「場末風流」-小島政二郎-

予定ではPickwickWebのほうに書くつもりだったのだが、小さすぎて私のデジカメではきれいに撮れなかったのでここに書いておくと、西荻にある音羽館が開店5周年記念のピンバッジをもらった。500円以上買うともらえるとのこと。図柄は看板や袋のスタンプに使われている、本を読んでいる女の子の絵で、黒縁のものと金縁のものがあります。かわいいです。
西荻には古本屋がたくさんありますが、私が一番本を買っている古本屋は音羽館だと思う。西荻と限定しなくて、古本と限定しなくて、単に一番本を買っているお店かもしれない。仕入れの本を買うブックオフはのぞいて、自分の本ね。その次は荻窪のささまかな。この「場末風流」もここで買った本だし、そのときは小島政二郎の本をもう一冊買った。加えて、私が毎週のように西荻をうろうろするようになったのは、結婚して三鷹台から久我山に引っ越してきたときからなので、ちょうど5年になるわけで、なにげに音羽館とは開店当時以来のつきあい(というこほどでもない)になる。でも私がこんなオンラインの古本屋をやっていることは恥ずかしくて言ってません。
多分、一番はじめの時は、よみたやを探して行ったら音羽館だった、というような気がします。その頃勤めていた会社は、30人くらいの編プロだったのだけれど、思い出すだけでも、4人は西荻に住んでいて、吉祥寺に2人、私が三鷹台、もう一人久我山に住んでいた人がいたり、近所に住んでいる人が多くて、よく会社帰りに渋谷で飲んだ帰り、夜中の3時、4時にみんなでタクシーで帰ってきたりしてました。で、その西荻に住んでいる人のうちの2人が、その会社に入る前に西荻のよみたやでバイトをしてたことがあって、場所とかと聞いたような記憶があります。ただの記憶違いかもしれないけれど。いや、そういう風にしておこう。

気がつけば5年経って、そのあいだになくなってしまったお店もあるし、かわりに新しくできたお店もある。西荻に対する注目度も変わったような気がする。私もいつもまで、自転車で西荻に通える場所に住んでいるかわからないけれど、これからもいまのような雰囲気の古本屋を続けて欲しいな、と思う。これからも本を買いに行ったり、売りに行ったりしますので・・・・。

「ku:nel」(Vol.15/2005.9.1)

初めてカリプソを聴こうと思ったのは、いつのことだったのだろうか。結婚前に長崎に行ったときに、マイティ・スパロウのレコードを買った記憶があるので、仮にその前の年の夏としても1999年なので、もう6年も経っている。なのに、いまだに数えるほどしか集まっていないのは、単に中古屋にあまり置いていないから、という理由に過ぎないのだけれど、あまりにもいつまで経っても進まないので、今年はコンピレーションCDを買ってしまおうかと思っている。幸い、ここ2、3年、静かなカリプソブームが起きているらしく、カリプソのコンピCDが再発されているようだし・・・・。というわけで、まずは「Calypso Awakening」と「Trojan Calypso Box Set」を購入。ラテン音楽にもかかわらず、押しつけがましくないので、それほど暑苦しくなくて、適度にハッピーなリズムと素朴な流れるようなメロディが心地よいのと、なんとなく朝昼晩、いつ聴いてもその場になじむような気がするところがいい。もちろん社会問題を取り上げているという歌詞については、まったくわかりませんけどね。
とは言っても、実を言えば「Trojan Calypso Box Set」は3枚組だし、各ミュージシャンによってサウンドが大きく変わるということもないので、この4枚と元々持っていた何枚かのCDを繰り返し聴いていれば、それだけでカリプソはもうお腹いっぱいかも、という気分になってしまったりする。夏は始まったばかりなんですけどねぇ。

カリプソついでに、スティールパンレコードの話。こちらも(当たり前といえば当たり前ですが)基本的にどのレコードを聴いても同じようなサウンドだったりするんですが、見かけるとつい買ってしまうアイテムの一つ。最近手に入れたのはPAN AM JET NORTH STARS STEELBANDの「FORM TRINIDAD」というレコードで、これは内容はともかく、ジャケットがいい。
表側はスティールパンの形にくりぬいてあって、内側の女の人の写真が見えるようになっているダブルジャケットの(といってもその女の人が特別きれいだとか、水着姿というわけではない)、裏はホテルの庭と思われる広い庭にPanamのロゴマークが入った空色のスティールパンを演奏しているメンバーが並んでいるというもの。写真を載せられないのがもどかしい。

