「男性自身 傑作選 熟年篇」-山口瞳-

一応、カヌー犬ブックスは、海外文学と料理に関する古本をあつかっている古本屋、なんですけれど、ここに海外文学の本が取り上げられることはほとんどないし、料理についてに書くこともほとんどなかったりします。たまには「週末のパーティで用意した●●●の作り方」なんてレシピをここに書いてみるのもいいかもしれない、なんて言ってみたりして。いやいや週末のパーティってなんなんですか?

そんなことはさておき、カート・ヴォネガットが亡くなったそうだ。84歳。今となっては、最後に読んだヴォネガットの本がなんだったのか思い出せないくらいずっと読んでなくて、よく読んでいた時期といえば高校生から大学の初めまでのあいだ、1980年年代半ばから1990年の初めくらい。Wikipediaによると「1980年代、日本でも認知がすすみヴォネガットブームとも言える状況が到来」とか「ヴォネガットから影響を受けたとされる村上春樹(とりわけ『風の歌を聴け』)や高橋源一郎、橋本治等の若手作家たちの台頭もこの時期」とある。そういうブームに影響を受けていたのだろうなぁ、と今になって思えば、そんな時代だったような気さえしてしまったりして。実際、ヴォネガット自身が歳を取って、作品をあまり発表しなくなったこともあるかもしれないけれど、1990年代の後半になるとほとんど翻訳本も刊行されていないみたいです。ついでにヴォネガットの作品で翻訳されている本は以下のとおり。

  ■「プレイヤー・ピアノ」
  ■「タイタンの妖女」
  ■「母なる夜」
  ■「猫のゆりかご」
  ■「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」
  ■「スローターハウス5」
  ■「さよならハッピー・バースディ」
  ■「チャンピオンたちの朝食」
  ■「スラップスティック」
  ■「ジェイルバード」
  ■「デッドアイ・ディック」
  ■「ガラパゴスの箱舟」
  ■「青ひげ」
  ■「ホーカス・ポーカス」
  ■「タイムクエイク -時震」
  ■「ヴォネガット、大いに語る」
  ■「パームサンデー -自伝的コラージュ」
  ■「死よりも悪い運命 -1980年代の自伝的コラージュ」
  ■「モンキー・ハウスへようこそ」
  ■「バゴンボの嗅ぎタバコ入れ」

全部で20冊?。もっと出ているような気もするけれど気のせいかな。この中で読んでいない本は、1990年代後半に出た「タイムクエイク -時震」と「死よりも悪い運命 -1980年代の自伝的コラージュ」、「バゴンボの嗅ぎタバコ入れ」くらいかな。意外と読んでますね。内容は忘れてしまったり、他の作品とごっちゃになっているけど。
個人的な経験からすると、10代の頃にこういう本を読んでしまうと、日本の作家の作品が平面的・直線的すぎて、物足りなくなってしまうんじゃないかと思う。最終的に収拾がつかなくても物語は複雑であるほど、おもしろいし、本に感動なんて求めるのは、愚の骨頂。本とは泣くためにあるわけじゃないし、“共感”なんてなに言ってんの?という感じになってしまう。そして最終的にはメタフィクションとラテンアメリカ文学にたどり着くのだけれど、わたしの場合、そこで振り切って日本の私小説に走ってしまうあたりが、どうも両極端なわけで‥‥。

