「大阪の宿」-水上瀧太郎-

いつか大正・昭和初期の文壇における学閥(というのかな)について――具体的に書くとまずは早稲田、慶応から、――きちんと調べてみたいと思っている。思いつくままに簡単に書くと、早稲田は、横光利一、正宗白鳥、井伏鱒二、尾崎一雄、広津和郎、小沼丹・・・・あと個人的には、稲垣達郎とか岩本素白も入れたいところ。それから慶応では、小島政二郎、久保田万太郎、池田弥三郎、戸板康二、そしてこの水上瀧太郎などがあげられると思う。早稲田、慶応のほかに、東大仏文というのも気にはなっている。といっても、太宰治とか芥川龍之介、山田稔、澁澤龍彦、大江健三郎くらいしか思い浮かばないが。しかもあまり脈絡がない。

水上瀧太郎は、大正15年に「三田文学」を復刊させた人物、そして明治生命専務取締役として実業家と文学者の二重生活を続けた人物として、慶応出身のさまざまな作家の回想録に書かれているのを読んで興味を持った作家。
東京山の手生まれの潔癖すぎるきらいのある主人公と、周りに住むどこかいい加減な大阪人との対比が強調されて描かれるこの「大阪の宿」は、明治生命の大阪支店勤務時代に書かれた作品。もっともこの前に書かれた「大阪」に比べれば、その潔癖さもかなり緩やかになっているらしい。確かに周りの人に振り回されつつも、一方で振り回されることを楽しんでいるような感じもうかがえて、それが、小島政二郎や里見弴のさばさばした性格とは違った山の手ッ子の気質が現われているようでおもしろい。個人的には、水上瀧太郎の書く東京を舞台とした東京人たちの話を読んでみたい。

「初舞台・彼岸花」-里見弴-

講談社文芸文庫のいいところは、巻末に年表と作品の一覧が載っていることで、この本でも、生涯に20以上の長編、300以上の短編、そして随筆や紀行文など、膨大な作品を残したという里見弴の作品がリストアップされていて、それを眺めるだけでもなんとなく楽しい。といっても手に入れられるのはその中のほんの少しだけですけど。ついでにアマゾンで里見弴の作品を検索してみたら「極楽とんぼ」「道元禅師の話」「多情仏心」「善心悪心―他三編」「文章の話」「安城家の兄弟」「今年竹」「里見弴随筆集」「桐畑」「雑記帖」「秋日和・彼岸花」と、この「初舞台・彼岸花」が表示されました。12冊、これを多い見るか、少ないと見るか。
でも教科書に載っているような一部の有名な作家ではない限り、戦前に発表された作品を気軽に読むというのは、もう不可能なんじゃないと思う。当時出た本そのものを手に入れるのは難しいだろうし、もし手に入れられたとしても、旧仮名遣いの本を読めるかどうかも怪しい。そうした本も終戦直後には復刊されたのだろうけれど、それから60年も経っているわけで、そのあいだに手に入らなくなっってしまった本が、これからまた復刊されるとは考えにくい。それにしても、こんな一覧を載せておいて「300以上の短編の中から8編を選んで収録」なんて言われてもなぁ、という気はする。

昨日は代休を取って久しぶりに銀座に行ってみた。ほんとうは3月3日から大丸ミュージアム東京で「チャールズ&レイ・イームズ」展が開催されているので、ついでにそれを見ようと思っていたのだけれど、有楽町の無印でお茶したり眼鏡を買ったりしていたら、時間がなくなってしまったためキャンセル。
実際、、今、この時点で、イームズというのは、どうなんでしょう?もちろんいつ見てもいいデザインだと思うし、こういうのを一過性の流行みたいにとらえるはイヤなんですけど、現実問題として、家具というプロダクトとしてイームズを考えた場合、イームズの椅子を日本の狭いアパートやマンションにいくつも置くわけにもいかないし、部屋に合うとも思えない。ものが実用的なものだけに、そう考えると、わざわざ展覧会にいってもねぇ・・・・という気分になってしまいます。私自身、なにかデザインに関わるような仕事をしているわけでもなく、そういう方面に才能があるわけでもなし・・・・。

