「This Is Venice」「This Is Ireland」-Miroslav Sasek-

サセックの旅行絵本は、復刊されるたびに買っている。
多分、毎月2冊ずつ、といった感じで復刊されるのではなく、不定期に(?)ある程度間隔があいて復刊されるので、買いやすいのだろう。代官山の本屋ではじめてこの2冊を見かけたのはかなり前のことだったような気がする。絵のかわいさはいうまでもなく、ベニスの水色もアイルランドの濃い緑もとてもきれいで、表紙を手前にして本棚に並べておきたいくらいだ。このペースで少しずつ復刊していって欲しいと思う。

小遣いの問題もあるけれど、だんだん歳をとってくると、年月が過ぎるのが早くなるので、そう頻繁にいろいろなものが発売されると、追いつけなくなってします。昔は発売日になるのを楽しみにしていた月刊誌も、最近では、月間だともう次の号が出てるの?という気分になっていまうので、隔月がちょうどいい、なんて思っているし(そういう意味で「KuuKuu」はこのまま隔月のままでいて欲しいと思う)、好きなミュージシャンの新譜も、2年か3年置きぐらいがちょうどいい。むしろそのくらい待たされたほうが、発売されるときに気分が盛り上がるというものです。かといって、達郎みたいに5年も6年も間があいてしまうのもどうかと思うが・・・・。それに無理して毎年同じようなアルバムを出すよりも2年に一枚にくらいにしてじっくりと作ったほうが、長く聴けるいいものが絶対出せるって、思うんですけど。それでは生活していけないのだろうか。

それで、「今日、6年ぶりに発売されたTOKYO No.1 SOUL SETの「Outset」を買った・・・・」なんて、話を続けられると気持ちがいいのだけれど、そもそもまた「Outset」は出てないし、すぐに買う気も今のところなかったりする。私の気持ちとしてはもうソウルセットなんて、過去のバンドという認識だったのですが、(でも「Jr.」は、いまでも大好きなアルバムでときどき聴いてるんですけどね。)昨年出たZoot16が思いのほか良かったので、ちょっと期待してる。とりあえず週末にレコード屋に言って試聴してみますか。

「Petunia」-Roger Duvoisin-

久しぶりにアマゾンで買った本のうちの一冊。前回(といってもそれがいつだったか?)注文したときは、品切れか何かで手に入らなかったのだけれど、今回は意外と早く届いたのでうれしい。翻訳もされていて、日本語のタイトルは「がちょうのペチューニア」となってます。Roger Duvoisinの本は「White Snow Bright Snow」に続いて2冊目。ちょっと絵のタッチが違いますね。絵本は買いだすとどんどん欲しくなるんですよねぇ。

6月に入ってちょっと気分的にバタバタしているという感じではあるのですが、1日から始めたかった二周年記念のプレゼントページを、ようやく今日アップできました。今回もワンパターンだけれど、一昨年の12月にイギリスに行った時の写真を選んでMOサイズの写真集を作りました。カバーは靴の模様が入ったピンクの布にしたので、今まで一番かわいいものになったかな。中身の写真とあっていないという意見もありますが・・・・。ホントはその年に撮った写真をセレクトする形で一年に一回まとめる、というのが理想なんですけどね。今年はもう少し写真を撮り溜めて来年の写真集に使えるようにしたい。
とはいうものの、「最近、写真を撮っていないのでもっと撮りたいなぁ」なんてことをもうどのくらい思い続けているのか。私は写真を撮りにどこかへ行くというほど、本格的に写真を撮っているわけではなくて、単に街を散歩している時などに気がついた風景やものを撮っているだけなのだのだけれど、いっつも古本屋とレコード屋を結んだ同じ道ばかりで、寄り道もせずに歩いているので、写真という気分ではないのだ。たまにはいつもとは違う雑貨屋やおもちゃ屋に寄ったり、横道に入ってみたりすればいいのだけれど、その余裕がどうもない。それはカメラを持ってないからなのか、余裕がないからカメラを持ち歩く必要がなくなってしまうのか?
あぁ、どうでもいいことですみませんでした。

