「新潮日本文学アルバム 吉田健一」

先日、特に目的もなく「吉田健一」や「永井龍男」「稲垣達郎」「小沼丹」といった作家の名前で検索しては、本の好きそうな人のホームページを眺めていたら、小西康陽が吉田健一について書いた文章が紹介されていて、それが「これは恋ではない」にも収録されていると書かれていた。「これは恋ではない」が出た頃は吉田健一の本なんて読もうとも思っていなかったから読み飛ばしていたんだろう。そして今となっては小西康陽の本なんて読み返すこともないので全然気がつかなかった。
そもそも吉田健一と小西康陽が結びつかないし、日本文学と小西康陽が結びつかなかったりする。そんなことないか?

で、家に帰って久しぶりにページをめくってみたら、食べ物に関する本をまず読んで好きになり、旅に行くときに持って行ってホテルでお酒を飲みながら読んでいる、というようなことが書いてある。まったく記憶になかったけれど、これってすり込みなのだろうか。私も「私の食物誌」ではじめて吉田健一の本を読み、去年の北欧旅行に「舌鼓ところどこと」と「怪奇な話」「新編 酒にに呑まれた頭」の3冊を持っていって移動中の飛行機や電車、夜、ホテルの中などで読んでたのです。なんだかそういうのってうれしいような悲しいような気分になるね。
すり込みついでにその文章で紹介されていた「新潮日本文学アルバム 吉田健一」も購入。「これは恋ではない」でも書かれているように割と知られた写真ばかりだが、どの写真でもいい表情で写っている。そして村上春樹や村上龍でこういう本作ってもおもしろくないだろうな、とも思う。

話は変わって、昼休みを割と自由なときにとれる会社で働いているので、弁当を持ってきたときは12時45分くらいから昼休みを取って1時くらいまでに弁当を食べてしまって、それからちょっと近くでコーヒーを飲みながら本を読んだりしているのだが、その前に決まって本屋に寄ってしまう。そもそも新刊の本屋さんで本を買うことなんかほとんどないし、毎日のように寄っているので買うような本がないことは分かっているのだけれど、なんとなく平積みされている本を眺めたりしてお店の中を一周することが習慣になりつつある。
別に買うものがなくてもつい本屋やレコード屋に足が向いてしまうのはなぜだろうか。なんか自分の興味と全然関係ないおもしろそうな本やレコード(CDですね)が新しく出てるんじゃないか、と心の奥で期待してしまうのか。自分でもよく分かりません。

先日、いつもとは違う道を通って会社に戻ってきたら、大きな通りから狭い道をちょっと入ったところに古本屋を発見。それほど大きなお店ではないけれど、外に200円、300円コーナーが出ていたり2階もあったり(まだ上がってみたことはないけれど歴史関係が置いてあるらしい。)、なかなかいい感じ。会社の近くに古本屋があるのというのは素敵だ。