「Stamp stamp stamp Europe」-塚本太朗-

切手収集というのは、子どもの頃誰もが一度は夢中になるものなのでしょうか。私は集めたことのがないので分かりません。子どもの頃、集めていたものといえば、キーホルダーと切符くらいかな。キーホルダーは遠足や旅行に行ったときに必ず買ってましたね。特になにかに付ける、といったことをしていなかったので、ただ厚紙の箱に入れっぱなしで、たまってくると金属なのでその箱が重くなってしまって、持ち上げたら底が抜けたのを覚えてます。
切符の方は、もともと父親が子どもの頃、駅員さんと親しくなって、貨物列車とかに乗せてもらったりしたときにもらったものがたくさんあったので・・・・。でも単に電車に乗るたびに改札を出るときに駅員に言ってもらったり、そのまますり抜けてしまったり、という感じなので、たいしたものはない。というか、二宮発(もしくは大磯発)のものしかない。なんでかというと、私が小学生の頃は、まだ二宮駅には自動発券機というものがなくて、隣の駅に行くときも窓口で切符を買っていて、その切符がまだ厚紙だったのです。集めるのなら厚紙の切符じゃないと感じが出ないし、そもそも自動発券機の切符って一年くらい経つと文字が消えてしまうので、集める意味がない。なので、いつだったか忘れたけれど、駅が改装されて、自動発券機になった時に切符を集めるのはやめてしまいました。といっても鉄道自体にはまったく興味もなく、近くに住んでいた従兄弟たちはNゲージとか買ったり、ブルートレインの写真を撮りに行ったりしていたけれど、私は一緒にそれで遊んだことも、行ったことも、ない。今、思うとなんで切符だったのかわからん。

さて、話を戻すと、この本は、デザインの良さやかわいさで選んだヨーロッパの切手を集めたもの。もちろん、古い切手や記念切手のように一時期しか手に入らないものもあるけれど、基本的にはものすごく手に入りにくいものが載っているのではなく、ちょっと前1990年代後半に発行されたものや、今でも普通に使われているものなどが多く載っているのがうれしい。これを見て切手を集めてみよう、なんて思う人がきっと多いはず。もしくはこれまで海外旅行に行ったときに、郵便局に行くなんて思ったこともなかったけれど、次に行ったときは郵便局をのぞいてみよう、と思うはず。ちょっと前にパルコのデルフォニックスで同じような切手の展覧会(?)もやっていたし、今、切手が流行っているののだろうか?
と、書いていて思い出したのだけれど、、一昨年の12月にロンドンの骨董市に行ったときに、乗り物や建物、動物・・・・など、絵柄にあわせたテーマで何枚か束になっている切手が売られていて、カヌー犬ブックスのプレゼント用に買いましたね。ロンドンのおみやげプレゼント企画って結局やらなかった気がするし、あれって今はどこに?

「集金旅行」-井伏鱒二-

荻窪にあるあるアパートの主人が死んで、小学生の男の子がひとり取り残された。主人と親しかった主人公は。部屋代を踏み倒して逃げた人たちから勘定を取り立てるため、昔の恋人に慰謝料を請求する年増美人と一緒に、岩国、下関、福岡、尾道、福山と集金旅行に出る・・・・という話。
といっても取り立てに手こずるようなトラブルもなく、どちらかというと主人公たちとその土地で出会う人々とのやりとりがおもしろく、紀行文(というとちょっとおおげさかも)としても読めます。小説なんてそんな大げさではなく、こんなちょっとした話に、ちょっとした+αがあればいいんじゃないのかな。もちろん文章自体の魅力というのもあるけれど。ちなみに1957年に佐田啓二、岡田茉莉子主演で映画化されてます。

土曜日は午前中から表参道へ。で、用事が済んだ後に、ドラゴンフライカフェでキッシュを食べて、カウブックスをのぞいて、近くの雑貨屋(名前は忘れた)でパリのフローディングペンを買って、ギャラリー360°で、「日本の60年代のグラフィック」を見て、ロンズデイル、ブックオフといつもの道を歩き、明治通りから渋谷に出たのだが、スーツに革靴のせいか、荷物が重いせいか、太股がすでに筋肉痛。普段、私服で会社に行っているにしても、会社員としてそれはどうなんですかねぇ。