「禁酒宣言 上林暁酒場小説集」-上林暁-

これは一つの考え方なのですべての場合に当てはまるというわけではないけれど、物事を好きになるということの基準のひとつに「ひとりでする」かどうかということが挙げられると思う。例えば、映画。子供の頃はたいてい親や兄弟たち、友達と見に行っているけれど、映画が好きになると次第にひとりで映画館に入り浸るようになる。ライブやクラブ、あるいは旅行などもにいくのもそう。初めは誰かと一緒に行くけれど、だんだんとひとりで行くようになる。ずっと友達と一緒かもしれない。だからといって映画などが好きではないということにはならないけれど・・・・。でも“何かをひとりでする”ということは、やはりほんとうに好きだからだと思う。
そういう基準からいうと私はそれほど酒が好きというわけではないと言えるのだろう。自分から誰かを誘って飲みに行くことはあってもひとりで飲みに行くということはない。それほど飲めるわけでもない。記憶がなくなるくらい酔ったこともないし、最近は吐くまでの呑むこともない。たいてい中ジョッキ4杯か5杯くらいでやめる。近所の荻窪や吉祥寺で呑む時は、自転車で家まで帰えるあいだに酔いがまわるので、気をつけるようにもしている。

そのわりには読む本に関しては、酒好きの作家が多い。この上林暁、井伏鱒二、木山捷平、外村繁、小沼丹など、中央線、阿佐ヶ谷周辺の作家はもちろん、永井龍男や吉田健一、そして山口瞳などもそう。呑まない作家と言えば小島政二郎くらいもしれない。そしてこの人たちはみんな当然のようにひとりでも飲みに行く。そして何軒も酒場を梯子し、最後には記憶もあやふやになってふらふらと家路につく。
この本は、7年間の闘病生活の後、昭和21年に妻を失い、酒に慰めを求めるようになった時期から、ついには身体をこわして「禁酒」を余儀なくされるまでのあいだに書かれた作品をまとめたもの。宿酔と悔恨をいくら重ねても止められず、毎晩のように酒場を放浪し、寂しさから酒場のマダムに心をよせ、時に切実に壮絶に耐え難い酒に対しての悔恨を語り、時にマダムや酒場で出会う人々とのやりとりを滑稽に描いている。山口瞳も含めて、なんで私はこんなに“酒飲み小説”が好きなんだろうか。

「小黒坂の猪」-井伏鱒二-

突然ですが「物事を深く狭く掘り下げるタイプ」か「広く浅く掘るタイプ」のどちらかと言えば、私はそのどちらでもなくて、昔、友達に指摘された言葉を使うなら、「あるきっかけがあって地面に穴を掘ったら、そこからもぐらのように地下2mくらいの場所を掘り続けている」という感じ。しかも本当に適当に偶然に頼って掘っているので、まったく体系的な把握ができないし、ときどき自分が掘った穴に戻ってしまったりする。

本について言えば、最近、「どんな本を読んでいるか?」という質問に対して、「阿佐ヶ谷文士と鎌倉文士」と答えているのだけれど、それも、たまたまお店で小沼丹と手に取ったのがきっかけで、その小沼丹から井伏鱒二を再読し、そのついでで木山捷平、上林暁、外村繁、青柳瑞穂と辿って見ただけで、それぞれの作家が文学史の中でどのように評価されているのか、どのような位置にいるのか、なんてことはぜんぜん分からない。そもそも阿佐ヶ谷文士と言われる人々をうまく説明もできない。なので、その後に「例えば、井伏鱒二とか」なんて言ってしまうのだが、話し相手との共通認識は「黒い雨」と「山椒魚」しかなく、しかも私は「黒い雨」を読んでいるわけでもなく、「・・・・」となってしまう。かといって、「阿佐ヶ谷文士」というキーワードに対して、「私小説がどうたらこうたら」とか「私小説の作家では○○が好きだ」なんて言われてもこちらとしては困ってしまうわけで・・・・。
10年くらい前、バイト先の友達から「どんな音楽を聴いてる?」という質問に対して、つい「ピチカート・ファイブとかフリッパーズ・ギターとか」と答えると、たいてい「オザケンね」という答えをされて困ってしまったのを思い出す。かといって、当時渋谷系と言われていた人たちや、その元ネタのミュージシャンなどを挙げられてもわからなくて困る。こちらは単に、大滝詠一から適当に辿って行ってるだけなんだから。
音楽や本などを含めて、趣味の話をするのは難しい。思い入れが接し方がそれぞれ違うからねぇ。個人的なことなので詳しくは書かないけれど、もともとフリッパーズ・ギターが好きだったということはあるけれど、もし小沢健二が、1992年に「犬キャラ」を出して1993年に「Life」を出していたら、小沢健二に対して思い入れは全然違っていたと今となっては思う。もしかしたらまったく聞いてなかったかもしれない、とさえ思う。

