「居酒屋兆治」-山口瞳-

「礼儀作法入門」「居酒屋兆治」「血族」「家族」「人殺し」、そのほか競馬、将棋関連・・・・これらは、山口瞳の本で後回しにしようと思っているもので、前者はそのタイトルや映画のイメージが悪いのでちょっとさけているという感じで、後者はタイミングをみて(なんのタイミング?)ちゃんと気合い入れて読もうと思っているんだけれど、なかなか読むことができない状態。
でも先日ムックを読んでいるうちに、高倉軒健や函館という映画のイメージよりも、「わが町」のような国立の街の片隅を描いた本として「居酒屋兆治」に興味がわいてきました。

日曜日、たまには足をのばしてみようと思い立ち、荻窪から中央線に乗って八王子へ。去年八王子→国立→国分寺と歩いたのは9月14日だったのでちょうど一年ぶり。今回も結局、古本屋をを中心に回って、立川、国立といったところで暗くなってしまったので、国分寺はパス。

レコード屋といえば大通りを歩いていたらRAREの看板が目に入ったのでつい横道に入っていったら、隣にはロージナ茶房が。「居酒屋兆治」の文庫本を持ってロージナ茶房でコーヒーを飲むなんてちょっと趣味悪いなぁ、でも次回いつ国立に来るかも分からないしなぁ、なんて思いつつ中に入ってみました。さすがに「居酒屋兆治」はなんなので買ったばかりの井伏鱒二の本を読んでましたけどね。
お店の中は想像していたよりも広くゆったりとしていて、大学生と思われる7、8人の団体がいたり、老夫婦が静かにコーヒーを飲んでいたり、おじさんがスポーツ新聞広げていたりする。隣のカップルはアジアの留学生みたいでかたことの日本語で村上春樹の話をしてました。
山口瞳に関係する場所を歩いてみる、なんて趣味は私にはないけれど、近いうちにレコード屋とか雑貨屋なども事前にちゃんと調べてまた国立、国分寺だけでいろいろ歩いてみたい。

「角鹿の蟹」-稲垣達郎-

稲垣達郎は1901年福井県生まれの。大学時代には同人誌に参加したり演劇活動を行っていたが、後に母校の早稲田大学にて教職に就き森鴎外を軸に日本近代文学についての研究を主に行った人。「作家の肖像」「夏目漱石」「森鴎外の歴史小説」などの著作、「森鴎外」「斉藤緑雨集」「近代文学評論大系」などの編著があります。
この本は、家族やその身辺のこと、坪内逍遥、岩本素白、會津八一、尾崎一雄、外村繁、山口剛といった早稲田ゆかりの文学者や作家の思い出が綴られたエッセイ集で、その後、編集者や専門家の間で評判になり、筑摩書房から編成を変えて1980年に刊行された本。
私は作家に対してどこの大学出身か、ましては早稲田出身なんてことは気にしたことありませんでしたが、ここに出てくる尾崎一雄や岩本素白、あついは小沼丹や井伏鱒二、横光利一なども含めて、ちょっと気になってきてます。どうでもいいけれど村上春樹も早稲田出身ですね。

このところ、土曜日はなんだか目が覚めると昼前で、つい嵐の番組なんかだらだらみて、気がつけば3時近くなっていて、お腹も減ってきたしちょっと出ますか、なんて感じで吉祥寺や西荻に出る、なんて感じで一日が過ぎてしまう。
今日も結局、西荻に出てそれいゆでシフォンケーキを食べて、古本屋や雑貨屋を回って帰ってきました。もちろんがちまいやでクッキーも買ってきましたよ。閉店まであと1カ月とちょっとなので西荻に行ったときは絶対に寄っておかなくてはね。店の中の棚や椅子も売りに出していたみたいで、端に「売約済み」のシールが張ってある。中には店で使っていたものではなくて、家で使っていたらしい家具もあって、ほんとに東京でのいらないものを捨てて田舎(たしか奄美大島)に帰るんだなぁと思う。
そういう店がどんどんなくなって、気がつけば西荻も大きなマンションばかりになってしまうんだろう。

