつもの本を読むようなスピードで読んでいくと、頭の中にきちんと文章の意味が収まらないまま次に進んでいってしまうため、同じ行を何回も読んだり、一行の中でも行ったり来たりしてやっと頭の中に落ち着く感じ。ようやく半分くらいまで来たところで目の動きがゆっくりになってきて、読むスピードと理解度が(まあ実際にどのくらい理解しているという話は別として)合ってくるという状態でした。まったくもってなさけない。
そんな千鳥足のような歩き方で読んだのですが、有名な写真家の写真をとりあげながらも個人的な視点を投影させたどちらかというと総体的な写真論を考察する前半から、母親の死と生前の写真を中心に、より個人的な事象を軸にして写真の本質にたどろうとする後半へと、次第に深くなる内省の過程が、短めの文章を重ねることで重くならずに展開されていてどんどん引き込まれてしまいました。とはいうものの、ロラン・バルトが模索している内容をすべて理解できたわけでは当然ないので、また何回か読み返したい。その度に読み返してもその度に新しい発見があるような気がします。
ちょっと気になったのは、さまぎまな視点から写真についての模索がつづられている中で、「写真が“かつて、それは、あった”というノエマをもっていること」という主張(前提?)が一貫としてなされていること。、デジタル技術、CGが発達した現在においてその前提は今でもいきているのかな?
というのも、先日、渋谷のパルコに行ったときついでにP.M.Kenという写真家の「crosspoint」という写真展を見たことを思い出したから。
この写真展では、一見すると普通の風景写真のなんですが、よく見ると日本の風景と海外の風景が合成されていて、一回それに気づくと見れば見るほど、不思議な違和感が浮かび上がってくるという作品が展示されていたました。おそらくそれぞれの風景に関しては「“かつて、それは、あった”というノエマをもっている」と思うのですが、全体としては存在としてあり得ない風景なわけで、そういう表現をする写真の作品ってこれからもどんどん増えて行くと思うんですよね。
もちろんフィルムの時代からそういった合成はあったわけですが、それに比べてあまりにも完成度を高いものができてしまうのだなぁとその時も写真をみながら改めて思ったわけです。
こういうことを含めて、このところ写真に関する本を続けて読んでいて、フィルムからデジタルに移行したことによって、写真というものの存在意義や意味が大きく変わったのかもしれないということを考えたりしてます。わたし自身はいまだにフィルムを使い続けているせいで、そういうことをあんまり気にしてなかったんですよね。
そう考えると、会社の新年会で写真の話になったときに「写真と撮ったら加工したくなりません?」って言われて、こちらはトリミングさえしちゃだめなんじゃないかと思ってるのに、今の人は加工を前提にして写真を撮ってるんだなと思ったり、わたし自身iPhoneを使い始めて普段撮るデジタルの写真が携帯の時に比べて格段によくなって、「フィルムがメイン、デジタルがサブ」と言いきれなくなったりなど、自分の周りでも、写真ってなんだろうと思うような出来事もいくつか思い当たったりします。
大げさに言ってしまうと、10何年前にデジタルカメラという名前のものが出てきて、なんとなくフィルム写真から地続きのような感じでデジタル写真に移行したけれど、本質的には全然違うものだったのではないかなんて考えもあるような気がするわけです。
そうやって考え出すと、
・そもそもフィルム写真とデジタル写真では表現されるアウトプットが違うわけですよね。アウトプットが違うものを同じ写真としてくくっていいのかな?
・本の表紙をカメラで撮ったものとスキャンしたものはどう違うんだろう?カメラで撮ったら写真でスキャナーでとったら画像なの?
・どこまでも修正や変更ができてしまうデータにとってデジタル写真の時代のオリジナルプリントってなんなんだろう?
・単純にiPhoneで写真を撮ってiPhoneで見てると写真を撮って見てる気がしない、ってのはわたしが古い人間だからなのかな?
など、どんどん疑問が浮かび上がってきます。
そんなわけで、前回は今読もうと持っている写真についての本は、写真の評論家のものはリストから外していると書きましたが、その辺を含めたデジタル以後の写真のあり方みたいな評論も読んでみたくなってきました。