今日、二子玉川の多摩川河川敷で行われた「王子様(ozaken)ピクニック」で、オザケンの曲に合わせて、歌いながら踊っている人を見ながら、そしてときどき一緒に踊りながら、ここにいる人はこれまでのどんな時に小沢健二の曲を聴いていたのだろうか、全員がそれぞれ違うのだろうなぁ、なんてことをそんな風に考えたりしてたわけですね。いや、ホント言えば、オザケンとかどうでもよくて、晴れた日に多摩川の河川敷という野外で、大音量で音楽聞きながら、シートの上に寝ころんだり、お菓子食べたり、フリスビーしたり、川沿いを歩いたり、飛行船を見ながら煙草をふかしたり・・・・してる、それだけでいい気分でした。

「半ドンの記憶」-上林暁-

上林暁、29作目、最後の作品。昔の作品も読んでみたいけれど、簡単に手に入りそうもないし、新たに出そうもないのが残念。とりあえず今日、坪内祐三が編集した「禁酒宣言」を今日はネットで注文したので届くのが楽しみ。

下北のモナレコードで31日まで行われている「まほ&さいだぁ≡博」に行って、ついでにEXPO LUNCHを食べる。モナレコードは、レコード屋とカフェが併設されていて、夜はライブも行われるらしい。レコード屋と言えばいいのか、カフェと言えばいいのか、ライブスペースと言えばいいのか、わからないところ。そして壁をスクリーンにして曽我部のライブが映し出されていて、BGMはキセル、という、いかもに下北らしい場所。私はそれほど、下北という街にも、ましてやそれをとりまく演劇や音楽といった文化にもそれほどに思い入れはないので、ちょっと居心地が悪いような気分になってしまいました。ちなみにEXPO LUNCHは、ハンバーグとトマト、そしてアボガドが挟まったハンバーガーとポテト、ブルーベリーのヨーグルトというセット。ポテトには「まほ&さいだぁ≡博」の旗が立ってます。ハンバーガーが厚くてガブリと食べられずにバラバラにして食べたのだけれど、おいしかったです。
ひさしぶりの下北の街は、なくなっているお店がところどころに散見して、空き地や工事中になっていたりして、少し寂しかった。

「鳴るは風鈴」-木山捷平-

木山捷平の本は、表紙の絵なども含めてよい雰囲気を出しているもが多く、できれば単行本でそろえたいのだけれど、彼のゆるやかなユーモア漂う作品には根強いファンがいるようで、古本屋さんで見かける木山捷平の本は割と高い値段が付けられていて、私にはちょっと手が出ない。だから少なくとも講談社文芸文庫から出ている9冊はそろえたいつもりで、本屋さんで見かけた時には必ず買うようにしている。ブックファーストやパルコブックセンターなどで探しても意外とないのです。
そんな風に思っている割には、たまたま時間があったので、一日で読み終えてしまった。ほんとうは、2冊くらい持ち歩いてゆっくりと読むか、もしくは旅行にまとめて持っていってじっくりと読みたい、と思う。そういう意味で、小沼丹の文庫を、ランカウイ島の、町に出るにはタクシーで1時間以上かかる森の中のホテルで、プールサイドや部屋のベッドサイド、海を見渡せるテラス席でまとめて読んだのは贅沢だったなぁ、と思う。いつかそういう時には、木山捷平の文庫本を持っていって再読することにしよう。