家に帰ってテレビを見てたらアド街で錦糸町特集とやってた。先週「残しておきたい東京の風景」なんて言って、昔の面影が残る街角を「やっぱりいいねぇ。こういう風景がなくなるのは寂しいねぇ」なんて散々言い合っていたのに、今週は今度錦糸町にできる六本木ヒルズみたいなビルに大歓声をあげている。テレビのこととはいえ「なんだかなぁ」と思う。

「KAWADE夢ムック 山口瞳」

去年、発売されたときは「絶対に買わないぞ」と思っていた本。特集がいいといって雑誌やムック本を簡単に買っていると、いつのまにかそういう本がたまってしまって置き場に困ってしまうのが目に見えてるから。そうは思いつつも本屋で久しぶりに見かけたので、また立ち読みしていたら、山口瞳と木山捷平の対談が載っているではないですか。
よく考えてみれば山口瞳の小説って主張は強いけれど、自分のことや自分の周辺のことを描いた私小説がほとんどだし、後年、温泉や競馬場、あるいは絵に描きたい風景のあるところなど、いろいろなところに出かけては紀行文のようなものを書いているところなど、木山捷平と似てると言えなくもない。
これで永井龍男全集の冊子に掲載されていたという永井龍男についての文章が、単行本未収録のものとして収録されていたりしたら歓喜の嵐なんですけどね。「吉田秀雄さんや吉田健一さんが先生をしていた鎌倉アカデミアに入学して・・・・」なんて発言にいちいち反応しながら読んでます。

それにしてもこの「KAWADE夢ムック」って・・・・。名前もすごいけど、白州次郎、色川武大、武田百合子、小林秀雄、渋澤龍彦、梅図かずお、岡崎京子、押井守、クィーン、ボブ・ディラン、ポール・マッカトニー・・・・というラインナップもすごい。一貫性がまったくない。このシリーズのこの安易さがイヤで「絶対に買わない」と思っていたのですよ。ちなみにもう一冊、ミオ犬が買ったやまだないとの特集号がうちにあったりします。

「丘の明り」-庄野潤三-

庄野潤三の本は好きだけれどどうも読んでいると個人的につらい気分になるので、読まないようにしているのだが、帯に永井龍男の推薦文が書かれていたのを見てつい買ってしまった。
電車の中で夫婦者と小さい男の子を連れた母親が話している内容をスケッチしたようなものから、戦時中に中国を旅行した時のエピソードをまとめたものなど、1963年から1967年に発表された短編を収録した作品集で、庄野潤三としてはヴァラエティに富んでいる(という言い方は似合わないけど)といえるかもしれません。
どれも日常的な断片を紡ぎ合わせたような穏やかで静かな作品で、こういう作品を読んでみると機会があれば60年代くらいまでの作品は読んでみようかな、と思ってしまう。

その庄野潤三が監修を手がけている小沼丹の全集が今、未知谷という出版社から刊行されている。全4巻で現在の時点で3巻まで出ている。
私は一人の作家の全集なんて買ったこともないけれど、小沼丹の本は講談社学芸文庫でしかほとんど手に入らないだけにちょっと欲しい、と思って調べてみたら、A5判の752ページもあるかなり豪華な、見た目には辞典のような本で、1冊12000円もしました。う~ん、ちょっと私には無理か。いやたまには清水の舞台から飛び込んでみるか!?見るべきか!?

