「しあわせ かくてありけり」-野口富士男-

「わが荷風」という永井荷風論も出している野口富士男が昭和52年、66歳の頃に書いた自伝的小説。冒頭近くで主人公、夏夫の記憶の一番はじめにあるという、赤坂御所と豊川稲荷の間を入った九郎九坂、赤坂見附から清水谷公園あたり、赤坂の外堀通りと一ツ木通りの界隈がこと細かく描写されていて、つい引き寄せられてしまった。

簡単に話の内容を書くと、何か事業を企てては失敗を繰り返す父と元芸者母は、夏夫が2歳の時に離婚する。その後、母は芸者の置屋を経営し子供たちを育て、父は一旗揚げようと中国に行ったり昔の友達をつてに事業を始めたりと浮き沈みが激しい。二人は母親と血の繋がってしない祖父に強引に離婚させられたせいか、つかず離れずの関係だ。
夏夫は神楽坂の芸者屋で暮らしつつも、両親の自分たちのできなかった夢を託され慶応幼稚舎に通うが、甲斐性のない父に学費を出せるはずもなく学費を払うのは母で、父は新しい事業を始めては失敗し母の元に金の無心にくる、そして何度もそれに応じる母を夏夫は見ている。一方、夏夫は自分の居所が色街であり生家が芸者屋であることを、慶応幼稚舎での友達ひたすら隠し、夏休みは一人避暑地に出される孤独な子供だった。
で、その後、大学の中退、川端康成などのいた文化学院への入学、同人誌への参加、太平洋戦争、両親の死などが東京の風景とともに描かれているのだが、夏夫はそれらの出来事を全編をとおして静かな観察者として、淡々とその人生を語っていく。

この境遇を読んで私が思い出したのは山口瞳のことで、彼の父親も新しい事業に手を染めては失敗し、戦争時には軍事景気で羽振りが良くなったりそのあと失敗したりしている。そして祖母は昔、芸者の置屋を経営していた。これらの事実は山口瞳の大きなトラウマになっていて生涯つきまとうことになっているのだ。確かに野口富士男も自分が色街に住んでいることを必死になって隠すが、それに対する態度や気持ちはかなり冷静で、自分も母親の差し金でいとこと吉原に行って初体験をしていたりする。
野口富士男は1911年、山口瞳は1926年に生まれている。この二人の違いはそもそもの性格の違いも大きいのだろうけれど、その性格を左右したという意味でも、この15年の差の性に対する考え方や戦争に対する態度の大きな相違に、生まれる時を選べない人間の哀しさを感じてしまう。山口瞳はこの本を読んだだろうか、もし読んだとしたらどう思っただろうか。

「おいしいコーヒーをいれるために」-中川ちえ-

コーヒーのいれかたなんて言うとどうもものすごい器具に囲まれてしかめ面をした喫茶店のマスターやカウンターに座ってしたり顔で「コーヒーは○○○に限るね」とか「△△△と◇◇◇を●対■でブレンドしたものが一番」なんて言っている親父の顔が浮かんだり、コーヒーに限ったことでなくなにに対してもストイックに「○○道」なんてつけたがる日本人の悪い癖か?なんて思ってしまうけれど、そんなのは獅子文六が「可否道」なんて本を書いていた昔の話ですかね。

いつも飲んでる割には、私のコーヒーのいれ方はかなり適当で、毎日「昨日を味が違うなぁ」と思う。「今日はちょっとおいしいかも」なんて思うときもときどきあるけれど、同じようにいれてるつもりでも、次の日に飲むコーヒーはやっぱり違う。
何かの本に「同じ味のコーヒーを3度続けていれられたら一人前」なんて書いてあったのを読んだ気がするけれど、3日続けて同じ味なんてぜったい無理。っつかおとといのコーヒーの味なんて忘れてるって。