「角帯兵児帯」-木山捷平-

この本を出版している三月書房は、タテ15.5cm×ヨコ11.5cmの大きさ、函入・糸綴り・箔押の「小型愛蔵本」といわれる本を、1961年から出版し続けている会社。なんと社員は2人だけらしい。サイトを見たら限定70部定価10500円、なんていう限定特装本も出してました。
実際に買ったりはしていませんが、豆本を見たり、作ったりするのが好きな私としては、前々からこの形の本を古本屋さんで見かけるたびに、豆本のようなコレクションのための本ではなく、読むことを目的としていて、でも装丁などはしっかりとした小さな本、として気にはなっていたのですが、実際、「欲しい」と思える作品がなくて、という感じでした。今回、ちょっと調べてみたら、安藤鶴夫や池島信平、池田弥三郎、秋山ちえ子・・・・といった人たちの作品も出ているみたいなので、これからはもう少しちゃんとチェックしてみるつもり。
そんなに売れているわけではないだろうけれど、いつまでも地道に本を出し続けていって欲しいですね。

「ささやかな日本発掘」-青柳瑞穂-

もちろん私は骨董収集なんていう趣味はなくて、骨董に関する本もこの青柳瑞穂と青山二郎の書いたものくらいしか読んだことはない。どちらかというと青山二郎の方が、骨董にのめり込んでいると同時に、逆にどこか粋でかつスマートというイメージなのだろうか。それは単に阿佐ヶ谷と港区の違い、あるいは甲州の田舎と山の手という育ちの違いからくるイメージなのかもしれない。ただ文章的には、青山二郎よりも青柳瑞穂のほうが、やわらかく随筆っぽいくて私は好きだ。
全編において“掘り出しもの”ということに、そして、ただ飾っていくのではなく日常の中で使ってこそそのもの自体の本来の姿がわかる、ということにこだわり、自分の骨董収集を“文庫本を集めるようなもの”という青柳瑞穂だが、もちろん「価値が定まっていて高価な骨董品」≒「有名作家の初版本」、「価値が定まってなくまだ日常で使われていたり、どこかに眠っている骨董品」≒「文庫本」、という意味で、文庫本のように安い品、という意味ではない。蛇足だが、田舎の神社や民家に眠っている仏像や陶器、お面などを見つけて悦に入っている姿は、どこか地方のレコード屋さんで普段見たことのないレコードを見つけて試聴したらこれがまたすごくよくて、ヘッドフォンをつけたまま一人ドキドキしている、なんていう光景を連想してしまったりもする。いや値段と歴史が全然違いますが・・・・。

週末、本格的に暑くなる前に、と思い、八王子、国立、国分寺と中央線を下る古本屋・レコード屋をはしごしてみました。八王子を田舎とは言わないけれど、普段通っている古本屋と違うお店に行くと、なかなか手に入らなかった本を見つけたりしてうれしい。ほんとは八王子なんて中途半端なところではなく、青柳瑞穂が定期的に浜松に行くように、もう少し遠くまで出かけてみたいのだけれど、なかなかそういう機会を作れないままになってます。しかも最近は歩くコースも決まりつつあって、初めての場所に行くことはほとんどなくなってきているのも寂しい。そしてたいていの場合、その駅周辺をひととおり歩き回った後、喫茶店に入ってひと休みする。荷物が増えてきて休みたいとか、たばこをすいたい、いうこともあるけれど、一番の理由は手を洗ってハンドクリームを塗ることだったりする。
もともと手が乾いているのか、古本屋や中古レコードばかりさわっているうちに手が乾いてきちゃったのか、わかりませんが、夏でも手がカサカサしていて、いつもささくれができてしまって困ってしまう。山下達郎みたいに軍手をしてレコード屋に行くわけにもいかないし。古本屋さんや中古レコード屋で働いている人はどうしているんでしょうか。