今年の夏は久しぶりにブラジルものとジャマイカもののレコードを聴いてみようと思って、寝室にあるレコードからブラジルものを引っ張り出して、テレビの下のラックに移動させてみました。ブラジルものは年々かおきに自分の中でブームが起きているわりには、思っていたよりも少なくて、20cmくらいしかなかった。これから9月くらいまでは、ブラジルものもジャマイカものも再発盤がものすごい勢いで出ているので、その辺を適当に選んで、レコードを買っていくつもり。と言ってもソウルセットやハーブビーなどの新譜が出たら当然買うので、そればかり、というわけではないですけどね。

「日本のよさ」-吉田健一-

日本のよさとかわるいところとか考えていると、いやな気分や憂鬱な気分になりがちなので、あまり考えたくないというのが本音。加えて私の少ない知識で、歴史等について中途半端なことを書くのもどうかと思うし、カヌー犬ブックスの雑記としてもどうかと思うので書かない。いや書けない。けれど、ときどき疑問に思うのは、あれほど戦争は悪いということを主張しつつ、いまだに歴史の教科書で戦国武将を英雄扱いするのはどうゆうことなのだろうか、ということだったりする。国内だったら戦争をしてもかまわないということなのだろうか。まっどうでもいいんですけど。

さて、昼間少し時間が空いたので、ギンザ・グラフィック・ギャラリーでやっている和田誠のグラフィックデザイン展を見に行く。今まで何度も行きたい展覧会があったにも関わらず、ギンザ・グラフィック・ギャラリーに行くのは初めて。なのに、行ったことがある気分で銀座の街を歩いて行って、たどり着いたのは資生堂ギャラリー。すっかり勘違いしてました。慌てて本屋で場所を調べたら、資生堂ギャラリーから近くだったので良かった。
和田誠のイラストやデザインに関しては、失礼だけれど、ものすごく好きという人は、おそらくあまりいないのではないか、と思う。でも嫌いという人もいないのではないか、と思う。展示されているポスターや装丁、表紙、ロゴマークなどを眺めていると、どれもクオリティは高いし、本人のイラストを使用していないデザインだけのものでもうまい。そしてどの時代の作品も平均点はものすごく高い。それからこうして並べて見るとさまざまな手法を使った幅広い作風のものがある一方で、あまり時代に左右されていないということに気がつかされます。その辺が思い入れにくい部分なのかなぁ。好きだけれど、好きなデザイナーは?、と聞かれたら違う人を挙げてしまうだろうなぁ。
会場には和田誠本人もいて、インタビューを受けていたので、ついその言葉に耳を傾けてしまい、気がつけば30分以上会場をうろうろしてしまいました。ついでに書くと、NHKのテレビカメラも入っていたのですが、「50年近くイラストやデザインを手がけてきたことを1分で語れなんて無理だ。だからテレビは嫌いなんだ。」などと怒鳴られていました。

「ハリーのセーター」-ジーン・ジオン-

「どろんこハリー」「うみべのハリー」に続いてハリーシリーズも3冊目。これでそろったと思ったら「ハリーのだいかつやく」という本もあるらしい。定価で1000円くらいなのだからわざわざ古本屋に並ぶのを待たないで、新品で買えばいいのでは?と、自分でも思う。実際、パルコブックセンターの絵本売場に行けば、「ハリーのだいかつやく」も見つかると思うけれど、新品で買うことがほとんどないのは、「明日の電車の中で読む本がない」というようなせっぱ詰まった状況にならないから、ということと、実際には頻繁にそれらの本を読み返すこともないから。子供がいたらちょっと違うのかもしれないけどね・・・・。

それからこれは絵本に限ったことではなくて、普通の本やレコードに関しても同じことが言えるのだけれど、購入する優先順位を古本屋さん(中古レコード屋さん)に決めてもらっている、という面もあります。前述したようにパルコブックセンターに行けば、「ハリーのだいかつやく」はあります。でも同じように堀内誠一や柳原良平、プロヴェンセン、ロジャー・ディボアザン・・・・といった普段欲しいと思っている絵本も同じように置いてあるわけで、そうなると絵本を買うお金もそれを置くスペースも限られている私としては、どの本を買っていいのか分からなくなってしまうのです。そういう優柔不断な性格もあって、古本屋(中古レコード屋)で出会った本(あるいはレコード)を順に買っていくというスタイルに落ち着くわけですね。
だからレコードに関しても、あるミュージシャンのレコードをコンプリートにそろえているということも、名盤と言われている、あるいはベーシックなレコードをきちんと買っているということもなく、コレクションとしてはいつまで経っても不完全なままなんですけど、まぁそういう性格なのでしょうがない。もちろん今、絶対に欲しいと思うものは、新品で買いますよ。その基準については、またいつか書こうと思います。