「吟味手帖」-小島政二郎-

雑誌「あまカラ」のせいで、なんとなく小島政二郎というと食べ物に詳しい、食通というイメージがあるけれど、久米正雄に「小島なんか、鼻ッつまりじゃないか。鼻ッつまりに、物のうまいまずいが分かってたまるものか」なんて言われていたとは。とはいうものの、日本のあちらこちら出かけていっておいしいものを求めるさまを読んでいると、ほんとうにたべることがすきなのだなぁ、と思う。もちろん“好き”なだけではないのだろうけれど・・・・。今の世の中なんて小島政二郎に言わせれば、まずい食材に過度に人工的な手を加えたどうしようもないものばかり、ということになるのだろうか。いや、食べ物だけでなく、空気までまずいと言われそう。

こんな本を紹介しつつ書くのもなんですが、日曜日に中目黒にあるくろひつじにジンギスカンを食べに行ってきました。倉庫を改装したという店は、古い木の柱や窓など、ところどころにその面影を残しつつ、高い天井と大きく取られたガラス窓、白いテーブル・・・・など、一見するとここでジンギスカン?と思ってしまうくらい。入り口にある上着や鞄を入れるロッカーなどもカラフルで、でもきつい印象を与えることのなくていい感じ。
その印象とは逆に、メニューはジンギスカン、追加肉、追加野菜、ライス、キムチ、あとはソフトクリームとドリンクのみ。肉の方も一般的にジンギスカンに使われる生後1歳未満のラム肉ではなく、生後1~2歳未満のマトンを使っているとのこと。帽子のようにまんなかが盛り上がった鉄板で、やわらかいお肉を焼きながら、昼間からビールを飲んでいると、いくらでも食べられそうな気分になってしまいます。隣でどこかのお店の店員らしき男の人が2人いて、まるで定食のようにガンガンお肉や野菜を焼いていたのもなんだか今の中目黒っぽい。
私は鼻ッつまりなんでぜんぜん気がつきませんでしたが、帰りに渋谷に寄って、タワーレコードのエレベーターに乗ったら、すごい羊の肉の匂いがしていたそうです。

「婚約」-山口瞳-

3月になっても寒い日が続いていて、なかなか春らしい暖かい日は来ない。しかも今日の夜から明日にかけては雪が降るらしい。まだ外は薄日が差しているという感じだけれど、どうなのだろう。

ここ一年はいろいろなことをどうもマイナス方向に考えがちだったような気がする。そしてそのマイナス方向が、どうも山口瞳の作品とマッチしていたような気もする。あいかわらず「血族」や「家族」を読む勇気はないけれど、解説では、大衆文学から純文学への移行期に書かれた作品と評されているこの短編集も、気むずかしい、悲観主義的な主人公(≒山口瞳本人)の様子が、文章や会話のあちらこちらに描かれて、全体を覆うトーンはグレーだ。黒ではないところが山口瞳らしいと思う。自分の心情としては黒なのだが、白の気持ちも分からないではない、そんな黒と白のあいだを行き来しているうちに、どんよりとしたグレーに染まってしまう。そんな感じ。

しかしどんなに寒い日が続こうともいつかは春になり、暑い夏が来るわけで、私たちはそれを待ち続けるしかない。ただいつ春になってもいいようにその準備をきちんとしておくことは大切で、それがないと単に暖かくなっただけになってしまう。そして私はまだ山口瞳の最後の文章を読んでいないけれど、「血族」や「家族」を書いた後に、山口瞳にとっての春は訪れたのだろうか。

「LeBol カフェオレボウル」-山本ゆりこ-

うちにある2つのカフェオレボウルは、ほとんどカフェオレを飲むときに使われることはなくて、おもにはスープやごはん、あるいはちょっとしたお総菜などをよそうのに使われているのだけれど、そういった用途としても機会が、出会いがあれば、いい感じのボウルがあるといいな、なんて思っていたところ、先日、吉祥寺のギャラリー・フェブでこの本の出版記念イベント「フランスのボウルと小さな物産展」が開かれていたので、それほど期待もせずに行って、模様や形に工夫を凝らしたいくつものカフェオレボウルが、棚や階段に並べられているのを見ていたら、なんだか新しいボウルが欲しい気分になってしまい、とりあえず本を購入。実際は、どこにでも置いてあるものでもないので、ゆっくり探せばいいなぁ、と思ってます。