さて、この本のいいところはなんといっても薄いこと、最小限のことしか書いてないことで、なんかひととおり読んでると、次からはおいしいコーヒーをいれられるような錯覚に陥ってしまう。
それはきっとお気に入りのコーヒーカップを始めて使うときや、お店で一目惚れしたコーヒーポットでコーヒーをいれてみたとき、などと同じ。でもそういう気持ちを重ねていったらいつかほんとにおいしいコーヒーをいれることができるかもしれない。

「川釣り」-井伏鱒二-

私の釣り経験といえば小学校の頃に相模川に行ったときとうちの母方の田舎の河津にいったとき・・・・あとは何回か釣り堀に行ったっけ?そんなもの。
井伏鱒二の随筆は阿佐ヶ谷文士の中心人物としてずっと読みたいと思っていて探してはいるのだけれど、戦後すぐのものなどはなかなか手に入りにくいような気がする。改めて探してみると、そもそも随筆に限らず「黒い雨」と「山椒魚」以外の新潮文庫ってほとんど普通の本屋に置かれてない。「黒い雨」だけ読んで井伏鱒二を分かった気になるなよ。なんて私は「黒い雨」さえも読んでませんが・・・・。で、しょうがないのでその次に手に入りやすいと思われる「川釣り」を読んでみた次第。

題材が“釣り”ということもあってそれほど期待していなかったのが良かったのか、どの話も描写がどことなくユーモアでおもしろい。なんか老人が一人ぶつぶつと言いながら山の中に入って行き、釣果によって一喜一憂し、ときにはトラブルに巻き込まれてあたふたしている姿は目に浮かんでくる。中には「これは随筆なのか?創作ではないのか?」と思うくらいのものある。

6月の終わりに申請した古物商の許可がやっとおりました。ほんとは先週くらいに電話があったのですが、こちらの都合と担当者の都合が合わず、今日、会社に来る前に高井戸警察に寄って許可証をもらってきました。これまで一年ちょっと無許可でやってきてしまいましたが、これを機にまた利用してくださるみなさんに喜んでもらえるような古本屋になれるようにしなくては・・・・と思ってます。
こう言ってはなんだけれど、許可を取ったからといって一人前の古本屋さんということではないしね。最低限やらなくちゃいけないことの一つに過ぎないわけで、その最低限を一年間せずにやってきてしまって考えると返す言葉もありません。まぁいろいろな意味を含めてこれから、ということで今後もよろしくお願いします。

「文房具56話」-串田孫一-

タイトルで分かるように串田孫一が、帳面、万年筆、封筒、ペーパーナイフ、虫眼鏡・・・・など自分が愛用している文房具について語った本。書かれている文房具の絵や写真が添えてあればいいのにと思う。

最後の方の章で、戦時中に物資不足で文房具も不自由になってきたときに、まずそのときあるもので何とかしようと工夫するのだけれど、それもままならなくなってくると万年筆はこれでなければとか、原稿用紙はあれでなければと気分的な贅沢を主張していた人が、あっさりとあるもので間に合わせる、あるいはなければないで済ませるという風に転向してしまったことについて、

「文化というのは、ある底力をもった根強さがあるが、その上に築かれている部分は意外と弱いものであって、愚かな権力者があらわれて、その文化は無駄なものだと無茶なことを言い出すと、簡単に崩れて、抵抗力がない。
みんな落ちるところまで落ちると、却って気分がさっぱりとしてしまったような錯覚に陥ってしまう。
実は私はそれが恐ろしいと思った。」

と書いていて、最近これを逆のことをよく考えていたので胸にズンときた。

今の時代は、ものがたくさんありすぎてたいていのものはすぐに手に入るわけで、その上で何かを売ろうすると、結局「こだわり」と都合よく使われている「どうでもいいような些細な違い」に価値をつけることしかできなくなっていて、それに振り回されるのはどうかと思うのだ。
「気分的な贅沢」を追求していくと、最終的にはものやその価値観に振り回されてしまって疲れる。本当に手放したくない「気分的な贅沢」と切り捨てるべき「気分的な贅沢」をきちんと分けてその場その場できちんと判断していくべきなのだが、例えば作家でもミュージシャンでも何かの研究者でもなく、普通の会社員である私に本当に必要なこだわるべきものってなんなのだろうか。わからない。