「ゼラニウム」-堀江敏幸-

台風が近づいているせいで今週も週末は雨が降ったり止んだり、という天気。2日続けて近所から出ませんでした。
ほんとは巣鴨の三百人劇場でやっている「進め!ジャガーズ 敵前上陸」を観に行こうと思っていたんですけど、朝起きてカーテンを開けた途端そういう気もなくなってしまいました。一応昨日の夜、ネットで巣鴨周辺の古本屋なんかも調べておいたのに・・・・。ここのところ週末は福生も含めて中央線沿いしか出かけてません。来週はどこかに行きたいです。

とはいうものの、先週久しぶりに仕事で徹夜をしたら、普段割ときちんと寝ているためか当日はそれほど疲れを感じなかったのですが、やはりいつまでもだるさが抜けなくて、首から背中がどんより重い感じが続いていたので、2日間ゆっくりしてようやく楽になったのでそれでよしとしよう。
来週、堺正章主演の「喜劇 昨日の敵は今日も敵」でも観に行こうかな。どうなるのやら。

「新潮日本文学アルバム 吉田健一」

先日、特に目的もなく「吉田健一」や「永井龍男」「稲垣達郎」「小沼丹」といった作家の名前で検索しては、本の好きそうな人のホームページを眺めていたら、小西康陽が吉田健一について書いた文章が紹介されていて、それが「これは恋ではない」にも収録されていると書かれていた。「これは恋ではない」が出た頃は吉田健一の本なんて読もうとも思っていなかったから読み飛ばしていたんだろう。そして今となっては小西康陽の本なんて読み返すこともないので全然気がつかなかった。
そもそも吉田健一と小西康陽が結びつかないし、日本文学と小西康陽が結びつかなかったりする。そんなことないか?

で、家に帰って久しぶりにページをめくってみたら、食べ物に関する本をまず読んで好きになり、旅に行くときに持って行ってホテルでお酒を飲みながら読んでいる、というようなことが書いてある。まったく記憶になかったけれど、これってすり込みなのだろうか。私も「私の食物誌」ではじめて吉田健一の本を読み、去年の北欧旅行に「舌鼓ところどこと」と「怪奇な話」「新編 酒にに呑まれた頭」の3冊を持っていって移動中の飛行機や電車、夜、ホテルの中などで読んでたのです。なんだかそういうのってうれしいような悲しいような気分になるね。
すり込みついでにその文章で紹介されていた「新潮日本文学アルバム 吉田健一」も購入。「これは恋ではない」でも書かれているように割と知られた写真ばかりだが、どの写真でもいい表情で写っている。そして村上春樹や村上龍でこういう本作ってもおもしろくないだろうな、とも思う。

話は変わって、昼休みを割と自由なときにとれる会社で働いているので、弁当を持ってきたときは12時45分くらいから昼休みを取って1時くらいまでに弁当を食べてしまって、それからちょっと近くでコーヒーを飲みながら本を読んだりしているのだが、その前に決まって本屋に寄ってしまう。そもそも新刊の本屋さんで本を買うことなんかほとんどないし、毎日のように寄っているので買うような本がないことは分かっているのだけれど、なんとなく平積みされている本を眺めたりしてお店の中を一周することが習慣になりつつある。
別に買うものがなくてもつい本屋やレコード屋に足が向いてしまうのはなぜだろうか。なんか自分の興味と全然関係ないおもしろそうな本やレコード(CDですね)が新しく出てるんじゃないか、と心の奥で期待してしまうのか。自分でもよく分かりません。

先日、いつもとは違う道を通って会社に戻ってきたら、大きな通りから狭い道をちょっと入ったところに古本屋を発見。それほど大きなお店ではないけれど、外に200円、300円コーナーが出ていたり2階もあったり(まだ上がってみたことはないけれど歴史関係が置いてあるらしい。)、なかなかいい感じ。会社の近くに古本屋があるのというのは素敵だ。

