「貧乏サヴァラン」-森茉莉-

例えば、バート・バカラックの音楽を聴く度に、そこには音楽に関するさまざまな要素が詰まっていて、わたしにはその中のほんのいち要素しか聴き取れてないんだろうと思ってしまう。
また最近、レイ・バレットやハーヴェイ・アヴァーン、カコ、ウィリー・ボボなど、なぜかブーガルーのCDをよく聴いているのだけれど、正直に言って1960年代後半、ニューヨークで流行ったソウルミュージックなどの影響を受けたラテン音楽という言葉の意味以外は、ブーガルーがどんな音楽なのかまったく分からない。幸いラテンミュージックのCDのジャケットには、曲ごとにBoogalooとかManbo Jazz、Son Mauntuno、Mozanco、Guaguanco、Shing-A-Ling、Jala Jala、Ritmo Melon‥‥といった表記があるのでそれを信じるしかない。
まぁ別に音楽評論家ではないので、自分が聴いていて楽しければそれでよいのだけれど、もしほんの少し手も音楽の専門的なことを学んでいて、そういった細かな違いを聴き分けられる耳を持っていたらもっと音楽を聴くことが楽しくなるのではないかと思ったりもするけれど、今さらどうしようもないわけで‥‥。

そんなことを書いてみたのは、森茉莉の文章には、鴎外が使っていたような古い言葉や漢字や、当て字などが効果的に使われていて、森茉莉はそれを辞書をひくわけでもなく記憶だけで、原稿用紙に書いていたと言うことをどこかで読んだから。
多分、それは音楽や文章だけではなくて、なにかインプットがあったときに、そこからどれだけのものを受け取ることができるか、そしてそれをきちんと記憶することができるかってことが、アウトプットを出すときに重要になってくるんだろうと思う‥‥と、ここまで書いてみて、自分が何か月か前に質より量が大切みたいなことを書いたことを思い出しました!んんん。