ところで、カフェオレボウルといえば、その存在を知って間もない頃、あるフランス映画を観ていたら(タイトルは忘れました)、朝、男の人がベッドで寝ている女性に「コーヒー飲む?」と聞いて棚から取り出したのが、カップではなくボウルで、「ホントにフランスで使われてるんだぁ」、なんて思っていたら、そのあと、無造作にボウルの中にインスタントコーヒーの粉を入れ、そのまま水道のお湯をボウルに入れて、女の人に差し出した・・・・というシーンが忘れられませんね。少なくともお湯くらい沸かして欲しいし、ミルクも入れて欲しかった。フランスの自宅におけるコーヒーの扱いなんてそんなものなのかな。日本人はなんでも凝りすぎるからね。
そんな日本人の性癖を半分皮肉りつつコーヒーの入れ方とお茶の作法を関連させていたのは、獅子文六の「コーヒーと恋愛(可否道)」でした。ついでに獅子文六は、この本を書くためにコーヒーを飲み過ぎて胃を悪くしたとか。皮肉っているのか、まじめに説いているのか、分からない話。

コーヒーついでにもうひとつ、今年になってからまったく映画を観ていないのは、会社が終わるとレイトショーにも行けない時間になってしまっているのと、休日は古本屋巡りばかりしているせい、そして大きいテレビとDVDプレーヤーを買ったので、TSUTAYAでDVDを借りたりしているせいで、かといって、予告も見てないし、チラシももらってきてないので、今なにが上映されているかぜんぜんわからないのだけれど、とりあえず、目に付いたジャームッシュ監督の「コーヒー&シガレット」を見るべく、前売り券を購入。
コーヒーとタバコにまつわる短編映画として1986年に作られたものの単独長編化らしい。11本のショート・ストーリーを連ねた掌編集なので、長編化ではないのかな。よくわからん。前売りを買うとロゴの入ったライターがついてくるのが個人的にはうれしい。黒はもうなくなっていたので、白が二つになってしまったけれどね。でも公開は4月2日から、まだまだ先ですね。

「眼中の人」-小島政二郎-

小島政二郎がまだ作家として独り立ちする前、“眼中の人”である菊池寛、芥川龍之介との交流をとおして、自己を見つめ作家をして目覚めてゆく過程を描き、また菊池、芥川だけでなくさまざまな作家が登場し、大正の文壇を知るうえでも興味深い作品。
年少より鴎外・荷風に傾倒していた著者は、まだ「三田文学」いくつか短編小説を発表しただけのかけだしの作家、文学に対して文章に対してそれなりの信念を持ちつつもそれを作品として昇華することができないでいる。だが、二歳しか歳の変わらない芥川はすでに文壇の寵児で、自宅で開いていたサロンでは文学について議論でも、その知識の「差」は悲しくなるくらい大きい、一方、菊池も文藝春秋社の創始者として会社経営も切り盛りしながら、緊迫した人間心理を描いた小説を出勤前に20~30枚書き上げる。そんな二人と食事に行ったり、旅に出たりといった出来事が語られ、そのたびに二人には「かなわない」と実感しつつも、やがて自分らしい自分の文学観をつかんでいきます。
そのときそのときの葛藤がストレートに書かれているので、読んでいると「芥川や菊池を相手になにもそこまで・・・・」という気もしないでもないのですが、この構図は、尾崎一雄が志賀直哉の弟子となり、「志賀直哉にはかなわない」という認識から「自分自身のことをそのまま、うそ偽りなく書いていこう」と腹をくくるまでの過程とほぼ同じで、師匠・弟子という関係が文壇でいきていた時代にはこういうことが多かったんだろうな、と思う。ちょっと前の時代になるけど、夏目漱石の弟子なんて、ある意味作家を目指す人にとって、ものすごく残酷なことなのでは、なんて気がしてきたり・・・・。なんにしても誰かの弟子になるということはそういうことなのかもしれないけれど。