「澪標・落日の光景」-外村繁-

外村繁も阿佐ヶ谷文士と呼ばれた作家のひとり。井伏鱒二の「荻窪風土記」では太宰治に次いで、青柳瑞穂と並んで登場回数が多いとのこと(私が実際に数えたわけではありませんが)。
前妻の死を扱った作品や自身の性的な告白、夫婦ともに癌の治療をしながら静かに迫りくる死について考える日々をつづったような作品など後期の短編が4編収録されている。はっきりいって暗い・つらい状況ばかりなのだが、それでもどこか穏やかな雰囲気が漂っているのはなぜだろう。今ではすっかり風景も変わってしまっただろう阿佐ヶ谷の駅前ロータリーの片隅で夕暮れ時、一人の老人がたたずみ歩いていく様子が浮かんでくる。
ほかにアマゾンで調べてみたら「草筏」「筏」といった本も手に入りやすいみたいなので見つけたら買っておきたいと思っている。そしてあまり買いたくはないとは言いつつも講談社学芸文庫の目録が欲しいこの頃です。

そういえば目録をもらわなくなったのはいつごろからか。昔は毎年新しいものが出るたびに本屋さんで文庫本の目録をもらってきて、読みたい本をチェックしたり、読む本がなくなると電車の中で目録読んでました。普段本屋では見かけないけれどこんな本が文庫になってたんだ、なんていう発見があってけっこう楽しいんですけどね。今、その頃の目録を持っていたら便利なのではないかと思ったりもするけれど、実際はじゃまなだけかもしれない。

「落葉の上を」-永井龍男-

1987年に出た随筆集。ここで書かれているのは、ちょうど私が鎌倉学園を受験したりテアトル鎌倉に映画を見に行っていた頃のことで、書かれている内容とはまったく接点はないけれどちょっと懐かしい気分になる。1985年に鎌倉文学館の鎌倉文学館初代館長に就任したときのエピソードなどもありますが、実際に行ったのはついこのあいだだし。
高校の頃、図書委員をしていて、大磯や平塚など近隣にある文学碑やゆかりの土地などに行って関係者に少し話を聞くという記事を神奈川新聞に連載していたのに、今思えばほんと何してたんだか、という感じです。

先日やっとコモエスタ八重樫の「BGM vol.1 for MODERNICA」を買って朝、晩聴いている。
一月に発売されたときにタワレコで試聴してから欲しいとは思ってたのだけれど、ここ数年、IDEEやタイムレス・コンフォート、アフタヌーンティなどインテリアショップや雑貨屋、カフェなどが選曲したコンピがたくさん出ていることもあり躊躇していたのです。そういうCDってどれもボサノバとかフレンチポップ、軽い打ち込みものなど、どれも同じようでありきたりで、心地良いといえばいんだけど、退屈といえば退屈な気がしてしまう。
岩村学、キップソーンの中塚武、松石ゲル(ザ・シロップ)、ローズアンリミテッド、5thGARDEN、そしてコモエスタ八重樫は新ユニット「シンス」などの新曲が収録されているこのCDもサウンド的にもコンセプト的にもどちらかといえばそれほど新しいというわけではない。
それよりも「コモエスタ八重樫さんのいままでの音楽で一番いい」と小西康陽に書かれているシンスのクレジットに福原マリの名前を見つけてびっくり!元shi-shonen、リアルフィッシュ、「カップルズ」が出るまではピチカートより好きだったバンドの人ですよ!なんて盛り上がってみても周りで共感してくれる人は誰もいないんですけどね。

音の方はコモエスタ八重樫が福原マリのピアノを活かしつつコラージュ(とまではいかないか)したもの。とおして聴いてもエレクトーン、ギター、コーラスなどそれぞれ曲によってフィーチャーされている楽器が異なるので飽きないし、クーラーの利いた部屋でソファーに寝ころんだりしながら聴くにはいい感じではあります。とはいっても我が家の家具は無印ばっかりなのだが・・・・。

