「上海の蛍」-武田泰淳-

前に読んだ「目まいのする散歩」よかったので、武田泰淳のほかの本も読んでみたいと思っているのだけれど、私は「三国志」とか中国史について、ぜんぜん興味がないので「司馬遷」とか「十三妹(シイサンメイ)」といった本にはどうも触手がのびないし、戦時中の左翼的な人々の話もどうも苦手だ。
戦時中の上海での経験を元に書かれたこの本は、「目まいのする散歩」シリーズとして書かれたあと一編で完結する予定だったが作者の死去によって未完に終わった作品で、別の散歩シリーズとして書かれた浅草を舞台とした1編も収録されている。といっても「目まいのする散歩」とどのような類似点があるのか、そもそも散歩シリーズというのがどういう位置づけで書かれているのか、わたしにはわからない。どちらかというと、どこか江戸川乱歩の世界を思わせる戦後の浅草の怪しげな雰囲気を描写したもう一つの散歩シリーズのほうが私は好きだ。

「三国志」といえば、高校、大学時代、私の周りの男子のほとんどは、「三国志」や中国史が好きだったような気がする。それから司馬遼太郎とかね。理系の男子はなんでそういうものが好きなのだろうか?いやテレビゲームとかの人気を考えると理系に限らず、男子は「三国志」や中国史が好きなのだ、という意見もあるかもしれない。
でも、私が高校の頃は、プレイステーションとかドリームキャストなんてなかったし、そういうRPGもなかった。だから1990年代以降、RPGで「三国志」や戦国時代を舞台としたものが出てきたのは、私の世代から少し上の世代の理系の男子が、ゲームを作ろうとしたときに、自分たちの好きな題材を選んで作った結果、「三国志」になったとも考えられるような気がするのだけれど、どうだろう。その頃なんて、ゲームの内容を考える人とプログラムを組んで実際に作る人との分業がはっきりしていたとは考えられないし・・・・。
そんなことを考えていると、10代の頃、なんで自分は理系に進んだのだろうか?とつくづく思ってしまう。でもある高校の先生の言うところによると、高校の文理選択は、「文系と理系をどちらかを選択するのではありません。『理系を諦めるか否か』の問題」であり「『文転』はできても『理転』はでき」ず、「理系の学部で学んだ人間が、弁護士になることは可能です。しかし、文系の学部で学んだ人間が、科学者には絶対なれません」ということなので、数学を諦められなかった、ということか。適当。