「子午線を求めて」-堀江敏幸-

「現代詩手帖」や「ユリイカ」に連載されたコラムを中心に、セリーヌと1980年代のロマン・ノワールの関係を探った文章などを加えてまとめられた本。文字数の決まった短めのものと論文ともいえる内容のものなどがバランスよく並べられていて、それがいいテンポになっている。

中でも、パリの郊外を舞台としたロマン・ノワールを考察し、同時に自身の「郊外へ」につながる文章が特に興味深い。私は、ロマン・ノワールはもとよりフランス文学やフランスの移民問題などに疎いので、書かれていることのほとんどは理解できておらず、そういえばゴダール「はなればなれ」では、主人公たちが大金を強奪するのに川を行ったり来たりしていたことを思い出したりしました。(ちゃんと調べてみたら大金のある叔母の屋敷が郊外で、主人公たちのアパートがパリの市内という構図でした)
ただし郊外における移民やその二世、教育、犯罪・・・・といった問題を取り上げてはいるものの、問題の提起や告発を主題としている訳ではないことはいうまでもなく、どちらかといえば、中心における居心地の悪さを感じて周辺(郊外)に移動していったらそこに問題があった、といったほうがあっている気がします。そして「中心に対する理由の分からない居心地の悪さ、そして周辺への逃避・移動、そこに留まることへのこだわり」は、堀江敏幸の作品に共通するテーマの一つであると思う。

「取材旅行」-井伏鱒二-

定期入れをなくした。月曜日に駅でいらなくなったパスネットを捨てて、荷物が多かったのでリュックのポケットにパスケースを入れられず、違うところに入れたところまで憶えているのだが、部屋中探してみても、ない。ジーンズのポケット、テーブルの下に重ねてある本の間、CDラックの隙間、部屋の鍵置き場、靴箱・・・・思いつくところを探してみても、ない。定期が入っていたわけではなくて、SUICA(残り2000円くらい)とパスネット(残り900円くらい)を入れていたので、合計でも損害額としては3000円くらいなんですけど、パスケースをなくす、なんてことは、高校に入った時に初めて定期を持って以来、初めてのことなので、すこしショックでもある。
部屋の中に思い当たるところがないので、とりあえず最寄り駅で聞いてみることにする。駅員の話では、「2、3日前にSUICAの入ったパスケースを拾ったのだが、明大前にある拾得物取扱所に送ってしまった」とのこと。問い合わせ先が書いてある紙を受け取り、ほっとした気持ちで家に帰り、さっそく取扱所にかけてみると、「該当するような落とし物は見あたらない」との答え。「でも渋谷駅発行のSUICAが入っているのでJR渋谷駅に送った可能性がある」と。ちょっとがっかりしつつ教えられた問い合わせ先に電話。それまでの経緯を話し特徴を告げると、確認して折り返し電話してくれるということ。なので、たまっているシャツのアイロンがけをしながら待っていると、しばらくの後、電話があり、担当者が検索してみた結果、該当するものはなかったらしい。これはスタートに戻ってもう一度部屋の中を探す必要があるわけで、頭の中であのときの行動をもう一度辿りつつ、アイロンがけに戻る。が、どこに置いたのかまったく思い出せない・・・・。たかが3000円だし、なんだかだんだんどうでも良くなってきて、なかばあきらめかけていたところ、シャツのポケットからなくしたパスケースが!そう、リュックのポケットにもジーンズのポケットに入れられず、シャツのポケットに入れたのでした。それで、そのまま洗濯してしまったらしいのだが、干す時にも全然気がつかなかった・・・・。
結局、問い合わせに答えてくれた担当者を振り回しただけ、という話でした。まっ見つかって良かったです。