「ku:nel」(Vol.9/2004.9.1)

2カ月なんてすぐに経ってしまう。前の号が出たのが引越しする直前だったのでこの部屋に来てからもう2カ月になるわけで。時間が過ぎていくのは早いことは早いんだけれども、久我山4丁目に住んでいたときのことなんてかなり前のことのように感じられてしまう。ましてや三鷹台に住んでいた頃なんてね・・・・。
そうしていつものことながら井の頭線のつり革広告で新しい号が出ていることを知ったのだが。こういうとき、会社の帰り道にある本屋が11時まであいているのは便利といえば便利。なんだけど普通に読みたい本、特に文庫本がほとんどないので意味がないといえば意味がない。
「ku:nel」は表紙の写真がいつもきれいなのでつり革広告とかで見かけるとつい欲しくなってしまうね。でも混雑している電車の中で無理矢理読んでると、すぐにヨレヨレになってきてるような気がして、もう少し表紙が厚い紙でもいいのに・・・・と思う。

さて今号の巻末エッセイは堀江敏幸。このところもう亡くなってしまった人たちの、しかも回想録みたいな本ばかり読んでいるせいか、最近堀江敏幸の本を読みたい気分なので、こういう風に取り上げられているとうれしい。古本屋に行くたびに必ずチェックしているのに全然見つかないのはなんでかな?「一階でも二階でもない夜―回送電車〈2〉」という新しい本も出たらしく、その中には獅子文六についてのエッセイが入っている、ということなので思い切って新刊を買っちゃおう!、なんて一瞬思ってみたりもするけどけっきょく買わないんだろうなぁ。

小笠原付近から三重の方へと西へ進んでいくという珍しい台風が近づいて来ているため、ここ2,3日、天気予報は雨続き。でも時々晴れ間に雨がさっと降るだけで逆に蒸し暑くなるだけ。今年はパーと夕立が降ることもあまりないような気がする。今年は前々から「ついに今年の夏はスーツかぁ」と思っていたので、私服で会社に行けるようになってホント良かったデス。
もし夏の2カ月~3カ月間、日本中の全部の会社がスーツをやめてTシャツで仕事できるようにしたら、かなりエネルギーが節約できるんじゃないかと思うのだけれどどうなのだろう。でも暑い方が電気や電気製品、ビール、アイス・・・・など、消費が進んで経済的には良いらしい。極端な話、無駄遣いすればするほど景気が良くなるのか?まぁそういうことでもないんだろうけど・・・・。

「わが町」-山口瞳-

「たとえば一軒の床屋があって、日曜日にそこへやってくる高校生からおじいさんにいたるまでのひとが、順番を待ちながら、のんびりと一回分だけ読んでくれるというような小説を書きたいと思ってこれを書いた」・・・・というようなことが帯に書いてあって、それいゆに置いてある「西荻カメラ」を思い出したりした。

同じ町で暮し、近所の飲み屋で酒を飲み、野球チームを作って試合をし、釣りをしに奥多摩のほうまで足をのばし・・・・エピソードは東京のはずれのある町で繰り広げられるほのぼのとしたものだけれど、登場してくる人々はそれぞれに心に抱えるものがあってでもそれが表に出るとこがないだけにせつない、そんな小説集。
たぶんなにかふと思う度にこの本を読み返すんじゃないかとちょっと思った。そういう風に思って買ったわけではないけれど、山口瞳の本で初めてのハードカバー。しかも函入り。柳原良平の描いた素朴な国立駅の絵がとてもいい感じです。「男性自身」の表紙にも出てきた国立駅の絵はもう少し新しい。

また帯には「時代の流れに逆行して『どれだけ隣人を愛せるか』に賭けたつもりなのである」とも書かれていて、「男性自身」なので書かれている近所の人たちへのものすごい気の使い方はこういう気持ちだったのか?なんて本文とは関係ないところで感慨深くなってしまう。もちろん近所の人だけではなく、周りの人全員に、と言っていいほど山口瞳は気を配っていて、私などはそういうことが全然だめなので、すぐにこういう生き方って大変だろうなぁといつも思ってしまう。でも、そんなことのほほんと思ってる場合じゃないんだ。

「一個・その他」-永井龍男-

永井龍男は新聞の隅に見つけたなにげない小さな事件の記事をスクラップにして置いて、その事件を何年もかけて少しずつ頭の中でふくらませて一つの短編小説を作るという。
そのせいか文章から醸し出される雰囲気は彼の日常生活を描いた随筆と同じような感じなのに、物語はどこか現実から浮遊していて、かといって、物語そのもののおもしろさを楽しむというスタイルでもなくてそこはかなとなく奇妙な味がある。その辺が短編の名手といわれる所以だろうか。