「居心地のいい店」-小島政二郎-

私が勤めている会社の本社は名古屋にあるので、東京にいる人でも、単身赴任してきた人や週に3日だけ東京に来て残りを名古屋で仕事をするなんて人がいたりする。私は、営業でもないので、基本的にテレビ会議とメールでやりとりするだけで名古屋に行くことはほとんどないのだけれど、久しぶりに名古屋にいくとなるとちょっとウキウキしてしまう。特に今回は説明会と懇談会だけなので準備したりするものもないし、頭のなかはちょっと早めに行ってどこでお茶しようか、ということと、新幹線の中でどんな本を読もうかということだけだったりする。
片岡義男は新幹線の中で本を読むのが好きで、本を読むために新幹線で京都に行って帰ってきてもいいくらいだ、なんてことをどこかに書いている。逆に青柳瑞穂は、電車に乗って週刊誌などを読むのは一番もったいことで、車窓を流れる景色をみるのが一番贅沢なことだ、と言っているし、新幹線に乗ったら、行きは右に、帰りは左に富士山を見ないと気がすまない、なんてことを誰だったか忘れたけれど、書いている人もいたと思う。私としては片岡義男ほどでないにしても新幹線の中で本を読むのは好きだ。普通の電車よりも席は座り心地がいいし、ちょっと本に飽きたら窓の外を見たり、コーヒーを買ったりできるし、で、読み終わった頃に目的に着いていたりしたらうれしい。名古屋まで約一時間半。往復で3時間。家から品川まで往復で2時間弱。一日で5時間も読書時間にあてられることなんてめったにないわけで。・・・・と、思っていたのに、結局新幹線の中ではほとんど寝てしまって本を読むことはできず。ちなみに会場の近くにあったモンドカフェというところで、お茶しました。

その新幹線の中で読んだのが、この小島政二郎の「居心地のいい店」。小島政二郎で「居心地のいい店」なんていう題名がついていると、食べもの屋の話かな、と思ってしまいますが、そうではなくて「この本が(居心地のいい)そういう家でありたいと思っている」という気持ちを込めてつけられたタイトルらしく。基本的に身辺雑記のような内容となっている。その中でも銀座の風月堂の主人を描いた文章はその時代の職人(料理人)たちの気質が浮き彫りにされていておもしろいものになっている。

「テキサス無宿/キキ」-谷譲次-

みすず書房の「大人の本棚」シリーズで小沼丹と出会ったことが、私の読書生活に大きな変化と収穫をもたらしてくれた、といっても過言ではない。「素白先生の散歩」もおそらく元の本が手に入りにくいだけにうれしかったし、佐々木邦の「心の歴史」や小津安二郎の「『東京物語』ほか」戸川秋骨の「人物肖像集」などもいつか手に入れて読んでみたいと思ってる。思っているものの、なかなか買う機会がないのは、1冊2400円という値段のせい。だから“大人”の本棚なのかもしれないけど。大人だったら2400円くらいの本をさっと買えるようになりなさい、ということなんだろうなぁ。でも、古本屋に行くたびに、100円均一のコーナーを隅から隅まで探しているような私には、なかなか“大人”になるのは難しい・・・・。

谷譲次の本を読むのは初めてなので、解説に書いてある・・・・谷譲次、林不忘、牧逸馬の三つのペンネームを使い分けて、大正、昭和期に活躍した人で、林不忘の名前で「丹下左膳」などの時代小説、谷譲次の名前でアメリカに渡った日本人の生活を描いた「めりけんじゃっぷ」もの、牧逸馬の名前で探偵小説や現代小説を書いた。作家の長谷川四郎の兄。35歳で喘息による呼吸困難のため死去・・・・ということ以上のことは知らない。
「喘息による呼吸困難のため死去」なんていうと、20代の頃、喘息でしょっちゅうぜいぜい言っていた私としては他人事とは思えないわけで、若い頃は体力があるので、苦しくなったときに強引に力で押して、かろうじて息を吸うことができるけれど、30代になるとその体力がなくなってしまうのだろうな、と思う。話がそれますが、胃潰瘍になって以来、食べるたびに胃が痛くなってしまっていた生魚を、最近ようやく食べられるようになってうれしい。調子に乗って昼休みに海鮮丼など食べたり、刺身をつまみながらビールを飲んだりしてます。思えば、20代の後半は、喘息、胃潰瘍、ぎっくり腰を抱えた体で、フレックスの会社には1時過ぎに出勤、終電で帰ってくるか会社に泊まるという不健康な生活をしてました。終電で帰ってきて普通に吉祥寺で4時くらいまで飲んだりしてたものね。遅くとも1時には寝て、7時に起きるという今では考えられません。でもいろいろな足枷がなくなったらどうなることやら。基本的に人間は、制約がないと3時に寝て11時に起きるサイクルになりがちだ。というか、それが一番快適な一日のサイクルなのではないかと思うのだけれど、どうだろう。

閑話休題。
この「テキサス無宿/キキ」はその「めりけんじゃっぷ」ものとなるわけですが、英語の表記やカタカナが混じったリズム感のある文章は、大正、昭和初期とは思えないくらいモダンで、でもどこか昔の紙芝居のような語り口を感じさせる不思議な魅力があります。記憶があやふやなので具体的には挙げられないけれど、太平洋戦争前、大正後期から昭和初期にかけてのヨーロッパ・アメリカ滞在を直接・間接的に描いた本を、まとめて読んで見るのもおもしろいかもしれない。