「獅子文六全集 第十四巻」-獅子文六-

2月9日に「ちょっと厚い単行本を読んでいるので・・・・」と書いた本。「随筆 てんわやんわ」「随筆 山の手の子」「へなへな随筆」「あちら話こちら話」「遊べ遊べ」「東京の悪口」「その辺まで」といった獅子文六の随筆が7冊分収録されています。これで500円は安すぎる!
でも読むのに時間がかかってしまったのは、2月は仕事が忙しくて、昼休みと帰りの電車の中で、本を読む時間が取れなかったということが大きい。昼はほとんど机で仕事しながら食べたりしてたし、週に2回は終電間にあわず、タクシーで帰ったり、電車で帰っても寝てしまったり・・・・。ところで話は変わりますが、一人でタクシーに乗ったときって何してればいいんでしょうか。一対一だと運転手さんと話すこともなくなってしまうし、本を読むには社内は暗いし、深夜にケータイメールを出す人いるわけでもなく、ゲームボーイみたいなものは持ってないし・・・・。みんな、なにしてるんでしょうか?といっても最近は寝てることが多いですが。あぁ今週は週末2日とも休みたい。というか、振休取りたい。暖かくなってきたし、平日の神保町や浅草、鎌倉、横浜・・・・を、フリッパーズ・ギターの「すべての言葉はさよなら」をくちづさみながら、ゆっくり散歩したい。入ったことのない喫茶店に入って、ちょっと濃い珈琲を飲みながら、買ったばかりの本やレコードを眺めてみたい。OM10を首からさげて、裏道を通り抜ける猫を追いかけて写真を撮ったりしたい。池波正太郎の本に出てくるようなお店に行って、おいしいもの食べたい。おみやげにはどこで何を買おう・・・・。いや、妄想は広がっても、実際は、そんなに休めないんですけどね。

さて、「獅子文六全集」。もともと全集なんてそろえよう、なんてことは、思ったこともないけれど、一冊読むとおトクな感じがしてちょっとそろえてみようか、と改めて思ってしまったりもします。さっそくネットで検索してみたら全16冊で2万くらい、安いところだと1万5千円。一冊1000円で単行本何冊分か収録されていて、しかもその作家のほとんどの作品をいっぺんにそろえられるっていうのは、なんだかすごいことのように思えてしまいます。まぁ一冊一冊探していくという楽しみはないけどね。あと問題は置く場所?それもバラバラに買うのに比べたら・・・・。少なくとも獅子文六に関しては、随筆だけ集めた十四、十五、十六巻は探してみるつもり。で、この十四巻を読んでいると・・・・って、7冊分だもの内容が多すぎて、なにをなにから書いていいのやら・・・・。

「人生玉ころがし」-秋山安三郎-

特に理由もなく最近、この秋山安三郎や安藤鶴夫、戸板康二といった人が気になっている。でも、歌舞伎や芝居に興味がなく、実際に見たこともなく、それについての知識もまったくないので、どうしたものか、と。やはりこの本でも歌舞伎や芝居のことになると雰囲気はなんとなく分かるものの、役者の名前や芝居の題名(もしくは内容)などはちんぷんかんぷん。でも昔は落語にしろ芝居にしろ、ひとつの題名をあげるだけでその内容やそこから導き出される教訓めいたもの、あるいは登場人物たちの性格など・・・・、世代を越えて老若男女分かり合える共通認識があったんだろうと思う。
なので、私にとっては、そういう意味ではまったく理解できないわけなのだが、昔の東京やそこに住んでいる人たちの様子を味わうという意味ではおもしろい。いや、おそらくほんとうはそれさえも私にはちゃんと伝わってないんじゃないかと思うけどね。

日曜日、なんだかひさしぶりのお休みな気がするのだけれど、昼過ぎまで寝てしまい、いろいろやっているうちに、気がつけば夕方の5時前という・・・・。とりあえず郵便局でお金をおろして吉祥寺行き、KuuKuuの後にできた韓国百菜食堂 みな季へ。KuuKuuの雰囲気を微かに残しているけれど、すっきりときれいになった店内を眺め回したりして、つい「あそこにはクッキーが置いてあって・・・・」とか「カウンターがすっきりしてしまった」とか「ピアノが移動してる」など、KuuKuuの影を見つけてしまう。でも料理自体は、それほど「韓国!」という感じではなく食べやすく、特にチヂミと水餃子がおいしかった。最近はほんとサンドウィッチと菓子パン、クッキーしか食べてないんで、食べられるときはおいしいものを食べたいと思う。
といいつつ、その後、ミスタードーナッツなんか行ってしまって、寝る前までお腹が苦しいということになるはめに!みな季はデザートがアイスかシャーベットしかないのが個人的には・・・・ですね。