先日、ブックオフで本を探していたら中学生くらいの男の子2人組がなにやらリストを片手に「おまえ『坊っちゃん』にしろよ。俺、『猫』にするからさ」「でも『坊っちゃん』100円じゃないよ」なんて言い合ってました。どうやら夏休みの宿題の読書感想文のための本を選んでいるらしい。100円で売っているところから探しているところがいいね。しかも私も本屋に入ると長い方だけれど、彼らは私が来たときにすでにいて出るときもまだ悩んでました。
それにしても夏休みの宿題って懐かしい。小冊子みたいな問題集だとか、アイデア貯金箱だとか、なんかのポスターだったりとか(ちなみ私は絵を描くのが嫌いだったので毎年これが最後まで残ってました)、あと書道コンクールに出す作品だとか・・・・。

「パリ ノ ルール」

今年はお休みやお金、その他もろもろの理由から旅行なんて行けそうにないくて、しかも次の旅行先がパリという確立は割と低いと思うんですが、本屋で見つけてつい買ってしまいました。今から割と欲しかったんですよ。
旅についての本って、たいていはその国や町を客観的に見たものと主観的に見たものに分けられて、それぞれガイドブック、地誌・紀行文なんて呼ばれているわけで、じゃこの本というと基本的にはガイドブック、でも情報の隙間に主観的なものがちょこちょこ混じっているので読むだけでもけっこうおもしろい。
いつかパリに行くときのためなんて思いつつ情報部分も含めてパラパラと流し読みしてるんですけど、ほんといつになるんでしょうねぇ。そしてもし実際にパリに行くときになったとき、ここに載っている情報はまだ生きているんでしょうか。今でもパリに行ってゲンズブールのお墓参りやゆかりの場所をまわったりする人っているのか私にはちょっと疑問ではありますが・・・・。まぁそれはいつの時代にもそういう人はいるのかな。よく分かりません。

週末は夕方から渋谷から原宿、表参道を歩いたのですが、ラフォーレやフォレットがセールだったせいもあり、ものすごい騒ぎで、なんだかそこいらじゅうがマツモトキヨシの店頭にいるみたいでびっくり。店の人のメガホンはもちろん、館内放送も頻繁にかかるし、BGMも普段の5割り増し?って感じですかね。そしてもちろん私にはぜんぜん関係なし、です。

「怡吾庵酔語」-里見弴-

自分の生涯について振り返り語った本。「話し言葉で読みやすいなぁ」と思っていたら本当に里見弴がしゃべった言葉を速記して文字に起こした後、自身によって赤を入れるという方法で書かれたということ。よく考えれば、里見弴は1888年に生まれて1983年に亡くなっているのでこの本が出た1972年ではすでに80歳を越えてるんですよね。子供の頃、お盆などで田舎に帰ったときに縁側でお菓子かなんか食べながらおじいさんの昔話を聞いているって感じです。なんて言ったら失礼か!

ところで里見弴だけに限らず、こういう回想録を読んでると、それぞれの交友関係の中で登場人物たちの年齢差がどのくらいなのかとても気になってきます。話だけ聞いているとたとえば10代の頃に出会った人に関しては5歳くらい上だともうものすごい先輩で、敬語を使ったりするけれど、30歳を過ぎてから出会った人に対しては10歳くらいの年齢差はあまり関係なく会話していたりするし、書く人によって年齢差を気にする人と気にしない人、あるいは師弟関係や尊敬する人、昔からの友達・・・・などで口調や態度が変わってくるので、いろいろな人の回想録を読んでいくとどんどん混乱してくるのです。
昔習った国語の教科書みたいに代表作が出た年代をとって大正時代の作家とか戦前の作家なんて言っても本人はその後も生きているわけだし、そのあいだにいろいろ本を出していたりするわけですよ、なので、今度、自分の好きな作家についての年表を作ってみるのもいいかも、なんて思ったりしてます。その作品が何歳の時に書かれたかということや、どういう順番で作品が発表されていったかというのも気になるし。
いやほんとにそういうこと全然知らない自分に気がつかされます。

「Sugar and Spice」-蜷川実花-

最高気温39.5度、実際は気象庁の計測する気温よりも高いのでもっと暑い、私が勤めている会社の前は目の前が片側4車線の道路で、ひっきりなしに自動車が走っているので、出口を出た途端、道路の方からムッとした空気に押されてしまいます。

