「ア・ピース・オブ・ヘブン」-蜷川実花-

気がつけば週の真ん中。
先日、世田谷文学館でやっていた植草甚一の展覧会に、終了間際駆け込みで行って来ました。会場はそれほど大きなところではありませんが、植草甚一の幅広い仕事(趣味?)をコンパクトにポイントを抑えて展示してあって、思っていたよりもいい展覧会でした。もっともそんな風に思えるのは、個人的に、植草甚一を追っかけていたころから、かなり時間が経ってしまっているからなんだと思います。もし夢中になっている頃だったら、物足りない部分やもっと自分を知らない部分を求めてしまっただろうしね。
まぁ、植草甚一の展覧会を、世田谷文学館でやる、ということに大きな意味があるような、ないような‥‥。

で、改めて植草甚一が選んだものを見てみたら、どの分野に関しても選ぶ基準がはっきりしていることと、かなり真っ当なセレクトをしていることにに気がつきました。特に音楽に関しては、過去のさまざまなジャンルのお墓を掘りおこし尽くしたピチカート・ファイヴ→サバービア→モンド・ミュージックを通り抜けたあとだけに、植草甚一のこだわりがより目立つました。
あとは手紙やノートなどの私物を見られたことがよかったです。私物や私信であっても、どれも丁寧にきちんと書かれていたり、作られていたりして、昼間は神保町などを歩き回り、夜は映画を観て、帰ってきてこんなものをコツコツと作っていたとすると、この人は一体いつ寝てたんだろうという疑問が頭を離れません。あー、お酒飲まないから?いや知らないけど、あまりお酒のこと書いないような気がするし‥‥。

「シェリー酒と楓の葉」-庄野潤三-

庄野潤三が1957年秋から翌58年夏まで、米国オハイオ州ガンビアのケニオンカレッジに留学していたときのことを、後年、そのときの日記を見ながらつづったエッセイ集。
ガンビアのシリーズとしては、留学生活の前半を描いた「ガンビア滞在記」が1959年、その19年後、1978年にこの「シェリー酒と楓の葉」、後半を描いた「懐かしきオハイオ」は、さらに10年以上経った1989年という長いスパンで発表されています。なんとなく「ガンビア滞在記」など読んだようなエピソードがあるような気がするけれど、そんな気がするだけで、実際はどうなのかわかりません。でも今になると、さらさらと三冊続けて読むこともできますが、リアルタイムで庄野潤三の本を読んでいた人にとっては(もしくは庄野潤三本ににとっては)、ほんとに忘れられた頃に届けられる(書き始める)、という感じだったのだろうから、ある程度、エピソードを重ねることによって、前のエピソードを思い出してもらうという意味合いがあったのかもしれません。

週末は、古今亭駿菊独演会を見に鈴本演芸場に行ってきました。駿菊さんは、真打ちになった6年(くらい)前から、毎年秋になると独演会を開いてます。ここ3年くらいは毎年見に行っているので、駿菊さんの落語を聞くともう今年も終わるなぁ~と思う。で、お正月くらいまでは、なんとなくまた落語でも聞きに行こうかとか、初詣は浅草にして帰りに浅草演芸ホールに寄ってみようか、なんて気分になるのけれど、実際に行くことはあまりない。今回は土曜だったせいもあって会場前から列ができ、開演時にはほぼ満席という盛況ぶり。こう言ってはなんだけれど、駿菊さん以外には特に有名な人も出ていないのにね。前座に出ていたのは、ミオ犬に記憶によると去年、座布団をひっくり返したりしていた人だったらしく、客席も暖かく見守るといった感じで、こういう人が、だんだんとうまくなって、やがては真打ちになったりするのを見るのも落語の楽しみなのかもしれないと思う。でも、それだけに駿菊さんが話し始めると、話に引き込まれてしまい、改めて駿菊さんの話のうまさを実感しました。特に2つ目の「宗珉の滝」は、人情話なので大きな笑いはない。それにもかかわらず、駿菊さんの身振り・手振り、手ぬぐい、扇子といった小道具だけで、観客を引きつける様子を見ていると、普段、“落語=笑い”のイメージを抱きがちだけれど、実は、落語のおもしろさはその話芸にあって、その中の一つの要素して“笑い”があるのだな、と思ってしまう。いや適当。