「男性自身 傑作選 中年篇」-山口瞳-

せっかくなので‥‥、という始まりもどうかと思うけれど、金曜日の夕方だし、もう気分は週末、というわけで、5時から30分だけ会社を中抜けして、ミッドタウンの地下で行われていたエマーソン北村のライブを見に行って、それからまたちょっと仕事して、7時50分に仕事を切り上げて、8時から土岐麻子を見るなんてことをしてみました。親ガメの背中に乗っかって、気がついたらこんなところまでつれてこられてしまったのだから、このくらいの恩恵がなくちゃね、と。
平日の夕方ミッドタウンに来るような人で、エマーソン北村を知っている人もそれほどいるわけもなく、雰囲気的には、デパートの片隅とかちょっとした広場で演奏しているエレクトーンを聴いているみたいで、なつかしい。でも演奏されているのはジャッキー・ミットゥーだったりするのだけれど。演奏が始まった頃、集まってきた人たちも、演奏が続くにしたがって少しずつ離れていったりして、いい感じで見られて良かったです。
で、8時から土岐麻子は、かなり人が集まっていて、人と人の隙間から見るという感じで、さすがにのんびり聴くという雰囲気ではなかったです。演奏もギター一本の伴奏で、ジャズのスタンダードなどを中心に歌っていたので、土岐麻子を知らない人でも聞きやすかったということもあるかな。このあいだ出たカバーアルバムを聴いていないのだけれど、達郎のカバーなんてちょっとEPOっぽいな、と思ったりもしました。あと係りの女の人が、おばあさんに土岐麻子のことを「シンバルズというバンドにいた人です」って説明していたのは笑えた。シンバルズなんておばあさんが知ってるわけないでしょ。まぁ係りの人もそれしか知らないんだろうなぁ~。といっても、どちらも大混雑ということでもなかったので、人選としては妥当な知名度なのかもしれません。ちなみに今週の金曜は、Cianとボサダビット。知らん。
せっかくなので、なんかケーキでも買って帰ろうと思って、お店を回ってみたけれど、どこも並んでいて買う気にもなれず‥‥

「冥途」-内田百けん-

春の天気は変わりやすい。
先週の終わり、お昼ご飯を食べた後に、ひとりで会社の周りを散歩していたら、ちょっと路地に入った短い坂道の狭い階段の下のほうに太い大きな桜の木があって、坂の下の方から見上げると、道の方に曲がった太い幹に満開に近い桜の花が階段を背にして咲いている感じがとてもきれいだったので、明日はポラかC35でも持って会社に来よう、と思っていたら、次の日はあいにくの雨降り。週末を挟んで、それからまだその桜を見に行っていないのだけれど、まだ咲いているといいな、と思う。そもそも明日は晴れるのか?

夢というか妄想を、そのまま描いたような作品集「冥途」は、内田百けんの初期の小説(第一作?)で、なんの予告もなく、ある意味当然のように、不思議で不条理な出来事が起こり、時にはなんの解決もなく物語が終わったりする。まだ、全集を読み始めて4冊目だけれど、それまで読んだ本が随筆だったので、どう考えてもおかしな状況であるのにもかかわらず、どこか「実はこれは実際にあったことを書いた随筆ではないか」という考えが最後まで捨てきれず、逆に、普通の随筆を読んでいると、「これはまさか実際にあったことじゃないだろうなぁ」という出来事が描かれてたりすることもあって、なんだか混乱してしまった。

日曜日は、西荻まで自転車で行って、そこから20分くらい歩いて善福寺公園までいってみた。去年も同じ頃に同じように歩いて見たのだけれど、今年は桜の花が満開になってからはじめての週末だったせいで、公園の中は人でいっぱい。少し広くなっている場所では子どもたちが遊び回っていたり、どこからか打楽器やギターの音が響いてきたり、さすがに騒がしい。それでも、桜の花を眺めながらゆっくり歩くスペースは残っているし、午後から出かけてもシートを敷く場所も見つけられたりできるのが善福寺公園のよいところですね。もっとも、わたしは公園よりも、そこに行くまでに通るさくら町周辺の方が好きで、できることなら道の片隅に縁台でも置いて、ビール片手に花見をしたいなと思う。「三丁目の夕日」に出てきそうなこんな路地の隅っこで、ひとりお酒を飲んでぼんやりとしていたら、普通に猫に話しかけられたり、からすにからかわれたりしそうだなぁ‥‥。