で、気象庁がどんな風にしているのか分からないけれど、気温を測ると言えば小学校、中学校の校庭の片隅に置いてあった百葉箱を思い出します。白い風通しの良さそうな小さな家が校庭でも一番涼しそうな場所に置かれていてその中に温度計だけがあって・・・・。
気象庁でもそんな感じで気温を測っていたらいいな、と思う。

  A:「おっ、そろそろ12時だね。今日はお昼なに食べそうかなぁ。そばとかいいねぇ」
  B:「出かける?じゃ、ご飯食べる前にグラウンドに寄って気温見て置いてくれない?」
  A:「いいよ。B、おまえ今日どうすんの?」
  B:「今日は弁当なんだよ。売店でお茶でも買ってくるか。あっA、温度計忘れんなよ」
  A:「分かってるって。行って来るよ~」

・・・・なんてことを仕事しながら想像してみたりして。

ところで蜷川実花の写真って暑いよねぇ。

「暢気眼鏡・虫のいろいろ」-尾崎一雄-

尾崎一雄の小説は私小説なので自分の経験を元にというかそのまま作品化している。この「暢気眼鏡」も、このあいだ読んだ随筆集・回想集である「苺酒」に書かれていた尾崎一雄の生涯とかなり重なっている。
もし先に「苺酒」を読んでいなかったらかなり感じ方も違っていたように思うのだけれど、少しでも知っていて読むのと、まったく知らないで読むのとどちらが良かったのかはわかりません。どちらにせよ、昔の作品よりも晩年に近い頃の随筆・回想録の方が手に入れやすそうなので、そちらから読むことになるのだろう。

三連休の三日目、一昨日、昨日と自転車で近いところで遊んでいたので、たまにはあまり行かないところに行こうと、三軒茶屋などに行ってみる。といっても下に書いてあるようにレコード屋と古本屋と雑貨屋目当てなんですけどね。でもついでに下北まで歩いたりして、リボンシトロン/リボンオレンジのグラスとかなんかちょこちょこ買っちゃったなぁ。
昔のノベルティグラスは西荻などの雑貨屋、アンティークショップで見かける度に気にはなっていたんだけれど、とりあえず眺めるだけにしていて持っているのはトリスのものぐらい。でもこれを機に何個か集めてみようかな、なんて思い始めたりしています。とりあえず雪印ミネラル牛乳のくまが欲しいかも!?

「巻頭随筆IV」-文藝春秋 編-

「文藝春秋」の巻頭に連載されている随筆をまとめた本の第4弾。1980年前後のものが多く、この辺になると「最近のものだなぁ」なんて思ったりするのだけれど、もう20年以上も前なんですよね。個人的には「1960年代までが戦後で1970年代の移行期間を経て1980年代は戦後の終わり」というイメージなのですが、そんなこといったら「おまえは歴史が分かってない」と言われそう。
冷静に考えると歴史というより単に1960年代は生まれてないのでわからん、1970年代は記憶があるけれど世の中の出来事などとリンクしていない、で、1980年代はいろいろな意味できちんとした記憶・自覚があるということですかね。

先週末は天気が悪くて自転車で移動するたびに雨に降られて「本が濡れる!」なんて思っていたら、いつの間にか梅雨も明けたみたいで、でもそれほど暑さを感じないのは一日のほとんどを会社で過ごしているから、なのかよく分かりませんが、気がつけばもう金曜日。なんだか慌ただしいままに会社から帰ってきたら「サクサク」(tvk)始まってる、という毎日でした。
今週末は3連休だし、いつもみたいに古本屋とレコード屋と雑貨屋、そして喫茶店で読書といういつものコースではなく、久しぶりに夏っぽいところに行きたいな、なんて思ったりしているのですが、夏っぽいところってどこだろう?海?、山?、遊園地?、花火大会?・・・・。そういえば先日ブックオフで本を見てたら、どうしょうもないヒット曲が流れている中で、かせきの「じゃ、夏なんで」が流れてきてそのときだけブックオフの空間が変わりましたよ。私の中でだけですが・・・・。夏祭りなんてどこでやってるんだろう?あんまり騒がしくない感じの夏祭り・・・・。