「井伏鱒二 弥次郎衛 ななかまど」-木山捷平-

台風が近づいてきているため、今週はどうやら雨降りの週末になりそうだったので、土曜日は、雨が降り出す午前中から自転車で荻窪に出て電車で高円寺へ。
高円寺の駅前はどこからか祭りの音がしたり、なにやらやぐら組み立てられていたりそこいらじゅうに紅白の幕が張られていたり、あるいは商店街の人たちが屋台で売るらしいものを運んでいたり駅前は慌ただしい。今週末は高円寺阿波踊りだったのね。
どうせ夜まで高円寺にいるつもりはないので関係ないけれど、高校の頃、平塚の七夕祭りの期間中、テキヤの人たちがうろつく商店街を歩いて学校に通っていた感じを思い出した。
私も神奈川出身なのでどうこう言う資格はないけれど、なんだか地方のものを強引に東京に持ってこないで欲しいなぁとちょっと思う。そういうのはその地方だからこそのおもしろさがあるのではないかと。どうでもいいか、よくないか。わからん。

木山捷平は岡山出身、井伏鱒二は広島出身だが、地理的にはかなり近い場所であるとのこと。
二人とも戦争時には故郷に疎開していて、同じように文学に携わっているような何人かの友人を含めて疎開先でも時々あっていたらしい。その頃のエピソードをなどもこの本で触れているのだが、その集まりの中に「文学をやるには東京にいかねば始まらない」みたいな雰囲気が、どことなく漂っていて、特に井伏鱒二が疎開先から東京へ出てからは、それが加速して我れ先という感じでみんな東京へ出てくる。
そして木山捷平は西荻、井伏鱒二は荻窪に住むというわけだが、この本を高円寺の喫茶店で読んでいると、その頃の様子と今の高円寺の阿波踊りが微妙に結びついてくるようで、なんだか興味深いような気がしてくる。

「大人のしつけ 紳士のやせがまん」-高橋義孝-

ドイツ文学なんていままで興味を持ったことがなく、思い浮かぶ作家といえばトーマス・マンとかヘッセ、カフカなどの学校で代表作を覚えさせられそうな作家ばかり。現代の作家なんてほとんど知らない。あっケストナーは大好きですね。
かといって、フランス文学やイギリス文学に詳しいわけでもないんですけど、同じ知らない国の本だったらドイツよりもイタリアやスペイン、ポルトガルといった国のほうがおもしろいような気がしてしまう。それは多分私が思索とか哲学といった深く物事を考えるということに無縁だからか。
そんな私がドイツ文学者であり翻訳家、文筆家の高橋義孝の本を読んでいるのは、単に高橋義孝が山口瞳の師匠だから。この本の表紙を柳原良平が描いているのもそんなつながりからだろう。ちなみに高橋義孝の師匠は内田百閒、その師匠は夏目漱石なわけですが、高橋義孝としては、夏目漱石よりも森鴎外のほうを高く評価してるのがおもしろい。やはりイギリスよりもドイツなのですね。

そんなつながりは別として、高橋義孝のエッセイはおもしろい。靴はドイツの何処の靴しか履かない(日本で売ってないのでドイツに行ったとき買ってくる)、ネクタイはあれ、ボタンはこれ、下着はそれ、と洋服から食べ物、文房具、そして朝起きたとき顔を洗う順番まで決まっていて、それを絶対に守る頑固さ、自分がいいと思えるものは徹底的にほめ、ダメだと思うのはスパッと切り落とす潔さ、そしてドイツ文だけではない知識の豊富さなど、どの文章を読んでいても何かしら得るところがあるような気がする。
私などは、ときどきその頑固さや徹底ぶりに閉口することもありますけど・・・・。はっきり言って、こんな人の下で勉強するなんてことは私にはできません。

「西瓜糖の日々」-リチャード・ブローディガン-

ブローディガンの小説は短い文章の集まりからその隙間から浮かび上がってくるさまざまな解釈や想像が、人それぞれそして読むたびに違ってくるところが好き。この本もまたいつか読み返すときが来るだろう。何冊かあるブローディガンの本をいまだに手放せないのは、手に入りにくいせいもあるけれどそれが大きい。一度読んで読む直す本って実はそれほど多くなかったりするし・・・・。