落語を“話芸”とするならば、小説は“文芸”って、あらら、そのまんま。小説の場合は、“文章”自体で引きつけるか、“物語”で引きつけるかという2つの選択肢があって、庄野潤三は間違いなく前者。でも、個人的には、昔ほど庄野潤三の文章に引きつけられるということがなくなってるので、前者の代表に選ぶのはちょっと‥‥という気はする。クセはないし、読みやすいんですけどね。

「タンタルス」-内田百けん-

11月に入ってからいろいろあって雑記を書いているような状況ではなくて、気がつけば半月ぶりになってしまいました。本も全然読んでないしね。そんな感じではあるのですが、今日でこの雑記も500回目です。初めてから4年半くらいなので、一年で約100ちょっと、3日に1回くらいですか。まぁ多いのか、少ないのかわからん。
内容はともかくとりあえず長く続けていると、それだけで個人的には、去年とか一昨年に何していたか確認するのに役立っていたりします。気持ちとしては、古本屋の店主が奥のレジに座って本を読んでいる様子が出ればと思っているのですが、どうなんでしょう。店主が閑そうに店番している古本屋なんて実際にあるのかどうか知りませんけどね。

雑記も500回ですが、内田百けん集成もこの「タンタルス」で12冊目。ようやく折り返し地点です。しかも新刊ではなくほとんどを古本で手に入れたのに、読んだ12冊は、なぜか1巻の「阿房列車」から12巻の「爆撃調査団」の前半。もちろん順番はバラバラだけれど、もともと12巻までだったものが、24巻に増えたのを考えると、実は12巻までは売れたけど、その後はあんまり売れていなくて、これから手に入りにくいのでは、なんて思ったりもします。
どちらにしろこの様子だと今年中に読み終えるのはちょっと無理で、来年の夏頃になりそうですね。

あー500回目なのにこんなんですみません~

「ぽっぺん」-石田千-

前に読んだ「屋上がえり」のようにテーマがきちんと決まっていないので、ときどきこれは実はフィクションなのではないかと思うときがあるのだが、実際はどうなのだろう。よくわからない。でも気分的には、実は半分くらいフィクションだったらなぁ、とも思う。

前回、ヴィブラフォンのCDを紹介してから気がついたら1カ月経ってしまってました。「9月によく聴いたヴィブラフォンのCD8枚」なのに、もう11月‥‥。でも毎回、前半だけ書いて放置、というのもなんなので、今回は後編も書きます。いや、もう一回ぐらい続けちゃおうかなぁ~ということで、「深まる秋とヴィブラフォン」と題して、“中編”にします。後半は来月かな~

■「Jungle Fantasy!」-Bobby Montez-
オリジナルはかなり高い値段がついているらしいクラブ・ジャズのクラシック、とのこと。でもわたしは、こんなジャズがかかっているような、クラブに行かないのでわかりません。もう少し早く、夏の初め頃に聴いていたらアフロキューバンにはまったかもしれない。解説に書いてあるけれど、ジャケットも含めてどこかエキゾチックな雰囲気もあります。

■「Easy Living」-Joe Roland-
ジョー・ローランドは、ジョージ・シアリング・クインテット出身のヴィブラフォン奏者。このアルバムもかなりジョージ・シアリングに近いかなり端正なイージー・リスニング・ジャズ。前半で紹介したエミル・リチャードもジョージ・シアリングのバンドにいた人だし、一度、その辺をきちんと調べたいですね。

■「Sam Francisco」-Bobby Hutcherson-
フュージョン前夜という趣のサウンド。全体的にスローなテンポ、かつ重いリズムの曲が多く、1960年代後半から1970年代初めのサスペンス映画のサントラ、と言われても納得してしまいそう。

■「Got The Feelin’」-The Dave Pike Set-
デイブ・パイクにはずれなし!ジェームス・ブラウンの「Got The Feelin’」、クラッシックIVの「Spooky」、「You Know the Way to San Jose」などの曲をカバー。オルガンの入った編成もよいのだが、リズムがちょっとチープなのでどことなくB級っぽいです。