「船の本 第3」-柳原良平-

一冊買うとついまた買ってしまうという悪い癖が・・・・。でも5冊揃えようとしない、あるいは揃わないのも悪い癖とも言えるかな・・・・。ちなみに某古本屋さんでは5冊セットで12500円で売ってました。

昨日、今日と吉祥寺、月窓寺の盆踊り。ここ数年行っていなかったなぁと思っていたのですが、3年ぶりということ。なんだやってなかったのね。でも3年ぶりで集まりが悪かったのか知りませんが、あまり縁日とかも出ていなくてちょっと寂しい。
前はタイカレーのお店やミスタードーナッツとかその他いろいろサンロードのお店が屋台を出していたのに、今年は焼きそばも売ってなくて、中央で音楽の一足先に踊り方を教えるおじさんのマイクの声だけが盛り上げそうとしているような感じ。日曜だからかな、昨日だったら盛り上がってたのかな?よく分かりませんが来年に期待!ということで。
そういえば通りがかりにちらっとテントの中をのぞいたら盆踊りのレコード(シングル盤)をテクニクスのプレーヤーでかけてました。しかもその横にはCDJが2台置いてあった。どういうことなんだろう?曲の間が空かないように頭出しとかしてるのだろうか?もしくは曲と曲のあいだにスクラッチが入ったりして!?

話は戻って、昼間は暑い中、中目黒・代官山散策。朝起きたときちょっと曇ってたような気がしたので、思いきっていってみたのだが、単なる気のせいだったらしく、歩いているとものすごく暑い。ひとりで代官山に行ったときはたいていeau cafeかオーガニックカフェに行く。ほかのところはどうもきれいすぎて一人だと落ち着かないし、そもそも入り口からして一人で入る雰囲気ではないような気がしてしまう。たばこがすえればオクラがベストなんだが・・・・。
それでも周りと見渡せば女の子しかいない店内で、一人、本を読みながらクロックムッシュを食べアイスコーヒーを飲んでいる35歳男はいかがなものか?お店にとってもちょっと遠慮して欲しい、ドトールとか行って欲しい、などと思われているのだろうか?
ところでeau cafeは、8月31日まで江ノ島の海岸でbeach house eau cafeという海の家をやっているとのこと。夕方からライブやDJイベントもあるらしいので、ちょっと行ってみたい気もする。でも「これ!」というイベントが見あたらないんだよなぁ。

「おぱらばん」-堀江敏幸-

堀江敏幸の「郊外へ」を知り合いに借りて読んだときの気持ちは忘れられない。現実と虚構とそして史実をの垣根を軽やかに飛び越えて行き来し、そしてそれらが絡み合い緻密に組み立てられた構成の前に、僕はその世界にただ夢中になり、ただため息をつくしかないという感じでした。
それから何年か経っているのに未だに全部の作品を読んでないのは、「読みたくなったときに読んでない本がまだある」という状態にいつもしておきたいからと、あんまり夢中になると、どうでもいいような本の感想とただの思いつきとつまらない毎日をなんの工夫もなく勢いだけで書いているこんな日記を続ける気力がなくなってしまうかも、と思うから。

ところで先日、仕事中にyahooのニュースなんて見ていたら、フランスの写真家、アンリ・カルティエ・ブレッソンが3日亡くなっていた、というニュースを発見してびっくり。というか、そういえばまだ生きてたんだ!という気持ちに。95歳だったそうです。
勝手言い方をしてしまえば、たぶん趣味でも何でも若い頃にカメラを手に取った人は誰でも、「ロバート・キャパになりたい」と漠然と思い、自分にそんなバイタリティや行動力がないことに気づくのではないかと思うのだけれど、同じように「ブレッソンのような写真を撮りたい」とも思い、同じように挫折するのではないだろうか。
そう思うくらいブレッソンは、「決定的瞬間は出来事を完全な構図で撮る」というカメラという機械を用いた表現の一端を完璧に行っているのだけれど、個人的にはキャパに比べて一般的でないように思われる。それはやはり「なりたい」と思わせるか「撮りたい」と思わせるかの違いで、結局のところ、純粋に写真や絵画、音楽・・・・といったものだけで世の中を振り向かせるのは難しく、人々は作品とともにその人の生き方や主張というものに大きな影響されるのだなぁと。
それは毎年12月になると思うことで、なんでジョン・レノンの評価とポール・マッカトニーの評価はあれほどまでに違うのか、どうも私には理解できないんですよ。