「ポラロイドライフ」-モノグラム-

PickwickWebのほうを調べてみたら、私がポラロイドカメラを手に入れたのは、2003年の2月でした。コツコツとページを更新しているとこういうときに便利。といっても、前回、京都に行ったときに買ったので、わざわざ調べるというほどでもない。そのあと、北欧旅行やイギリス旅行に持っていって、旅の雑記帳を作ったりしたけれど、普段はそうそう持ち歩くこともなくて、去年は旅行にも行かなかったので、棚の下に入れっぱなしの状態になってしまってる。やはりモノがモノだけに普段の生活の中でちょっと撮って・・・・というわけにはなかなかいかないですね。来月は京都や神戸に行く予定なので、そのときは持っていっていろいろ写してみようと思ってます。今から楽しみ。その前に、練習をかねて、たまには家の中のや周りのものをポラロイドで写してみよう。

「田中小実昌エッセイコレクション1 ひと」-田中小実昌-

根気がないのか、あきっぽのか、一つのシリーズをきちんと集めると言うことができなくて、「田中小実昌エッセイコレクション」もまだ全部読んでいなかったりします。もう刊行されて3年近く経っているのでそろそろそろえておかないと手に入らなくなってしまいそう。田中小実昌の昔の本は高くて買えないので、少なくともこのくらいは、と思う。ちなみ実を言えば、出ると知ったときはあんなに盛り上がったちくまの「井伏鱒二文集」もそろってなかったりします。
「ぼく」「おんなたち」「酔払交遊録」「作家たち」「家族オペレッタ」「戦友・旧友」と章に分けられた交友録。個人的には梶山季之から山口瞳そして植草甚一に続く流れがねぇ・・・・たまらないわけですが、田中小実昌のおもしろさという点ではどうだろうか。やはり新宿の飲み屋のおねーちゃんたちとのやりとりを読んでいる方がおもしろいし、この人にしか描けないものだと思う。

週末の話になってしまいますが、金曜の夜、仕事を無理矢理切り上げて、北沢440でミスゴブリンのニアミスゴブリンフェスタに行って来ました。ミスゴブリンは、ミオ犬が4月に長崎に帰ったときに「たてまつる」に行って、高浪高彰さんからCDRをもらってきたのだけれど、あんまり実はあんまり聞いていなかったりする。
このイベントもたまたまその前の週にイベントでDJをやるJUICYちゃんと吉祥寺ですれ違って、初めて知ったという次第。6時開場、7時開演。金曜の夜、いくら仕事を無理矢理切り上げてといっても会社を出たのは7時近くになってしまう。でもホームページではアコカとミスゴブリンが出演、DJは高浪敬太郎とJUICYちゃんということだったので、ミスゴブリンが出る頃までに着いて、ちょっと高浪敬太郎のDJが聞ければいいや、なんて思いながらご飯を食べたりして、440についたのは8時過ぎ。そしてまずお客さんの多さにびっくり。決して広い会場ではないけれど後ろの方まで人がぎっしりで前に行けないくらい。おまけに遠くから来ている人もいるみたいで「もうすぐ新幹線の時間だから後ろの方でぎりぎりまで見てる」だとか「今日は子供が40度の熱を出してるんだけれど、旦那にあずけてきたのよ」なんて声が聞こえてくるし、ステージで繰り広げられているのは、なんだかコントみたいな芝居で頭の中は、びっくりを通り越してもう「???」状態です。そんな「???」状態が一時間近く続いてやっとアコカがバンドではなく劇団なのか、と気づいたり・・・・。結局、ミスゴブリンのライブが始まったのは9時半という・・・・。ライブ短いっすよ!曲もなんだか今何年なのだろうか、と思うくらいの打ち込みテクノ歌謡で懐かしいかなり気分。サウンドは80年代、歌は50、60年代(以前)という感じかな。

というわけで、下北にはいろいろな人がいるなぁ、と。なんだか驚いてばかりのイベントでしたが、一番びっくりしたのは高浪敬太郎の容姿がピチカートの時とほとんど変わっていなかった、ということかもしれません。