日曜日、いつものように荻窪→西荻→吉祥寺と自転車でまわったついでに、夜のおやつにと久しぶりにがちまいやでクッキーやショートブレッドを買った。で、夜、袋を開けてみると「10月に閉店する」という案内の紙が入っていてびっくり!ああいう個人でこじんまりと、でもしっかりとしたお店がなくなってしまうのは悲しい。10月までに何回行けるのかな、と思う。

8月のはじめにルーファスの新しいシングルが出たのでここ何週間かそればかり聴いている。前のミニアルバムとちょっと雰囲気の変わったハウステイストの楽曲でなんだか気持ちいい。これ聴きながらドライブとか行きたい気分になります。
それで4つ打ちの歌ものを聴きたくなってレコード屋で探してみたのだけれど、ハウスなんていままでまったく聴いたことがないもんだから何から手をつけていいか全然分からず。しかたなく前に買ったミズモトアキラの「am」なんて聴いてみたりして、「Sam the Samba Man」の途中で入ってくるアズテック・カメラの曲のフレーズに心踊らされてます。

雨が降ったりして少しずつ涼しくなってきたので、もう少ししたら昼休みにカメラでも持って会社の近くを散歩しようと思ってます。会社の近くではないけれど秋になったら・・・・と思ってた場所がたくさんあるのでこれからの季節の週末はちょっと楽しみ。

「しあわせ かくてありけり」-野口富士男-

「わが荷風」という永井荷風論も出している野口富士男が昭和52年、66歳の頃に書いた自伝的小説。冒頭近くで主人公、夏夫の記憶の一番はじめにあるという、赤坂御所と豊川稲荷の間を入った九郎九坂、赤坂見附から清水谷公園あたり、赤坂の外堀通りと一ツ木通りの界隈がこと細かく描写されていて、つい引き寄せられてしまった。

簡単に話の内容を書くと、何か事業を企てては失敗を繰り返す父と元芸者母は、夏夫が2歳の時に離婚する。その後、母は芸者の置屋を経営し子供たちを育て、父は一旗揚げようと中国に行ったり昔の友達をつてに事業を始めたりと浮き沈みが激しい。二人は母親と血の繋がってしない祖父に強引に離婚させられたせいか、つかず離れずの関係だ。
夏夫は神楽坂の芸者屋で暮らしつつも、両親の自分たちのできなかった夢を託され慶応幼稚舎に通うが、甲斐性のない父に学費を出せるはずもなく学費を払うのは母で、父は新しい事業を始めては失敗し母の元に金の無心にくる、そして何度もそれに応じる母を夏夫は見ている。一方、夏夫は自分の居所が色街であり生家が芸者屋であることを、慶応幼稚舎での友達ひたすら隠し、夏休みは一人避暑地に出される孤独な子供だった。
で、その後、大学の中退、川端康成などのいた文化学院への入学、同人誌への参加、太平洋戦争、両親の死などが東京の風景とともに描かれているのだが、夏夫はそれらの出来事を全編をとおして静かな観察者として、淡々とその人生を語っていく。

この境遇を読んで私が思い出したのは山口瞳のことで、彼の父親も新しい事業に手を染めては失敗し、戦争時には軍事景気で羽振りが良くなったりそのあと失敗したりしている。そして祖母は昔、芸者の置屋を経営していた。これらの事実は山口瞳の大きなトラウマになっていて生涯つきまとうことになっているのだ。確かに野口富士男も自分が色街に住んでいることを必死になって隠すが、それに対する態度や気持ちはかなり冷静で、自分も母親の差し金でいとこと吉原に行って初体験をしていたりする。
野口富士男は1911年、山口瞳は1926年に生まれている。この二人の違いはそもそもの性格の違いも大きいのだろうけれど、その性格を左右したという意味でも、この15年の差の性に対する考え方や戦争に対する態度の大きな相違に、生まれる時を選べない人間の哀しさを感じてしまう。山口瞳はこの本を読んだだろうか、もし読んだとしたらどう思っただろうか。