今日は久しぶりにブレッソンの写真でも眺めて、週末はカメラを持って街に出てみようかな、なんてふと思ったりもするけれど、ブレッソンの写真なんて見ていると、どうあがいても自分には写真を撮る才能がないのだと思い知らされてしまいます。

「船の本」-柳原良平-

ツイデニ、コンナホンモ、カッテミマシタヨ。
実を言えば柳原良平の本って、その丁寧、かつ繊細ともいえる絵の方を見てるだけで満足してしまって、文章はちゃんと読んだことがなかったりする。
船と言えば、去年北欧に行ったときに乗ったシリアラインか、高校生の時に友達3人で三宅島に遊びに行った時くらい思い浮かばない私にとって、柳原良平の描く船旅なんてどこの世界の出来事?というくらい遠くの世界なのだけれど、ちょうど夏だし、夏といえば海!海と言えば船!と、強引に気持ちを持っていって一度じっくり読んでみるのもいいのではないかとも思いつつ、そもそも柳原良平の本ってイラストレーターの本にしては文章が多すぎで、例えば平野恵理子や大橋歩みたいに絵に文章が添えてあるという感じだったら、家でソファーに座ってレコード聴きながらのんびりと読んだりもできるのにと思う。
文章が多いのはマニアたる所以なのだろうが、持ち歩いて電車の中で読むという種類の本でもないだけに(特にこの本はそうですね)ちょっと困ります。

「江分利満氏大いに怒る」-山口瞳-

で、予告どおり山口瞳。といってもこの本についてのコメントはなし。一つ引用するとすれば・・・・

もっともっともっと、暑くて暑くてガマンできないときはどうするか?次の言葉を三唱することにしている。「ブレーキ踏まずにアクセル踏んだ」

ここ何年か夏になるとロックステディとかダブとかラヴァーズなんて音楽ばっかり聴いて過ごしていたのだけれど、今年は暑いくせになぜかそういう音楽を聴く気分になれず、そしてなぜだか分からないけれど、久しぶりにソフトロックなるもの、というかコーラスですね、をどっぷりと聴いてみたくなったりして、ラヴ・ジェネレーションだとかスパンキー&アワギャング、マショマロ・ウェイなんてレコードラックを見渡して目についたレコードを取り出して聴いているのだけれど、久しぶりに聴くといいっ。こんなこというと恥ずかしいけれど気持ちが高鳴るっていうんですか。ってそれだけ。

先日、注文を受けた本の梱包をしていたら昔やっていたイベントのフライヤーが出てきた。前に一度、10年以上前の写真を挟んだまま発送してしまったことがあって、私はどうでもよかったけれどむこうはちょっと困っただろうを思ってそれから気をつけるようにしてる。
フライヤーはヤング・ピスタチオというギターポップオンリーのイベントで1997年から2年くらいいろいろなところでやってました。「僕はギターポップしか聴かない!」と公言する友達に誘われて私も参加していたのだけれど、ソフトロックとかでもダメなのです。一回オルガンジャズとかワンセットかけたときは、イベント終わってから昼過ぎまでデニーズでコーヒーおかわりしながら反省会。
そんな友達も大阪に引っ越してしまいイベントもなくなったわけですが、最近、東京に遊びに来て、「大阪でときどき回してるんだ」と言われて見せられたフライヤーにはテクノ、ハウス、パンク・・・・などの文字が!「いや最近はDJが替わるたびにかける曲がかわっていったほうが飽きなくておもいしろいんだよね」だって。おいおい、返す言葉もなしです。人も変われば変わるもんだネ。