■主人公の小説家と彼を担当する編集者、そして普通の人には聞こえない音が聞こえる音響技士の3人が、消えた言葉の辞書を作ることをライフワークとしていた亡くなった恩師の手紙の秘密を、聞こえない音をたどりながら解き明かしていくというストーリー(最終的に解き明かしたのかどうかはわからない)。
吉田篤弘の本は、「フィンガーボウルの話のつづき」や「それからはスープのことばかり考えて暮らした」など、ずっと前から本のタイトルや雰囲気が気になっていたし、クラフト・エヴィング商會の「どこかにいってしまったものたち」を、本が出たばかりの頃に買ったりしていたので、なんとなくこういう雰囲気の小説なんだろうな、とは思っていたけれど、実際に読むのは初めてです。気にはなりつつなんとなく敬遠してしまってきたのは、クラフト・エヴィング商會の作り出す世界は好きなんだけれど、細部まで作りこんだその世界にどこか素直に入り込めない感じがしてたから。
初めて吉田篤弘の本を読んだ感想としては、ちょっと現実から浮いたような設定やストーリーはやはり思っていた通りなんだけど、この本で言うとそれほど世界観が作りこまれた感じはしなくて、実際は現実離れした話なのにすっと入り込めて、そのまま一気に読んでしまいました。最後の手紙を読んだ後、登場人物たちのそれぞれの描かれなかった気持ちが、聞こえない音となって浮かび上がって、耳の中でかすかに余韻が残ります。
■もう1か月以上前のことになりますが、3月に新井薬師前にあるスタジオ35分でやっていたジョナス・メカスの写真展に行ってきました。ジョナス・メカスは、身の回りの日常風景などを撮影した映像記録で知られているリトアニア生まれの映像作家・詩人。10分くらいの短編から5時間を超える長編まで多数の作品を制作し、映画館やギャラリーでの個展などさまざまな場所、さまざまな上映スタイルで作品を上映しています。アメリカに渡ってきたばかりのころ、まだ英語を話すことができなかったため、コミュニケーションの手段の一つとして16ミリのカメラで映像を撮るようになったとどこかで読んだ記憶があるけど、本当がどうかわかりません。
この写真展では16ミリのカメラで撮ったフィルムを現像し、3~4コマ組み合わせることで、イメージが連なるように構成された作品が展示されていました。撮影されている対象もぼんやりとした風景やものが多く、それがいくつか組み合わされることで意識の動きみたいなものが浮かび上がってきて、なんとなくジョナス・メカスの過去の記憶の断片をのぞいているような気もしてきます。いや、本来、写真って、人の記憶では忘れ去られてしまうような風景やもの、人をそのまま残すわけなので、まさに記憶そのものなんですよね。
■昔に行った場所や会った人を映像としてはっきりと思えている人もいると思いますが、わたし自身はあまり記憶力がよくなくて、すぐに忘れてしまいます。何かきっかけがあって思い出したとしてもだいたいぼんやりとしているし、思い浮かんだいくつかのものたちのつながりなどもはっきりしていない場合が多かったりします。そういうことも含めて、ジョナス・メカスの作品を見ていると、行ったことも見たこともない風景なのに、被写体が日常的なものだけになんとなく自分の頭の奥にある記憶を探っているような気分になったりします。
本当は自分で撮る写真も、自分の記憶の中の映像のようなものを撮りたいと思ってるのですが、うまく伝わるような形で撮れているかいっているかはわからない。そもそも自分の記憶をうまく映像化できてない時点で記憶を表現するなんてことは無理なんだろうなとも思うわけですが‥‥