「末枯・続末枯・露芝」-久保田万太郎-

少し前のこと、カヌー犬ブックスのイベントやったときに、友達に「幸田がiPodを持っていないなんて意外だった」と言われたのですが、私はウォークマンの時から外で音楽を聴くという習慣はまったくなくて、電車の中では、たいてい寝ているか本を読んでいるかのどちらか。電車の中は大切な読書時間なので音楽を聴いているのはもったいない、と思う。
朝起きて家を出るまでほんと半分寝ているような状態で朝ご飯を食べたり、着替えたり、歯を磨いたり・・・・していて、駅まで歩く間も電車の中で寝ることばかり考えているのに、実際に電車に乗ってちょっと本を広げたりすると、気がつけば下北沢を過ぎてしまっていて、もうすぐ終点の渋谷だったりするのが不思議だ。その分山手線の中ではまた眠くなってしまうのだけれど、座れるはずもない。話がそれてしまったけれど、その友達はiPodで朗読をよく聞いているらしい。詳しいことを聞く時間もなかったし、忘れてしまったこともあるけれど、どこかのサイトから落としてiPodに入れているらしい。日本語なのか、英語なのかも忘れてしまった。
10何年前、名作の朗読を収録したカセットブックが本屋に並んでいるのを見かけたけれど、今はどうなのだろう。一部ではポエトリーリーディングとか根付かせようとしてるけれど、朗読を含めてあんまり一般的になっていないような気がする。アメリカでは、作家が新作を出したときに朗読会をよくやっているけれど、日本ではあまり聞かないし。普段の生活でも、声を出して本を読むということはないですね。明治くらいまでは黙読という概念がなくて、本を読む=声を出して読む、ということで、黙読という概念が成立したことで近代の読書が始まった、なんてことをどこかで読んだ覚えがあります(そしてここのどこかに書いたかもしれない)。

そんなことを思い出したのは、この「末枯・続末枯・露芝」を落語家が朗読したものを聞いてみたいなぁ、と思ったから。登場人物たちが下町の芸人だったり、商人だったりすることもあるけれど、会話が多く話のテンポもいいので、うまい噺家が読んだらより楽しめると思う。ついでに書くと、全部そうだとは言えないけれど、昔の作家で東京生まれか地方出身かの大きな違いは、落語と芝居からの影響があるかないかではないでしょうか。幼い頃から浅草の落語や芝居にふれて作家になった人と、ある程度の歳になっていきなり文学に目覚める人とではその作風が大きく違ってくる。そして前者の作品は、どうしても話し言葉を意識してしまうせいか話のテンポがよく、シリアスに陥ることがなくユーモアや皮肉に流れてしまうので、純文学というよりも中間小説としてとらえられがちになってしまうような気がします。気がするだけですが・・・・。
私などは、もちろん落語も芝居もわからないので(そもそも今の時代の40代以下の人で幼いことから落語や芝居にふれてきた人なんているのだろうか)、随筆などを読んでいても出てくる役者や噺家もしらないし、わからないことが多い。この辺はもう少し勉強する必要があるのかもしれない、と思うけれど、当時の落語と今の落語とは、娯楽としての位置づけもその内容自体もまた違うだろうし、なかなか難しい。浅草演芸ホールに落語を聞きにいったのは、何年前のことだろう。お正月だったせいもあって会場は満員だったけれど、昼頃から見初めて気がついて外に出たらもう周りは真っ暗だったというくらい時間を忘れて見てました。来年はまた行こう。じゃなくて、普段の土日に行ってもいいんですよね。意外と「タイガー&ドラゴン」の影響で人が入っていたりして、それもまたよしと。帰りはアンヂェラスでロールケーキをダッチコーヒー食べてよう。

今さらの話題ですが、普段はめったにドラマなんて見ないのに、しかもうちのDVDは録画ができないので、ちゃんと時間までに帰ってこなくてはいけないというのに、珍しく「タイガー&ドラゴン」は全部見ました。11週間ものあいだ、金曜日に夜遅くまで遊びにも飲みにもいかないなんてめずらしい。一話完結というスタイルもよかった。一回ぐらい見逃しても次は次で楽しめると思うと気楽だし。そういえば前回、同じく全話見た「濱マイク」も一話完結でした。テレビ版の「濱マイク」は、毎回違う監督が違う趣向で撮っていたので、軽やかな感じを期待していた私としては、途中からテーマが重くなったりして全部見るのはちょっとかったるかった。テーマは別として方法として、逆に「タイガー&ドラゴン」は、「落語の内容と実際のドラマとリンクさせる」という決まり事をつけて、三人くらいの脚本家で回していったほうがよかったような気がする。まぁ強引な展開も含めてなんだかんだ言いつつ毎回楽しめたらいいんですけどね。そういうことで今日の結論は“長瀬智也か岡田准一が朗読した「末枯・続末枯・露芝」をiPodに入れて電車で聞こう”ってことで。