「彼らと愉快に過ごす 僕の好きな道具について」-片岡義男-

愛用する道具を片岡義男が自分で撮った写真とともに紹介した本。掲載されている道具はタイプライターやナイフ、ノートコーヒーカップ、紙飛行機、おもちゃ、カメラ、紅茶・・・・など幅広い。後に出た「本についての、僕の本」「絵本についての僕の本」「文房具を買いに」など同じようなやりかたでジャンルを絞った本の元となった本と言えるかもしれません。ジャンルが絞られてない分、この本の方が雑誌的で気楽に読むにはいいと思う。

ページをめくっていると「これいいかも」と思うような物もあるし、「これはいいけど自分では使えないなぁ」というもの、「これをそこまで褒めるの?」というようなものもあったりする。でもそれはそれで別にカタログとして見ているわけではないのでぜんぜん構わなくて、要するに片岡義男という人がそれらの道具とどういう風につきあっているか、どういう距離と取っているか、ということを楽しむ本だと思う。
それは万年筆の項の「使う人の、たとえば手の大きさ、筆圧のかけかた、字の癖、インクと紙の相性、文章の性格、書いていくときの速度、目の性能・・・・(中略)・・・・あげていくならいくつもあるはずのそれぞれに微妙な、おたがいに相関するあらゆる要素を、すべて考えに入れて評価すべきだろう。いい万年筆、というものは存在しない、僕にとってのいい万年筆、というものが存在するだけだ」という文章が表してるんじゃないかな。

土曜日の夜、大阪から友だちが来ていたので、一緒にClub Heavenというイベントに行って来ました。吉祥寺のDropで毎月第二土曜日にやってるパンク以降のブリティッシュロックのイベントなんですけど、7月で9周年でVol.92だそうです。私が行くのは3、4年ぶりかな?もうぜんぜん行ってなかった。
壁に昔のフライヤーが貼られていたのを見ていたら私がよく行っていたのでVol.10~20くらいの頃でした。でもDJのメンバーは誰もかわってないし、その頃から来ていた人たちも何人か来ていたりしてちょっと懐かしい気分に。さすがに昔みたいに最後までいて、朝みんなでデニーズへというコースは辛いので2時くらいに自転車で帰ってきましたけどね。

「三文紳士」-吉田健一-

戦後に文藝春秋の会社の前でゴザを敷いて入ってくる知り合いの作家に物乞いをしたというエピソードと吉田茂の息子であるという事実や「瓦礫の中」「東京の昔」に出てくるようなそれほどお金持ちではないけれど貧乏というわけではけしてないある意味有閑階級的な登場人物たちのイメージがどうも自分の中で結びつかないのではあるけれど、それこそが吉田健一のいう「乞食王子」ということになるのかもしれない。

戦後の一時期吉田健一も鎌倉に住んでいたことがあったようで、この本では少しだけその頃についてのことが書かれていたり、永井龍男などの名前も出てきた。いろいろ調べている割には鎌倉と吉田健一というまったく考えてもいなかった2つが関連していたことを知ってちょっとびっくり。でもいわゆる鎌倉文士といわれる人々との交流はあまりなかったよう。
というか吉田健一を鎌倉文士という名でくくってしまうのは違和感がある。「交友録」を書いているくらいなので多くの友人がいたのだろうけれど、私の勝手な思いこみの中では大勢の仲間とつるんだり、言い方は悪いけれど作家の派閥みたいなものを作ったりする、というのは吉田健一らしくないような気がする。

さて昨日からミオ犬が長崎に帰省しているので一週間一人暮らし。前々からこの時期に帰ることがわかっていたのでそのときは思い切ってちょっとした一人旅に出てみようなどといろいろ考えていたのだけれど、実際にこのときになってみると全然そんな余裕はないという状況になってしまいました。もっともこの暑さではどこかに旅行に行って名所や街の中を歩き回ったりする気分にもなれず、それよりも週末近所を自転車でうろつくのさえ億劫になりそうな感じです。

まだ7月というのにこんなに暑くていいんでしょうかね。暑ければ暑いで温暖化なんて言って、雨が続けば鬱陶しい毎日なんて言ったりするのだろうから勝手といえば勝手で、本当ならば暑ければ暑いなりの生活を、雨ならばそれなりの生活を送ればいいのであって、それを人間の無理やりな一つの生活に当てはめようとするから無理が出てしまうわけなのだが、そんなことを言っても生活が変わるわけでもないわけで、けっきょくこういう日にできることと言えば会社が終わったらビールでも飲みに行くか、お風呂から出たあとにアイスクリームを食べるくらいしかなく、そういう意味で適応する幅が少ないということで自分の生活の貧しさを感じたりもします。ひさしぶりに海やプールにでも行きたいね。